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「月兎と竜宮亀の物語1海洋編」第六章秘密

第六章 秘密 その一
ようやく氷一面の世界に来ると、遠くからゴンゴンという大きな音が響いてきました。向かって行くと、「ウオー ウオー」と低い叫び声を上げながら、海に浮かぶ分厚い氷の底に海中から頭で体当たりをしている白鯨がいました。「ひさしぶりです 白鯨の兄さんよ どうしてまた氷に体当たりをするのかね オットセイはその氷の上にはいないよ それにお前さんの好物は大王イカだろうに」と竜亀が言うと、白鯨は見られて恥ずかしそうに白鯨なのに顔をすこし赤くして、「これには秘密が いや何でもない」と言うのでした。竜亀はそれを聞いて、『しめた ここまで来たかいがあった 友には二つの秘密があり そして酒をたくさん飲める』とうれしくなるのでした。金顎のカジキは、「白鯨の兄さんよ 何を騒いでいるのかい 何か悩みごとでもある
のかい ところで竜亀さんに会ったのでひさしぶりに 酒でも飲もうといっしょに来たのだ いつぞやの樽酒はまだあるのかい」と意味ありげに笑いながら聞きました。以前、鯨漁の大きな船に怒って金顎のカジキと白鯨が力を合わせて船を沈没させ、その船にあった酒樽も海底に沈んだのでした。白鯨は、「まだあるよ 竜亀さんの分は飲むのだったら氷の上に載せるからね」と言いました。そして海底の酒樽をくわえて分厚くて平らな氷の上にほうり投げるのでした。竜亀は金顎のカジキに後ろから押されてやっとのことで氷の上に乗り、樽の横の栓をひねると酒が氷の上にちょろちょろとこぼれ、黄金色にひろがりました。そして竜亀はそのちいさな酒のたまりに口をつけ飲み始めました。金顎のカジキは別の樽をそのするどい顎で突き破ると、逆さに空中に突き上げて、顎の先からしたたりおちる酒をそのまま口を開けて飲むのでした。白鯨は樽ごとばりばりと口で噛み砕き、木片を吐き出しながら一気に飲むのでした。冷たい海底で何百年も熟成された酒はとても美味く、竜亀はすこし酔ってきました。竜亀は酔いながらも少し考えました。『月兎の言っていた友の秘密は百日目ということだが たとえ彼らが秘密を告白してもその時わたしが酔って覚えていなくては話にならない それにしても今は何日目なのだろうか』と思っていると、金顎のカジキが日回りのマンボウのいる陸の竜宮の島の話をはじめました。それを聞いて白鯨は、「ああ なんということだ お前さんたちは幼な友達だったのかい竜宮の姫様もそうかい ああうらやましい」と言うのでした。白鯨はまだ生まれて間もない頃、マッコウクジラの一家を鯨漁の船で殺され船に引かれて連れて行かれたのですが、白い姿の自分だけが逃げのびて海洋を彷徨っているとき、竜宮の使いの魚の姿に変えていた竜宮姫に連れられて竜宮にやってきたのでした。そして何年か竜宮で暮らした後、ふたたび海へと帰り、二度と竜宮に戻ることはありませんでした。
第六章 秘密 その二
竜亀は考えました。『もしも白鯨の兄さんに秘密があるとしたら さきほどの氷壁に頭をぶつけて何か叫んでいたことと 竜宮を離れて二度と竜宮に戻らないことと関係があるのかな』と思って竜宮の話をしようと思いました。酔いながら少し大胆になって言いました。竜亀は、「白鯨の兄さんよ もう北の海に来て何千年かな 竜宮に最初に来たときは兄さんも わたしや金顎のカジキさんも若くてね でもそもそもなぜ姫様は白鯨の兄さんを竜宮に連れてきたのだろう」と聞くと、「竜宮の入り口の門番をしている大蛸の兄さんの以前はわたしだったのさ わたしを門番にするためさ わたしが竜宮を逃げ出したので というより一度外に出て何年かして戻ろうとしたら大きくなりすぎて戻れなくなったのさ」と白鯨が情けなさそうに、そして気落ちした声で言うのでした。