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「月兎と竜宮亀の物語1海洋編」第七章 黒玉

第七章その一
竜亀は広い大洋の澄んだ青い空を眺めながら思いました。『これから どんな物語がわたしにあるのだろうか わたしにはすべての物語がわたしを中心として進むような気がする でもわたしがそう思うだけで カジキの金ちゃんにも白鯨の兄さんにも同じように物語があり 同じ
ように物語は進むのだ きっと月兎にだって物語があり 杖の老人にだってあるのさ 人の世にはきっと数限りなく物語があるのだ ああ この空のもと この海と地の上でこれからわたしのどんな物語があるのだろうか そしてわたしの物語にもいつか最後が来るのだろう 今のわ
たしは物語がいつか終わることを望んでいる おそらく 永遠ということにいつからか耐えられなくなっていたのだ でも今のわたしは退屈ではない 永遠はなく 人の命に終わりがあるようにわたしの命もまたきっとどこかで終わりがあり 物語の終わりには わたしはきっと死ぬことが出来る 死なないということでわたしは死への恐怖さえ忘れていた でもいまは多くの死にかかわり 死に出会って怖れるようになった また命を以前よりいつくしむ気持ちが増している不思議だ こんな気持ちになるなんて』と思いながらも、いつしか泳ぎながら眠りつつ夢の中にいました。美しい歌声が夢の中で聞こえてきました。『わたしは~クレオパトラ~あなたの甲羅の中で~わたしも夢を見る~前世も~夢のように過ぎ~すべては夢の中の~物語~竜宮
も~夢の世界~月の兎も~夢~あなたは~夢の中の生き物~人がこの世の夢を~追いかけて~紡ぎだす~夢の生き物~夢の中で~あなたは~人の希望を~託されて~人の世界を~救う~』。竜亀は目が覚めましたが夢をはっきりと憶えていました。まるで現実に歌を聴いたか
のように。『美しい歌声が今も耳に響いてくる 夢のとおりだとすると わたしは人の作った物語の中にいるということか そんな馬鹿な でもありえないことでもないな 近頃のわたしはまるで童話の主人公みたいじゃないか 浦島太郎さんと出会った頃からどうも様子がおかしいと思っていたのだ ほんとうは浦島太郎さんが主人公のはずなのに 浦島太郎さんがもしも玉手箱を開けなかったら 物語はどんどん進んで 別の物語になったに違いない わたしの出る幕なんてなかったはずなのに』と自分でもわけのわからないことを考えるのでした。そして、『こうしてわたしが主人公になってしまったのだから この物語をつむぐ人よ 最後にはわたしをちゃんと満足させてもらわなくては困る』と、なんだかむにゃむにゃと言いつつ、やはりまだ夢の中にいるのでした。
第七章その二
竜亀はこちらの大洋はしばらくぶりでした。南からくる大きな潮の流れを避けて大きな陸地の近くの海を南へと進んでいきました。何百日もひとりで泳ぎながらのんびりと自分だけの世界にひたりながら何も考えずひたすら進んでいきました。小さな島がぽっかりと洋上に浮かんでいました。竜亀が近くを通ると小さな舟が近づいてきました。竜亀は逃げようとも思いましたが、どうやら漁をする人ではないらしいので竜亀は何だろうと思ってそのままにしていました。舟は竜亀に近づくと、舟の人は竜亀の姿を見て、「神亀様 こんなところでお会いするとは どうしたのですか」と言いました。竜亀は、「人違い いや亀違いだよ わたしは別の広い海から来た竜亀という亀だ その神亀と言われている亀を探しにきたのだけど どこにいるのか知っているなら教えてほしいのだ」と言うと、舟の人は、「ここからまだまだ遠い南の島におられます わたしたちもいつか神亀様にお会いしたいのです それにしても あなたの甲羅や陸亀のような足はまるで神亀様みたいです 神亀様にお仲間がおられたとは しかしその島まではとても遠いのです わたしどもの島に休憩のために寄ってください 食べ物やお酒もありますよ」と言うので、竜亀は、『しめた 酒にありつける』と思い、「ありがとう 長い旅で疲れました せっかくなので休ませてください」と言いました。でも竜亀は少しも疲れてはいませんでした。ただ酒が飲めるということでとても断ることができなかったのです。