クドカン脚本の誤算?『不適切にもほどがある!』はなぜ“うかつ”な描写が目立つのか
私は、宮藤官九郎の大ファンである。
最近、『不適切にもほどがある』が話題になった。
このドラマについて、二人の賢人が論じている。
最初は、編集者・ライターの福田ケイスケ氏の前編である。
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https://gendai.media/articles/-/126358?imp=0
安易な二元論を避け、複雑な多様性を描いてきたクドカン
宮藤官九郎脚本のドラマ『不適切にもほどがある!』(TBS系、毎週金曜10時放送中。以下『ふてほど』)が、SNSで毎回賛否両論の物議を醸している。
このドラマは、1986年(昭和61年)を生きる中学校の体育教師・小川市郎(阿部サダヲ)が、2024年(令和6年)にタイムスリップしてしまい、多様性とコンプライアンスを重んじる令和の価値観とのギャップに戸惑い、衝突しながらも新たな発見をしていく物語だ。
昭和の価値観にどっぷり浸かった市郎が、現在ではありえない不適切な言動を繰り返す様子や、令和で出会った女性・犬島渚(仲里依紗)との関係性、17歳の娘・純子(河合優実)との親子関係の変化、逆に令和からタイムスリップしてきた向坂サカエ(吉田羊)と息子・キヨシ(坂元愛登)の昭和での生活など見どころが多く、大きな話題となっている。
宮藤官九郎は、ドラマの中で常にさまざまな二項対立を描きながらも、その境界をわざと曖昧にして越境させ、かき混ぜることで、単なる二元論を超えようと試みてきた脚本家だ。
たとえば2013年の朝ドラ『あまちゃん』ではプロフェッショナルとアマチュアを、2014年の『ごめんね青春!』では男と女を、2016年の『ゆとりですがなにか』ではゆとり世代とその下のさとり世代・Z世代を対比し、時に両者を反転してみせることで、その先にある理解や融和を描いてきた。
また、『あまちゃん』をはじめ、『木更津キャッツアイ』(2002年)、『11人もいる!』(2011年)、『俺の家の話』(2020年)などにおいて、生と死が隣り合わせの地続きであり、フィクションの力を借りて交流可能であることを、そのキャリアを通じて語り続けてきた作家でもある。
『ごめんね青春!』が「仏教系男子校とカトリック系女子校の合併」という絶妙な設定を通してあざやかにホモソーシャルの解体と男女の共生を描こうとしたように、『ふてほど』も、「昭和−令和間のタイムトラベル」という巧みなモチーフを使って、安易な「昔はよかった」論や「どっちもどっち」論に陥ることなく、世代間の二項対立を乗り越えるような物語にしてくれるだろう。
以上が、第1話を観た時点での筆者の期待と見立てであった。
しかし、第8話までオンエアされた現時点で、その見立ては半分は期待通り、もう半分はかなり不安と課題を残すものになっていると言わざるを得ないものとなっている。
「市郎の主張」=「作り手のメッセージ」ではないけれど…
『ふてほど』の基本構造は、「昭和のあり得ない人権感覚やコンプラ意識の低さ」と「令和の行き過ぎたコンプラ配慮や多様性尊重の息苦しさ」を対比させることで、本来理想であるはずの令和の価値観もまた硬直化して思考停止に陥っていないだろうか、と視聴者に問いかけるのが一つのパターンとなっている。
そこで、いわば“ピカレスクヒーロー”の立ち位置にいるのが市郎の存在だ。本作における市郎の役割は、第2話の時点でTV局のプロデューサー・瓜生(板倉俊之)の口から「正論を振りかざす相手を極論で翻弄しつつ周囲に考えるきっかけを与える」と説明されている通りだ。
つまり、市郎の主張が現在からすると非常識な極論や暴論であることは大前提。決して彼を「善」や「正義」の立場に置いているわけではないし、市郎の主張=作り手のメッセージというわけでもない。
宮藤官九郎の狙いは、「昔のほうがよかった」と昭和の価値観を復権させることではなく、第1話で「話し合いましょう〜」と歌い上げたように、まさに昭和の言い分と令和の言い分の「対話」を引き出して二項対立を超えることにあるのは明らかだろう。
ところが、である。
本作では「昭和のあり得ない人権感覚やコンプラ意識の低さ」と対比されるべき、「令和の行き過ぎたコンプラ配慮や多様性尊重の息苦しさ」の描き方が戯画化されすぎ、もっと直接的に言えば、ステレオタイプで解像度が粗い部分が目立つ。
