見出し画像

東海林直人のゴロテマ日本史◇近現5(憲法調査~条約改正)

◇近現§41.憲法調査の覚え方(年代と2人)◇C

[ゴロ]伊藤パパにベリグナイトを/ウィッシュたい
伊藤博文・1882年)(ン大学・グナイ)(ウィーン大学・シュタイン)

[句意]伊藤のパパにベリグ(ベリーグッド)な夜を過ごして貰うことを私は望む(wish)、を博多弁風に表現した句。

[point]
1.伊藤博文は、1882年派遣され、ベルリン大学グナイストウィーン大学シュタインに学んだ。

[解説]
1.政府は1882(明治15)年に、伊藤博文らをヨーロッパに派遣して憲法調査にあたらせた。伊藤はベルリン大学のグナイストウィーン大学のシュタインらから主としてドイツ流の憲法理論を学び、翌年帰国して憲法制定・国会開設の準備を進めた。

2017慶応大・経済:「
問4(2)大日本帝国憲法に関する次の1~4の文章の中から、誤りを含む文章を1つ選びなさい。
 1.伊藤博文は、明治十四年の政変後、憲法調査のためにヨーロッパに赴き、ベルリン大学のグナイスト、ウィーン大学のシュタインらからドイツ流の憲法理論を学んだ。
 2.政府の憲法草案は、ロエスレルらの助言にしたがって、交詢社案をたたき台にして伊藤博文、井上毅らが起草し、内閣の諮問機関である枢密院で審議された。
 3.帝国憲法は、天皇が定めて国民に与える欽定憲法だったが、千葉卓三郎らの五日市憲法草案や植木枝盛の東洋大日本国国憲按も立憲君主制をとるものだった。
 4.帝国憲法では、陸海軍の統帥権は、内閣からも独立して天皇に直属するものとされ、また各国務大臣は、議会にではなく天皇に対しでのみ責任を負うものとされた。」
_________________
(答:問4-2×交詢社案をたたき台の部分が誤り)〉

2014明治大・情報コミュ:「
問2 下線部(ア)法制度の整備に関する説明として、もっとも正しいものを、次の1~4のうちから1つ選べ。マーク解答欄に記入しなさい。
 1 山県有朋を中心とする地方制度改革には、シュタインやモッセの助言を得た。
 2 憲法草案作成の際、極秘に来日したグナイストやロエスレルの助言を得た。
 3 西南戦争終結の翌年、伊藤博文らはヨーロッパでの憲法調査に当たった。
 4 政府の依頼で法制度等の調査にあたったフルべッキは、伝道者でもあった。」
_________________
(答:4 ※1・2×シュタイン・グナイストは憲法以外に関与せず、来日もしていない、3×伊藤の憲法調査は明治十四年の政変の翌年1882年)〉

2014明治大・全学部:「
問7 史料Bの演説を行った総理大臣(黒田清隆…東海林注)に関する説明として正しいものを、次のA~Dのうちから一つ選べ。
 A 第一回帝国議会において、「利益線」を確保する予算の必要性をとなえた。
 B 憲法制定に先立ち、渡欧してグナイストやシュタインから学んだ。
 C 開拓使の長官として北海道の開発を推進し、官有物払い下げをはかった。
 D 大蔵卿・大蔵大臣としてデフレ政策を実施し、不換紙幣を整理した。」
_________________
(答:C ※Aは山県有朋、Bは伊藤博文、Dは松方正義)〉

◇近現§42.憲法準備の覚え方(4策・年代順)◇B

[ゴロ]家内が/市長と/好い密(すいみつ)
族令・閣制度)(市町村制)(枢密院

[句意]私の家内が市長と(浮気して)好いた密で淫な関係になった、というトンデモ句。

[point]
1.憲法制定前に、華族令→内閣制度→市制町村制→枢密院とつぎつぎ整備。
[解説]
1.華族令(1884)を定め、華族の範囲を広げる。旧上層公家・大名以外からも国家に功績のあったものが華族になれるようにして、将来の上院(貴族院)の土台をつくった。華族を公・侯・伯・子・男の5爵に分け、そのおのおのの資格を詳細に定めた。貴族院議員の選出母体を準備した。
2.ついで1885(明治18)には太政官制を廃して内閣制度を制定した。宮中と府中(行政府)を区別し、行政は天皇の任命を受けた内閣の各大臣が輔弼(天皇を輔佐(補佐)する)する制度にした。
3.市制・町村制(1888)は、これまでの郡区町村編制法(1878)に替わり、大日本帝国憲法下の地方自治に関する基本法を定めたもの。ドイツ人顧問モッセの助言を得て山県有朋を中心に政府の強い統制のもとではあるが、地域の有力者を担い手とする地方自治制が制度的に確立した。人口2万5000人以上の都市をとして郡と対等の行政区域とし、従来の町村は大幅に合併されて新しい町村とされた。市長は市会の推薦する候補者から内務大臣が任命し、市参事会が行政を担当した。町村長は無給の名誉職で、町村会で公選された。さらに1890年には府県制・郡制が公布され、郡長および郡参事会を行政機関とし、町村会議員の投票と大地主の互選とによって選ばれる郡会を議決機関とした。府県会も郡会議員の投票による間接選挙であった。
4.枢密院(1888)を天皇の最高諮問機関として設置。ここで憲法草案を審議した。初代議長は伊藤博文。憲法・選挙法などの特別な法律・会計・条約などについて天皇の諮問にこたえる機関で、その後、憲法の第56条により権限が明確化された。