そして、「今でも竜宮の中での暮らしは幻を見ていたのではないかと思う 竜宮の門をくぐって中に入ると みんな人の姿になるじゃないか わたしも竜宮一番の美男子の大男で でも本当は人の姿になった夢を見ているだけで 竜宮とは夢の中の世界ではないか 楽しいことばかりの思い出があるけど 竜ちゃんよ どう思うのかな」と言うので竜亀は、『大男はたしかにそうだけど 美男子は金顎のカジキさんさ このうぬぼれ男が』と思いながら、「そうさ 楽しい思い出ばかりさ それにあの門をくぐればすべての生き物は人になるのだ もっとも人が竜宮に行っても元のままの人だけどね 竜宮には人はいっぱいいるけれど 本物の人と海の生き物の人とがいるのだ 海の生き物は大蛸の兄さんと白鯨の兄さんとわたしとカジキの金ちゃんと竜宮の姫様と姫様の手伝いをする魚たちだ でも今じゃ竜宮と海を自由に行き来しているのはわたしだけになってしまった ところで金顎のカジキさんも白鯨の兄さんも そもそもどうして竜宮を出たのかな」と言うと、金顎のカジキと白鯨は顔を見合わせて、まるで申し合わせたように言うのでした。「竜亀さんには分からない われわれだけの秘密だ そんなことより 竜亀さんの秘密を聞きたい 無いとは言わせないよ ひとつや二つは誰だって秘密があるものだ」と声を合わせて竜亀を問い詰めるのでした。竜亀は少しひるんで、なんだか様子がおかしいと感じながらも、いよいよ友の秘密でも聞けるのかと思い、『では代わりに自分のことを話そうか』と考えて、とっさに満月の月兎との出会いのこと告白するのでした。

第六章 秘密 その三
そこで竜亀は月兎との出会いを話しました。千年後に海の方から顔のない人がやって来てその人と一緒に人の姿になって人の世界に行くこと、そのために竜宮に行く前に白鯨の兄さんに会っておきたいと思っていたことなどを話しました。でも友から秘密を打ち明けられることや樽のことなどは言いませんでした。しかし月の兎は未来のすべて見通すことや、ここでの出会いの時におきる出来事も予想していると言いました。金顎のカジキが、「え そうなのかい ここでおきる出来事かい それでここに来たのかい それはどんなことだろうか」と聞くので竜亀は、「いや 今それを言うわけにはいかない 今そのことをここで言えば 予言をはぐらかすことになるかも知れないしね わたしがここで起きることで知っていることは ただひとつの出来事なのだけどね そのことが本当に起きるなら 月の兎の千年後の予言が当たることになるのだよ わたしも月の兎のことを信用して千年後の約束も信じることが出来るというものだ でもどうすればいいのかなあ」と言うと、白鯨は鼻から空高く潮を吹き上げて、大きな口を横にさらに大きく開けてにっこり笑いながら、「いいことを思いついた 竜ちゃんの甲羅の腹の部分に予言を記しておいて その出来事が起きてから見せてくれればいいのではないかな」と言うと、竜亀は、「どのようにして記すのかい わたしは自分の腹には足の指が届かないし 甲羅を脱いでもいいけどこの氷の上じゃ寒いよ」と言うと白鯨が、「わたしの大きな胃の中の掃除屋さんに頼めばいいのさ」と言って大きな口を開けるのでした。竜亀は誘われるままになんだか乗り気ではありませんでしたが興味もあったので、覚悟して白鯨の大きく開けた口の中へと進んでいくのでした。真っ暗な白鯨の口の穴を奥へと進んでいくと、大きな広いところに出ました。そこは白鯨の胃の中でした。そこは夜光虫のように輝く虫が胃の壁一面に張り付いていて、明るく光っていました。そして大きな蟹が胃の壁の食べ物のカスやその光る小さな虫を捕まえては食べていました。竜亀が、「蟹さんや 白鯨の兄さんに頼まれたことがあるのだけど」と言うと、大蟹は突き出した丸い眼の玉をぎょろりと持ち上げて竜亀のほうを見ました。そしてなつかしそうに言うのでした。「なんだ 誰かと思えば竜亀さんじゃないか ひさしぶり 白鯨の兄さんに頼まれて胃の掃除をしているのだよ」と言いました。
