発狂(1)
あらすじ
近未来、世界の約半分の人々が発狂した。
誰が、どうやって、発狂させたのか。
それは、誰なのか。
東京では、ビルから飛び降り自殺する人がそこらじゅうにいた。
自動車は、猛スピードで走り、衝突していた。
裸になる人々がいた。
世界の指導者も発狂した。
核ミサイルが発射されてもおかしくない。
どこか、安全な場所はないのか。
たまたま知り合った若い男女と男の友人の3人は情報を収集した。
そして、山奥のぽつんと一軒家に避難することにした。
以下、本文。
いつもは昼過ぎまで寝ているのだが、その日は、会議があるので、朝八時に起きた。
電車に乗りながらスマホでニュースを見た。昨年の年間の自殺者が十万人を超えているとあった。その記事には、日本人の三分の一は鬱などの精神疾患を抱えているとある。他の記事では、あらゆる犯罪が多発し、警察の対応が追いつかなくなりつつあるともあった。刑務所は満杯らしい。暗い気分になった。
二〇一四年八月六日午前九時。僕は地下鉄でテレビの制作会社に向かっていた。二年前は超満員だったが、年々少なくなって、今では椅子席にも空きがある。昨年、社会全体が在宅ワークとフレックス・タイムになったからだった。僕も、普段はほとんど会社には行かない。ネット・テレビの放送作家をしているのだが、アイデアや台本を書いて送るだけなので、メールで事足りる。今日は、朝十時から、番組のDVD化の会議があるので、久しぶりに会社に向かっている。
朝、電車に乗っている人は、ほとんどが鬱に見える。生真面目なのだろうが、そんな人は、狂った社会では、かえって生きにくい。皆、我慢に我慢を重ねているような顔をしている。いや、我慢の限界にきているのかもしれない。足の貧乏揺すりが異様に大きいヤセ男。冷房が効いているのに、全身から汗が吹きだしているデブ男。新聞を読んでいるのだろうが、新聞と顔の距離が近すぎる中年男。拒食症ではないかと思うほど痩せたスーツ女。過食症なのか、スナック菓子を食べ続けているデブ女。
スマホとイヤホンをつないで清志郎のアルバムを聞いていた。「鳥肌」という曲がかかった。ニワトリの鳴き声から、それに似せたギターのフレーズが始まった。
駅でもないのに、電車が停車した。皆、何事かと、辺りをうかがうようにキョロキョロと見回している。三十秒が過ぎると、僕は恐怖心に包まれ、背中にゾワゾワとした寒気が走った。周りの人も皆、凍り付いたような顔をしながら、身の安全を考えているように見えた。一分以上たった。
「コッ」
スピーカーから、車掌か誰かの声が流れた。
「コーコッコッ」
車掌か誰かのニワトリの鳴き真似が流れた。僕は、まじかよ、うそだろと思いながら、くっと小さく笑った。周りは誰も笑っていなかった。ほとんどの人は、感情のないニワトリのような目になっていた。やばい、という言葉が頭に浮かんだ。
「コケーッ」
叫び声が、スピーカーから流れた。僕は、ふっと声を出して笑った。その瞬間、半分以上の乗客が、「コケーッ」とか叫びながら、ニワトリの真似のように手をバタバタさせたり、頭をニワトリのように前後に動かしていた。僕は、ふっふっふと笑った。ところが、笑っているのは僕だけだった。ニワトリ以外の乗客は、「わー」とか「ぎゃー」とか大声で叫んだり、他の人を殴ったり、女を襲ったり、下半身を露出したり、泣きながらうずくまったり、薄ら笑いを浮かべたり、半分ぐらいの乗客がおかしくなった。