そして人の世界をこの機会に知っておくのもいいかなとも考えたのでした。舟に先導されて泳いでいくと島の上空には海鳥がいっぱい舞っていました。そこは海鳥と毒蛇の孤島でした。何万匹ものマムシと何千羽もの海鳥とが共存しているのでした。人々はマムシを避けて海岸の絶壁の洞窟に住んでいました。絶壁の下にはわずかの砂浜があり、そこに舟を乗り上げると竜亀も砂浜に上がりました。竜亀の姿に気がついて洞窟の中の人々は縄はしごを伝って降りて砂浜に集まりはじめました。数十人で全部のようでした。人々は竜亀の周りに集まり竜亀の姿を見るとひざまずいて手を合わせて礼をするのでした。竜亀は、「わたしはその神亀じゃありません 神亀の仲間です そんなに頭を下げなくても」と言うと人々はその声を聞いて、「人の言葉をしゃべるなんて やっぱり神亀様のお仲間だ」とささやきあいながら再び手を合わせて頭を下げて礼をするのでした。
第七章その三
竜亀はそこに集まった人々を眺めました。それらの人々は皆、顔や体の一部に赤黒い大きな痣がありました。竜亀は千年ほど前にも孤島でこのような人々の集団を見たことがありました。ひとりの老人が進みでて言いました。「人の言葉を語る亀様 わたしたちは皆このように皮膚が病んでいます この病はライ病と言います 不治の病と言われています 人々から忌み嫌われてこの島に追いやられたのです でもこのようになんとか元気で生活しています 昔一人の神の子と言われた人がこの病を治したと聞いたことがあります またどんな病をも治す
神亀様のお噂はこの島にも伝わっています あなた様が神亀様のお仲間ならどうかわたしたちのこの病を治してください」と言いました。竜亀は、「わたしはたしかに病気を治すことも出来て 不老不死の力をみなさんに与えることは出来ます でもあなたたちの悪くなった痣の体を元に戻すことは出来ません でもこれ以上に痣が大きくならないようには出来るでしょう その姿で不老不死にしてもいいが それでは人が幸せになるとも思いません 不老不死は人を幸せにするとは限らないのですよ」と言いました。老人は、「不老不死ではなく これ以上に痣がひどくならようにしたいだけです どうせわたしたちはこの毒蛇と海鳥しかいないこの島で一生を終えるだけです 人の命を全うしたいだけです」と言いました。竜亀は少し考えて、「そうです
か 病気を治すだけなら わたしの甲羅をほんの少しだけ削って みんなで分けあってください」と言いました。竜亀は甲羅を削るにはどうしたものかと考えていると、ひとりの若者が進み出て、「亀様 この白い砂浜の砂を見てください 小さく透き通って光る石がたくさん砂にまじっているのがわかりますか これは石英というもので水晶と同じ硬さです これであなたの甲羅を削らせてください」と言って砂浜に打ち上げられた海草を取って砂浜の砂をまぶしてごしごしと竜亀の甲羅をこすりました。そしてその海草を甕の真水で洗いました。砂は甕の底に沈み水は白くにごりました。鳥の羽で作ったザルで海草をすくった後、その水をみんなで貝の器でまわしながら飲みました。たちまち人々の痣のある皮膚の痛みは消えました。そして気分もすっかり良くなりました。人々は感激して、「あなたこそ神亀様です ありがとうございます」と、またしても手を合わせて祈るのでした。そして竜亀に毒蛇酒をお礼にと差し出すのでした。
第七章その四
竜亀は、差し出された大きな二枚貝の皿の中の毒蛇酒を飲みながら、その若い青年をまじまじと見ました。その青年はいかにも健康そうで痣のひとつもありません。竜亀がその青年をじっと見ていると、二人の夫婦らしき男女が進み出て言いました。「ゼットはわたしたちのひとり息子です わたしたち夫婦がライ病にかかったとき この子はまだ赤ん坊でした 置いて行くわけにもいかず 三人でこの島にやってきたのです いまこうしてわたしたちは元気になったのですから この子はこの島で一生を終わらせたくありません いつかこの子も外の世界に行かせようと思っていました でもこの島の舟にはこの島の印があり どこへ行っても他の島の人から追いやられてしまいます どうかあなた様の背に載せて どこか大きな陸地に連れて行ってください」と言いました。竜亀が、「いいよ それがいいとわたしも思う」と言うと、ゼットと言われた青年は、「いやです とうさんやかあさんをこのまま置いて行くわけにはいかない わたしが行ってしまうと海の魚だってたくさん獲れなくなるじゃないか」と、泣きながら言うのです。さきほどの島の長老らしき人が進み出てゼットに言いました。「亀様のおかげで このとおり元気になった 若くはないけれど皆は海に出て漁ぐらいは出来る それにゼットや 永久の別れ