第六章 秘密 その四
大蟹はかつて竜亀が陸の竜宮にいて、日食の時に起きた竜巻に空へ飛ばされ海に落下して海底に沈んでいくとき、ひびの入った卵の殻を両手のハサミでこじ開けて殻ごとその固い歯でかじったのでした。そうして大蟹は不死身の体になったのでした。そののち、大蟹はあるとき
大王イカに食べられて胃の中にいたとき、白鯨に大王イカごと食べられました。その後、白鯨の胃の中から抜け出して同じ不死身ということで友達になり、こうして時々頼まれては白鯨の胃の中を掃除しているのでした。竜亀は月兎の予言のことを話して、ここでおきる出来事を確かめるためにも甲羅に何か道具で記してほしいと頼むのでした。大蟹はそういうことならと胃の中を掃除するための黒い石を見せて言いました。「この石で 刻むのだ それで何と記せばいいのかい」と聞くので、「樽に頭を突っ込む」と恥ずかしそうに竜亀は言いました。大蟹は、「それが予言かい なんとつまらない予言だな」と言うとひっくり返った竜亀の平らな甲羅の真ん中にその石で刻むのでした。竜亀は、『文字を知らない大蟹さんはどんな印をしたのだろうそれにしてもとても硬い石でなければ刻めないはず』と思いながら、大蟹の黒い石に興味を持ち聞きました。「それはもしかして黒瑠璃という石じゃないかね」と物知りのように少し得意げに言いました。それは亀島で見た黒瑠璃の彫像とそっくりの輝きをしていたからです。大蟹は、
「そうとも黒瑠璃というのだ とても硬い石だ 竜亀さんの甲羅なんか簡単に刻めるのだ」と言いました。竜亀は逆に驚いて、「それはどうしたのかい」と聞くと、「白鯨の兄さんに借りたのさいつも掃除するときに使うのさ これは黒い石の彫像の欠片なのさ」と、笑って言うのでした。竜亀は、「え どういうことですか」と聞くと、大蟹は、「白鯨の兄さんの秘密なのだけどね 竜宮に戻れなくなってから千年ほど前に ここからずっと離れた別の大洋の海の底に沈んだ宮殿の中に その黒い石の彫像を偶然に見て あまりにもその顔が竜宮姫に似ているものだからすっかりその彫像に恋をしてしまってね でも盗まれて長い間会えなかったのが この北海あたりに捨てられたという噂を聞いて 毎日海底を探してようやくこの欠片を見つけたのさ でも残りの部分がこのあたりの氷原に閉じ込められているのではないかと 毎日氷壁に頭で体当たりをして割っているのさ おかげでこの中にいても ガンガン響いてうるさくて迷惑だ 掃除が済んだら 早く退散したいよ」と、大蟹は言うのでした。竜亀はこのとき、『しめた 白鯨の兄
さんの秘密とはこれだ』と、うれしくなるのでした。

第六章 秘密 その五
竜亀は白鯨の口から出て氷の上にあがると、「大蟹さんと会ったよ そしてここに刻んでもらったよ」と甲羅の下を指差して言うのでした。白鯨は、「この際 ひさしぶりに会い 酒もあるので いつもは言えないことをお互い言い合おうじゃないか」と、海面から顔を出して言うのでした。