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東海林直人のゴロテマ日本史◇近現8(綿糸生産~堺利彦)


◇近現§71.繊維産業の発展の覚え方②(綿糸の1890年・1897年)◇B

[ゴロ](綿糸)グリグリ輸入を抑え(おさえ)/爆な輸出
(1890年)(国産綿糸が輸入綿糸を抑え)(1897年)(輸出量が上回る)

[句意]グリグリ国産綿糸が輸入綿糸を抑え爆な輸出へ、という句。国産綿糸生産が輸入綿糸を上回る、ということはその時点で上回った(抑えた)ということと、とらえて以上のゴロになりました。

[point]
1.綿糸1890年国内生産量輸入量を上回る1897(明治30)には輸出量が輸入量を上まわった。教科書「詳説日本史B」にある「綿糸の生産量と輸出入の変遷」という折れ線グラフを見ると良い。理解が深まると思う。  
[解説]
1.綿織物生産は原料糸に輸入綿糸を用い、飛び杼(ひ)(緯糸(よこいと)をおさめた杼を、紐で引くことで左右に動かす装置)をとり入れて手織機を改良し、農村の問屋制家内工業を中心に、しだいに上向いた。このような綿織物業の回復が、原料糸を供給する紡績業の勃興の前提となった。
2.1882年(明治15)年には渋沢栄一らが設立した大阪紡績会社が開業し、政府の奨励する2000錘紡績の不振を尻目に、イギリスから蒸気機関を用いたミュール紡績機16台を輸入し1万錘の大規模経営に成功した。
3.これに刺激されて、大阪などを中心に商人が会社を設立する動きが高まり、在来の手紡やガラ紡臥雲辰致(がうんたつむね)が発明した簡単な紡績機械で、人力式から水車式に改良されて以後普及)による綿糸生産を圧迫しながら機械制生産が急増した。
4.1890(明治23)年には、綿糸の生産量が輸入量を上まわり、日清戦争ころから中国・朝鮮への綿糸輸出が急増した。
5.1897(明治30)年には綿糸の輸出量が輸入量を上まわった

2020慶応大・商学部2/14:「
 幕末期の日本は、産業革命をすでに経験していた欧米諸国と比べて工業技術が大きく立ち遅れていた。そのため、本格的な対外貿易が始まると、日本からは主として農水産物とその加工品が輸出された。最大の輸出品目であった[ ① ]に関しては、開港後から簡単な手動装置を使った( a )という製法による生産が拡大した。
 日本で本格的な機械化による生産性向上が最初に実現したのは、綿紡績業においてである。[ ② ]らの構想をもとに、[ ③ ]年に設立された大阪紡績会社などが大量生産に成功した結果、綿糸の輸出量は1897年に輸入量を超えた。
_________________
(答:①生糸、a座繰製糸、②渋沢栄一、③1882 ※①~③に選択肢53語あり、なおaは記述式)〉

2020早稲田大・商学部2/21:「
問D 下線部(ニ)日本は産業革命期を迎えたに関連して述べた文として、正しいものを1つ選べ。
 1.製糸業では器械製糸による生産が増大したが、熟練度が繰糸を左右する点で機械技術としては限界があった。
 2.日本鉄道会社が政府の保護を受けずに成功をおさめると、鉄道会社の設立ブームが起こった。
 3.日本銀行や国立銀行が銀行券を増発し、産業革命期の企業発展を支えた。
 4.1897年に綿糸輸出量が綿糸輸入量を上回り、綿業(綿糸・綿織物)部門は貿易黒字を生むようになった。
 5.金に対する銀価値の低落による円安は、産業革命期に輸出産業の成長を支え続けた。」
_________________
(答:問D1〇 ※2×半官半民の会社、3×1882年以降、日本銀行が通貨発行権を独占、4×貿易赤字だった、5×銀の価格が低落傾向にあったため、貨幣価値が不安定で輸出を阻害)〉

2019青山学院大・教育人科文コミュ人間2/13:「
問11.(i)の紡績業や製糸業に関連して、誤っているものを一つ選びなさい。
 ① 1873年に発明されたガラ紡は、改良を経て、第1回内国勧業博覧会で最高の賞を与えられた。
 ② 1883年に創設された大阪紡績会社では、外国産の紡績機械を用いて大規模生産を行った。
 ③ 1897年に、綿布の輸出額が輸入額を上回った。
 ④ 1909年に、日本は世界最大の生糸輸出国となった。」
_________________
(答:問11②×1883年→1882年)〉