僕は、聞いていた曲とのタイミングのよさに、どこかの番組のドッキリではないかと考えたが、乗客の表情はとても演技には見えなかった。それに、見える限りの車両が同じ状況だった。皆、狂ってしまったのか。どうしようかと考えていたら、近くにいた若い女が、非常用のドア開閉装置を使って、ドアを開けた。女は、高さを見て安全と判断し、電車の床に腰を下ろし、下に降りた。僕も同じように降りた。進行方向へ向かって歩く女のあとに続いた。女は振り返ると、走り始めた。暗くて顔はよく見えなかった。僕に襲われると思ったのだろうか。僕は、女に、襲わないという意志を伝えるため、普通に歩いた。歩きながら、〝臨界〟という言葉が浮かんだ。人間の精神が臨界を超えてしまったのかもしれない。まともそうな乗客は、皆、ドアを開けて降りてきた。皆、逃げるように走っていく。僕も走った。
しばらくすると、永田町の駅の明かりが見えた。ホームの手前でホームを見ると、電車の中と同じ状況だった。数百人の人たちは、ニワトリ人間が半分、叫んだり、女を襲ったり、うずくまったり、座ってうんこをしながらカレーを食べている男もいた。あの女の姿はなかった。皆と同じようにホームへよじのぼった。凶暴そうな男から距離をとりながら、改札を抜け、地上への出口へ向かった。皆、エスカレーターを走り上っていた。
地上の出口には、壁に頭を打ち付けて血だらけになりながら笑っているスーツ姿の男がいた。三十代の男は、笑いながら、「頭の中に虫がいる」と言っていた。中島らもの『頭の中がカユいんだ』という本を思い出した。
地上に出た人たちは、皆、スマホで電話したり、メールしていた。僕は、とにかく安全な場所へ行きたかった。警察署が思い浮かんだ。しかし、ほとんどの人が狂ってしまったとしたら、拳銃をもった警察官は危ない。実際に国会議事堂の方から、発砲音のような音も聞こえていた。
道をゆく車のほとんどが百キロを超えるであろう猛スピードを出していた。遅い車を縫うように走っている。近くの交差点では、十数台の車が衝突して固まっている。そこへ、猛スピードの車が突っ込んでいく。ドカン、ドカンという轟音が響いていた。
これじゃタクシーにも乗れない。いったいどこへ行けばいいんだ。いや、まず、それを考えるための安全な場所を確保しなければならない。それはどこだ。国会議事堂さえ危なそうなんだから、安全な場所なんてどこにもないじゃないか。とにかく、人目につかないところへ隠れよう。周囲を見渡して、人がいないことを確認し、駅の出口の裏へ向かった。
「あっ」
と思わず声を出した。さっきの若い女がいた。女は、見ていたスマホから、顔をこちらに向けた。互いに観察した。その様子から、この子は狂っていないと思った。二十歳ぐらいの学生のようだ。古着を着ていた。服の趣味が一緒だった。ボブが似合うコケティッシュな顔が割とかわいい。
「僕は、何もしないよ」
上目遣いの女は、黙ったままだった。まだ疑っているようだ。
「これからどうしたらいいか考えようと思って、ここへ来たんだ」
女は、ふうんという表情をした。
「しばらくここにいる」
そう僕が言うと、女は少し口をすぼめた。しょうがないなという表情だった。女は、「どうぞ」と言って、顔をスマホに向けた。僕も、ズボンのポケットからスマホを出した。メールが二つきていた。親からだった。こんな時間に起きているのは、親くらいしかいない。メールは「大変なことが起きてるようだ」と「大丈夫か?」。相変わらず、短い。「大丈夫だよ」と返信した。親が無事で安心した。
気になっていたのは、十時に行くはずの仕事だった。プロデューサーにメールした。「電車が動かなくて、十時に間に合いそうにありません」。
それから、この異常事態が東京だけなのか、日本だけなのか、世界中なのか。スマホのネットでニュースを見たが、何も情報がない。情報が混乱しているのか、ネットを運営している会社のスタッフが狂ってしまったのか。掲示板のニュース速報を見たが、電車やホームで見た光景の書き込みや、「おまんこ」という言葉の羅列など、どうでもいいようなものばかりだった。