竜亀は、『白鯨の兄さんの秘密は半分わかったようなものだ やっぱり竜宮の姫様に恋をして いや恋の告白でもして きっとふられて竜宮を飛び出したのだ』と、思いながら、「ところでカジキの金ちゃんはどうして竜宮を飛び出したのかい」と聞くと、金顎のカジキは少し躊躇しながらも、「俺も白鯨の兄さんも竜宮の姫様に恋をしていたよ でも白鯨の兄さんと違って幼友だちなので 竜宮の中でたとえ人の姿に変えられ人の心を持っていても 愛ということにはならないのさ わたしは竜巻によって巻き上げられて海に落ちて 右も左もわからない海の中でカジキの一家に出会い 家族とおなじように育てられたのさ あるときカジキ漁の船にそのカジキの一家はみんな殺され船にひき上げられ 人に食べられたのだ だからカジキ漁をする人が憎くてたまらないのさ 竜宮の中で姫様と一緒にいることより このどうしようもない心がわたしを海に向かわせるのだ」と、悲しいような、思いつめたような表情で言うと、樽をその尖ったあごで突き上げてこぼれる酒をがぶがぶと飲むのでした。白鯨はそれを見て、「ああ 俺こそまだ姫様に恋をしている 一目会いたい」と、大声を出して氷の塊に体当たりをするのでした。竜亀は、『何だ これでは友の秘密とは 竜宮の姫様に恋焦がれていることだったのかい わたしの秘密だって同じではないか みんな同じ秘密だったとは そしてこんなにはっきりと告白されたのでは 秘密のありがたみが無くなるではないか でもわたしの秘密は知られたくないな』と、思いました。金顎のカジキは、「それにしても 竜亀さんだけが竜宮に残るとはね 竜亀さんは結婚して子どももいるしね 姫様は安心しているのだろうね われわれみたいに恋の心で姫様とつきあうと 姫様も疲れるだろうしね いや この頃思うのはそんな恋や愛だのと言っている場合ではないのだ われわれには人の世界を救う使命があるのだ 竜王のおじさんの願いでもあるしね」と、急にまじめな顔をして言うのでした。竜亀は金顎のカジキのそのまじめな言葉に少しうろたえました。子どももいて遠い昔に妻を亡くしたにしても 自分の竜宮姫への秘めた心がなんだか恥ずかしく、でも同時に、『自分こそ姫様をもっとも愛しているのではないか』と、密かに思うのでした。

第六章 秘密 その六
竜亀はだんだんと自分が情けなくなってきました。この世界のことも自分の こともよく知らず、『わたしとは一体何者なのだ』と、問いかけているかと思うと、恋や愛を自分だけの秘密として隠しとおして、こうして友と酒を飲んで時間をつぶしている自分を許せなくなりました。竜亀は悲しくなり、やけになって酒をたくさん飲んで酔いつぶれてしまいたくなりました。白鯨に海底から新たに酒樽を上げてもらい、樽の横に金顎のカジキが穴を開けると、そこからこぼれる酒
をこぼれる先からがぶがぶと飲みはじめました。本当は甲羅を脱ぎ、あぐらをかいて飲むのが楽で好きなのですが、氷の上なので寒くて甲羅を脱ぐわけにもいきません。そのうちあまりにたくさん一度に酒を飲んだので、酒に強い竜亀もとうとう酔っぱらい、つぶれて眠り込んでしまいました。そこで竜亀は夢を見ました。エジプトの女王が毒杯を飲み自殺するのです。でも女王の魂だけがこの世をさまよう夢です。その女王の名はクレオパトラと言いました。竜亀は夢の中で、『クレオパトラは誰かに似ている あの黒瑠璃の彫像だ 海女のユカリにも似ている 不思議なこともあるなあ』と思いながらだんだんと目が回り、海の底に落ちていくような気がしました。そして急に苦しくなってもがきましたが、真っ暗で何も見えません。ちょうどその頃、