そのせいで、さも令和の口うるさいコンプラ意識を、昭和のおっさんがやり込めるという構図に見えてしまい、どうしても昭和世代が溜飲を下げるための『痛快TV スカッとジャパン』的な印象を視聴者に与えてしまうのである。
例えば、第1話ではハラスメント指導を受ける秋津真彦(磯村勇斗)を通して、「何でもかんでもハラスメントと言われてしまい、本来の指導や注意すらできなくなっている」という風潮の弊害が描かれるが、これはバックラッシュに使われるテンプレートになってしまっている。
「本当は叱って欲しかったんです」という後輩も、令和の風潮を揶揄するために作られたキャラクターという印象で、あまりリアリティを感じられなかった。
続く第2話では、定時退社やシフト制などの制度が一律化・硬直化しているせいで、主体的にハードな働き方をしたい渚にしわ寄せが来てかえってやる気を削がれてしまう、という働き方改革の欺瞞が描かれた。
これも、本来ならマネジメントや仕組みの問題とするべきところを、社員の個人間の対立や分断を煽りかねない描き方になっていたように思う。
「娘に言わない、やらないことはしない」セクハラ基準のあやうさ
とはいえ、ドラマにそこまで厳密に現実を反映することを求めるのも野暮だという考えもあるだろう。大胆に誇張したり戯画化するからこそ描ける構図もある。筆者も、個人的にはここまでは許容範囲だと感じた(それに、ハラスメント指導や働き方改革に対する不満は、取材やリサーチで集まったある程度リアルな現場の声という可能性も高いと思っている)。
しかし第3話は、それまでとは異なる次元でSNSでの議論が大きく紛糾した。それが、「娘に言わない、やらないことはしない」をセクハラの基準にしよう、という市郎の主張である。
言うまでもなく、セクハラをしてはいけない理由は、それが相手の人権や主体性を無視した言動だからだ。
「(自分の)娘に言わない、やらないことはしない」をセクハラの基準としてしまうことは、女性を一人の独立した対等な人間とみなしておらず、家父長制における“父の所有物”の範囲内でしか尊重できていないことになる。少なくとも現在のフェミニズムにおいては周回遅れとされる発想だろう。
もちろん、この「娘に言わない、やらないことはしない」という市郎のセクハラ基準は、あくまで昭和の家父長制的価値観の中で育ち、なおかつ父子家庭で純子を溺愛してきた市郎が、自力でたどり着くことができる結論の限界がこれだった、という描写である。
また、男女として惹かれ合いかけた渚が、実は自分の孫娘だった……という第5話で明かされるのちの展開への布石となるうまいセリフでもある。これがイコール作り手の意識やメッセージではない、という点には留意しなければならないだろう。
だが、筆者はこの第3話について、「あくまで劇中人物に言わせているセリフであり、作り手のメッセージではない」というエクスキューズがうまく機能していない印象を抱いてしまった。そして、その原因は「その回の肝となるテーマをミュージカルシーンにする」という、このドラマ最大の特徴にこそあるのではないかと感じたのだ。
作り手の意図を超えたミュージカルシーンの誤算
それまでストレートプレイで演じてきたドラマが突然ミュージカルになる、というテレビドラマとしてはユニークな演出には、本来なら強烈な“異化効果”がある。
異化効果とは演劇の用語で、観客に驚きや違和感を生じさせて物語への没入や感情移入をわざと妨げ、舞台で起きている出来事に対して客観性や批判性を持ってもらうための手法だ。
『ふてほど』のミュージカルシーンは、特にドラマの前半戦では、昭和の意見と令和の意見が対立する「対話」のシーンで多く用いられてきた。そこには以下のような異化効果があったはずである。
1. ストレートプレイが基本のテレビドラマにミュージカルという異物をぶつけることで、単なるセリフの応酬だとまじめで説教くさくなってしまいがちな対話シーンを、エンタメとして楽しく見てもらう
2. 突然のミュージカルシーンによって虚構性を強調することで、市郎の吐く極論や暴論はベタではなくネタである、つまり「あくまで劇中人物に言わせていること」=「作り手のメッセージではない」というエクスキューズを伝える
