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「月兎と竜宮亀の物語1海洋編」第九章 竜宮

第九章その一
竜亀は北の海にふたたび向かって氷原の分厚い氷の下の海中を泳ぎ、竜宮のある大洋に出て浮かび上がると、そこからまた南へと進むのでした。竜亀はまっすぐに竜宮をめざしました。メルキアデスと別れてからおよそ一年後、ようやく南の海にぽっかりと浮かぶ竜宮のある
島にやってきました。それは岩ばかりの小さな島でした。草木は一本もなく、わずかの海鳥が翼を休めていました。竜亀は深く潜っていきました。なつかしい多くの魚が泳いでいました。およそ二十年前には小さかった鮫やエイはとても大きくなっていました。海底では大蛸がぎょろりとあたりを眺めていました。竜亀は、「やい 蛸兄さん ひさしぶりだな 元気かい 帰ってきたぜ」と声をかけると大蛸は、「よう 竜ちゃんか あれからずいぶん経ったな どこへ行っていたのだ 姫様もお待ちかねだぜ」とからかうように言いました。竜亀が、「浦島太郎さんを送りかえした後いろいろあってね それからむこうの大洋に行って息子のアルファに会ってきたよ」と言うと、大蛸は、「アルファの僕ちゃんは元気かな 何か言っていなかったかい」と意味深な言
い方をするのでした。それに応えて竜亀は、「蛸兄さんのことは話題にもならなかったぜ」とぶっきらぼうに言うのでした。竜亀は大蛸を嫌っているわけではないのですが、いつも大蛸が竜亀をからかうような言い方をするので、自分もつい乱暴な言い方をするのでした。竜亀はなぜ大蛸が自分をからかうのか思い当たることがあり、言いました。「蛸兄さんよ その穴から見える竜宮の中は 今日はどんなふうに見えるのかな」と聞くと、大蛸は、「今日の姫様は一段と美しい 若い女たちもとてもきれいだ」と言うのでした。竜亀は外から竜宮の中を覗くと中庭には竜宮姫は青い衣で優雅に佇んでいました。竜亀が、「今日の赤い衣は一段と美しい 再び見られてうれしいよ」と言うと大蛸は、「あの赤い衣はひらひらと海草みたいにきれいだな」と言うのでした。竜亀は、『そうか 大蛸兄さんには何も見えていない 色も違うし衣はまったくゆれていない やっぱりわたしに合わせて 適当に言っていただけなのだ わたしをからかう理由はこのことだったのだ 大蛸兄さんには光る玉とまわりを泳ぐ魚やサンゴや海草などしか見えてないのだ 姫様は竜宮の使いというただの魚に過ぎないのだ やはりアルファの言っていたとおりだ でもわたしにはやはり姫様はあそこにいて 竜宮の中庭は地上の花畑みたいだ そうすると咲いている花はサンゴやイソギンチャクや海草ということになるのか』と思うのでした。そうしてしばらく入り口で大蛸とたわいのない会話をした後、穴をくぐって竜宮の中に入っていきました。
第九章その二
竜亀は大蛸の背後の洞窟の入り口を抜けて竜宮の中へ入っていきました。透明な幕のようなその入り口をすり抜けると、その瞬間、竜亀は人の姿に変身し体には衣をまとっていました。背負っていた甲羅の重さをまったく感じなくなり、立ち姿で竜宮姫の前に現れました。竜宮
姫はまるで竜亀が来るのを待っていたかのように微笑むのでした。それはいつも繰り返される竜宮姫のふるまいでした。竜亀が、「姫様 ようやく戻りました またしばらく竜宮にいます」と言うと、竜宮姫は小さくうなずき宮殿の中に入っていきました。竜亀は久しぶりに竜宮の中をまじまじと眺めました。中庭は陸地のようにまわりに花壇があり、さまざまな花が咲き、美しく着飾った女性達がいそがしそうに花を摘んだりしているのでした。庭園の中央の丸い<時空と予知の泉>には地下からの湧水を満面と貯めていて、そこからあふれ出した水は大理石の床から宮殿の外へと流れ消え去っていくのでした。竜亀は陸の竜宮の泉のことを思い出しながら考えをめぐらせていました。『アルファは庭の中央には光る玉があるとパピルスに書いていたから