白鯨と金顎のカジキは竜宮姫のことで話が盛り上っていましたが、白鯨は酔っ払って眠り込んでいる竜亀をからかってやろうと、金顎のカジキと力を合わせて、空の酒樽を竜亀の頭からかぶせてしまいました。竜亀は足をばたばたとして最後にはひっくり返ってもがきました。いかにも苦しそうにもがく竜亀を見て、金顎のカジキと白鯨は大笑いしました。そうしてその時、ひっくり返ってばたばたとしている竜亀の甲羅の裏に大蟹が刻んだ絵を見たのでした。それは樽を頭からかぶっている亀の絵でした。その亀がまさしく今、樽を頭からかぶっているのです。白鯨と金顎のカジキは顔を見合わせました。そこで白鯨は潮を鼻から吹いて竜亀の体に吹きかけました。竜亀はその冷たい海水を浴びて目を覚ましました。でも何も見えません。そのうち自分が頭に何かかぶっていると気がつき、樽を頭から引き抜きました。そこで見たのは海面に顔を出して半分笑い半分なにやら真剣な顔をした白鯨と金顎のカジキなのでした。竜亀は開口一番、「あの黒瑠璃の彫像はクレオパトラというエジプト女王だぜ」と、金顎のカジキに向か
って大きな声で言いました。

第六章 秘密 その七
金顎のカジキと白鯨は声を合わせて、「竜亀さんよ 甲羅の絵を見てごらんよ」と言いました。竜亀は甲羅を脱いでひっくり返して甲羅の裏側を見ました。そこに刻まれた絵はいましがた自分が樽に頭を突っ込んでいる姿でした。竜亀は苦笑いしながら、「どうだ 予言がピタリと当たっただろう」と、得意げに言うのでした。そこへ白鯨の口の中から大蟹がのっそりと出てきて言いました。「確かに予言どおりのことが起こったね 不思議なことだ われわれ全部の行いが予言に従っていたということだ どんなにつまらぬ予言でもね でもせっかくこうして予言どおりのことが起こり われわれがこうして一同に集まっているからには ただではすまないような気がするね ところで白鯨さんよ 胃の掃除は終わったよ わたしも酒を飲みたいな このこぼれた酒を飲んでいいかい」と言ってがぶがぶと飲みはじめました。いつもは茶色い大蟹は体が茹でられたみたいに真っ赤になりました。竜亀は甲羅を脱いで裸のままで酔いも醒めてきたので、寒くなってくしゃみをしました。「おお寒い 火で体を温めなくては」と言って、金顎のカジキから宝玉を借りて自分の宝玉もいっしょに大蟹に渡し、力いっぱいかち合わせるよう頼みました。大蟹は両手の大きなハサミで器用につかみ、宝玉を力いっぱいかち合わせると火花が出て真っ赤になって熱が出ました。氷の上にこぼれて広がっている酒に真っ赤な宝玉を近
づけると酒に火が移りました。そして火は樽にも移り大きな炎を出して燃え上がりました。竜亀はそれを見て、あぐらをかいて気持ちよさそうに体を温めるのでした。そうするうち炎の下の氷はその熱でだんだんと溶け始め、大きく窪みました。そして突然、黒く丸い石が炎の真ん中に飛び出して空中に浮かんだまま輝いたのです。それは竜亀たちの持っている宝玉と同じような大きさです。ただ違うのは黒く輝いていることでした。そして炎の中に黒い肌の美しい女性が現れ浮かんだまま、その黒い玉を掌に載せて竜亀に向かって言いました。「竜亀様 あなたとお会いするために千年お待ちしていました 白鯨さん わたしを探してくださってありがとう ここの氷に閉じ込められて動けなかったのですよ あなたが作ってくれた割れ目のおかげです」。
それを聞いて白鯨は鼻の穴からも目からも涙を流しながら感激して、「竜宮姫そっくりの美しい女性よ さきほど竜亀さんが言ったクレオパトラとはあなたのことですか やっと会えてこんなにうれしいことはありません」と顔を赤くして言うのでした。

第六章 秘密 その八