スマホにイヤホンを差し、ワンセグを見た。NHKは、男のアナウンサーがどこかに連れて行かれたようで、女のアナウンサーがこわばった顔で、「放送上不適切な発言がありましことをお詫びいたします。情報が混乱しております。正確な情報が入り次第、お伝えします」と言っていた。やっぱり日本中が狂ってる。
日本テレビでは、加藤浩次がテリー伊藤にマウントポジションになり、狂ったようにぶん殴っていた。テリー伊藤は顔中血だらけだった。スタッフが加藤を制止しようしても、加藤には何も見えていないようだった。怖くなった。
TBSでは、薬丸裕英が、「鼻血ブー、鼻血ブー、鼻血ブー、鼻血ブー」と言い続けていた。ブーというところで、やたらと口をとんがらせていて、おかしい。岡江久美子が、「薬丸さん、薬丸さん」と言いながら、肩を揺すっているが、薬丸は、ただただ、「鼻血ブー」。ふふふと笑った。
フジテレビでは、笠井信輔アナが、「ほーら、ほーら、ほーら」と言いながら、ヅラをカメラに近づけてブラブラさせていた。佐々木恭子アナが、「笠井さん、笠井さん」と叫んでいるのが、おかしい。小倉智昭の姿はない。
テレビ朝日では、男のアナウンサーがテーブルにしがみつきながら、怒り狂った顔で、「おまんこだよ、おまんこ、おまんこっつってんだろ、おまんこなんだよ、いいからおまんこ出せよ、おまんこだよ、おまんこ」と絶叫していた。ふふふ。上司らしき男の「やめろ、やめさせろ」と叫び声が聞こえた。女のアナウンサーは、離れて、おまんこの男を見ていた。
テレビ東京は、映らなかった。
〝共時性〟という言葉を思い出した。心理学者ユングの言った理論だ。ユングは、集合的無意識という、人類に共通する無意識の領域があるとしている。共時性は、偶然の一致に見えることも偶然ではないという考え方だった。
プロデューサーからの返信がないため、会社に電話した。コールはするが、出なかった。狂ってしまったのだろうか。会社に行くべきか。行ったところで仕事になるのか。ならないだろう。
近くのビルの屋上に人がいた。よく見たら、そこらじゅうのビルの屋上に人がいる。どんどん、飛び降りていった。どっ、という鈍い音がした。思わず、僕は目をつぶった。地獄に突き落とされたような気持ちだった。自然と座り込んだ。この世の終わりがきたのか。これが、黙示録、ハルマゲドンというやつか。頭が混乱していた。頭を膝に乗せ、目を閉じた。どんどん落ち込んでいった。絶望という奈落の底へ突き落とされた。真っ暗闇だった。
しばらくしてから、隣にいる子を見た。その子は、スマホを見ていた。僕の視線に気づき、こちらを見た。
「みんな狂っちゃったね」
声をかけられ、ちょっとうれしくなった。
「そうだね」
と言いながら、笑顔になった。
「なんで笑ってるの」
「なんか心が真っ暗闇だったんだ。でも、声をかけられて、少し光が差したみたいだった」
「ふうん」
そう言った女の子は、口をすぼめて、そうなんだというような顔をしていた。この子は強いなと思った。
「さっき、アメリカのサイト見たら、アメリカも同じだったよ」
「えっ、そうなの」
「これから、どうなるのかな」
女の子は顔を前に向けた。
アメリカがそうだってことは、世界中がそうかもしれない。アメリカの大統領が狂って、核のボタンを押したら世界は終わりだ。いや、アメリカの大統領だけじゃない、世界のどこかの国の軍が暴走する可能性だってある。安全な場所はどこだろう。誰も来ないところか。すぐに、田舎を思い出した。僕の田舎は、静岡県と長野県の県境の山奥だった。平家の落人が祖先だと言われている。一番近い電車の駅まで車で三時間近くかかる。その三時間のうち、二時間は山しかない。家は山の急斜面にある。九百年近く前、祖先は、斜面に段々畑を開墾し、自給自足を始めた。初めて来る人は、「こんなところに人が住んでいるのか」と驚く。しかし、どうやって田舎まで行くのか。途中で襲われるかもしれない。かえって危険かもしれない。世田谷の部屋へ帰るのも同じだろう。近くに安全な場所はないだろうか。