それは姫様の宝玉がこの泉の場所にあるということか 今こうしてメルキアデスさんの作った地上の草木や花の図鑑を思い出しても この庭園に咲くこれらの花は奇妙だ とても地上の草花には見えない それに女たちの振る舞いもなにか変だ 何かの仕草をするだけで よく見る
とけっきょく何もしていないではないか 海底の岩場のサンゴのまわりをうろうろする魚たちと同じではないか 姫様だってうろうろするだけで 女たちに何か指示をするわけでもなし ただみんなここでブラブラしているだけだ なぜ今まで気が付かなかったのだろう そういえば宮殿の中で食べる料理だってメルキアデスさんの食べていた人の食べ物とはまるで違っていたでもわたしは人の食べ物だと思って食べていたし とても美味しかった 浦島太郎さんも喜んで食べていた 泉の場所の宝玉の光がこうしてわたしに幻を見せているのか 姫様いや竜宮
の使いの魚さんはこのことを知っているのだろうか 金顎のカジキさんも同じように幻を見たのだから わたしもまた彼のほうから眺めれば人の姿に見えていたのだ いやほんとうに分からない これらが全て幻影だとしても 今わたしが感じている光景が竜宮なのだ わたしは
今ここにようやく戻ったのだ』と、心の中でつぶやくのでした。
第九章その三
竜亀は真水をいっぱいに貯めた丸い大理石の<時空と予知の泉>の中をあらためてまじまじと眺めました。陸の竜宮では巫女の宝玉は水の中では透明でどこにあるかわかりませんでした。でも巫女のユリカが見えないはずの宝玉を簡単に泉から取り出したことや竜宮の姫様
から預けられた宝玉と言っていたことも思い出しました。竜宮にもあるとなると竜宮姫は二つ宝玉を持っているのかと考えました。竜亀は自分の衣の中にある宝玉を取り出し、泉にポトリと落としました。その瞬間、鏡のように水面は静まりかえり、中央には星のようにきらきらと輝く玉が一瞬浮かびあがりました。そして泉の底に広がる光景を見ておどろきました。それは地上の世界がめまぐるしいほどの速さで動いているのです。でも時々動く速さがゆっくりとなるかと思うとその光景はまた大きくなったり小さくなったりするのです。真上から見る光景もあれば水平線を覗かせる光景もありました。それはまるで人の高さの視線から見る光景もあり、高い山から見下ろす光景もありました。海も陸地もまんべんなく、夜も昼も関係なく世界中のあらゆる
ところを映し出していました。しばらくあっけにとられて見ていた竜亀はあることに気がつきました。そこには太陽も月もないのでした。でもときおり水平線や地平線の向こうに星が見えることがありました。竜亀はハッとして心の中で叫びました。『これは月から眺めたこの惑星の世界だ』。竜亀はメルキアデスから仮説として宇宙の中の月と太陽と地球の関係を学び、太陽の周りを人が住む地球が回り、地球の周りを月が回っていることも知っていました。『月が見ている
地球の世界そのものだ いや月兎が見ている地球の世界だ』と心の中で叫びながら、竜亀はようやく月兎の声が誰に似ているのか思い出しました。竜亀が陸の竜宮の泉の中でまだ卵だったころ織姫魚がうたう歌でした。『てんてん手まりの卵さん~ころころ転がし~遊びましょう』と響く歌声はまさしく月兎の声でした。いつの頃からか声を失い、今は心の声で会話するしか出来ない竜宮姫の小さい頃の声が月兎の声にそっくりなのでした。『姫様が月兎なのか ここからわたしに満月のときに声をかけていたのか』と、竜亀は考えをめぐらしたまま、呆然と<時空と予知の泉>の前に立ち続けるのでした。
第九章その四
竜亀は想像力をめぐらせてさまざまなことを考えました。『あのとき この泉の場所から 姫様が月兎として声をかけたということは 陸の竜宮でも ここからユリカ巫女に声をかけたのだとすると 謎の糸のもつれも少しはほぐれるかもしれない 月兎がわたしとの会話を突然に中
断したのは おそらく あのあとエリカ巫女と会話するためだったのだ いやこれらすべては宝玉の力と関係がある 自然を超える力がこの宝玉にあるということか それともすべては幻影なのか この泉の謎は今のわたしには巨大な壁のようだ 姫様に問いかければ なんと答え
