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「月兎と竜宮亀の物語Ⅰ海洋編」第十章<時空と予知の泉>

第十章その一
あるとき、いつものように竜宮姫が<時空と予知の泉>の中を眺めていました。竜亀は中庭の大理石の台の上で寝そべりぼんやりしていると竜宮姫が心の声を響かせました。「亀さん泉のところへ来てください 白鯨さんが見えます」と言うので竜亀は、『白鯨の兄さんが何を』と思って泉に近寄って水面を見ましたが何も見えません。竜宮姫に言われて自分の宝玉を泉に落としました。たちまち泉の表面の水は静止して、丸い底には、北海に浮かぶ氷の上にあがり、寝をしている白鯨の姿が見えました。竜宮姫は、「亀さんと同じで昼寝が好きなのですね」と微笑んで言いました。竜亀は、『わたしも亀島で昼寝していた時にこうして見られていたのか でも鯨が昼寝とはどういうことだ』と凝視しました。ところがどうも白鯨の様子が変です。そして
その大きな体はみるみる小さくなって細くなり大きな胸のヒレも細長い腕になり、尾ひれも二つに分かれ、ついには白い衣の髭の大男が眠っているのでした。そして突然、中空に光る玉が現れ、大男は体ごと吸い込まれていきました。そして光る玉はあっというまにどこかへ飛び去ってしまいました。竜亀はあっけにとられていると、竜宮姫は、「白鯨さんは人になって人の世界に行ったのです」と言いました。竜亀は、「人の世界ですか それで白鯨さんはどうなるのですか」と言うと、「それはわかりません 彼は人の世界できっと人生を終えるのです」と言いました。竜亀は、『予言の絵のとおりだ 今そのことが起こったのだ 白鯨の兄さんが とうとう人の世界に行ったのだ これからどんな人生を送るのだろう』と思い、「姫様 白鯨さんがどんなふ
うにしているか今は見えないのですか」と聞くと、「わかりません あまりに多くのことが速く通り過ぎてゆくので 見過ごしてしまうこともあるのです」と答えました。竜亀は、『この光景は姫様が自分の意思で自由に見ているというより 宝玉の意思でわれわれに見せているのだ』と思いました。竜亀は泉から自分の宝玉を取り出すと、さきほどまで横になっていた大理石の台に戻って横になると眼をつぶり、人になった白鯨が人の世界でどんな生活をしているのかと想像しました。クレオパトラに出会って愛を告白する髭の大男の有様を想像しましたが、その姿があまりに滑稽なので眼を閉じたまま竜亀はにやにやするのでした。
第十章その二
それから同じようなことが金顎のカジキや日回りのマンボウの身にも起きました。日回りのマンボウは陸の竜宮のある島の砂浜で横になり、金顎のカジキは小さな島の砂浜で横になり、金顎のカジキは竜宮での人の姿と同じ長身の青年に、日回りのマンボウは額のひろい聡明な学者のようになって。竜亀は海の竜宮に一度も来なかった日回りのマンボウの人の姿を初めて見たのでした。竜亀は、『あとは人の世界に行くのはわたしだけになった 姫様は人の世界に行くことはないのか 姫様が月兎なら 未来に浦島で満月のとき 月兎としてわたしと話をしなくてはならないから ここにいなければならない』と思いました。竜亀は竜宮姫のいないとき、自分の宝玉を<時空と予知の泉>に落として、人の世界をのぞき見て、『何か人の世界がすごい速さで変化している それにしても洞窟の絵は わたしと顔のない人が出会うところで すべて消えていた いや描かれていなかった その先は予言が出来ないということは予知することも出来ないほどの遠い未来であるからか あるいはその先は偶然だけが支配する世界だからなのだろうか ただ描かれなかっただけなのか とにかく人の世界や竜宮が遠い未来にどうなるのだろうかまったく不明だ というより人の世界では今は何がおこり これからまたどうなるのだろうか メルキアデスさんに教えてもらった昔の人の世界は 戦争とかあっても 理解しやすいことばかりだった でも近頃の世界はまるでよく分からない あいかわらず戦争ばかりしてお互いが殺しあっている人々もあれば どんな大嵐が来てどんな大きな地震や津波が来ても 平然として助け合って仲良く生きている人々もある これが同じ人という生き物だろうか 月兎いや姫様だって分からないだろう 今わたしがこの泉から眺めていてもさっぱり分からない 人の世界に行っても 目の前の出来事を理解するのは難しいかもしれぬ 恐怖というより不可解なことでとまどうばかりだろう メルキアデスさんが生きていて 案内してくれれば助かるのだが そうだ顔のない人に出会ったなら まずメルキアデスさんを探そう』と決めこんだのでした。