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じいじ 保育士を目指す! 冬至

ゆずを持って

今日は孫二人がお泊り。

帰宅途中で、ケーキを買って帰ると孫たちがお出迎え。

という事で、早速お風呂。

ゆずを一個ずつ持たせてお風呂に。

2歳、3歳に「今日は柚子湯の日だよ。」と言うと。

3歳の孫が「みかんみたい!」と。

妻は携帯を持ってきて写真撮影。

 私は孫たちに「こうやって、じいじと柚子湯に入った事を覚えているんだよ」と。

 孫達が大きくなって、私が死んだ後もこの記憶は残るのだろうか?などと考えると、なるほど人生も終盤になった事をしみじみと思った。

 memento mori(メメントモリ)という言葉を、教養の知識として思う事から、実感として思う時期に来たのが、この瞬間だと思ったのだ。

微笑ましさと、老いと死の対比がなんとも言えない複雑な思いに。

 世代を継ぐ事の哲学的な深い想いが冬至の柚子で感じるとは、夢にも思わなかった。

 この子たちがまた、親になってその子が子供を育て、私と同じ様に孫達に冬至の柚子湯をいれてやるのだろうかと。

 そう言えば、柚子湯の記憶を思い起こして、自分の記憶を確かめるのだが、その記憶がない。

という事は、孫達も私と入った柚子湯のお風呂場での思い出は、きっと消えるのだろう。

そもそも、3歳の頃の記憶など私の記憶の中にはないのだから。

でも、どうか幸せに育ってくれ!と思わずにはいられない。

世界が悲しい出来事で溢れている今だから、そう思わざるを得ない。

さて、今日はこの辺で。

memento mori

死を思え。という訳があって、骸骨の絵が載っている死生学のテキストを思い出した。

私の記憶

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