私はまだ「書く」ことについて考えている

今週のおすすめnoteの「世界にとっての異物になってやりたい」市川沙央⇄荒井裕樹 往復書簡 を読みまして、ブログを書く気が湧いてきました。

最近モーニングノート的なことをしている影響か、モーニングノートみたいなブログになってしまいました。
それはそれでいいか……。

8/9(水)
人様の目につく場所に文章を書くことの一つのハードルに、自分の属性が語り手として相応しくないのではないかというのがありました。
 私は鬱だかHSPだか発達障害のグレーゾーンだかなんだかですし、専業主婦です。仕事をしていないし精神科にいま通っていない私が、たとえば鬱のひとは仕事をどうしたらいいのか語ること、専業主婦を自称している私が女性差別の話をすること、HSPの私がただただ掃除のコツについて語ること、精神的に打たれ弱いし当事者でも支援者でもない私が身体障害のある人たちの話をすること、体と心の性自認が一致していて概ね異性愛者の私がセクシャルマイノリティの話をすること。全部全部、罪悪感のようなものを感じて書けませんでした。
 それはもし浅瀬にいる私がその話をしたことで、もっと深いところの人たちが傷つくのかもしれないという心配と、関係ない、くわしくないなら黙ってろと言われるのが恐ろしいのだと思います。
 お二人の往復書簡のブログを読んでインターセクショナリティという言葉に初めて触れました。ネットで検索して、概要を読んで、大学の時に習ったような気がしました。そして、自分を個別の要素で分断しようとしていたからしんどかったんだなと思いました。単純化信仰の話が出てきましたが、自己紹介を単純にしないといけないと思っています。そして、正しく描写しないといけないとも思っています。そこは両立しないんだなと、ようやく諦めがつきそうです。

 この往復書簡を読んで、話すことがそれなの? とご批判を受けるかもしれません。そんなことばかり考えています。私も、「あの手の」話題は「腫れ物扱い」する傾向があります。自己防衛のために。でも、語りたい気持ちもあります。考えていることはたくさんあるから。

 主語を自分にするのがいいって思い込んでいました。どんな時も。でもそれって、自己防衛的には正解かもしれないけど、人を傷つける可能性も低くなるのかもしれないけど、なにも言ってないのとおんなじになっちゃうかもしれない。とくに「この手の」話題をするときは。だって社会について、人間について、自分以外のたくさんの人間の集合について考えているのに、主語が自分なんてありえない。アウトプットするときに「私は〜思います」ってつければいいだけで、思考まで主語を自分にする必要はないのでは。

 曖昧な言葉を避けるのがいいと思っていました。でも、私があいまいな人間なのに、それを避けることは、大変だったんだと思います。かもしれないとか多用している人って胡散臭くない? と思うけど、じゃあ私は胡散臭い人間で、それを隠すために断定的な表現を使うんですかって話ですよ。それはダサいだけじゃん。

 訛りも一つのハードルでした。関西人じゃないのに大阪弁なの? 幼少期に住んでた? 両親が関西人? じゃあいまなんでじゃん? とかいってんの? って言われるのが怖くて怖くて。読みやすい文章は一貫性があるんでしょう。読みやすい文章がいいんでしょう。いいのでしょうの方がいいのでしょう。方はひらがなのほうがいいのでしょう。そうやって、雁字搦めにして、喉がしまって、頭痛がして、話すのがとても大変なことになっていって、なにも話さなくなってしまう。これはただただ不健康ですね!

 誰かに読んでほしいなら、読みやすくて、キャッチーで、話題性のあるトピックをチョイスしてってするといいけど、私は私の話を誰かに聞いてほしいから。耳障りのいい文章を作って、承認欲求を満たしたいわけじゃなくて(もちろんそれも甘美に見える)、自分が考えていることを、誰かに聞いて欲しくて、それでできれば悲しい思いをするよりかは元気出るとか思って欲しくて、でもそれは、2番目なんだ。私を読んでほしいっていうのが1番だから。たとえ人を傷つけても。かなしいけど。受け入れるか死ぬかの2択だ。

 市川さんが新人賞を取る前の話を読んで、小説と論文だったら私も小説の方だなあと思いました。そこから空想は広がり、小説だったら自由だなあと思いました。このブログは花森すみれが書いていますが、花森すみれが主人公の小説のような形で思ったことをつらつら書いていったら、どんな批判も怖くないのではと思いました。だって小説だもん、そこはそういう表現だもん、伝わらなかった? 表現力が足りなくてごめんなさい、精進します……。そうして、私の人格は、攻撃を受けずに、安全に文章を書けるかもしれない。

 ブログを書くときに、読者からの批判が怖い旨を何度も書いてしまうが、それも一つの防衛機能を期待していて、先に言っとくと言いにくいよねとか、批判されたらやだって言ってる人間批判しないよねってやつだから。そのくだりが出てくる回数の倍はそのことについて心を取られているってことで。
もったいない!

自分が傷つくのがすごく怖いのに対して人を傷つけるのはちょっとしか怖くないんだな私は。でも、それを超えても私は語りたいから。自分のためと、そして、自分のためにやってるうちの一つでもなんかの役に立つって価値があるって希望を持ってるから、これからも、思ったことを書いていけたらいいなと思います。

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