あるとき竜亀が<時空と予知の泉>で人の世界を眺めているとき、亀島が映りました。懐かしさのため思わず身を乗り出しましたが、でも様子が少し変です。島は隆起して以前よりずっと高くなっており、かつての洞窟は岩の形が変わり、穴の入り口は小さくなっていました。島の中ほどに別の大きな穴が開いており、海面に縄の梯子が降りていて、岸壁に寄せた小舟で人が出入りしていました。その洞窟は風葬の墓場になっていたのでした。死人を穴に運び入れ、そのまま海の風にさらすのでした。竜亀は、『人が死者を葬るやり方はいろいろあるのだな 三郎蜘蛛は元気かな』と思いました。
第十章その三
あるとき竜亀が<時空と予知の泉>に自分の宝玉を入れ、ひとりで地上の世界を眺めているところを竜宮姫に見つかってしまいました。竜宮姫はそれを気にするまでもなく黙って通り過ぎていきました。それからは、竜亀はいつでも自由に<時空と予知の泉>の前に立って地上
の世界を眺めるようになりました。そして何度も眺めてうちに、なんとなくその場の雰囲気とかが分かるようになりました。また宝玉の力で映し出される光景はまったくの偶然ではなく、宝玉になにかの意思があるかのように竜亀に見せていました。だからそこに何の言葉や説明がなくても、注意深く見ていれば意味がつながり、流れのようなものが感じられました。竜亀はそれらがどのような流れがあるのか、すべてを理解できませんでした。でも人にそれぞれその人の物語があるように、人の世界全体もまた大きな物語があるのだと考えるようになりました。すべては偶然の出来事のようでありながら、弱い糸が幾重にも重なりつむぎ合わされ大きな力となって、人の世界を動かしている。人には偶然や必然に見えたものが、偶然が必然となり必然が偶然となり、大河の流れのうねりとなっておだやかに流れていく、それが人の世界だと竜亀は理解したのでした。そして、『わたしもまたこのうねりの中の小さなひとりの人となってこの世界に入り 一緒に流れていくのだ わたしの使命は顔のない人に 何をどのように伝える
かにあるのだ』と考えるのでした。竜宮の人はいつのまにか人の数が少なくなっていきました。次々と竜宮の外へ出て藻屑のように消え去っていくのでした。そしてとうとう竜宮には竜亀と竜宮姫と竜宮姫の友の女性やお供の男たちだけになってしまいました。竜宮姫はしだいに部屋に閉じこもるようになり、竜亀は飽きずに<時空と予知の泉>に映る地上の世界ばかりを眺めていました。大きな戦争もあり大量に人が殺される光景もありました。竜亀は眼を背けることもせず、それらを凝視しました。竜亀は思いました。『なぜ人は殺しあうのか 戦争の原因は何かさっぱりわからない 食べ物や富の奪い合いもあるかもしれないが どうもそれだけではないようだ 人が信じているという神様に違いがあるのだろうか それともわたしがこの泉で見るずっと以前のことが関係しているのか 過去のなにかの復讐なのか そしてこうした争いを起こす背後にある力は何なのだろうか やはり人が増えたので少なくなった物の奪い合いか 以前に比べればはるかに豊かになった都市に人や物が集まり 人は一度手に入れた富を手放すのを極度に怖れている そして人は享楽にふけるかと思えば 集まって祈りをする人がいる男と女の愛と別れもある 無数の人の無数の物語がある 太古から変わらないのは 人は生まれいつか人は死んでいくことだけだ』と。
第十章その四
あるとき竜宮姫が悲しそうな表情をして<時空と予知の泉>の前に佇んでいるので、竜亀は、「どうしたのですか」と尋ねて、自分の宝玉を投げ入れました。泉の底には陸の竜宮が映っていました。島は豊かな自然のため人は増えつづけ、人々は森を切り開き、畑をつくり池の