クレオパトラは、「わたしはクレオパトラというエジプトの女王です わたしが王宮の夜の寝室で絶望して 毒杯を飲んで自ら命を絶とうとしている時に 一人の杖を持った老人が突然現れ こう告げたのです『あなたはローマ王との戦いに疲れて命を絶つつもりですね この部屋の黒瑠璃の全身像の頭の部分を首からはずし 首の下側の窪みの奥にある黒い玉にあなたの血を塗りつけて 元に戻して胴体に据えるのです あなたの命はその黒い玉に宿って永遠に生き いつか人の姿で復活できます 遠い未来に竜宮の王の使いという亀があらわれたなら その亀といっしょに行きなさい いつかその理由が分かる時が来るでしょう』と言って消えてしまいました わたしは小指の先を短剣で刺し 流れる血をこの黒瑠璃の玉にしたたらせ玉を首のくぼみに隠し元に戻しました そして本当に死んだ後 しばらくしてこの玉に自分の命が宿っていることに気がついたのです その後 黒瑠璃の彫像とともに短剣やルビーの首飾りも海の底に捨てられ 最後には海賊のエイハブ船長に渡ったのです そして頭部以外の胴体やこの玉が北海のこの氷原に捨てられ この玉も氷の中に閉じ込められたのです 白鯨さんが見たのはエジプトの王宮の近くの海底で見たのですね」と言うと、白鯨は、「そうだとも 竜宮の姫様に失恋し竜宮に戻れなくなったわたしは 海底で彫像を見て 竜宮の姫様そっくりな彫像にたちまち恋をして 彫像に会うためにときどきその海底に行くのが唯一の生きがいでした でもいつか盗まれてしまい探していたのだ こうして生きている姿のあなたに会えるなんて」と涙を鼻から噴水のように流すのでした。クレオパトラは、「わたしがこうして姿を見せられるのは炎の中だけです その老人が伝えるには わたしはいつか人の世界でふたたび甦るとのことです その手引きをするのは 亀さんあなたです」と言うと、ちょうど燃えていた酒が無くなり、炎が小さくなり火が消えると同時にクレオパトラも消えてしまいました。竜亀は氷の上の黒い玉を取って甲羅の中から宝玉を取り出して二つを比べてみました。色以外はまったく同じような玉でした。そして二つの玉は空中に浮き、おたがいの周りをくるくると回りながら怪しく光るのでした。竜亀は二つの玉を甲羅の中に戻すと再び甲羅に入り、「白鯨の兄さんよ わたしの想像だが あなたはいつかクレオパトラとめぐり会える気がする」と言うと、白鯨は、「おお そうであれば わたしにも生きる夢と希望がわいてきた こんなすばらしいことはない」と、興奮してまたしても氷の壁に体当たりをするのでした。その音はすさまじい音となって氷の世界の空と海に響きわたるのでした。

第六章 秘密 その九 
竜亀は氷の上からあらたまって言いました。「白鯨の兄さんと大蟹さんや 久しぶりに会えて楽しく酒もたくさん飲めたことだし またいろいろなことがあり わたしもはるばるここへ来て良かったよ なんだかすっきりした気分だ ところで金ちゃんや 亀島で出会った頃の満月から数えて今日は何日目だろうか」と聞くと、金顎のカジキは朝を迎えて明るくなった空の端に、白く浮かぶ月の満ち欠けを見て少し考えると、「そうだな 今日でちょうど百日目だよ」と言いました。竜亀は深くうなずいて、「ではそろそろわたしも行かなくては もうこの海でお前さんたちに会うこともないかも でも金ちゃんも白鯨の兄さんも大蟹さんも 人の世界に行くことになると思うそこでお互いが出会うかも知れない わたしも遠い未来に人の世界に行くので会えないけど本当のことを言うと お前さんたちはわたしよりずっと早く人の世界に行くのだ 金ちゃんに話したとおりあの壁画にあったのだよ」と言うと、白鯨は、「おお 竜亀さんより早く人の世界に行くのだね そこでクレオパトラに会えるのだね でも竜亀さんはその玉をどうするつもりだいそこにクレオパトラは居るのだぜ」と言うと、竜亀は、『竜宮の姫様への気持ちはどうなったのだ この浮気者め いやわたしだってそうだな 白鯨の兄さんとたいして違わないな』と心の中で思いましたが、「いまのところどうするつもりもないよ 甲羅に入れて旅を続けるだけだよ それに どのようにこの玉のクレオパトラが人の世界に甦るか今は分からないしね わたしにもどうすることも出来ない でもきっと定めのようなものがあるのだ これからわれわれに何が起きるか誰も分からない それでも何も知らないほうが自由でいい それこそ夢があるじゃないか その日その日にめぐり会う出来事を 希望を持って受けとり その日その日の自分が試されるようで これこそ生きている喜びがあるというものだ」と、しんみり言うのでした。