というのでもない あなたもいつかいい伴侶を見つけて そうしたらこの島に連れてきて両親に会わせてあげなさい それが本当の親孝行というものだよ」と言うとゼットは、「伴侶だなんて わたしはいつまでもこの島にいたいのです」と涙を流すのでした。竜亀はゼットに、「わたしは亀とはいえ いちおう神様だ 両親の言うことを聞きなさい そしてあなたがこの島を出て行くのはきっと定めなのだ わたしにはそれが分かるのだ」と言いました。でも本当は竜亀には定めも何も分かりませんでしたが、口からでまかせを言ったのでした。ゼットはしばらく考えて、「亀様がそう言われるのなら仕方ありません 言われるとおりにします でもとうさんもかあさんも 必ず帰ってきますからね」と涙を流して言いました。夫婦は、「かわいらしくて やさしい
女性を連れて帰ってくるのですよ」と言うとゼットは、「そんな」と言うや頬をほのかに赤くするのでした。こうして竜亀はゼットを背に載せると皆に別れを告げてまた南へと泳ぎだしました。島の人々はゼットと竜亀の姿が見えなくなるまで、いつまでもいつまでも手を振り続けるのでした。
第七章その五
竜亀はゼットという青年を甲羅に載せて南へ向かいました。ゼットは夜にはプカリプカリと波間に浮かぶ竜亀の甲羅の上で寝ました。食べ物は時々魚を見つけると力を合わせて捕まえて、時には竜亀も同じものを食べました。深い海の底へは竜亀が潜って貝や大きな海老を獲って一緒に食べました。幾日かして大きな陸地の海岸まで来たので砂浜に上がって休むことにしました。竜亀も砂浜でひさしぶりにのんびりと昼寝することにしました。夕方になって目が覚めましたがゼットはいません。そして竜亀はまわりを男たちに囲まれていました。沖には海賊船のような船が停まっていました。どうやら男たちは海賊で、竜亀を食べるつもりらしいのです。男たちはまず鉄の大きな斧を甲羅に振り落としましたが硬い甲羅はびくともしません。また首を刀で切り落とそうともしましたが、竜亀は頭を甲羅の奥にひっこめたのでどうすることもできません。男たちは紐でしばることも出来ず、逃げないようにと竜亀を甲羅ごと砂浜でひっくり返し、近くのおおきな石を竜亀の甲羅の上に載せました。これでは重くて竜亀はどうすることも出
来ません。そして男たちは陸地の奥の方へ木の枝を探しに行きました。どうやら竜亀を体ごと焼いて料理するらしいのです。そのとき木陰からゼットがやって来て、「あいつらは海賊です 僕は逃げて隠れていました 今助けてあげますね」と言うと、海賊たちが海岸にまで漕いできた小舟のオールを取って石をどかそうとしましたが石は重くてびくともしません。竜亀は笑って、「わたしも手伝うよ」と言って甲羅から抜け出し、力を合わせてやっと甲羅から石をどかしました。
そのうち男たちは枯れた木の枝を抱えて戻ってきて竜亀たちより離れたところの平らな場所に石を並べて、その上で枝を燃やしはじめました。きっと熱くなった石の上に竜亀を置き、蒸し焼きにするつもりなのでしょう。あたりは薄暗くなってきました。竜亀は甲羅を脱いだまま、海岸に生えている草の葉を体に着けて、焚き火をしている男たちに近づき大きな声で言いました。「やい 海賊たち あの亀をどうしようというのだ わたしはかのエイハブ船長の亡霊だ 亀なんか食うと祟りがあるのだ」と言いました。するとひとりの大男が立ち上がって、「エイハブ船長はかの白鯨と戦った昔の伝説の海賊だ われらの英雄でもある 白鯨の化け物は今も生きているが いまさら亡霊がなんだ それにエイハブ船長は立派な髭の色男 まるで違うじゃないか つまらぬ偽者よ われわれ海賊が恐れるのは 今では海の女神のゼリアス様だけだ」と言いました。竜亀は少しひるみましたが、とっさに名案が浮かび、脇にはさんでいた黒色と透明な二つの玉を取り出し 両手で力いっぱいたたき合わせました。
第七章その六
