かたち

今夜は、怒ることの正体と、どうにも処理できないそいつが目の前に立ち塞がった時に、それを滅殺できるのは何だろうかっていうことをちょいと考えました。滅殺することが難しいのだとしたら相殺でも良くて、そもそも消す必要があるのかってのも踏まえる。


感情の話です。分かりやすい名前の喜怒哀楽はそれぞれがどれと対ということではなくて相関だから、極端な喜・怒・哀・楽は本体である血肉や思考や心を歪ませてしまうことがある。それは虚構にも現実にも数多転がっていて、感情をまーまー雑な感じで4つに区切っただけのやつに名付けられた事象(表出とか表現とも言えるかもしれない)で説明をすることも解釈をすることも出来なくはないし、世の中の多くの場面はそうしないと立ち行かないからそうなっているんだろうけど、ホントの本当はきっと無粋なんだろうね。名前がついていることの便利なところは『明確化』とか『分類の下地』とかだろうから、そこそこクダラナくても紋切る他にやりようがないってのも合点がいく。


〝腹が立つ〟のと〝腹に納める〟のは恐らくセット。でも〝怒る〟と〝許す〟はセットじゃない。腹に納めるときには許していないこともあるし、宗教とかは別として、全ての怒りに許しを発動させなきゃいけない道理なんてない。怒りがエネルギーになってどこまでも走れる稀有な御人は確かにおられるし、うっかり死神に導かれてしまうケースもある。そうやって考えていると、一般的には、実は4つのうちの怒と哀はどんなに頑張っても他者との共有がすこぶる難しくてハードルが高いから滅殺を目的としない前提だとしたら、このふたつを抱き合わせにして考えるのはもしかしたら悪くないのかもしれないゾ。脈略なく唐突に哀しみを登場させてごめんだぜ。(頭の中で繋がってしまった)怒と哀だけは、きっと他力ではどうにもならない。他力ではどうにもならないものをどうにかしようとすることを生存への本能や戦略だとしたときに、私が目撃するそれはいつも、とても柔らかい形をしている。えっと、待ってね、、目撃だから、私自身は触った気になっているだけです。その気になったまま続ける。触って良いのかどうかを迷うぐらいにトゲトゲとして見えることもあるし気持ちの悪い色や手触りが施されていることもある。すごく小さかったりもする。その場合、見えている鋭利なトゲトゲやエキセントリックな色や独特な生地感や視認のサイズは、そいつそのものの形ではなくて、上手く言えないけど、すごく柔らかくて脆い。いやまー、触った気になっているだけなんだけどね。だから、私の好きな人は全員が怒りや哀しみを形にしてもらえると助かる。私がさわれなくても私が何も解決できなくても、もしも私が助けられなくても、このお願いがとても傲慢で鬱陶しい類の備忘録なのは知っていて、それでも願う。



もっと見せてよ。







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