「あっ」
思わず、声が出た。いた。大学時代からの知り合い、田栗が。奴は、丸の内のビルの最上階に住んでいる。
「どうしたの?」
「あのね、近くに知り合いがいるんだ。そこに避難しようかなって思ったんだけど」
「ふうん」
やはり、口をすぼめた。田栗に電話をかけた。
「近くにいるんだけど、行ってもいいかな」
田栗は、「いいよ」と言った。女の子はどうするんだろう。家に帰るのだろうか。家は近いのだろうか。いずれにせよ、女の子ひとりでは危ないだろう。誘ってもいいが、見ず知らずの男についてくるだろうか。
「私も、行っていいですか」
向こうから聞いてきた。「いいよ」と答えた。僕を信用しているのだろうか。
「どの辺?」
「すぐそこだよ」
「一番、安全なルートは?」
「えーと」
と言って、考えた。近いのは、普通に最短距離の道を行くことだった。しかし、ビルの上から人が落ちてくる。車は猛スピードで走っている。狂った人とも遭遇する。遠回りだけど、皇居の掘の土手を歩いて近くまで行き、そこから道路で田栗のいるビルまで行こうか。あとは、どう行ったらいいんだろう。
とりあえず、皇居の土手へ向かうことにした。
「皇居の土手なら安全だと思うよ。近くまで土手を歩いて、最短距離になったら、安全なルートをいこう」
「いいよ」
皇居の土手を歩くと、芝生がふさふさしていた。
十分も歩くと、田栗のいるビルの近くまできた。ここから、あと五百メートルぐらいだ。飛び降りてくる人や、襲ってくる人に気をつけなければならない。土手から顔を出して、様子をうかがった。ニワトリの人が何人かいるが、危なそうな人はいない。隠れているのだろうか。ビルの上にも人はいない。もう、飛び降りてしまったのだろうか。いつまでも、こうしているわけにもいかない。
「いきますか」
「そうですね」
僕らは、田栗のいるビルに向かって、危ない人がいないかどうか、あたりをうかがいながら歩いた。ビルの奥から悲鳴が聞こえた。女性が襲われていた。どこかの会社の中で、殴り合いをしている男がいた。下半身を露出した男が歩いてきた。男は、「どうせ、ホタルイカ以下だよ」などとつぶやいていた。
「走ろう」
「うん」
下半身を露出した男を避けるため、道の端を走った。男は追いかけては来なかった。
「もうすぐだよ」
「うん」
着いた。
電話をかけた。
「着いたよ」
「ビルの裏にある車庫のシャッターを上げるから、そこから入って、田栗の表札のあるインターホンを押して」
裏へ回りながら、彼女に、田栗がなんでここに住んでいるのか説明した。
田栗の住むビルは、二十階建てぐらい。幅は百メートルほど、奥行きは五十メートルぐらい。
けっこう大きい。場所は、丸の内。ビルには一流企業がテナントに入っている。
そして、最上階に、田栗が一人で住んでいる。ワンフロア、約五千平米、千六百坪だ。
田栗の先祖は、江戸時代、材木問屋だった。江戸から明治になり、東京駅から近い丸の内は、オフィス街へと変わっていった。そして、田栗家は材木問屋を廃業し、跡地にビルを建てたのだ。
田栗の両親は、鎌倉に住んでいる。昔は、ここにいたそうだ。年をとって、空気のきれいなところへ行った。そもそも、丸の内は、生活するには不便なのだ。スーパーはない。デパートしかない。何を買うにもブランド品だ。結局、コンビニですますしかない。
裏へ回った。カメラで確認したのだろう、シャッターが上がった。中に入ると、すぐにシャッターが降りた。スロープを降りて地下の駐車場へ。田栗の表札の脇にあるインターホンを押した。
「俺だよ」
「ああ。中のエレベーターで上まできて」
「わかった」
扉が開いた。中に入ると、扉が締まった。僕らはエレベーターに乗った。最上階へ上がっていく。止まった。ドアが開く。
