見出し画像

私を振り返る② 父のことから

父は人とは波風を立てない人だった。
気のいいおじさんだった。八方美人でもあった。

お酒が入っていないと、特に私たち妹弟を大きく喜ばせてくれることもなかった(笑)大きく嫌がるようなこともしなかったので、私たち妹弟は父のことを大好きではなかったけど(笑)嫌いではなかった。

反面お酒を飲むと、一定量を超えると、もうだらしがない。
家族以外の人はそんな姿を笑って見てられるが、家族はたまったもんではない。
そして、普段波風を立てない分、お酒を飲んで酔って家に帰ってくると、大いに荒れた。

たまらなかった。そんな父を見るのがたまらなく悲しかった。
離婚すればいいのに、と小学校低学年のころから思っていた。

ただ、そうなる理由があった。

父には母がいなかった。いや、産みの母がいなかった。
父を産んで病に倒れ、すぐに亡くなったそうだ。それを父が知ったのは
父が大学受験の時、戸籍を見てだそうだ。
ちなみに祖母は息子として育てていたが、父には弟と妹がおり、父より可愛がられていたのは私でもわかっていた。

父は無意識に自分の居場所を小さい時から確保するため、波風立てない振る舞いを身につけたのだろう。
そして、酔った時だけ、反動が出た。

父が意識していない中で

無条件の愛情を感じぬまま、寂しさを抱えながら生きてきたのだろう。

その思いを出せたのは酔った時だけ。そして母に出す。

寂しさを語るわけではなく、「暴れる」形で表現していた。
そして次の日、我に帰ったように、小さくしゅんとなる父。


私が3年生か4年生の頃、近所の幼馴染の家に遊びに行った時のこと。
親戚に当たる家だったので家族ぐるみのお付き合い。
たまたま古いアルバムを見ていた時だった。

そこのおばあちゃん(the昭和な嫁いびりばあちゃん)がふとアルバムを見ながら

「あ!この人ねぇ〜〇〇ちゃん(私のこと)のお父さんのお母さんよ〜。亡くなってもういないけど。だから今のおばあちゃんとお父さんは血は繋がってないのよ〜」

とさらっと言った。

心の中の叫び

「え!?え!?え!?」
「今 言うの〜!!」
「なんで 今〜っ!?て言うか なんであんたから聞かなあかんの〜!!」
「えっっ!これって聞いていいことやったん???」
「でもなんか、いろいろと納得〜」

でもそれ以上聞くことも、口を開くこともできず、そしてこの出来事は誰にも言わず、私の胸の中にしまった。
なんか言い出せなかった。

私は性格が父に似ているところがあった。

「波風立ててはいけない」
そう勝手に悟り、そのまま過ごした。

大人になって、祖母が認知症となり自宅介護することになった頃に母にこの話をした。
本当に親戚一同デリカシーがないよね と言う話になった。


今その時のことを思い起こして、
自分の気持ちを整理する。

父はこんな感じだったし、母も田んぼに畑に家の世話にとにかく母の人権などないように働き詰めだった。

そんな後ろ姿と見ていたので、本当に無理の言わない子だった。自分でもそう思う。
学校であったことなどいっぱい母に話をしてストレス発散はしていたけど、事実を告げることがメインで、感じたこと、そこから考えたことは伝えてなかったように思う。
私の基準は自分ではなくて、周囲の顔色を伺いながらそのことで気持ちよく過ごすことが優先順位として高かった。

だから専門学校時代に「なんでそう考えたの?」「なんで」と言われるのがとても苦痛だった。

私は幼少期からそのことを考えないようにして過ごしてきたのだ。
胸に秘めていたことはたくさんあった気がする。
言ってもしょうがない、言ったら相手が困る気がする
と勝手に決めつけていた。
父もそうだったのだろう。
その方が波風立てずに心揺さぶられずに楽に過ごせるから。
母も嫁いびりがある中で、自分を押し殺し、居場所を死守し、そしてそうすることで私を守ってくれていたのだと思う。

両親ともに自分の感情や考えを押し殺し過ごしている様子を見て育ってきた。
そう思えば、表現できなくて当たり前か。
いま思えば、私の気持ちを汲み取ってくれる大人はいなかったが、私を大切にしてくれていることはわかっていたのだと思う。だから、グレずにここまできた。それがよかったのかどうかはわからない。

グレるくらい、苦しいくらいに自分とその時その時向き合えていたら、今どうなっていただろうか。

50歳目前にして、彷徨う私。いいのか、私!!?

前に進むために、振り返ろう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?