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宗教や信仰についての雑記 #6

◯遍在する「実在」

前回、宗教多元主義について書きましたが、世界の諸宗教が宗教的な「実在」に対する異なる仕方での応答の形であるならば、その「実在」、既存の宗教の向う側にある何かは、世界中のあらゆるところに遍在していると考えられます。

言葉で捉えきれないものを言葉を用いて考えるのは矛盾しているように思われますが、仏教の法身と応身という概念が参考になるような気がします。

法身とは仏法そのもの、あるいは空性そのもののことです。これは姿形のないもので、これが仏の真の様相なのだと思います。
そして空性は、諸法空相とか一切皆空などと言われ、あらゆる物事に行き渡っているとされています。
一方応身とは、その姿形のない仏が、衆生を救うために、人が見聞きできるように形をとったものとされています。

それと同じように、姿形のない遍在する「実在」が、世界の様々な地域で人が見聞きできるように形をなしたもの、それが今ある様々な宗教である、ということなのだと思います。

無論これは一つの喩えであって、私は法身イコール「実在」だと主張しているわけではありません。
法身も「法身」と言葉で名付けられた時点で、その名によって分節化された、「実在」の切り出された一部となってしまっているからです。

また、イスラム教徒がメッカの方角(キブラ)に向かって礼拝をする理由について、神は至るところに遍在するが、人間が礼拝する場合は必ずどこかに向かって礼拝することになるので、人間には場所や方角が必要であるから、神はメッカやキブラを定めたのだ、という話を聞いたことがあります。

これもまた、「実在」と諸宗教との関係のアナロジーになっているように思えます。

ユダヤ教やキリスト教でも、旧約聖書の詩篇やイザヤ書に、神の遍在についての記述があるそうです。
そしてキリストの受肉によって、神が人の姿をとって民衆の前に現れたということもまた、上記の関係のアナロジーのように見えます。

これらの例を手がかりにして、「神仏(実在)は目に見えなくても遍在していて、いつも自分のそばにいて見守ってくれている」という感覚を持つことができれば、苦悩に見舞われた心を支えてくれる力になるような気がするのです。

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