2017早稲田大・政経:「
【史料2】
 今や我邦の商工業は、旭日の東天に昇るの勢に在り。而して其最も大なる影響を全国の経済社会に及ぼす者は、即ち鉄道事業なること、疑いを入れず。(か)全国都市の変動は、必然諸地方の職業並に物産上に大変動を与え、将来の経済社会に革命的一新の機を来すは、固より鉄道より生ずる結果として、予めこれを覚悟せざるべからず。鉄道事業は我国における新事業なり。其如何なる有様に於て地方の経済に影響すべきやは、実際上の重要問題にして、又頗る難問なるべし。然れども目今の趨勢を見れば、鉄道事業は到る処に勃興し、民有線路各地に布設せられんとす、殆んど鉄道熱の高点に達したりと云ふも過言に非ざるが如し。此時に乗じ、鉄道事業に従事する者は勿論、之に向て資本を投ずる者、之が制度を整理する者、又鉄道を利用する一般の人民は、宜しく厳に警戒して妄動を慎むべし。
問6 下線部(か)に関連する以下の記述のうち、誤っているものを2つ選べ。
 a 日清戦争頃から中国、朝鮮への輸出が増加した綿糸は、1897年には輸出量が輸入量を上回った。
 b 1878年に建設に着手した官営の愛知紡績所は、落成をみることなく1882年に民間に払い下げられた。
 c 日本が採用していた銀本位制は、銀に対する金の価格が下落する局面では、欧米諸国への輸出を増やし、輸入を減らす効果を持っていた。
 d 国産の繭を原料とする生糸輸出は、外貨獲得のため重要な役割を果たした。
 e 1867年に操業を開始した鹿児島紡績所で、初めて洋式の機械が導入された。」
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(答:問6b×1878年に明治政府が愛知県と広島県に模範紡績所を建設。しかし広島紡績所が開業前に払い下げられ、愛知紡績所は、1886年に民間に払い下げられるまで、唯一の官営模範工場として存続した。c×当時は金に対する銀の価値が低下し続けていたため、銀本位制をとっていることは、欧米の金本位制国への輸出を増やし、輸入を減らす効果を持った。)〉

2017早稲田大・商:「
 1880年代半ばに通貨制度が確立されてデフレが収束すると、繊維産業部門を中心として工業化が急激に展開し始めた。(イ)紡績業は早くも1890年代に内外市場で十分な競争力をもつようになり、製糸業も世界市場に急速に進出していった。
問A 下線部(イ)に関連して、明治期の綿業(紡績業、綿織物業)について述べた文として正しいものを1つマークせよ。
 1.1890年には綿糸生産量が輸入量を上まわり、海外市場でも競争力を確立した。
 2.渋沢栄一らが設立した大阪紡績は、蒸気機閔、国産紡績機を利用して成功をおさめた。
 3.国内綿織物は安価な輸入綿糸の利用などにより輸入綿織物に対抗し、市場を回復していった。
 4.大紡績会社の設立が進んだが、国内綿糸市場ではガラ紡の優位が続いた。
 5.日清戦後になると、多くの大紡績会社が力織機を利用して織布を兼営するようになった。」
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(答:問A1〇 ※2×すべて輸入の紡績機械・蒸気機関を用いた、3×国産綿糸の生産量が輸入量を上まわる、4×ガラ紡は劣勢、5×日露戦後)〉

2016学習院大・法:「
 また、近代では女性で工場労働者となる者が多数出現するが、主に未熟練労働者としてであり、その典型が紡績女工である。1880年代に入ると紡績業における機械制生産が急増し、⑰〔イ帝国議会の開設 ロ日露戦争の勃発 ハ金本位制の確立 ニ日清戦争の勃発 ホ内閣制度の創設〕の年には綿糸の生産量が輸入量を上回った。しかしながら、昼夜二交代制など苛酷な労働環境のもとで慟かされたため、結核などの病気にかかる女工も多かった。」
_________________
(答:⑰イ)〉

2015立命館大・全学部2/3:「
 日清戦争後、日本でも産業革命が大きく進展していくこととなるが、その中心となったのは繊維産業であった。(中略)
 ―方紡績業は、開国当初機械製綿糸の輸入に押されて低迷したが、1873年に長野県人の[ F ]が発明したガラ紡などの技術革新によりしだいに上向いた。1882年に渋沢栄一らが中心となって大阪紡績会社を設立し、イギリス製の紡績機を導入して本格的な機械紡績を始めると、大阪の商人を中心に参入するものが相次ぎ、機械制生産が急増した。これにより[ ハ ]年には綿糸の生産量が輸入量を上回り、1897年には輸出量が輸入量を上回った。
問l 空欄[ F ]にあてはまる、もっとも適当な人名を答えよ。
問m 空欄[ ハ ]にあてはまる、もっとも適当な西暦年を答えよ。」
_________________
(答:問l臥雲辰致、問m1890)〉

