猿島と三浦半島との関わり 第一稿

皆さんは、三浦半島の持ち主の移り変わりを知っているだろうか?
まあ、時代が移り変わればその度持ち主が変わるなんてよくあることだ。
縄文のようなだれの持ち物でもない時代もあれば朝廷、三浦氏、北条氏etc…
日本の時が移り変わる度、毎度変わっていた。
では猿島はどうなんだろうかという疑問が猿島を調べるうちに出てきた。

だがそういう記録はなかなか見つからなかった。
そもそも三浦半島自体そこまでの資料が残ってなかった。
さらに猿島となるともっと情報が見つからなかった。

だが関わりとしての情報が見つからないのは当然だった。
そもそも猿島自体明治時代に要塞が造られるまでそれ自体を神の島とし、地元の人が神聖視し、そこは一つの神社となっていたからだ。
その神社の名前は春日神社、現在は三春町にある神社だ。

その昔、日本人は植物や島には神がつくという考え、多数の神がいる八百万の神という考え方をしていた。
もちろん自然島である猿島も例外ではなくきっと神が住む島として扱われていたのだろう。
春日神社はできたタイミングは平安時代頃とざっくりしているのだが、そういった経緯でおそらくできたのだろう。

そもそも春日といったらほとんどの人は奈良にある春日大社を思いつくだろう。
それもそのはず春日神社は春日大社から分霊勧請(離れた土地で同じ神様を社殿で祀る)をした神社だと伝えられているのだ。(所在地が元々藤原氏の荘園だったことから由来されている。)
そして猿島+小島9個で十嶋大明神とも呼ばれていたそうだ…こう聞くと猿島の当時の猿島がかなり神聖視されていたことが分かる。
そう、この島は辺境のこの地においてこの地に遠くの神様を祀らせる重要な土地だったのだ。

さて、ここまで猿島の価値について考えてみましたが地元の人たちにとってそこはどういう島だったのでしょうか。
春日神社に居る方に聞いてみたところ歩いて渡れたこともあったそうだ。
陸と島とが小島によって繋がっていた時はそういったことをしていたらしい。

しかし繋がっていない時はどうしていたか、それは年1のお祭りでやっていたそうだ。
年1度程複数の漁船で調理した食材をのせ、田戸囃子(既に廃れてしまったらしい)をかけながら船で渡っていたようだ。
そして猿島でまさしくお祭り騒ぎをしていたそうだ。

そう、猿島というのは地元の人達にも大いに信仰されていたのだ。

今回は猿島の政治利用について最初は調べる予定だったが、猿島の思わない歴史的価値というものを知ることができた。
でもまだまだ調べたらないし、考察をしたいと思う。

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