それを聞いていた金顎のカジキが、「竜ちゃんからそんな言葉を聞くとは以外だな のんびり屋で いい加減で その場しのぎの嘘つき亀の言葉とは思えない 君も成長したな」と言うと、竜亀は、「いままでそんなふうに見ていたのかい 幼友だちはこれだから困る」と笑って言うと、金顎のカジキも大蟹も白鯨も声を合わせて笑うのでした。その合わさった声は冷え切った北海の空にこだまのように響きわたるのでした。竜亀は内心、『嘘つきというのは本当だ わたしが竜宮の姫様を好きだということは とにかく皆にバレないですんだ やれやれ』と、ほっとしたのでした。

第六章 秘密 その十
竜亀は皆に別れを告げて北の海を南へ向かいました。今度は来た方向ではなく大きな氷原の下の海中を通りぬけ、あまり来たこともないもうひとつの大洋に向かったのです。もうひとつの大洋に出ると、大きな海原をゆっくりと泳ぎながら竜亀はさまざまなことを思い浮かべていました。『結局 エイハブ船長は銀嘴のセキレイが言ったこととは違い 海女のユカリのためにあの黒瑠璃の彫像を作らせたのではなく どこかで手に入れたに違いない そして首から下の胴体をあの北海に捨てたのさ 黒瑠璃の彫像にはもともと何かの力があるのだ  海女のユカリはなぜ海中で消えてしまったのかわからないけど きっとエレノアの魂があの黒瑠璃の彫像に宿っていて 彼女をあの世に連れ去ったのだ あの黒瑠璃の彫像を金顎のカジキさんと白鯨の兄さんは 一緒にエジプトの海岸近くの深い海底で見たと言っていた 彫像をどこでどうして手に入れたか分からないが エイハブ船長はクレオパトラのルビーの首飾りや短剣も手に入れ 海女のユカリに贈ったのだろう それにしてもクレオパトラが見た杖の老人とは何者なのだろう どうも時を越えて 場所も自由自在に現れて消えたりする 人がうわさする神様とは彼のことか そうならどうして神様なんて信じてもいないこの亀のわたしと繋がっているとは いつかその老人と出会うことになるのだろうか いや会わずにはいられないな ああ 月兎も謎なら 杖の老人も謎 そして顔のない人は謎というより未知 なんとめんどうくさい』とため息をつくのでした。でも竜亀は以前の毎日が退屈でうんざりしていた竜宮や海の生活の時とくらべて、なにか大きな運命のように押しよせる大嵐の大波の中に、いまや巻き込まれてしまっていることに、ふつふつとして心の血が騒いでいることを感じていました。そして竜亀は思いました。『わたしは金ちゃんの言うようにいい加減でなまけもの いや無知で馬鹿だった 何も考えずのんびりと何千年も生きてきて ほんとうは何も分かってなかったのだ だから海で暮らしていたのでは知恵も知識とやらも身につかない 人という生き物は得体が知れないけど 人の世界に行くことでわたしも少しは日回りのマンボウさんや金顎のカジキさんのように賢くなれるのだろうか いや賢くなりたいものだ というより人の世界がどうなっているのか知りたい みんなは先に人の世界に行くのだろうな ああうらやましい 時よ速く過ぎておくれ でも時は時 せかされれば遅くなり 時間が足らないときは速く過ぎる 時とは不思議な生き物さ この世界の不思議さと同じくらいに』と、考えにふけるのでした。