かち合わされた二つの玉の間で一瞬、鋭い火花があがりました。竜亀は海賊たちをそうして驚かせたあと、黒い玉を焚き火の中にほうり投げました。たちまちクレオパトラが炎の中に浮かび上がり、黒い玉を左の掌の上に持ちながら低い声で、「わたしもまた海の女神のクレオパトです 妹のゼリアスがどうであれ わたしは許さない お前たちが海の守り神の亀を食べるとは絶対に許しません もし神の亀を食べたなら お前たちは奈落の底に船ごと沈み 永遠に海底をさまようのだ」と言ってその顔は恐ろしい形相になり海賊達の親玉をにらみつけました。海賊達はおどろいて一目散に逃げ出し岸辺の小舟で沖の海賊船に乗り込み、船の帆を上げ外洋へと逃げていきました。竜亀は炎の中のクレオパトラにむかって、「あなたも芝居が上手だ おかげで助かりました」と言うとクレオパトラは、「このようなことは わたしの人生ではたわいもないことです もっといろいろとありましたからね それよりわたしはいま悟りました この陸地はわたしの故郷とつながっています なつかしい大地の香りがします この青年とともにここでお別れして行きたいと思います」と言うと、炎もちょうど消えるとクレオパトラも消えてしまいました。竜亀は青年に向かって、「ゼットよ こういうわけだから この黒い玉はクレオパトラという女王の魂が宿っているのだ いつか人の姿に甦るはずだ この玉とともに旅をしなさ
い まずはこの玉の導きにしたがうのだ きっと君を助けてくれる そしてかわいい女性ともめぐり会わせてくれるかも知れないのだ」と言いました。ゼットはあっけにとられていましたが、「わたしにも旅の使命が出来てなによりです いや これからどんな旅や出来事があるかまったく分かりませんが この玉とともに旅をしたいと思います」と言って黒い玉を受け取ると腰の袋にしまいこんだのでした。そのあと竜亀とゼットは海賊たちの焚き火の場所で、ふたたび火を起こして、海賊たちが残した酒や食べ物を食べながら夜を明かし、明け方になるとゼットは竜亀に別れを告げ、海岸の人の道を探り出し道の奥へと消えていきました。竜亀は、『いつかあの青年とどこかで再び出会うような気がする いや洞窟の絵にあったような気がするが そんなことが今わかっても 知らぬがなんとかだ』と心の中で独り言をつぶやきました。そうして太陽が海岸を明るく照らしはじめると竜亀もまた砂浜に打ち寄せる波間に消えていきました。
第七章その七
竜亀は呼吸をするためにときどき海面に顔を出して泳いでいましたが、まだまだ行く手は遠いようでした。広い海原の真ん中でぽつんと海中から突き出し、島というよりは大きな岩がありました。上がちょうど平らで簡単に登れそうで、波がかぶらないほどの高さなので、『これはいい 久しぶりにたっぷりと昼寝をしたいものだ』と、上に登ると平らな岩場で足をだらしなく広げて昼寝をしました。竜亀はそこで夢を見ました。それは過去の記憶そのものでした。その夢は
浦島太郎の夢でした。浦島太郎を連れて竜宮への洞窟の入り口に着くと、門番の大蛸は浦島太郎と竜亀を見て、「おい 竜ちゃんや 人をまた連れてきたのかい それに今度はまともな若い人じゃないか 竜宮の姫様に怒られるぜ」と言ったのですが竜亀は、「うるさい 今度は特別だ 姫様にあの陸地の大根のことを言いつけるからな」と、一喝して竜宮に入りこんだのでした。本当は海に身投げした人や嵐の海などでおぼれて死んですぐの人以外は竜宮に入れてはいけないのですが、浦島太郎は竜亀が唯一親しくしている浦島一族の人間なので、竜宮ぐらい案内してもいいかなと思ったのです。しかし竜亀は竜宮を案内したらすぐに帰るつもりでした。竜宮姫は浦島太郎を見て少し不安そうな表情を浮かべましたが、浦島太郎をやさしく歓迎し、宴の会場に案内し食事や酒をごちそうするのでした。浦島太郎は差し出された豪華な食事や酒に感激し、赤や青の極彩色の衣装で着飾った女たちの舞や踊りを見ながら、「噂どおりに竜宮は桃源郷みたいだ いやこここそが本当の桃源郷だ いつまでもここに居たい」と言いました。竜亀は宴の途中で浦島太郎に帰ろうと催促しましたが、浦島太郎はあと一日だけ竜宮に居たいと言い、それが二日、三日となり、とうとう三年という月日が過ぎたのでした。竜亀は竜宮姫が玉手箱を浦島太郎に渡すとき、その箱の秘密を知っていました。