鉄紺の朝 #22
女衒の六と梓草志郎
入舟に茜を刷いて築地まち
紅殻格子に、ぽつり、ぽつりと灯が点る
ひとつ路地を入った、椿屋の玄関先で、お抱えの芸妓を送り出している鶴子。その陰に寄り添うように、小銀が控えていた。
吉野に「あの時の鶴が、今の小銀」と切と云われた、あの日から、小銀に対する迷いは消えていた。私が師匠にしてもらった様に、小銀に接すれば良いのだと、与し易く感じていた。小銀もそんな鶴子を慕い、懐いていた。
「それじゃあ、しっかりね」
「お姉さん、いってらっしゃい」小さくお辞儀をした小銀に、
「行って参ります」とわざと仰々しく頭を下げた芸妓の島田越しに、浅野という料亭の女将が立っているのが、鶴子の目に入った。勤めに出る芸妓が横を過ぎるのを見送り、会釈をしてきたので、鶴子もし返して、
「うちの者が何か」
「いえいえ、そうじゃないのよ、あら、はじめまして」
小銀に目を止め、挨拶をはじめた浅野の女将に
「小銀と申します」と名乗った。
「まぁ、可愛らしい」
と、言いながら、鶴子に顔を近付け、声を潜めるように
「ちょっと、いいかしら」
ちらと、目配せをして、暗に小銀には聞かせたくない話だと匂わせた。鶴子はそれを汲み取り、
「こちらの女将さんと、話があるから、先に家に入っておいて」
と小銀を下がらせた。
「忙しい時に悪いわね、ちょっと気になることを、小耳に挟んだもんだから、念のために鶴子さんの耳にも入れといたほうが良いかと思ってね」
浅野の女将は、鶴子の袖を引いて、他人の目を気にする様に、路地に背を向け、玄関脇の竹塀とで、死角を作った。
「女衒の六を知ってるだろう。昨夜ね、内の店にやってきてねぇ、女中が連れの男達と話しているのを、こっそり聞いていて、私に教えてくれたんだよ。最初はね、小銀ちゃんの顔を拝みに行こうとしたら、鶴子さんに邪険に扱われたって、ぐだぐだと愚痴っていったらしいんだけど」
突然座敷に現れて、威勢のいい言葉を残して去っていった六の、怒りに震えた顔が、鶴子の脳裏に浮かんだ。
「酒が進むにつれて、話がどんどん大きくなって、鶴子さんを手篭めにするだの、嬲りものにするだの物騒な事を言い出したのでね、女中が私に知らせてくれたの。まあ、酒の席の話だから、全部を真に受けなくってもいいけど、一応気をつけることよ。」
「ご心配頂かなくても大丈夫ですよ、あの男は口ばかりで、なんにも出来やしないんですから」女衒の六の顔を思い出すだけで、虫酸が走る鶴子だった。
「でもね、ああいう輩は、カットすると、何をしでかすか分かんないから」
「ええ、気をつけます。わざわざお報せいただいて、ありがとうございます」と、形どおりの辞儀を述べ、早くその話を終わらせたかった鶴子に、気がついたのか、
「本当はね、女衒の六の話を土産に、私も彼女が、どんな子か見てみたかったのよ。いい子そうじゃないの。小銀ちゃん。器量は良いし、気立てもよさそうで、五年後が楽しみね」
浅野の女将は、言い残し、夕暮れの色街に消えていった。
残照も尽きてきて、郭に喧騒が灯る頃合い。
「これで今日も終いだ」その日最後の伝馬船が、沖の船から荷を積んで、桟橋に横付けされた。荷に紛れて大小差しの男が一人、櫓を漕いでいた人夫に、礼を述べ、桟橋に降り立った。二十歳そこそこの痩身、「ああ、くたびれた」ぐいと、背を伸ばした。焦茶の着物が煤けていて、長旅を感じさせた。
桟橋を上がると、船倉などの向こうに、茫と灯りを浮かべた一帯があり、男もそちらへ足を向けた。「ついじまち」と彫ってある、道標が立てられた辻。男はそこで一度立ち止まり、足を踏み入れた。
梓草志郎、一年江戸へ剣術修行の旅に出ていた。渓燕流の門下である。