つまり、ここで行われていることはガチの議論ではなく、対話のネタとして軽い気持ちで楽しんでください、というメタ・メッセージが込められていたと思う。
ところが、このミュージカルシーンには、制作者サイドの思惑を超えてある種の“ベタな説得力”が生まれてしまった。それは、出演者に本職のミュージカル俳優や、歌唱力のある俳優を起用したせいもあるだろう。本来ネタとして笑い飛ばすべきミュージカルシーンが、作り手の狙い以上に視聴者を素直に魅了してしまった、つまりガチとして捉えられてしまった印象があるのだ。
また、市郎の昭和目線からの主張を、令和の登場人物がコーラスで補強しているように見える楽曲の構造のせいもあって、どうしても「市郎の言い分」=「作り手の代弁」に見えてしまう。
これも制作者サイドの誤算だったのではないかと思う。
笑いにするにはまだ早い、不用意すぎる描写が目立った第4話
脚本や制作の意図に極力寄り添いたいとは思いつつ、その上で、さすがに不用意すぎると感じてしまったのが第4話だ。
この回には、中学生時代の井上昌和(中田理智)が『風と木の詩』のジルベールに共感し、「俺は男しか愛せない」と言って未来の息子であるキヨシに告白するシーンがある。それを知ったサカエは、慌てて「それ勘違い。女にモテなくて変なこと言い出しただけ」と暴論で否定しようとする。
もちろんこれは、フェミニストで社会学者のサカエが、未来の夫である昌和と息子が付き合いはじめるというタイムパラドックスを止めようと取り乱すあまり、本来ならあらゆる性差別に反対し多様な性を包摂する立場にもかかわらず、いちばん“不適切”なことを言ってしまう、というギャグである。
そのことは理解した上で、テレビでそれを笑いにするにはまだ早すぎるのではないかと感じた。
ダメ押しで、中学生の昌和に電話で「あなたはホモソーシャルとホモセクシュアルを混同して、同性愛に救いを求めてるだけだ」とサカエが説教するのも、かなりあやうい場面である。
思春期における性指向の揺らぎについては、科学的にも医療的にもはっきりと確立されておらず慎重に議論すべき領域であり、まだドラマがポップにいじっていい段階ではないだろう。
仮に、これらの描写がのちの展開につながる何らかの布石だったとしても、これを伏線として放置したままにしてしまうには、時代の理解がまだ追いついていないと思う。
また、インティマシー・コーディネーター(映画やドラマにおける性的シーンの撮影で、俳優の尊厳を守りつつ演出意図を最大限実現するために調整を行う仕事。以下、IC)のケイティ池田(トリンドル玲奈)が登場する場面は、その役割や仕事内容、意義がまだ世間にほとんど理解されていない今の段階で、現場の戸惑いや混乱を笑いのネタにするのはやはりまだ早いと感じてしまった。
これは、筆者が以前にICの浅田智穂氏に取材した経験があるから余計にそう思うのかもしれないが、たとえば警官や医師といった職業を実態とは違う形で誇張して笑いにするのと、ICのようにその必要性がようやく認知されはじめた新しい職業を戯画化していじるのとは、意味や影響が違ってきてしまうだろう。
時代遅れで理解がない劇中人物のセリフだということはわかった上で、それでも「なんで濡れ場だけ特別なんだ?」という市郎の“本音”のほうが作品のメタ・メッセージに見えてしまうのは、作劇や演出がうまくいっていないか、製作サイドの理解が足りないのではないだろうか。
これまで多くの作品で、さまざまな立場の人間に寄り添う場面を描いてきた宮藤官九郎が、本作『ふてほど』ではコンプラ配慮や多様性尊重に対して、ほとんど皮肉や揶揄とも取れるような“うかつ”で雑な描写を繰り返すのは、なぜなのだろうか。
その答えのヒントは、本作が「昭和」と「令和」の双方に批判の目を向ける一方で、その間にあったはずの「平成」の描写がまるっと抜け落ちていることにあると思う。そこに、宮藤の譲れない意地と覚悟のようなものを感じるのである。
◇続く後編「『不適切にもほどがある!』はなぜ「平成」をスルーするのか。クドカンがこだわる『平成サブカル』の矜持」では、本作において「平成」の描写が抜け落ちている理由について、福田フクスケさんが考察する。
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