水を北に引き、灌漑をしながら作物を作りました。そしてますます人は増え、いくつもの部族ができました。泉の場所の部族はそれらをまとめていましたが、いつからか島の部族は三つに分かれ、南の部族は北の部族と対抗して島の南にも大きな像を建てました。ついには南と北で争いが絶えず起きるようになりました。島の森はほとんどなくなり、険しい洞窟のある山とふもとの泉のまわりの他には、木は一本もなくなりました。池の水も少なくなりとうとう多くの人は不毛の島を離れ、島の南北には巨大な像が建つだけの島になったのです。その島の歴史は竜宮の<時空と予知の泉>からは、ひとつの物語であるかのように遠望することが出来たのです。巫女をひき継ぐ若い女性もなく、古びた宮殿の泉の前ではもう長い間、満月の夜に月が巫女に語りかけることもなくなっていました。そして老巫女がひとりで泉の宝玉を守っているのでした。竜亀は、『姫様 あなたが満月のときに巫女に語る役目でしょう あの老いた巫女がかわいそうです このままでは陸の竜宮は本当に伝説だけになってしまう』と、いまにも声を出そ
うするのですが、竜亀は何も言えませんでした。老巫女は満月のとき、泉から宝玉を取り出し満月に向かって言いました。「竜宮の姫様 この宝玉をあなたにお返しします 宝玉はこの泉の中であなたを永久に待ちつづけます」と言い終えて、宝玉を泉の中へ落とすと宝玉は水中に姿を隠してしまいました。月に向かって言う老巫女の顔は<時空と予知の泉>に大きく映し出されました。そうしてその声がはっきりと聞こえたのです。そんなことは初めてでした。<時空と予知の泉>は音がない沈黙の世界だったのです。それが初めて声として聞こえてきたのです。竜亀は陸の宝玉が老巫女の声を自分たちに聞かせているのだと思いました。老巫女は言い終わると泉の傍らでそのまま倒れて息絶えてしまいました。その後、部族の人がやってきてその老巫女を宮殿の中に葬りました。そうしてその部族の村人もその島を後にして、とうとうその島は無人となりました。竜宮姫と竜亀は黙ってその一部始終を眺めていました。その最後を見届けると、竜宮姫は<時空と予知の泉>から自分の宝玉を取り出し、自分の部屋に閉じこもっ
てしまうのでした。
第十章その五
あるとき竜亀は<時空と予知の泉>で、とても大きな列島で大地が振動する様を眺めていました。家々がすべてつぶれて大きな津波が海岸に押し寄せ多くの人々が流されました。集落も消え去りました。でもしばらくするとまたそこに新たに人々がやってきて、たちまちのうち
に新しい集落を作りました。竜亀は、『人という生き物はなんと弱い生き物だろう 一人ひとりはとても弱いのに 多く集まるととても強い力を出すのだな 不思議な生き物だ』と感心しました。またヨーロッパという大陸にある大都市を観察していました。竜亀はめまぐるしく変貌し変化していく大都市に関心がありました。大通りで大群集が集まりなにやら騒然としています。いつものことなのでぼんやりとその光景を眺めていました。群集の真ん中で一人の青年が演説していました。声は聞こえないのですが人々を引きつける演説なのだろうか、人々は熱狂して彼の演説を聞いていました。どんな人物なのだろうと思って眺めていると、その人の顔が大きく映し出されました。竜亀は驚きました。竜宮にいたときの金顎のカジキの人の姿がそこに見え
たからでした。竜亀は、「アハハ アハハ」と思わず笑ってしまいました。服はみすぼらしくて目立たないものでしたが、竜宮での細身の長身で知性的なまなざしと声や話し方を想像して、『金ちゃんなら 人を魅了させるのはわけないさ でも本当に金ちゃんか 海の世界のことはもう忘れたのかな メルキアデスさんの説では 魚が人になるなら輪廻転生だが 竜宮の中では人だったので 人が人になるのだから復活か でもあれが金ちゃんだという証拠はどこにあ
るのだろう 金ちゃんであってほしいな それにしてもいったい彼は何を語っているのだ そもそもあの群集は何なのだ』と、竜亀は群集に加わり彼の演説を聞きたいと思うのでした。そして、『あの群集の中にメルキアデスさんがいたら いつか会ったとき演説のことを憶えていてくれたら ぜひとも教えてほしいな』と興奮するのでした。それから竜亀は、どこかの大きな図書館で椅子に座り、なにやら分厚い本からノートをとっている髭の男や、どこかの酒場で数人の男たちを相手に拳でテーブルをたたいて演説している髭の大男を発見するのでした。それは日回りのマンボウと白鯨でした。竜亀は人の世界でそれぞれ自分の命を精一杯生きているかつての友の姿を見て勇気づけられ、『わたしも人の世界に行ったなら なにが本当の使命と考ることになるか分からないが あのように生きてみたい たとえ人の命が短かろうと 永遠なんかよりずっと魅力的だ いままでのわたしの命なんて これからのことに比べるなら クラゲのように味のないものだった』と、人の世界に行くことを待ちわびるのでした。