― やはり、地元の言葉は格別、身体に染み入ってくる
行き交う人々の口にする駄話、縄のれんから漏れる戯れ言、客引きの世辞、どれをとっても、懐かしいのである。
往来、店が軒を連ねた中に、小さな朱鳥居のお稲荷さんが祀ってある。ふと立ち止まり、祠に向かい、往来から手を合わせた。
「きつねうどんでも食って帰るか」そう思ってみた脳裏を「誰か」と、助けを求める声が掠めた。はっと、辺りを見回したが、そこには、最前と変わらず、誰も何事も無く行き交う、往来があった。
しかし、色街の喧騒とは違う響きを、確かに梓草志郎は聞いていた。
お稲荷さんの祠を守るように、小さな常盤木の杜がある脇に、裏の路地へ抜ける細い通り路がついていた。誘われるままに裏の路地へ抜けた梓草志郎であったが、そこは表通りとは違い、ひっそりとして、人の影すら無かった。
「・・・気のせいか」踵を返しかけた、梓草志郎の左手にある家から、「どん」と大きな音が、それを追いかけるよう悲鳴が続いた。
「きゃ」
咄嗟に走りだし、格子戸をガラリと開けて、中へ踏み込むと、上り框に、市松小紋の裾が乱れ、緋襦袢が露になった、鶴子が倒れていた。さらに座敷奥から、争うような音がして、梓草志郎は土足のままそちらへ跳んだ。襖が倒された先、燭台の陰になった、男の黒い背中があった。女衒の六であった。六は馬乗りになって、小銀を抑えつけていた。すでに小銀は、抵抗することもなく、ぐったりとしていたが、その瞳だけは男を瞬ぎもせず、睨めていた。
六はその眼差しに、逆上し「黙れ」と叫んで、顔を張ろうと、右手を振り上げた。梓草志郎はその手を後ろからつかんで、捻り上げておいて、たまらず振り向いた男の脾腹を、思い切り蹴り上げた。
苦悶の声をあげた六は、畳に転がり、そのまま突っ伏して起き上がらなかった。
抑え付けられていた小銀は、眼前の男を見ている意識とは別のところで、幻影を見ていた。
紫煙の帷
揺らめく灯と天井
深淵に引き込まれるような闇の中に射す光
交差する光
子を抱く女性
・・・マリアさま
そこからは、溢れ、湧き上る如く、次々と新たな映像が浮かび上がっては消えていった。
そしてそれらの幻影が、記憶の中で繋がり始めた。
「大丈夫か」
小銀は、はっと我に返ったが、今の自分が置かれている状況がすぐには理解できず、心配そうな顔で自分を見つめる男が何故そこにいるのか、それも不思議に思えた。
框に倒れていた鶴子も、気がついたとみえ、「小銀ちゃん!」と声をあげ、覚束ない足どりで上がってきた。
「小銀ちゃん」
鶴子は、横たわる小銀の脇に座り、
「ケガはない?痛いところは?」と心配した。
小銀は、体を起こして、怪訝な顔で鶴子を見た。
「私、どうしたんでしょうか」
「可哀相に、気が動転して覚えてないんだろうねぇ。この女衒の六が、性懲りも無く現れて、小銀ちゃんに合わせろ、一目拝ませろってうるさく言っているところへ、あなたが降りてきて、『へぇ上玉だ、お近づきになろうな』なんて抜かすもんだから、とっとと失せなって、塩撒いてやったんだよ。そしたら六の野郎が逆上して・・・でもよかった、あなたに怪我がなくって。ああ、そうだ」梓草志郎に顔を向けて「どちらのお方か存じませんが、お助けいただいて、ありがとうございました、丁度、男手のない時分でしたので、あなた様が助けにいらしていただかなかったら、どうなったことか」深々と頭を下げた。
女衒の六が「うう」と呻いた。見ると、礼を言う鶴子に背を向け、手を動かしていた梓草志郎が、六を後ろ手に縛りつけて、無理やり立たせようとしていた。
「御番所へ引っ張っていきます。こんな男は島流しにでもしてもらうに限る。では失礼」