そこは、純和風の超高級旅館のような玄関だった。田栗の姿がない。
「おーい」
返事がない。二分ぐらいたって、やっと田栗が現れた。小柄で丸っこい体、丸い顔。人なつっこい感じは、相変わらずだ。
「待たせて悪いな。俺の部屋は、一番奥なんだよ」
「そうか」
「あがれよ」
「ああ」
田栗は、そのまま、背を向けて歩いていった。僕は、彼女と目が合い、小さくうなずいた。彼女もうなずいた。ふたりは、靴を脱いであがり、田栗のあとをついていった。廊下や居間を百メートル以上歩いた。
田栗の部屋は、本だらけだった。二十畳ほどの部屋の壁は、ほとんど本棚だった。あとは、机の上にパソコンがあった。
「あ、ここじゃ、いすがない。居間へ行こう」
また、来た廊下を戻り、中間にあった居間へ向かった。
かなり広い居間だ。
「どうぞ」
田栗が、僕らをソファにすすめ、座った。
「なんか、飲むか」
「そうだな」
「何がいい?」
田栗は、僕と彼女を見た。僕が「冷たいものなら何でもいい」と答えると、彼女も「私も」と言った。田栗は、ペットボトルの緑茶を三本もってきた。一息ついた。
「危なかったろ」
田栗が訊いた。
「まあね」
お茶をひとくち飲んだら、緊張がとけた。田栗と目があった。田栗は、ちらっと彼女を見た。
「彼女とは、たまたま地下鉄で一緒だったんだ。じつは、名前も知らない」
「柏木です」
彼女は、田栗にちょこんと頭を下げ、僕にも同じようにした。
「柏木さんがスマホで見たら、アメリカも同じだって」
田栗は、小さく頷いた。
「俺も、ネットで情報を仕入れてる。ここの窓から見てても、自殺、車、完全に狂ってる」
どうしたらいいんだろう、そう頭に浮かんだ。ちょっとの間を置いて、田栗が言った。
「一番やばいのは、核兵器だと思う」
「僕もそう思う」
彼女もうなづいた。いつも、笑顔を絶やさない田栗だが、神妙な顔をしながら口を開いた。
「アメリカ、ロシア、イギリス、フランス、中国、インド、イスラエル。怪しいのは、パキスタン、イラン、北朝鮮」
ちょっと考えて、こう言った。
「だけど、僕らには何もできない。どうすればいいんだろう」
「一つだけ確実なことは、今、外に出るのはやめたほうがいい。ここは、かなり安全だ」
いつもの田栗の笑顔でそう言った。
「そうだな。まずは、事態の進展をみよう」
僕は、パソコンで最新の情報を知りたくなった。
「田栗の部屋のパソコンで情報を得ながら、これからのことを考えようよ」
「そうだな」
田栗が立ち上がり、「そうそう、いす、いす」と言って、僕らを手招きした。ダイニングへ行き、田栗と僕は、一脚ずついすを持った。彼女は、僕らのお茶を持った。
パソコンの画面は、アメリカのCNNだった。アメリカの大統領が映っていた。僕は英語がわからない。
「非常事態宣言だよ。まあ、当然だな」
田栗が言った。田栗が操作し、画面はNHKになった。総理が非常事態宣言をしたことを報道していた。
「政府は機能してる。まずは一安心だ」
そう田栗が言ったが、僕は反論した。
「だけど、ここまで狂ったら、どこかの国の軍が暴走することもあり得るだろう」
「発展途上国ならその可能性は高いが、先進国のシビリアンコントロールはそこそこ効いてると思うけどなあ」
「そうか。じゃあ、政府が、警察や軍を使って、この狂った事態を沈静化するのか」
「それはわからない。あまりにも狂った人間が多いからなあ。収容する場所もないだろう」
「ということは、この状態がしばらく続くということか」
「まあ、そういうことになる」
間があって、柏木さんが口を開いた。
「ここには、食べ物とか、水とか、ありますか」
「それは、まったく心配しなくていいよ。この辺は、買い物するところがないから、いつも半年分ぐらい、まとめ買いしてるんだ。最悪、電気が止まっても、このビルには発電設備もあるし、三ヶ月は、三人で生活していけるよ」