だから浦島太郎の最後も予想できたのでした。海で死んで竜亀や金顎のカジキに助けられ竜宮で何年か暮らして再び陸地へ連れ帰る人はときどきありました。でもそうした人には玉手箱の真実を教えて地上に帰らせたのです。しかし浦島太郎に限り玉手箱の真実を教えませんでした。竜宮の月日の流れは地上の世界とは違うことを何度も告げようとしたのですが、竜亀は言いそびれてとうとう三年も経ち、地上では三百年も経っていたのです。竜宮での浦島太郎の楽しげで幸福そうな姿を夢にうかべ、陸地での最後の姿を夢にうかべ、竜亀は夢の中で涙を流していました。そして昼寝をする現実の竜亀の眼からも涙が滴り落ちて、太陽に照らされて乾いていた岩はふたたび涙で濡れるのでした。
第七章その八
竜亀はもうひとつ夢を見ました。竜宮には<時空(とき)と予知の泉>と言われる泉がありました。その泉は世界中の光景を泉の底に映し出すことのできる泉でした。でもその光景は竜宮姫だけが見ることができたのです。ほかの誰が見ても底には何もなくただの水が湧きでる泉
にしか見えませんでした。竜亀が竜宮に来てまもなくの頃、竜宮姫が<時空と予知の泉>に映し出されて、若い男女が絶壁から海に飛び込む様子を見て、竜亀に助けに行くように命じたことがありました。それは竜亀が助けて最初に竜宮に連れてきた人でもありました。もう何千年も前のことです。竜亀は海の底に手をつないだまま重なって息絶えている二人を、甲羅に載せ竜宮に連れて行く途中、不思議なことに、二人の見た世界が竜亀の心にも伝わってきました。二人は憎み合い争う二つの部族の中でお互いに愛し合うようになった若い男女でした。違う部族のため一緒になることができず、追いつめられ悲観して海岸の絶壁から手をつないで身を投げたのでした。竜亀はその時、人の愛というものがよく分からず、人という生き物の不可解さと人はお互いの命を賭けても愛というものを貫くのだということを、神秘として受けとっただけでした。竜亀は愛というものを理解するようになるのは自分自身の愛に目覚めたずっと後のことでした。夢の中で竜亀はその時の二人が見たであろう地上の世界を見ながら涙を流すのでした。二人は地上には戻らず何年か竜宮で幸せに暮らしたあと、竜宮の外へ出て海の藻屑のように消え去ったのでした。それからこんどは夢の中で竜亀はいままで閉ざされていた記憶の底にある歌声を聞きました。それは陸の竜宮の泉の中で竜亀がまだ卵の中にいたとき、竜宮
姫がまだ小さな織姫魚のころ、卵の竜亀を転がして遊びながら歌う唄でした。『てんてん手毬の卵さん~あなたのお家はどこですか~ころころ転がし~いつまでも~わたしと一緒に~遊びましょう~』。そして同じく聞こえてきたのは泉の中で無邪気に遊ぶ金の剣魚や石頭の天使の魚たちの声、つまり金顎のカジキや日回りのマンボウの幼いときの声でした。竜亀はその歌や話声を聞いてなつかしさのあまり夢の中で涙を流していました。夢の中でも、そして昼寝をしている現実の岩の上でも涙を流しました。そうして竜亀は心の底からこう思うのでした。『ああ わたしのふるさとはここにあったのだ わたしの生まれ故郷がここなのだ』と。でもその時、織姫魚の歌声は月兎の声と似ていることに竜亀はまだ気がつきませんでした。
第七章その九
竜亀は目覚めると、とても長い眠りから覚めたようにいっぱいに足を伸ばして大きく呼吸すると、岩から降りて再び泳ぎ始めました。竜亀は夢のことを思い出していました。『そういえば竜宮の姫様の声は一度も聞いたたことがない わたしだけなのだろうか 小さい頃のあの泉
での織姫魚の唄の声があんな声だったとは 竜宮では姫様は本物の声というより心の声が聞こえてくるだけだ 姫様は声が出ないのだ いつも聞く姫様の声はあの泉の織姫魚の唄の声とは別物だ』と不思議に思いながら、自分の生まれ故郷の謎が自分の記憶と結びつき、いまま