るのだろうか』とため息をつくとその場に座り込み、いつの間にか長い旅の疲れで眠りに落ちるのでした。そしてまたしても竜亀は夢を見るのでした。竜亀は人の姿になって大きな木の太い幹の根元で昼寝をしていると、顔のよく見えない人がやって来て低い声でささやきました。『お前は何をしにこの竜宮に戻ってきたのか 竜宮姫に会うためか 竜宮の謎を解くためか お前自身の謎を解くためか お前はいったい何をしたいのか 夢の中で答えを見つけよ 答えを見つけるまでお前は眠りから覚めることはできない』。そうささやいて顔の見えない人は去っていきました。そして竜亀はそのまま深い眠りに入りました。眼が覚め、起きてもその言葉だけははっきりと憶えていました。そして、『今も夢の中にいるのか わたしはなぜ竜宮に戻ってきたのだろう ここで何をしたいのか これが夢ならばいつまでも覚めることはできないのか』と思うのでした。竜亀は立ち上がり竜宮姫に会おうと宮殿の中に入っていきました。さまざまな絵模様で描かれた壁や天井を見ているうちふと竜亀は陸の竜宮とあまりにも似ていることに
気がつきました。『陸の竜宮は浦島吉郎さんが謎の老人に教えられて 竜王のいた頃の竜宮の再現と言っていたが 竜王という人が造った竜宮を姫様の宝玉が再現して わたしたちに見せているということか 宝玉が昔の陸の竜宮を憶えていて この海の竜宮の世界を作り出して
いるのか』と。そう思って宮殿の中をあらためて見つめていると背後から女性の声がしました。「竜亀様 おひさしぶりです お戻りになられたのですね」。彼女は崖から身を投げて一度は死んだのですが、竜宮姫に教えられ、竜亀が連れてきて竜宮で長く暮らしているのでした。トルキア国の王妃らしいのですが詳しいことを竜亀は知りませんでした。
第九章その五
竜亀はトルキア国の王妃としか知らないその美しい女性に、「ええ きのう帰ってきたのですよ 竜宮の外ではおよそ二十年でも ここでは数ヶ月か いやここは昼も夜もないから数えることもできない でもひさしぶりですね」と返事すると、王妃は、「ここでの暮らしは夢のようです毎日平和でようやく心の傷も癒されました でもここで暮らしていていつも不思議におもっていることがありました でもこの疑問には誰も答えてくれそうもありません 竜亀様が戻られたらぜひお聞きしたいと思っていました それはこの竜宮のことです この竜宮はあの世にあり天国なのでしょうか いつかふたたび現世へ戻れるのでしょうか」と聞くので、竜亀は、「ここは天国でもあの世でもありません もっとも天国もあの世もわたしはまったく知らないのでね でも
ここに飽きた人はいつでも去ることができるのですよ 現世にだって戻ることはできます でも地上では何百年も経っているので あなたの知っている人はもう死んでいます 玉手箱を持って地上にあなたは戻れます 死にたくなったら玉手箱を開ければすぐにあるかどうかわからないあの世か天国に行けます 地上に戻らなくてこのままあるかどうかわからないあの世か天国に行きたいのなら 大蛸のいる門の外に行けば あなたはすぐにでも 海の藻屑となって消え去ることができますよ」と言うと、「やはりそうなのですね ときどきここにいる人が消えていなくなるかと思ったら また新しい人がやって来たり わたしたちはお互い過去のことは何も話さないし 一度は死んでいるので こうして生きていても夢か幻の中にいるようで」と王妃は言いました。竜亀は、「もしもあなたが故郷を一目見たいのであれば姫様から玉手箱をもらってわたしが送ってあげますよ」と言うと、王妃は、「いいえ 地上の世界には未練がありませんしばらくここで思い出にひたった後 門の外に出て海の藻屑となって天国に行ければと思います」と、おだやかな表情で言うのでした。竜亀は王妃と別れたあと、宮殿の廊下を渡りながら、『今の王妃だって きっと外の大蛸の兄さんから見れば 死んだまま いや眠ったまま 洞窟の隅で横たわっているだけかも知れない そうだとするなら わたしは眠っている人か死んだ人