2014明治大・全学部前期2/5:「
 帝国議会が開設された1890年当時の国内の経済・産業に関する説明として正しいものを、次のA~Dのうちから一つ選べ。
 A 国内の海運会社を合併して日本郵船が設立され、外国企業に対抗した。
 B 大規模な紡績工場の設立があいつぎ、綿糸生産量が輸入量を越えた。
 C 欧米にならって金本位制が実施され、金融制度の安定がはかられた。
 D 在来産業を近代化するため、富岡製糸場など官営の工場が建設された。
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(答:B〇、※A×日本郵船会社は1885年設立、C×日清戦争の賠償金を準備金として1897年に確立、D×1870年設立)〉

2013大学入試センター・日本史B:「
問3 下線部b紡績機械に関連して、明治期の軽工業に関して述べた次の文a~dについて、正しいものの組合せを、下の1~4のうちから一つ選べ。
 a アメリカの技術を導入して、横浜に富岡製糸場が設けられた。
 b 大阪紡績会社は、蒸気機関と輸入の紡績機械を導入した。
 c 日清戦争のころに、器械製糸の生産高が、座繰製糸の生産高を上回った。
 d 日露戦争をさかいに、国内の綿糸生産高が綿糸輸入高を上回った。
 ①ac ②ad ③bc ④bd
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(答:問3③ ※a×アメリカ→フランス、横浜→群馬県。d×綿糸生産高が輸入高を上回ったのは1890年)〉

2012立教大・文学部:「
 この紡績業で大阪紡績会社は蒸気機関を用いた大規模経営を行ったが、その開業当時の規模はどれか。次のa~dから1つ選べ。
 a.約5、000錘  b.約10、000錘
 c.約15、000錘 d.約20、000錘」
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(答:b)〉

◇近現§72.繊維産業の発展の覚え方③(綿布・生糸の1909年)◇B

[ゴロ]綿布生糸の/ワンクリック年/輸出が上回りの世界一
綿布の輸入高を輸出高を上回る)(生糸輸出世界一)(1909年)

[句意]綿布・生糸にとって1909年は輸出高が上回り、輸出世界一になった、という句。

[point]
1.1909年綿布輸出高が輸入高を上回り、一方生糸の輸出高も世界一になった。
[解説]
1.1890(明治23)年には、綿糸の生産量が輸入量を上まわり、日清戦争ころから中国・朝鮮への綿糸輸出が急増し、1897(明治30)年には綿糸の輸出量が輸入量を上まわった
2.日露戦争後には、大紡績会社が合併などにより独占的地位を固め、輸入の大型力織機で綿織物もさかんに生産し、販売組合を結成して朝鮮・満州市場への進出を強めた。
3.一方、おもに手織機によって問屋制家内工業生産がおこなわれていた農村の綿織物業では、豊田佐吉らが考案した小型の国産力織機を導入して小工場に転換する動きが進んだ。その結果、1909(明治42)年には(綿糸に続いて)綿布の輸出額も輸入額を超えた。
4.しかし、このように綿糸・綿布の輸出は増加したが、原料綿花は中国・インド・アメリカなどからの輸入に依存したため、綿業貿易の輸入超過はむしろ増加した
5.それだけに国産の繭を原料として生糸輸出で外貨を獲得する製糸業の役割は重要であった。日露戦争後には、アメリカ向けを中心に生糸輸出がさらにのび、1909(明治42)年には清国を追い越して世界最大の生糸輸出国となった。おもな輸出先は当初フランス、1884年以降はアメリカだった。

2017早稲田大・商:「
問E 下線部(ホ)日露戦後の経済状況に関連して述べた文として誤っているものを1つ選べ。
 1.原料繭が国内で自給されていたため、製糸業は最大の外貨獲得産業であった。
 2.貿易赤字を外債募集による資本の受け取りで補うという構造が成り立たなくなっていった。
 3.綿業部門は綿布輸出の増大によって外貨獲得産業に転換していった。
 4.軍需品や重工業関連資材の輸入が増加し、貿易収支を圧迫した。
 5.綿布の移出や砂糖・米などの移入が増加し、台湾、朝鮮など植民地への経済的な依存が強まった。
_________________
(答:問E3× ※原料綿花の輸入増大で、綿業トータルではむしろ輸入超過に)〉