「すごいな」
ここが砂漠の中のオアシスのように思え、感嘆の声をあげた。
「これから、政府は、どんな対応策を出すんだろう。外にいた感じだと、半分は狂ってるよ」
「完全に狂ってる奴はどこかに隔離されるか、家族に監視されるだろう。それより怖いのは、半分狂ってる奴だと思う」
「半分?」
僕と柏木さんが同時に言ったので、三人とも、笑った。
「こうした状況を利用して、とんでもないことをしでかす奴がいそうな気がするんだ」
「テロリストとか?」
僕は訊いた。
「日本に、アルカイダのようなテロリストがいるかどうかはわからない。日本人のテロリストっていうと、左翼とか右翼を連想するけど、彼らはバカじゃない。逮捕されるようなことはしないと思う。そもそも、テロの動機は貧困だと思うんだよね。貧しさで歪んでしまった人間はかなりいる。その怒りが暴力へと向かう可能性は高いんじゃないかな」
「何をするんだろう」
「それはわからない。怒りの矛先が、政府へ向かうのか、無差別テロに向かうのか。それより、ポイントは、その人たちを組織化できる力をもった奴がいるかどうかだ。もしいれば、ネットを使って呼びかけると思う」
「わたしは、いると思う。サイコパスはどこにでもいるもん」
柏木さんの話に、田栗はうなづいた。
「そうなんだ。俺は、サイコパスの本を何冊が読んだ。あいつらは、かなりいる。詐欺師とかの知能犯はみんなそうだ。平気で嘘をつき、自分のために他人を利用する。血も涙もない冷血漢だ。始末が悪いことに、かなり頭がいい」
「でも、ネットで呼びかけたりすれば、警察が対応するだろう」
僕は、楽観的な意見を言った。
「できればいいが、サイコパスの頭は、その上をいくんだよ。今頃、いろんなサイコパスが、いろんな作戦を練ってると思う」
「サイコパスか」
そう言った僕は、田栗の部屋にある本をざっと見回した。
「すごい本だな」
「他の部屋も、本だらけだ。このフロアは、ちょっとした図書館だよ」
「お前、作家だもんな」
「そう。活字が好きでしょうがないんだ」
「わたしも、本読むんですよ」
僕と田栗は、彼女を見た。
「自己紹介しますね。早稲田の大学院で犯罪心理学を勉強してます」
「じゃあ、僕も。山岸です。ネット・テレビで放送作家やってます。お笑いが専門です」
「俺は、ナンセンスな小説を書いてます」
「お二人とも、おもしろそうですね」
彼女にそう言われて、僕らは笑った。
「こいつの考えた企画なんて、ひどいよ。よくさ、世界一くさい食べ物みたいな番組はあるじゃないですか。こいつは、人間でやったんだよ。たとえば、ホームレスの恥垢とか、一生風呂入ってないモンゴルのおじいちゃんとかさ、それを、においの計測器で測ったんだ。でも、くさすぎて測れなかった。見た目はまじめそうだけど、ほんと、くだらないことばっか、考えてる」
「お前が、人のことを言えた義理か。『尿道劇』ってなんだよ。ちんぽの尿道と、すじまんを口にして、顔を書いて、ハリウッド映画のパロディ書いたろ」
「書いたよ。だって、書きたかったんだもん」
「これだよ。こんなバカいないよ」
「お前には言われたくないね。お前、射精と脱糞の同時発射は、体の機能上ぜったいにできないのに、若手の芸人使って、できるまで何ヶ月もやらせただろ。あれは人道上問題だな」
「えっ」と彼女が声を出した。
「射精と脱糞って番組、山岸さんの企画なんですか」
「まあね」
「あれって、世界中で大ウケでしたよね。半年間の二十四時間生中継、世界中が釘付けでした」
田栗は、「人権問題だよ」と言い、口をへの字に曲げた。
「えー、でも、すごいじゃないですか。あの芸人さん、世界中で、『神』扱いですよ」
僕はちょっと照れた。
「実際にやったのは芸人だからね」
「もちろん、やった芸人さんもすごいけど、思いついた作家さんもすごいって、みんな言ってますよ」