第十章その六
竜亀は人の世界の家族のつながりの強さにとても感銘を受けました。以前見た大きな列島での大きな津波では、ほとんどの人が波にさらわれ、残った人々は泣きもせず平然と死者を葬っていたのでした。戦うことの嫌いなその列島の人々は過酷な自然の中で祈りもせずじっと
耐えている姿は、逆に竜亀には、人々の心の底にとてつもなく大きな悲しみが閉じ込められているのではないかと考えるのでした。戦争ばかりして憎みあっている大陸の中の人々に比べて、この列島の人々の心が本当は一番強いのではと想像したりするのでした。そして竜亀は、自分でもよく分からなかった愛の根幹をなすものがその列島の人々の心の中心にあるのではないかと考えました。でも人の世界の全体を動かしているものは、愛とはまったく別の力もあるように思えました。『それは何だろうか 月兎が言っていた人の世界はよく分からないというのはこのことに違いない 見ているだけの限りは人や人々や群集の間ではたらくこの力はとても強い この力がこの世界を複雑にして豊かにもし また同時に混乱させてもいるのだ 家族だけだと人は単純ですべて理解できるのに 多く人が集まると 複雑な問題が起きているように見えるのだ 海の中の鰯や海鳥の群れとは違う 人の世界へ行ってみなければ理解できない』と思いました。そして、『海の生き物には 物語なんて何もなかった でも人はひとりひとりみんな物語を持っている いや物語だけで人を理解できない 人というのは人の形をした生き物の心のことだ 心の中は見えないもう一つの世界だ 愛も見えないが もうひとつの力もこの心の中にあるはずだ それに人が存在すると信じているという神をこの泉からは一度も見ることができなかった 神は海の深いところか大地の地下深くに存在しているのか それともわたしがこの竜宮で幻を見るように 人には確かに見えているのか』と思いました。そして、『世界の物語は一本の長い絵巻物のようなものだけではない 世界はよく見るとむしろ絵巻物ではない 地表の物語はすべて同時進行で動いている 全体はいくつもの海草がからみあってホンダワラのように浮遊している 解きほぐすための発端さえ隠されている でも すべてを繋ぐ太い幹はどこかにあるのだ』と考えるのでした。そして竜亀はメルキアデスのことも考えました。『メルキアデスさんは今も生きていてこの世界を旅していれば知識は海のように広く深くなっているだろう ここから見た光景を深く理解するためにはメルキアデスさんの助けが必要だ 今のわたしが顔のない人に会ったところで どうやってこの世界のことを教えればいいのだ
彼は今どうしているのだろうか』と、<時空と予知の泉>に映る群集の中にメルキアデスを捜すのですが、どうしても見つけることが出来ませんでした。
第十章その七
竜亀はますます<時空と予知の泉>の前に立ち続けて中の光景を見るようになりました。そうして人の世界が発達していくことについて、メルキアデスから教えてもらった、『どんな文明も必ずしも全ての人を幸せにするとは限らない』ということを思い出しました。社会がどんどん発展していく地域に比べて、取り残されて何千年前と同じ暮らしをして停滞している地域のほうが、むしろ平和に見えるのです。でもその平和な世界にも見えない波が押し寄せてきて、すこしずつ荒廃していくのです。竜亀は、『千年間に 何かが狂いはじめている いや もっと以前からのことなのか でもますます狂う速さが増してきている わたしにはここからではこの原因がわからない 月兎の言うとおり わたしの使命はその顔のない人にわたしの感じたことや考えたことを伝えるのだから きっと彼がこの人の世界を救うに違いない でも救うとは一体どういうことか もしかして 人の世界が滅びるということなのか 滅びるのが自然の力によるものだったら仕方ないじゃないか 火山の爆発みたいなものだったら人の力ではどうにもならない 以前だって海の中の火山の爆発で死滅した生物もいたことだし それにしても顔が無いとはどういうことか 眼も無く口も鼻も無いということか わたしが教えるのだから耳はあるということか いや心の声だから耳は無くとも聞こえるのか でもそんな人がどうやって人の世界を救うのかまったく分からない 月兎 いや姫様に問いかけてみたいものだ でも人の世界を救ってどうなるのだ このままでもいいじゃないか 火山の爆発を止められないように この世界の大きな流れは誰にも止められないのではないか なるようにしかならないのでは』と思いつめるのでした。そして<時空と予知の泉>には絵を描く人物がなぜか時々映るのでした。その画家が描く絵も見えるのでした。宝玉の意思で竜亀に見せているのだとしても竜亀はその理由がまったく分かりませんでした。竜亀は絵画というものがまったく理解できなかったのです。
