運命の恋、お届けします。8
新宿から中央線で10分、荻窪駅からさらに徒歩7分。
山下さんが住むワンルームマンションはそこにあった。
「ほんとに散らかってるけど良い?」
「あ、はい、全然」
5階建てのマンションの3階にある部屋に入ろうとして、鍵を回す直前、山下さんは何度目かの同じ質問をする。
僕はといえば、すっかり酔いも覚めていたが、今度は違う意味でいつも通りというわけにはいかなかった。
「どうぞー」
「お邪魔します…」
山下さんに誘導され、玄関に足を踏み入れる僕。
よく考えたら、女性の部屋に入るのは、人生初の出来事だった。
とりあえず靴を脱ぎ、奥の部屋へ進んだが、どうすれば良いかわからずその場で立ち尽くしてしまう。
「そのへん座ってて良いよ。あ、ベランダに洗濯物干してるから、開けないでね」
そんな僕を見かねてか、山下さんは苦笑しながらそう言う。
僕は「わかりました。失礼します」と一声かけてから、カーペットに座った。
山下さんの部屋は、玄関から続く短い廊下の左右にキッチン、トイレ、お風呂場がついており、その奥にこじんまりとした広間とベランダがある、という構造となっていた。
本人の申告よりは片付いているが、ところどころに脱ぎっぱなしの靴下や、ビニール袋などが転がっている。
カーペット上には白いちゃぶ台が置かれており、壁側には小さいテレビ。あとはドレッサーとウォークインクローゼットがあるくらいで、全体的に物は少なかった。
それから、カーペットやベッド、カーテンなどは暖色で統一されていて、山下さんの優しい性格をよく表しているな、と思った。
「そんなジロジロ見ないでよ」
所在ないながらも部屋をぐるりと眺めていると、お風呂場に併設されている洗面所で手洗いうがいをしていた山下さんがこちらを向く。
ジトッとした目で僕を睨んだその表情は、すぐに笑顔に変わった。
「すみません」
僕は頭を掻いて謝罪する。山下さんに睨まれたって、少しも怖くなかった。
そして、僕も手洗いをしなければと思い出す。
「洗面所使って良いですか?手、洗いたくて」
「もちろん、どうぞ」
「ありがとうございます」
洗面所には、当たり前だが、コップや歯ブラシが置いてあり、山下さんの生活感が伝わるそれらに僕の鼓動はうるさくなった。
ふと横に目を向ければ、洗濯機が目に入る。傍らに置かれた洗濯カゴの中には、当然…。
…余計なことを考えるのはよそう。目の前のタスクに集中することにした僕は、できるだけ洗面所を汚さないよう、慎重に手洗いうがいを行なった。
「コーヒーと紅茶、どっちが良い?」
洗面所を出ると、正面のキッチンに山下さんがいた。
廊下の幅が狭く、僕らの距離は必然的に近くなる。
「えっと、紅茶で」
「おっけー。座ってて」
山下さんのお言葉に甘えて、ちゃぶ台の側に腰かけ、少し待つと、マグカップを2つ持った山下さんが僕の隣に座った。
「はい、紅茶。お砂糖いる?」
「あ、大丈夫です」
「そんな緊張しなくて良いのに」
「はは…」
山下さん、それは無理な注文というものだ。
「でも良かったね、酔い覚めて」
「すみません、ご迷惑おかけしました…」
「良いって。お互い様だし」
コーヒーを啜りながら笑う。
僕も、紅茶に1口つけた。山下さんのマグカップに、口をつけてしまった。
「って言っても、今日は帰れないよね…」
山下さんが腕時計を確認する。同時に僕も確認してみると、時刻は0時を回っていた。
念の為終電を確認してみたが、どうやら電車での帰宅は諦めるほかなさそうだった。
「大丈夫です、タクシーで帰るんで」
「え、タクシーって、こっから?」
「はい。しょうがないんで」
「飯野くん厚木でしょ?めちゃくちゃお金かかるよ?」
「まぁでも、もう帰れますし…」
そう、そもそも、山下さんから家に来ることを打診された瞬間に酔いは覚めたのだから、ここに来る必要はなかった。
本当はもうちょっと居たいけど、その口実がない以上、帰る以外の選択肢はないだろう。