「でもね、僕より、田栗のほうがすごいよ。ベストセラー作家だもん。映画にもなってるし。小説を書き上げるエネルギーはたいへんだよ」
「なんて映画ですか?」
田栗は、困ったような顔をしていたので、僕が言った。
「『キチキチマシン猛レース』って、知ってる?」
「ああ、アニメですよね」
「そう、『チキチキマシン猛レース』のパロディ。あとは、『還暦アイドル歌合戦』とか『掃き溜めサイケデリック』とかね」
「すごい。ぜんぶ読みました。大ファンです」
「ありがとう」
田栗は照れて、頭をかいた。
「みんな、パソコン見たいでしょ。ノートとサブノートが、ワイヤレスで使えるから、使ってよ。このフロアのどの部屋を使ってもいいよ。部屋だけは、たくさんあるからさ。好きなときに寝てもいいし、食べてもいいし、自由にやって」
「好きな部屋って言われてもなあ。人んちだし」
「そうだな」
田栗は、いすから立ち上がって、部屋を出た。僕らはあとに続いた。田栗は、使えそうな部屋を、一つひとつ見せてくれた。部屋の数は、全部で十以上あった。半分は、田栗の図書室になっていた。両親の寝室もあったが、二人とも遠慮した。僕は、田栗の部屋に近い、畳の部屋を選んだ。彼女は、「ダイニングルームでいい」と言った。寝る場所は、そのときに考えるとのことだった。もう一度、田栗の部屋に戻り、田栗からノートパソコンを受け取った。田栗は、視線を落とし、何か考えているようだった。
「これから、何が起こるかわからない。最悪、核戦争が起こったら、人類は全滅だ。戦争が起こっても、俺たちは何もできない。そして、今、俺たちは、安全なところにいて、何もすることがない。俺は、サイコパスがとんでもないことをするんじゃないかと考えてる。だから、ネットで、サイコパスの動きを見つけたいんだけど、どうかな」
「賛成です」
彼女は、すぐに反応した。
「何をしようとしているのかわかれば、対処のしようがあるかもしれません」
僕は、なるほどと納得した。こんな危ない状況のなかで、もっとも危ない連中の様子を探るのはおもしろい。自分の身が危険にさらされることもないし。
「いいよ。僕も参加する」
「じつは、もう、あたりをつけてる。ネットは、無法地帯と言っていい。売買春や麻薬の売買なんて、取り締まりようがないほどそこらじゅうにあふれてる。それよりもやばい犯罪にネットを使ってる連中は、いくつもの関門をつくる。そうして、同類であることを何度も試す。あるいは、その関門で身元を明らかにさせる。たとえば、ロリコンが情報交換してるサイトには、こんな関門を何度もくぐって、やっと辿りつくところがたくさんある。また、痴漢、覗き、レイプなどの性犯罪のサイトもある。ロリコンは、たくさんありすぎて対応できない。だから、まずは、性犯罪者が情報交換してるサイトの入り口を探して、すべての関門を突破したいんだ」
田栗の話を聞きながら、ヤクザのほうがもっと危ないんじゃないかと思った。
「ヤクザのほうが危ないんじゃないか」
「ヤクザは、コミュニケーションにこんなめんどくさいことしないよ。それに表に出るようなことはしないと思う。ただ、ヤクザの下に、暴走族とか若い子がいる。こいつらを使って、何かしそうな気もする」
彼女は、二人の話をまとめるようにこう言った。
「私は、たった今、目の前で、女性がレイプされているのを見てきました。これは、日本中、世界中で、今も行われています。これからも、続くでしょう。強盗や略奪も行われるでしょう。殺人も、自殺も増えるでしょう。そうなると、おそらく、近日中に、非常事態宣言から戒厳令に移行し、警察と軍隊が街中に配備されます。これで、表面的には、落ち着きを取り戻します。そして、政府は、狂った人に対応するでしょう。完全に狂った人間は、政府に任せればいいんです。だけど、政府も警察も、サイコパスにまで手が回るでしょうか」