と こうして会話していることになるのだろうな』と考えるのでした。そんなことを考えながら竜宮姫がいる宮殿の広間に行きました。そこはどこからか光が射し込んでいて明るく、多くの老若男女がいました。広間の中央では鮮やかな色の衣装で着飾った女たちが踊っていました。人の姿に変えた鯛や平目の魚たちでした。楽器を奏でている男たちはフグやアンコウなどの魚でした。それらを囲んで多くの本物の人たちが膳のご馳走を食べながら楽しそうにしていました。隅のほうに竜宮姫がいました。
第九章その六
広間の人々は竜亀に気がつくと、一斉に竜亀に視線を集めて親しみの表情を見せるのでした。その中の多くの人を竜亀が竜宮に連れてきたからでした。かつて金顎のカジキが竜宮にいた頃に連れてきた人も何人かいました。竜亀は進み出て竜宮姫に、「姫様 お話したいことがあります」と言うと竜宮姫はうなずいて別の部屋へ竜亀を案内しました。二人きりになると竜亀はまたしても胸が苦しくなるのでした。妻のベアトリスを知る以前からの竜宮姫への淡い恋の感情やベアトリスが亡くなったあと、恋がいつか愛に変わり、何度か告白しようとしてとうとう果たせなく、自分だけの胸の内の秘密としてきたその相手に面と向かって、自分は何を話そうとするのか、竜宮姫のどこか憂を秘めた美しい瞳を見ると、自分の心が今にも焼け焦げて耐え切れなくなるような思いにとらわれて言葉を失うのです。竜亀はやっとのことで自分の意図とは違う言葉を発していました。「姫様は わたしがまだ卵の中にいるとき 陸の竜宮の泉の中で転がして遊んだのですね」と笑って言いました。竜宮姫は微笑んで心の声で、「ええそうよ
いつも歌いながらあなたを転がしたのですよ」と言いました。竜宮姫はその美しい顔を竜亀にまっすぐに向け、瞳を大きく開いて竜亀を見るので、竜亀は自分の心の中までそのまなざしの光が射し込んでくるような心の痛みを感じました。痛みであり甘美でありその瞬間を、永遠の時間と交換してもいいと一瞬思いました。このまま見つめ続けられたら、『わたしは死んでしまう』とも思うのでした。「あなたも意地が悪い いままでわたしは知らなかったのですよ」と竜亀はそう言うのがやっとで、竜亀は軽く礼をして振り返らずにそのまま部屋を出たのでした。竜亀は中庭に出て泉から自分の宝玉を取りだし衣の中に戻すと、中庭の一角の大理石の台座に腰かけてため息をつくのでした。『わたしは何のためにここに戻ってきたのだろうか わたしの姫
様を想うこの気持ちははたして愛というものだろうか かつての妻のベアトリスへの気持ちに似ているようで どこかこの感情は違う いったいこの感情は何なのだ 白鯨の兄さんの愛とどう違うのだろうか メルキアデスさんから多くのことを学んだが 人の愛というものは何も学ばなかった 愛という言葉は知ってはいても 愛について何も知らないのも同然だ 何もわたしは分かっていない どうすればいいのだ この感情を』と、心の中で涙を流すのでした。
第九章その七
しばらくしてから竜亀はふと思いつくと竜宮の外に出ました。大蛸が近寄ってきて、「また出かけるのかい」と言うので、「いいや 大蛸の兄さんに聞きたいことがあってね 白鯨の兄さんがいなくなったあと どうしてここの門番をすることになったのかい」と竜亀が聞くと、「この岩場で遊んでいたところを 姫様に案内されて 光る玉を触ったのさ それ以来わたしは知恵が付いてしゃべることも出来て おまけにこうして長生きなのさ」と言うので竜亀は、「お前さんはそ
のとき何か姫様と約束しなかったかい」と聞くと大蛸はあわてて、「いったい何を」と言うので、「言いたくないことは分かっている でも言わないと陸の大根のことを姫様に言いつけるぞ」と言うと、大蛸はしぶしぶ打ち明けました。それは大蛸が竜宮の中で見える様子を決して竜亀や金顎のカジキはもちろん中の魚にも言ってはいけないということでした。竜宮の使いの魚と大蛸の約束のことでした。竜亀は、「それは 竜宮は宮殿もなく 泉もなく 人なんか歩いていなく