呆気にとられた二人をよそに、さっさと立ち上がり、表へ出て行った。
鶴子は、ふう、と一息ついた。
「それにしても、小銀ちゃんがなんともなくって、ほっとしたわよ」
「小銀ちゃん?」小銀が、もの問いたげな声を出した。
「あなたのことよ」びっくりした顔で鶴子が応えた。
「いいえ・・・私は、千江です」
小さい声だったが、鶴子には大きく響いた。
「えっ」
「ここはどこですか」
小銀の不安げな声に
「あなたの家よ」
鶴子は小銀を覗きこむようにして言った。
「私の家、ですか」
鶴子は、思い当たった。
「小銀ちゃん、いや、千江ちゃん。あなた思い出したのね」
次の朝
床の間に、目白の掛け軸と、梅が一枝、活けてある一室
「そりゃぁ良かったじゃないの」
吉野は薄茶を鶴子の前に置いて、しみじみと言った。
鶴子は小銀の記憶が戻ったのを、早起きして、一人、報告に来たのである。
「ええ、良かったんですけどね」
茶碗を手のひらで回しながら、それを見るともなく、見ていた鶴子が言った。
「なんだい、あまり嬉しそうじゃないね」
鶴子は気を落ち着けるように、茶を一口啜って話し始めた。
「私だって、最初は喜びましたよ。あの子がどこで、どんなふうに育ってきたのか、少しでも話しをしてくれるだけで、胸が一杯になるくらい、嬉しかったんです。ただ、昔の記憶と引換に、あの子、私がここへ連れてきてからの大部分を忘れてしまったんです」
「でも、鶴、あんたの事は分かるんだろう」
鶴子はゆっくり首を横に振った。
「鶴の事も、忘れてしまったのかい」
がくんと頭を落とし、ぽたりとひとつ、涙を零した鶴子だったが、それを振り払うように頭を上げた。
「初め、あの子は、自分が何故ここにいるのか、まったく理解出来なかったんです。気がついたら、別の名前で呼ばれて、初めて見る街に暮らしているんですから、誰だって戸惑いますよ。それで、私と出会った経緯から話を始めて、記憶を無くしていたこと、今の家のこと、一から十まで教えたんです。辛い話だっていうのに、泣き言ひとつこぼさないで、自分の今を、解ろう、弁えようと、必死に聞いてくれたんです」
「そうだったのかい」
「それでも、私との事は思い出せなかったけど、健気なあの子を見ていると、私が泣き言なんか並べちゃいけないなって・・・ああ、すっきりした、先生に話を聞いてもらえただけでなんだか、元気が湧いてきました」
先程の涙が嘘のように、晴れやかな顔をした鶴子がいた。
「喋るだけ喋って、ああよかったなんて、変な子だねえ」
吉野も、自然笑顔になっていった。
「そうだ、あの子、千江って言うんですよ、まだ呼び慣れてなくって」
「千江ちゃん、いい名前だね。ところで、どこで暮らしていたのか聞いたかい」
「ええ、福路村のお寺で育ったらしいんです」
「福路村と言えば、鶴の育った島の近くじゃないか、そこへ、連れて行ってやるのかい」
「いえ、本人が帰りたくないって言ってるんです」
鶴子は口の渇きを潤すように残りの茶を一息で飲み干しゆっくりと言葉を続けた。
「余程、お寺で辛いことがあったんだと思うんです。何度聞いても、何故お寺を出て、筏に乗せられていたのか、分からないと言うし、今は帰りたくないと、言うんです」
「鶴、千江ちゃんに、そう言ってもらって、嬉しいんじゃないのかい」
心配そうな鶴子の顔にもどこか安堵の表情を汲んだ吉野がそう声をかけると
「まあ、そうじゃないと言えば嘘になるかしら」
鶴子は、はにかむような笑顔を見せた。
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