2021明治大・文2/13:「
 他方で、これらの法典整備のなかでも最も重大だったのは、近代的国家体制確立の試金石ともいえる憲法の制定であった。まず政府は、伊藤博文らを海外に派遣して現地の憲法調査に当たらせた。おもに[ b ]流の憲法理論を学んだ伊藤は、帰国後、[ c ]の助言もえながら憲法制定・国会開設の準備を進めた。完成した憲法草案は、[ d ]における審議をへて、そして1889年(明治22)に大日本帝国憲法として公布された。」
問1 空欄cに入る人名を答えよ(東海林改)。
問2 空欄bに入る国名として正しいものを、次の①~①のうちから一つ選べ。
 ①イギリス ②ドイツ
 ③アメリカ ①フランス
問3 空欄dに入る機関名として正しいものを、次の①~④のうちから一つ選べ。
 ①枢密院 ②元老院 ③参事院
 ④大審院」
_________________
(答:問1cボアソナード、問2b②、問3d①)

2020中央大・文2/10:「
問1 下線部①政府は全国統一の戸籍作成を進めた。政府は、このような身分制解体に関わる改革を四民平等のスローガンのもとに実施していったに関する記述として誤っているものを次のア~オの中から一つ選べ。
 ア.散髪脱刀令が出され、散髪・脱刀の自由が認められた。
 イ.戸籍は、徴税・徴兵・教育等を実施するための基礎台帳となり、戸籍に登載された人びとを同じ義務を持つ国民として位置づけた。
 ウ.四民平等に関する政府の施策は十分ではなく、結婚や就職等における旧被差別民に対する社会的差別は続いた。
 エ.政府が出した解放令によって旧被差別民にも平民同様に職業の自由が認められたが、苗字を名乗ることはその後も許されなかった。
 オ.華族は、のちに公・侯・伯・子・男の5爵に区分された。」
_________________
(答:問1エ× 苗字は名乗れる)〉

2016早稲田大・教育:「
 明治14年の政変において[ 3 ]らは、大隈重信を政府から追放し、開拓使官有物払下げを中止するとともに、国会開設の勅諭を出して1890年の国会開設を公約した。こうした対処が明治憲法体制形成に向けての出発点となり、以後、国会開設に備えて憲法起草に取り組むことと並行して、d支配体制を固めるための諸施策が実行されたのである。
問3 空欄[ 3 ]に該当する人物2人を選べ。
 ア板垣退助 イ伊藤博文 ウ井上毅
 エ尾崎行雄 オ木戸孝允
問7 下線部dの諸施策のうち、明治14年政変後から大日本帝国憲法発布までの間に実施されたものをすべて選べ。
 ア 天皇直属の参謀本部が設けられ、政府から独立して軍令を管掌することになった。
 イ 広大な山林や有価証券などが皇室財産に編入され、天皇家は日本最大の財産所有者となった。
 ウ 中学校以上の男子校で軍事教練が開始された。
 エ 華族令が制定され、旧大名・公卿のほかに、士族の勲功者が新たに華族に加えられた。
 オ 小学校教科書は、文部省が著作権を有するものに限ることとした。」
_________________
(答:問3イ・ウ、問7イ・エ)〉

2014早稲田大・国際教養:「
問9 下線部(7)peerage(貴族…東海林註)に関連して、誤っているものはどれか。2つ選べ。
 ア 版籍奉還により、藩主を公家とともに華族とした。
 イ 1884年、華族令を定め、公・侯・伯・子・男の爵位を設けた。
 ウ これらの爵位は、旧公家・旧大名のみに適用される身分呼称であった。
 エ 家族令には、華族を将来の上院議員とする意図が込められていた。
 オ 爵位の世襲は、男女問わず可能であった。」
_________________
(答:ウ× ※維新の功臣にもばらまかれた・オ※女性は世襲できない)〉

2014慶応大・文:「
問2 下線a男爵を授けられ、新たに華族に列したるについて、華族は当初、旧上層公家や大名に限られたが、1884年に華族令によって対象が拡大された。このとき、特にどのような者が対象に加えられたか。10字以内で記しなさい。」
_________________
(答:問2国家に功績がある人)〉

ここから先は

24,831字 / 2画像

¥ 100

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?