眠ったままで ただ中央に光る玉がある ということだね」と言うと、「知っていたのかい だったら今まで俺様も竜ちゃんに気を使わなくてすんだのに」と、やわらかい体をくねらせて言うのでした。竜亀は、「わたしがこんなことを言ったなんて 姫様いや竜宮の使いの魚さんには言わないでくれ ところで俺も陸の大根をかじったので 姫様に言いつけないでくれよ」と言うと、大蛸は真っ赤になって、「ふん あいかわらずお前はいいかげんな奴だ お前さんの妄想につきあった俺も馬鹿を見たものだ」と、笑いながら言うので、竜亀は、「いや わたしの空想でもないのさ あの真ん中の光る玉はわたしにやっぱり幻を見せているのさ」と言うと、大蛸はすこしまじめに、「幻でも本当は俺様もすこしは見たい気持ちはある」と言うので竜亀は、「幻だと気がついたときの幻滅や失望はとてもつらいものだよ このままのこの海の底だって サンゴや海草や色とりどりの魚が泳いでいて桃源郷みたいじゃないか」と言うと、大蛸は、「桃源郷とはどんなところかな 陸の世界のことなのか」と聞くので、竜亀は、「いや わたしも噂でしか知らない でもやっぱりここは世界中の海の中でこんなに美しい岩場はないよ そこでこうして長生きしているお前さんは幸せ者だ」と言うと大蛸は顔を赤くして、うれしそうに体をくねらすのでし
た。
第九章その八
竜亀は竜宮に戻ると何日も考えごとをしていました。昼も夜もない宮殿の中で人の姿で歩きまわり考えていました。出入りする魚たちは竜宮に来るやいなや人の姿に変わり忙しそうに何やらしているのでした。竜宮姫はあいかわらず<時空と予知の泉>の前に立ち水面を見ていました。竜亀は、『姫様は泉の底に映し出された世界を眺めているのだ 月兎が地球の周りを回りながらすべてを眺めているように そして今は何を眺めているのだろうか』と思うのでした。宮殿の広間の奥に竜宮姫の部屋がありました。誰も見たことがなくときどき竜宮姫が入っていくのでした。入るとしばらく出て来ませんでした。竜亀はその時をみはからって、<時空と予知の泉>に自分の宝玉を落とし、鏡のようになった水面の底に映る光景をのぞき見るのでした。そのうち、あることに気がつきました。いつも月の方角から見ている光景なので地球と月の関係から地球の北極や南極地方は真上からではなく横から見る光景であり、また影の形で地上の時がわかり、きっと何度も見ていれば地上の場所さえわかるのだと考えました。また神亀島
でメルキアデスと作った地球儀を重ね合わせればすべての場所がはっきりと分かるはずだと考えました。そうして竜宮姫が崖から飛び降りた男女の場所がすぐ推測できた理由も納得がいきました。でも未来を予測できるとはどうしても分かりませんでした。泉から見る光景は竜宮の世界の百倍の速さで動くのです。はたしてそれが本当に現在ということなのかも竜亀には分かりませんでした。でも竜亀は月兎がますます竜宮姫に違いないと思うようになりました。『でもなぜそんな遠回りのことを 千年後に顔のない人に会うのであれば 姫様がわたしに直接言えばいいのに』とも思うのでした。しかし竜亀はそんな思いを竜宮姫に告げることはできませんでした。彼女を慕う秘めた心が問いかけることを禁じたのでした。また、ときどき竜亀は竜宮姫が泉から宝玉を取り出して自分の部屋に持ち込むのを見ました。『いったい何をしているのだろうか』と竜亀は考えるのでした。こうして竜亀は竜宮姫にさとられないようにしながらも、いつものように竜宮でのんびりと時を過ごし、しかし竜宮姫や竜宮の様子を以前とは違ったま
なざしで観察するのでした。でも竜宮姫を慕う心を秘めたままなので竜亀の胸中は複雑であり、現実と幻影が交叉して、人ならば狂気に陥るところでしたが、なぜか竜亀はそれでもなお平然としていられるのでした。
第九章その九
竜亀は宝玉についてもいろいろな疑問がわいてきました。竜王が四つの宝玉を伝えたはずなのに、陸の竜宮の巫女と金顎のカジキと石頭の天使と自分と竜宮姫の五つもあるということでした。それにクレオパトラの魂の入った黒瑠璃の玉も色こそ違え宝玉と大きさふるまいも同