2016上智大・法済総人:「
 日本は問1の過程の中、産業革命をなしたが、その中心は最初、綿糸を中心とする紡績業であった。( ア )年には、渋沢栄一たちが前年に設立した( イ )紡績会社が開業し、( ウ )が発明し、( エ )を中心に普及したガラ紡などの在来の綿糸生産は、機械制生産にとって代わられた。そして、( オ )年には綿布輸出額の輸入額超過、さらに世界最大の生糸の輸出国となった。」
_________________
(答:ア1883、イ大阪、ウ臥雲辰致、エ愛知県、オ1909 ※原問には選択肢40あり)〉

2015立命館大・全学部2/3:「
 日清戦争後、日本でも産業革命が大きく進展していくこととなるが、その中心となったのは繊維産業であった。幕末以来最大の輸出品であった生糸は、当初手回しの把手を回して糸枠を回転させる[ E ]製糸が中心であったが、しだいに動力を用いた器械製糸が導入され、日清戦争前後には[ E ]製糸の生産額をしのいで輸出向け生産の主流となった。日露戦争後には生糸輸出はさらに伸び.1909年には⑥それまで輸出額がトップだった国を追い抜いて、日本が世界最大の輸出国となった。
問j 空欄[ E ]にあてはまる、もっとも適当な語句を漢字2文字で答えよ。
問k 下線部⑥の国はどこか。もっとも迫当なものを下から一つ選べ。
 (あ)清国 (い)イギリス
 (う)アメリカ (え)インド
_________________
(答:問j座繰、問kあ)〉

2014立教大・現代心理社会コミュ福祉:「
 1894年夏に始まった日清戦争の勝利によって巨額の賠償金と新市場を獲得すると、日本でも緒に就いていた産業革命が進み、資本主義が本格的に成立するにいたった。(中略…東海林)
 しかしながら、このような生産と生活の様式の変化は、さまぎまな社会問題を発生させた。この時期の花形産業は②繊維産業であったが、紡績工場や製糸工場の労働者の多くは、女工であった。
問2.これ(繊維産業)に関する記述として正しくないのはどれか。次のa~dから1つ選べ。
 a.官営模範工場であった富岡製糸場は、フランスの先進技術の導入をはかった。
 b.当初は座繰製糸が中心だったが、1894年には器械製糸の生産高が上回り、欧米向けの輸出がさらに増大した。
 c.農村の綿織物業では、豊田佐吉らが考案した国産力織機を導入して小工場に転換する動きが進んだ。
 d.日露戦争後の1909年には、日本は清国に次いで世界第2位の生糸輸出国となった。」
_________________
(答:問2d× ※1909年に生糸輸出世界一)〉

《付録①》雨宮製糸ストの覚え方(1886)◇C

[ゴロ]雨見や争議は/ハバロスク
雨宮(あめみや)製糸)(日本初争議)(1886

[句意]雨を見ろよ、争議はハバロスクだぜ、というナンセンスの句。
雨中のストライキの写真を見て、あれはハバロフスクの事件だぜ、と言っている状況を設定。

[point]
1.日本初の争議は、1886年雨宮製糸争議
[解説]
1.日本初のストライキは、1886年(明治19)6月、山梨県甲府の雨宮製糸工場で起こった争議。組織のない自然発生だが、日本の工場労働者による最初のストライキとして知られる。
2.14時間労働を30分延長し、日給も下げると通告されたことに対し、100余名の女工が就業を拒否して近くの寺に立てこもったもの。
3.甲府地区では製糸工場が増加して労働力不足が生じた。その結果、好条件を求めて工場を移動する女工が少なくなかった。これに対し、製糸業者が連合して、工女の移動の禁止、労働時間の延長、賃金切下げなどを強制しようとしたところから発生した。

2019立命館大・全2/3:「
 長時間労働と低賃金に苦しんだ工場労働者たちは、[ A ]年に発生した雨宮製糸ストを皮切りに、ストライキと呼ばれる手段で資本家に立ち向かった。ストライキは日清戦争後に最高潮に達し、アメリカで労働運動のあり方を学び帰国した[ B ]は、1897年、これらの闘争を労働組合を組織することで指導しようとして労働組合期成会を組織した。」
_________________
(答:A1886、B高野房太郎)〉

2015立命館大・全学部:「
(d)下線部(2)生糸生産振興のために官営模範工場を設立しに関連して、1872年に群馬県に設立された生糸生産振興のための官営模範工場はどれか。もっとも適当なものを下から一つ選べ。
 あ三田育種場 い新町紡績所
 う雨宮製糸工場 え富岡製糸場」
_________________
(答:問dえ)〉