僕は、「警察には、その専門の部署があると思う」と言った。田栗は、「ある。ネット犯罪の部署もある」と答えた。彼女は、「では、そこに情報を流しましょう」と言った。田栗は、「はい」と言い、小学校で子どもが手を上げる真似をした。
「三人、同じ場所でやったほうが効率的だと思います。なので、ダイニングテーブルでやろうと思いますが、どうでしょうか」
僕と彼女は、うなづいた。
田栗の部屋から、ひとり一台ずつ、ノートパソコンを持っていった。ダイニングルームは、かなり広いし、窓も大きくて明るい。正解だと思った。テーブルは十人は座れる大きなものだった。一人ひとりが間隔をあけてゆったり座った。パソコンを置いて電源を入れた。最新の状況が知りたくなり、二人に訊いた。
「どのサイトにいけば、正確な社会の状況がわかるんだろう」
二人とも、同じ気持ちだったのだろう。何か考えている。田栗は「難しいな」と言い、彼女も「そうですね」と言った。
「一番、情報が集まってるのは警察だと思うけど、警察からは情報は出ない」
田栗は困ったように言った。
「でも、警察に張り付いてるテレビとか新聞記者とかマスコミがいますよね。まずは、そういうところのニュースからじゃないですか」
彼女の提案に、田栗と僕はのった。三人が、マスコミのホームページを見た。駄目だった。社内が混乱しているのだろう。更新されていない。
「駄目だ」
僕は言った。
「掲示板でも見てみるか」
田栗は、2ちゃんねるなどの掲示板の書き込みを見ようと言った。二人は同調した。ほとんどの書き込みは、外で起こっていることの羅列だった。それどころではない。さっき彼女が言った通り、狂った人間が、店や家に押し入り、強盗や殺人、強姦など、やりたい放題をやっているようだった。まともな書き込みを発見した。「近くの警察や小学校へ避難しましょう」と呼びかける書き込みだ。そうなると、まともな人は、小学校や中学校に集まっていくことになるのか。
「まともな人は、小学校とか中学校に避難してるみたいだぞ」
「そうだよな。家とかアパートじゃ危険だよ。それに何百人もの集団には、いくら狂った人間でも襲えないだろうし」
と田栗が言うと、彼女は、何か発見したように顔をあげた。
「郵便局が襲われたって書き込みがあります」
「サイコパスなり、ヤクザは、一つは金を狙う。戒厳令になる前に、襲えるところは襲うだろう」
田栗の言葉から、「じゃあ、銀行も狙われるんじゃないか」と言った。
「まあ、そうだろうね。でも、多分、金融機関とか宝石商とか狙われそうなところは、みんな、もう避難したんじゃないか」
「そうか」と相づちを打った。じゃあ、あとは何が残ってるんだろう。オウム真理教が思い浮かんだ。僕が「カルト宗教はどうなの」と訊くと、田栗は「警察がマークしてるから大丈夫だろ」と言った。
「さっきも言ったけど、ヤクザは馬鹿じゃないから捕まるようなことはしない。すぐに、戒厳令がくるからね。やっぱり、危ないのはサイコパスだよ。そのなかでも、犯罪者を組織化するようなサイコパスが危ない」
「そう思います。今、彼らは何をしようか考えてるところだと思います。それが決まったら、賛同者を集めるでしょう。ここに、彼らのウィークポイントがありますね。情報が漏れる可能性が高いですから」
「わかった。田栗のつけた、その〝あたり〟ってのを教えてよ」
田栗は、いくつかのサイトのアドレスを、二人のメールに送った。僕にきたサイトを開いた。それは、「裏情報」というサイトだった。メニューがたくさんある。どこが本当の裏への入り口なのか、田栗に訊いた。「多分、ここだ」と田栗はカーソルを移動させてクリックした。
第2話
第3話
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