でも花や自然の景色はとても美しいものだと感じていました。海の中とはまったく違う風景に見とれるのでした。しかし絵の中の風景はまったく何の感銘も受けなかったのでした。竜亀は自分が美しいものに飢えている自分自身に気がついていました。そして竜宮姫への想いは、愛よりも美というものと分かちがたく結びついているのではないかと考えるのでした。竜宮姫を愛しているから美しく見えるのか、美しいから愛しているのか、竜亀は見るということの神秘を自らの内に発見したのでした。しかし竜亀は見るということの精神の奥にあるもうひとつの力が自分に備わっていることに、気がつかなかったのでした。
第十章その八
ますます人の世界は騒がしくなってきました。戦争は多くの場所で起き、海の上でも大きな鉄の船が大砲で撃ちあい、空を飛行機が飛び交いました。世界中の海と陸地で大きな戦いがあり、大きなキノコ雲も見えました。また戦争の終わったあとにも、大きな大陸で時々大きな爆発が起こり大地も揺れました。また海でもとても大きな光の爆発があり、大きなキノコ雲が空高く上がりました。<時空と予知の泉>にはその光景が映った時は鏡のように動かないはずの泉の水面も揺れ動きました。あるとき百本も足がある蛸が海中にあらわれ、竜宮の門番の大蛸は怖がって中の竜亀に告げたのでした。その後大きな戦いは無くなり荒廃した都市はたちまちのうちに復興し、どんどん変貌していきました。そうするうち竜亀はいよいよ竜宮を去る時が近くなったと思いました。あるとき洞窟の外から海上に出ると、『この千年で大気の香りが以前と少し違うようになった わたしの気のせいかな』と思うのでした。洞窟の入り口に戻ると待っていた大蛸は言いました。「俺は決心したよ 近頃 誰も出入りがないじゃないか 洞窟の中は空っぽじゃないか 俺様はこんなに大きくなってしまって中に入れないので 竜宮の使いの魚さんに伝えておくれ 北の海じゃ食べ物がまだ多いらしいから 門番はもう辞めると伝えておくれ 竜ちゃんや さようならだ どうも海の生き物は生きにくくなったよ」と言って去っていき
ました。竜宮姫に伝えると、「そうですか 大蛸さんは北の海で最後の海坊主となって暴れるのですよ 大蛸さんにはそれがふさわしい」と言うのでした。竜亀は、『姫様はやはり未来のこともわかっている 月兎にちがいない』と思いました。そしていつのまにか竜宮姫の女の友やお供の男たちはつぎつぎと竜宮を去って行き、とうとう竜宮は竜宮姫と竜亀の二人の人間の姿だけになってしまいました。あるとき竜亀が<時空と予知の泉>を眺めていると、一人の杖の老人が群集に混じって歩く姿が見えました。その横顔を見て竜亀は声をあげました。それはメルキアデスでした。杖なんか必要もないようなしっかりとした歩き方でした。人は誰も彼には関心を持たず、彼も群集に溶け込んでいました。竜亀は、『陸の竜宮で見た洞窟の絵に登場する老人とは彼のことではないのか でも彼が生まれる以前に 彼が絵に描かれているのはどういうことだろう それとも彼とそっくりな別人なのか』と考えこむのでした。
第十章その9
竜宮姫が竜亀のところへ来て、「亀さん わたしの部屋を案内します」と心の声で言いました。竜宮姫に案内されたその部屋は、驚いたことには何もありませんでした。部屋の奥には薄い布が天井から垂れ下がり、その向こうには寝台が見えました。中央の床にはかつて火山島の古老の陸亀から教えられた四つの記号が描かれていました。竜亀は、「これは何ですか」と聞くと、「分かりません この記号は以前にわたしの心に浮かんで いつまでも消えないのでここに描いたのです」と心の声で言いました。そして壁一面に、かつて陸の竜宮で見た絵と同じような絵がありました。「これはどうしたのですか」と聞くと、「ここにある岩の絵の具でわたしが描いたものです」と言いながら横にある小さな台を指さしました。そこにはさまざまな大きさの二
