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センチメンタル勘違い

 家族揃って遅めの夕飯の食卓を囲んでいると、ベランダへと続くリビングの窓ガラスが、ビリビリと振動し始めた。「えっ、なに?」私は思わず立ち上がり、窓の方に歩み寄った。「……花火?」高校生の長男がぼそりと呟く。「ああ、花火やな」「うん、それっぽい音しとる」夫と次男が頷いている。私は、窓を開けてベランダに出た。『ドンッ、ドドン、ドドドン』低く轟く音が聞こえる。すぐにスマホで検索してみると、逗子海岸花火大会が開催されているらしい。残念ながら、マンションの四階にある我が家のベランダからは、目の前の山の陰になって肝心の花火は見えなかったのだが。

 コロナ禍が過ぎて、今年は全国各地で花火大会が復活するらしい。私たち一家がここ鎌倉へと引っ越してきた四年前の夏、砂浜に座って露店の焼きそばを頬張りつつ観た打ち上げ花火は、しみじみと美しかった。ひゅるると一心に夜空を駆け上り、ドカンと音を響かせて海上に咲きこぼれる大輪の火の花。次から次へと咲いて散るその花々に見惚れながら、私はこの街の住民になった喜びを、じんわりと噛み締めていた。

 ずっと、海の側で暮らしたかったのだ。何しろ、離島で生まれ育った人間なので。人口二千人にも満たない小さな島の、代々漁業を営む家の長女として、高校卒業までの十八年間を過ごした。
 本土へ渡る手段といえば、一日に数本出ている市営の定期船か漁船のみ。しかし、頑固な漁師の父は、「船を遊びに使うもんやない。油代もバカにならんのやし」と、漁船に乗せてくれることは滅多になかった。だから、その日は二人の妹たちとともに、朝からわくわくしていたのだ。どういう風の吹き回しか、夏祭りのフィナーレを飾る花火大会を、船の上から見物しようと父が言い出したからである。
 
 日の沈む夕凪の海を本土へと渡り、ずらりと立ち並ぶ露店を冷やかした後、再び船に乗り込んで沖に出た。停泊した船の甲板には、普段浜で網を直すときに使っているゴザが敷かれていて、妹たちはそこに寝転んでキャッキャとはしゃいでいる。両親は小さな操舵室の中で、私は船の舳先に座って、花火の上がる時間を今や遅しと待っていた。

 輝く月と満天の星の下、暗黒の海で波に揺られる小舟の上。そんなシチュエーションに、空想癖のある少女だった私は、宇宙を彷徨う旅人の気分に浸っていた。
そのとき、不意に夜空が明るくなった。ドカンと腹にくる音とともに、次々と咲いては散る眩い光の花びら。まるで宇宙が降ってきたようで、美しいというよりただただ恐ろしかった。「あれは、スターマインていうんやぞ」いつの間にか操舵室から出て来た父が、怯えた様子で夜空を見上げる妹たちに、そう説明している。私はそれを聞くともなしに聞いていたつもりなのだが、『スターマイン』という言葉は、あの夜の鮮烈な思い出とともに、強く脳裏に焼き付いていた。ダリアの花のように丸くて大きな打ち上げ花火を、その名称で呼ぶのだと。

 そう、私は大いなる勘違いをしていたのだ。それも、ほんのついさっきまで。調べてみて分かった。スターマインとは、小規模から中規模の花火を連続して打ち上げる技法のことをいうらしい。
 ただ、センチメンタルに夏の思い出を語ろうと書き始めたこの文章のお陰で、私の積年の勘違いが解けたわけだ。今年の夏は、また違った目で花火を楽しめるかも知れない。

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