でなかった安堵の心に満たされていたのでした。浦島太郎のこともあらためて考えました。竜宮から浦島太郎を連れて帰るとき、本当は連れて帰りたくなかったのです。いつまでもあのまま竜宮に居つづけることを期待していたのは竜亀の方だったのです。竜宮にいるあいだ、何度も竜宮姫に自分の気持ちを告白しようと思いつめながら、とうとう何も言えず何のそぶりも見せず竜宮姫への気持ちをいっさい気づかれることのないように、日々をやりすごしたのでした。それまでもずっと多くの時を自分の心に偽って竜宮で過ごしてきたのでした。ところが竜宮を出て外の海に行くと、ますます竜宮姫を慕う気持ちに耐え切れなくなり、今度こそは竜宮に戻れば告白しようと決意するのですが、竜宮の門をくぐるや、またもや自分の心を隠し通そうとするのでした。『なぜ自分の気ち伝えられないのだろうか わたしが亀だからか 愛は人だけのものでないはず まして竜宮の中ではわたしは人じゃないか たとえそれが幻の世界であっても』と思いつつ、『この禁じられた心の奥には何が潜んでいるのだろうか』と思い、考えにふけるのでした。竜亀は海の中を泳ぎながら、『月兎の言うとおりだとすると 世界のすべては予言のように定められているということか わたしの姫様を想う心も決められているということか 海だけでなく陸の人間の世界も すべての物語が決められているように すべての生き物
の物語が たとえばまわりをプカプカと漂うクラゲのひとつひとつに物語があるとしたら 今わたしがこうしてこの口でクラゲに食いつき飲み込んだなら このクラゲの物語はここで終わるということなのか そしてそのこともすべて定められているということなのか わたしが姫様を愛していても告白することすら出来ないということも これらすべては定められたことなのか ああ ここには自由はないのか』と、やけになって目の前のクラゲをそのままがぶりと飲み込むのでした。
第七章その十
竜亀は南へとどんどん進んでいきました。太陽が東の空から昇り西の空に沈んでいくことを数え切れないほど繰り返しました。もっとも竜亀は過ぎた日を数えたことはありませんでした。でもとても多くの日が過ぎたように思いました。しかしそのことに決して不安になることもなく、いらいらすることもありませんでした。いつになったらその島にたどり着けるのかなとのんびりと思っていただけでした。遠くの方に島が見えてきました。舟で投網漁をしている人がいました。その舟に近づき海面から顔を出し、「神亀さんはどこに行けば会えるのでしょうか」と言うと舟の人はびっくりして、「人の言葉をしゃべる亀だ まるで見た目も神亀様とそっくりだ」と言うと、「あちらの方向です あの高くそびえる小さな島の洞窟に住んでおられます」と言って、竜亀に手を合わせて漁の手を休めるのでした。そのあたりは大小の島が点在しており遠方には大きな大陸のような陸地も見えました。海面の下はさまざまな魚が泳ぎ、竜亀のいた大洋にはいない魚もいました。竜亀は海底へと深く潜って行き、クエのような大きな魚に向かって話しかけました。「こんにちは はじめまして お話できるかな」と聞きましたが返事はありません。でも竜亀にはその魚の思っていることはなんとなく分かりました。その海底では多くの魚がひしめき
あって泳ぐほどの豊かな海の世界でした。『ああこれこそ何万年どころか わたしの生まれる前はるか古代から続いている 海の本来の世界だ』と思いつつ竜亀はふと奇妙な思いにとらわれました。『わたしはいつからこんなに言葉を知っているのだろう わたしは自分でも無知だと思うのだが なぜこんなに言葉だけを知っているのだろう 誰が教えてくれたのだろう 陸の竜宮のおじさんとやらが 泉の中の卵のわたしに教えたのか 織姫魚の唄を聞き分けられたのだから ああ 分からない』と、考えにふけりながら海底をさまよい、自分と話が出来る魚や
蛸や亀を探しまわったのです。しかしそんな生き物はどこにもいません。『神亀もたいへんだな この海に来たって話の相手は人だけだ いや人しか相手にいないのだ でも人からは尊敬され大切にされているみたいだな』と、同情しつつも感心しながらその島に近づくのでした。その島の洞窟は海面にあり、岩穴をくぐっていくと海面より高い平らな岩場があり、そこを上がっていくことができました。真ん中の奥まったところがどうやら神亀がいるところらしく、天井があり木が組まれていてまるで人の家の中のようでした。甕や皿があちこちに置かれてありました。竜亀はどこかに酒でもあるのかと見渡していると、後ろから声が聞こえました。「とうさんひさしぶりです いつ来たのですか」と。それは神亀と人々から言われている竜亀の息子の亀でした。