枚貝の皿に入れた色とりどりの絵の具の材料になる岩石の粉や貝の粉末があり、また筆や海草で作った糊などがありました。竜宮姫の説明では<時空と予知の泉>に映る世界がときどき静止して見えることがあり、なにか大切なことかと心に留めて描いてきたということでした。竜亀が陸の竜宮の島の洞窟で見た絵と多くはほぼ同じものでした。「姫様はここでこの絵の具で描かれていたのですね」と言うと、「ええ わたしの秘密はこれだけです 亀さんにいつか見せなければと思っていました またわたしの小さい頃の思い出も描きました わたしがかつて陸の竜宮の泉にいて ほんとうは織姫魚ということはもう知っていますね わたしは織物や工作や絵がとても好きなのです 陸の竜宮では水草で織物もしていたのです 毬も作って遊んでいたのですよ」と心の声で言いました。それから奇妙なことを言いました。「時々 未来の出来事があの泉に映されるのです 最初は分からなかったのですが 二度同じ光景が繰り返されてそれで分かったのです また都市の変化で未来の都市だということも分かりました でもある時以降の光景が見えないのです その見えない未来の時はもうすぐです きっと<時空と予知の泉>の力もそこで消えるのでしょう もうすぐ亀さんもこの竜宮を去るのですね わたしはあなたが顔のない人と出会う光景が<時空と予知の泉>から見えたのです」と心の声で言ってさびしげな表情をすると、うつむいて垂れ下がった布の向こう側の寝台に入っていきました。竜亀には竜宮姫は泣いているように見えました。竜亀はどうしていいか分からず、そのままその部屋を出ました。竜亀は、『やはり月兎は姫様だったのか でも彼女はすべてのことを知っていない それにどうして泣いているのか どういうことだろう』と戸惑いながらも考えにふけるのでした。
第十章その十
竜亀はかつて神亀島でメルキアデスから教えられ、西洋暦の二〇〇九年の十二月の満月の日が月兎と出会ってからちょうど千年ということを知っていました。竜宮の中の百倍の速さで動く外の世界のため竜宮にいる残された時はもうあまりないと思いました。竜亀は竜宮姫に初
めて月兎のことを話しました。陸の竜宮の出来事や洞窟の絵のことも伝えて、最後に竜亀が、「姫様 わたしはもうすぐここを離れなくてはなりません 二度とこの竜宮に戻ることはないでしょう 永久の別れです 陸の竜宮の仲間はこれで離ればなれです 竜王様の予言のとおりわたしたちが本当に人の世界を救うことになるのか わたしにはそんな自信がありません とにかく顔のない人と出会って その人について行くだけです 姫様もここできっと何かの使命がおありなのでしょう できれば姫様もいつか人の世界に来られて お会いできたら わたしはこんなにうれしいことはありません」と言うと竜宮姫は、「亀さん いままでありがとう わたしには本当に未来のことは分からないのですよ でもあなたと人の世界でお会いできるなら わたしもこんなにうれしいことはありません」と心の声で言いました。その言葉を聞いて竜亀は、『人の世界でもし姫様と会うことができたら その時こそわたしは姫様に自分の愛を告げるのだ 愛の本質は わたしには何も分かっていないけれど わたしの心は愛以外の言葉では表すことができない 告げずにはいられない』と思うのでした。そうしてしばらくして地上の日が二〇〇九年の十二月に近づきました。泉の中の光景がどこかの都会の大きな通りの一角に、大きな光る数字でそれを表示していました。竜亀は竜宮姫に別れを告げ、誰も門番のいない竜宮の外へ亀の姿で泳ぎながら出ました。振り返ると洞窟のむこうの庭園の<時空と予知の泉>の前で、やはり竜宮姫は人の姿のままで、亀の姿になった竜亀を見つめているのでした。竜亀は自分の眼からとめどがなく涙があふれ、海水と同じ塩からさで海水に溶け混じり合わさって広がっていくことを感じながらも、あふれる涙をどうしても止めることができませんでした。そうして竜宮を去り、久しぶりに見る海の中は何千年も変わらないままの世界がありました。ただどこか海水が濁っているように竜亀は敏感に感じました。『海は汚染されてここまで広がっ
てきている』と心でつぶやきながら海面に出ると、かつて亀島と呼ばれ今は死者の島と呼ばれている島のある方向へゆっくりと泳ぎだすのでした。