2014立教大・現代心理社会コミュ福祉:「
問3.これ(女工)に関する記述として正しくないのはどれか。次のa~dから1つ選べ。
 a.甲府の雨宮製糸工場の女工たちは、日本最初の工場ストライキを起こした
 b.諏訪製糸同盟は、工女登録制度をつくった
 c.高野房太郎は『女工哀史』を著し、紡績女工の過酷な労働実態を明らかにした
 d.1900年頃の工場労働者の約6割が繊維産業で働いており、その大部分は女性であった」
_________________
(答:問3c× ※高野房太郎→細井和喜蔵)〉

2011明治大:全学部:「
問4 下線部(エ)労働運動が活発化に関連し、労働運動や労働組合の説明として誤っているものはどれか。次のA~Dのうちから一つ選べ。
 A 雨宮製糸ストは1886年に山梨県で女工が起こしたもので、日本で最初に起こった工場労働者によるストだとされる。
 B 労慟組合期成会は高野房太郎や片山潜らによって労働組合結成を促進するために1897年に組織された。
 C 友愛会は鈴木文洽らによって1912年に結成されたが、幸徳秋水らが唱えた直接行動主義を支持していたため、同年に解散を命じられた。
 D 1940年に新体制運動が始まると、労働組合・労働団体は解散し、工場ごとに産業報国会が作られ、その全国的な連合体として大日本産業報国会が結成された。」
_________________
(答:問4C× ※友愛会は穏健な労資協調主義)〉

《付録②》高島炭鉱事件の覚え方(1888)◇C

[ゴロ]失礼!/高島は/日本人の/半墓場
(三宅雪嶺(みやけせつれい))(高島炭鉱事件)(『日本人』)(1888年)

[句意]失礼を覚悟で言わせて貰うと、高島炭鉱は日本人の半(なか)ば墓場だ、という句。この時代、頭(かしら)が労働者を飯場に寄宿させ一切の自由を束縛し酷使した。

[point]
1.三宅雪嶺が発行の雑誌『日本人』で、高島炭鉱の過酷な労働実状を1888年に公表し、社会問題化した。

[解説]
1.高島炭鉱は長崎県の離れ小島(長崎県西彼杵(そのぎ)郡高島町)にあった日本最初の洋式技術による炭鉱(炭坑)。政府から払下げを受けた三菱岩崎弥太郎)の所有で、莫大な利益を上げていた。
2.高島炭鉱事件1888)は、『日本人』で、体験者が納屋制度のもとで奴隷労働的な状態にある坑夫の過酷な実状を公表し、三宅雪嶺が「三千の奴隷いかにすべきか」と批判を加えたことにより、大きな社会問題に発展したもの。
3.過酷な現状に対し、1878年には賃上げ要求の坑夫が暴動化、100余人が逮捕される事件が起きた。
4.『日本人』は三宅雪嶺が中心となってつくった国粋主義の団体の政教社の機関誌
5.なお、戦争中には、日本人に加えて多数の朝鮮人が働かされている。高島は長崎港から15キロの沖合にあり、その先5キロに端島(軍艦島)がある。

2019立命館大・全2/3:「
 労働者がおかれていた悲惨な状況については、さまざまなメディアが報じた。雑誌『[ C ]』は、1888年に「高島炭鉱の惨状」を発表、また毎日新聞記者横山源之助は、1899年に『日本之下層社会』を刊行、さらに[ D ]省の嘱託として、工場労働者の調査に参加し、1903年『職工事情』をまとめた。[ B ]は、その後、社会主義運動の組織化に尽力し、1901年に日本初の社会主義政党である[ E ]党を立ち上げたが、前年に制定された[ F ]法により、②結成2日後に結社禁止処分となった。」
_________________
(答:B片山潜、C日本人、D農商務、E社会民主、F治安警察)〉

2014立教大・現代心理社会コミュ福祉:「
問4.これ(労働者は、過酷な労働条件のもと、低賃金と長時間労働を強いられた)に関する記述として正しくないのはどれか。次のa~dから1つ選べ。
 a.賀川豊彦は、都市下層社会への探訪や労働者の生活状況の調査をおこない、『日本之下層社会』を著した
 b.鉱山や土木工事の現場では、納屋頭が労働者を納屋に収容し、その生活まで管理する納屋制度が存在していた
 c.雑誌『日本人』が高島炭鉱の賃金労働者の劣悪な労働条件の実態を報じ、社会問題化した
 d.東京や大阪のような大都市では、下層民が集中して住む貧民窟が多数出現した」
_________________
(答:問4a×横山源之助の誤り)〉

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