「今日はうち泊まったら?」
「え?」
立ち上がろうとした僕を山下さんが制す。
「いいよ、別に。先輩に甘えちゃいなよ」
そして、お得意のいたずらっぽい笑顔を見せた。
「…良いんですか?」
もちろん僕としては、そちらの方があらゆる面においてありがたい。
仮に山下さんが男だったとしても、ありがたい。
「飯野くんさえ良ければ、いいよ」
こともなげに言う山下さん。
まぁ、僕のことをこれっぽっちもそういう風には思っていないからこそなのだろう。
それならそれで、別に良かった。
「じゃあ、すみません。泊まらせていただきます」
「ん」
現実の出来事なのかはよく分からないけど、僕は山下さんの家に泊まることになったらしい。
本当は、こういう経験は学生のうちに積んでおくもので、間もなく24歳を迎えるような青年は、もっとスマートに振る舞えるものなのだろう。
僕のこれまでの人生とは一体なんだったのだろうか。
「お風呂、先入って良いよ。沸いてるから」
「や、流石に山下さん先で…」
「私はほら、洗濯物取り込んだり、やることあるから」
山下さんはそう言って立ち上がり、僕の背中を押し始めた。
「ちょっ…」
「ほらほら、遠慮しない!泊まるって決めたんだから、ちゃんとくつろいでくれないと、逆に気ぃ遣うから」
そうなのか。いや、そういうものかもしれない。
逆の立場で考えたら、すぐに分かることだ。
「わかりました。一番風呂いただきます」
山下さんに余計な気を遣わせないためにも、ここは自室だと自分に言い聞かせることにした僕は、意図的に声のトーンを上げて、お風呂場へ向かった。
「見たらわかると思うけど、これがボディソープで、これがシャンプーね。バスタオルはここからテキトーなの取って使って良いからね」
「おっけーです」
「あと、入るか分かんないけど、一応私が持ってる中で大きめの部屋着置いとくね。良かったら使って」
「色々ありがとうございます、ほんとに」
「いいえ。では、ごゆっくり〜」
お風呂場のドアが閉まる。
最後の付け足しみたいに言ってたけど、部屋着て。
まぁ良い、ありがたく使わせてもらうことにしよう。
浴室に入ると、たぶん錯覚だとは思うが、必要以上に良い香りがした。
ボディソープもシャンプーも、女の子が使うそれだ。
くつろいで良いとは言ってくれたものの、あんまり使いすぎないようにしないとな…。
………
「おまたせ〜」
湯上りの山下さんが現れる。
やや火照った体、スッピン、ラフな部屋着。それら全てが、僕の知らない山下さんだった。
前髪はピンで留められている。髪は濡れている。
人を好きになるって、きっと、その人のこういう姿を見たいと感じることなんだと思う。
そして、そんな山下さんと、なんてことないような時間を過ごしたいと思うことなんだろう。
「ね、飯野くん」
「なんでしょう?」
「もうちょっと飲まない?」
山下さんは、キッチンの冷蔵庫からお酒を取り出すと、僕に向けてそれをアピールするように、またいたずらっぽく微笑んだ。
「良いですね、飲みましょっか」
「ほろ酔いで良い?」
「はい、お願いします」
ほろ酔いが2缶、ちゃぶ台に置かれる。
山下さんは缶を少し遠ざけ、片目を瞑りながら栓を開封。
1つ1つ、仕草の全てが、堪らなく僕の心をくすぐった。
「あ、無理しなくて良いからね」
「大丈夫です。もう酔いは完全に覚めてるので」
貴方のせいで、ね。
「じゃ、延長戦ね。かんぱい」
「かんぱい」
なんだかんだで、山下さんとこうして乾杯するのも、もう何度目かになる。
オクフェスで出会って、みんなで飲みに行って、2人で横浜へ行って、そして、今日。
これらが全て、1ヶ月も経たない間に起きた出来事であるというのは、なんだか信じられなかった。
それぐらい濃い1ヶ月間だったし、まだまだ「出会ったばかり」の範疇にいるはずの山下さんは、僕の中で、とてつもなく大きな存在となっている。
