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短いお話(ダックワーズ)

土曜日の夜9時過ぎ、風呂に入ろうとタオルを用意したところで携帯電話が鳴った。
「もしもし」
「どうしたの、こんな時間に」
「どうしても、誰かに聞いてほしくて」

私は、村上春樹が言うところの『多少温かみのある壁』ということか。やれやれ。
「母の知らない一面を見てしまったの」
「ほう」
「今日の午後、母を連れてお茶をしに行ったの。焼き菓子の盛り合わせを頼んだら、レーズンサンドとダックワーズが一つずつ、あと小ぶりなマカロンが二つお皿に並んでた」
息を吸って大きく吐く音が聞こえる。
「レーズンサンドは譲ってあげようと思ったの。私も好きだけれど、もう大人なんだってところを見せないとね。でも、うちの母、なんて言ったと思う?『私、ダックワーズ好きなんだよね』だって!そんなの、知らなかった」
「話の腰を折るようで悪いのだけれど、ダックワーズって…?」
「メレンゲを小判形に焼いた生地で、クリームを挟んだお菓子」
「お母さんがその、ダックワーズ好きであることを、君は今まで知らなかった。それが、ええと、ショックだったってこと?」
「ショックと言うか…、だって30数年間娘やってて、母親の好物を初めて知るなんてことある?」
どうだろう。そもそも世の娘や息子たちは、皆母親の好物を把握しているものだろうか。
「もしかしたら、私が大人になったら教えようと思っていたのかも…」
「そうかもね。君がまだ子どものうちは、何故かは分からないけれど、レーズンサンドが好きなふりをしていた。そして今日、君が頼もしい大人になったと見て、本当のことを教えてくれた」
「うん」
「よかったね」
「うん」

すっかりぬるくなった湯船に浸かりながら、メレンゲを小判形に焼いた生地でクリームを挟んだ菓子を思い浮かべたが、それはいつまでも像を結ぶことはなかった。

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