じように思えました。『いずれこれらの謎を解かなくては いや解く時がいつか訪れるのか』と考えるのでした。竜宮はあいかわらずさまざまな人が出入りしていました。女や子どももやってきました。どれが本物の人でどれが海の生き物か最初は見分けがつきませんでしたが、少しずつふるまいや衣の様子で分かってきました。大蛸にはどうやら全て見分けがついていて、竜宮とかかわりのない生き物は、決して洞窟の中へと入れませんでした。出入りする魚は竜宮の使いの魚でもある竜宮姫の旧くからの友であり、いろいろと竜宮姫の手伝いをしているようでした。でも竜亀の見たところ、ただ意味もなくぶらぶらしているようでもあり、竜宮姫と会話しているようでもあり、していないようでもあり、どうなっているのだろうと、竜亀は不可解に思
うのでした。『もし竜宮の姿が全て幻だとすると ここは島の真下に開けられたおおきな洞窟であり そのまた奥にはいくつかの洞窟があるのだ』と想像しました。中庭が一番大きな洞窟で、宮殿の広間の大きな洞窟やそのほかいくつかの洞窟があると考えました。また竜宮姫だけが出入りする洞窟が一番奥にあると判断しました。そしてますます全体が陸の竜宮に似ているのだと思うのでした。竜亀は想像力をめぐらせてさまざまな解釈を試みました。そして結論として、竜王が最初に造った宮殿を宝玉は光でそっくりに再現しているのだと考え、竜王の部屋は竜宮姫だけが出入りしている部屋だろうと考えました。『竜王の部屋には一体何があるのだろうか もしや 竜王は不死で 今もあの部屋で生きているのではないか』とも空想するのでした。
そう考えたとき、なおさら竜宮姫がその部屋で何をしているのか気になるのでした。そしてとうとう竜亀の考えは、『月兎の声が姫様の声であり 宝玉が関係しているのなら 月兎の声はわたしの甲羅の中の宝玉からの声であり ユリカ巫女が聞いた満月の声も ユリカ巫女が持つ
宝玉からの声にちがいない』という結論に至ったのでした。
第九章その十
あるとき、<時空と予知の泉>を眺めていた竜宮姫が心の声で竜亀のほうを向いて、「三日後に近くを通る船が海賊に襲われて 船に乗っている王子が追われ 王子は海に飛び込んで溺死します 竜宮に連れてきてください 今から行けばちょうど間に合います」と言うので、竜
亀は大急ぎで三日間泳ぎ続けると、海賊に襲われた船から王子らしき人が海に飛び込んで沈んでいきました。竜亀が海中の王子のもとへ着いたときには、王子は息絶えていました。竜亀は王子を甲羅に載せて三日間かけて竜宮にたどりつきました。王子は息を吹き返しましたが、竜宮を天国と思っているようでした。トルキア国の王女がそこに通りがかり、王子の服の紋章を見て、「わがトルキア国の人ですか」と驚くので、王子もまた、「あなたはトルキア国の王宮にあった肖像画にある初代の王女様なのですか」と問いかけ、お互いが話すうち王子がトルキア国の最後の子孫で王子が死ねば王国の滅亡ということになるのでした。王女は落胆もせず王子に向かって、「ここは天国への入り口です あの門をくぐって我が一族や先祖のいる天国に行きましょう あなたを待っていたのですよ」と言うと、ふたりは手を取りあって大蛸のいる門の外の海中へと出ていくのでした。そしてたちまち二人の体は藻屑のようになり、潮の流れとともにどこかへ漂って消えてしまいました。竜亀はそれを見て、『天国もあの世もこの世にいる
限り あるかないか分からない 行って見なければ分からない 天国があるかないかは永遠に謎だ この大きな謎の前で悩むのは意味のないことだ わたしもいつか死ぬ その時まで生きていることを 生きていくしかないのだ わたしは竜宮に来て何かをしたかったわけじゃない
何もなくともこうして生きて 考え悩み喜び そしていつか自分の使命を果たすことだ』と思いました。そして、『わたしの使命とは何だろうか 誰に命令されるのでもなくわたし自身の心の奥底が望む わたし自身の使命とはいったい何だろう そうだ わたしはわたしの使命を探さなくてはいけないのだ』と心の奥底から思うのでした。そうして相変わらず竜宮の中でのんびりと時を過ごしながらも、竜亀は自分の心の中で果てしない対話をしながら、決して飽きることもなく、満たされた時を過ごすのでした。そうして竜宮の中でも多くの時が過ぎていきました。
第十章その一