一方、山下さんにとって、僕はどういう存在なんだろう。
弟とか、そんなところかな。
「ねぇ」
暫しの沈黙の後、山下さんが僕の方を向いた。
「飯野くんってさ、今まで何人と付き合ったことあるの?」
…なんだ、その質問は。
「…1人です」
「1人かぁ…」
「正確に言うと、1人と2回、ですかね」
別にそんなこと、山下さんからしたらどうでも良いんだろうけど、彼女には、ありのままの僕でいたかった。余計な嘘なんかは、つきたくなかった。
「へぇ〜。どんな子だった?」
山下さんは僕から目をそらさず、興味津々に聞いてくる。
質問の意図を邪推してしまう自分が、気持ち悪く思えた。
「どんな子…」
そしてこの質問は答えに窮する。
どう、答えれば良いんだろう。
「可愛かった?」
「顔は、はい。可愛かったと思います」
「でも、中身に問題あり?」
そうだ、山下さんはそういう人。
僕が答えに窮した時点で、もうお見通しなのだろう。
「いや、良い子だったんですけど、なんていうか…」
「メンヘラだったんでしょ」
「…まぁ、はい」
メンヘラの一言で片付けると安っぽくなって、僕と、そのときの彼女との記憶も薄っぺらくなるような気がして、本当はあまり使いたくはないんだけど、対外的に説明するには一番便利な言葉であることも、また確かだった。
「なんか、分かるわ。ってそれは失礼か、ごめんね」
「いえいえ、全然」
もう吹っ切れてるし、何より今は…
「山下さんは、今まで何人と付き合ってきたんですか?」
この流れは自然なはずだ。
別に知りたいわけじゃないけど、そういえば僕らは、お互い、出会う前のことを知らなさすぎる。
この機にもっと知って、関係性を深めていこうというのが、山下さんの質問の意図なんじゃないかと考えた。
「えーっと、ちゃんと付き合ったのは3人かな」
「ちゃんと?」
「ほら、中学のときの、ノリで付き合う?みたいな。あーゆーのはノーカンで、ちゃんとお付き合いしたのは3人って意味」
「あぁ、そういう」
3人、というのが多いのか、少ないのか、僕にはよく分からなかった。
「みんな良い人だったよ」
そうだろうと思う。
人は自分の鏡と言うからだ。
「変なこと聞いてごめんね。女は恋バナ大好きだからさ」
僕が返答を探しているうちに、山下さんはどんどん言葉を紡いでいく。
「もっと色々はなそーよ」
「いいですね」
そう言うと、彼女は腰を持ち上げ、ベッドに座る。
目で合図された僕は、その隣、少しだけ距離を空けて腰を下ろした。
「部活とかやってた?」
山下さんはお酒を片手に足をプラプラさせていて、リラックスした様子。
「野球やってました」
対する僕も、流石に緊張は取れている。山下さんの空間に、普段通りの姿で溶け込んでいた。
「野球かー」
「山下さんは?」
「私は茶道部。野球部の応援とか行ってたなー、懐かしい」
「羨ましいです。うちは男子校だったんで、男しか応援来てくれなくて」
「あ、男子校だったんだ。だから女の子慣れしてないわけね」
「バカにしました?」
「うん、してる」
「へへ…」
「へへってなに」
「いやなんか、おかしくて」
「へんなのー」
山下さんはそう言って僕の方を向き、ケラケラと笑った。
それから、会話は途切れた。
生まれた沈黙を埋めるように、チビチビとお酒に口をつける山下さん。
そんな彼女の様子をチラチラと窺っている僕の耳には、時計の針がチクタクと動く音が、やけにハッキリと届いた。
もう、時刻は1時を回っている。
だけど僕はちっとも眠たくなくて、それはきっと山下さんもそうで、僕は、この時間を、特別なそれだと感じていた。
「山下さん」
「んー?」
「キス、して良いですか?」
「…良いよ。しよっか」
もうすぐ、人肌が恋しくなる。
そんな季節が、やってくる。
to be continued…
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