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サミュエル・ベケット『名づけえぬもの(The Unnamable)』(from Trilogy)

第三作『名づけえぬもの(The Unnamable)』

 旧訳にあたる安藤元雄訳では「名づけえぬもの」、新訳にあたる宇野邦一訳では「名づけられないもの」の邦訳となっているが、前回(『マロウンは死ぬ』)と同じくこの記事では旧訳の表記を用いる。
 ようやく三部作も完結作までこぎつけたわけだが、なるほど、ここに至って最大の難所にぶち当たった――これが、三部作の評論が極端に少ない理由の最たるものですらあるのかもしれない。
 『名づけえぬもの』に至り、ついにベケットは時空間の手綱を限界まで緩める――私のような平々凡々では、もはや物語として成立しないのではないのかと、陳腐な疑問が浮かぶが、ベケットは時空間のさらに外側には因果律の掟があり、さらにはその向こうにすら、善や美、倫理と呼ばれるさらに上位の掟があると考えていたらしい(仏の世界にも階層があると考え、曼陀羅などを制作した密教の発想に近い)。時空間の掟が破綻しても、さらに外側に位置する掟によって物語は成立するとベケットは確信しており、ゆえに『名づけえぬもの』の執筆に踏み切ったものらしい。
 このあたりの論法は、フリッツ・マウトナー(Fritz Mauthner 1849-1923 チェコ)に強く影響を受けているらしく、ベケットがこの哲学者を研究していたとは遺品から判明している――マウトナーは分析哲学「的」な哲学者と後世に伝わっているが、ほぼ同時代人、その分析哲学の祖と目されるルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン(Ludwig Wittgenstein 1889-1951 オーストリア)をもベケットは無視しなかったらしい――ただ、これに関しては「私の世界(独:meine Welt 英:my World)」や「眼(独:Auge 英:Eyesight)の比喩」などの用語を作品のところどころで拝借している、という間接的な根拠に留まり、実際のところ、ヴィトゲンシュタインに対する態度は如何様だったかは不明瞭だ。いきなり分析哲学の話が出てきて読者は困惑しているかもしれないが、『名づけえぬもの』を読解するに、次の二つの事実を無視することはどうしてもできない。
1、20世紀文学は実存主義が優勢であり(19世紀のセイレン・キルケゴールとフリードリヒ・ニーチェ、20世紀のアルベール・カミュとジャン=ポール・サルトルの影響にはまさに目を見張るものがある)、反面、分析哲学に根差した作品は少なく、また性質上、難解として忘れ去られたものも多い。分析哲学は論理学と数学に立脚しているため、その関門を乗り越えるに文学が後塵を拝したとは、意地の悪い私見だろうか?
2、文学界全体の思考の公平性が失われていたことは確かで、ベケットは偏頗を糾すためにも分析哲学の方面から、文学を書き直すことを使命と考えていた節がある。

 ただ、ここで勘違いして欲しくないことがある。ベケットは「偏頗を糾す」「均衡を正常化する」と常に全体を俯瞰しており、実存主義を目の仇としていたわけではなない――そもそも、両陣営とも「人間の考え得るすべてが世界のすべてである」というスタンスは共通しており、究極的には統一されたさらに上位の哲学を望んでいる。上と下というか、右と左というか、その中間を繋ぐ理論を両陣営探し続けているわけで、ベケットが本当に嫌っていたのは、橋渡しを阻害する現実でのアンバランスだったようである。
 実際に論法に起こすとして、実存主義と分析哲学がどのように一つ繋ぎとなるかは、正直なところ、「ヴィトゲンシュタイン以降の分析哲学派、特にW・V・O・クワインやノーム・チョムスキーに派生していく流れ」にそれぞれ当たって欲しいというのが本音だ――ここで書き起こすにしても、いつまで経っても『名づけえぬもの』の話に辿り着けなくなってしまうだろう――登場人物と読者に遠回りに次ぐ遠回りを強いるところに、ベケットの特質があるにしても、そこまでを真似するつもりはない。
 なので、「実存主義と分析哲学の連続性」は読者の勤勉と根性に丸投げして、ここでは逃げの手段として、ふわっと実存主義と分析哲学の相違を書き出すに留めよう。
 実存主義・分析哲学ともに、「人間が知らなければならないものは、畢竟、人間である」というところに前提を置いている(この意味では、どちらも唯我論に通ずるところがある)――無論、哲学者や作家によって多少のブレはあり、あくまで大局から鳥瞰した見方だと捉えておいて欲しい。前提を置いたあと、問題として何が噴出するかは概ね相場が決まっており、いの一番の取っ掛かりをどこに定めるかということだ――ここにおいて、実存主義と分析哲学は互いの真逆を選び出し、この初動での食い違いによって、どうにも主義から主張まで何もかもが敵対するものと敷衍している感じがある。
 実存主義では「個、私、単一」(用語を使えば、実存)を無条件に認め、逆を取れば、これが唯一の真理である――注意すべきは、起こしの時点では「世界」の存在さえも認めていないということだ。実存主義にとって世界の定義は究極目的であり、そこへ至るために事象も論法も経験も無制限に寄せ集めつつ射程を広げていく――総当たりのなかで、それぞれに何かしらの共通項が見い出せるようならば、同圏(あるいは同族)として取り扱い、同圏同士にもさらに共通項があるようならば、より上位のカテゴリーに押し上げていく。このような手法で共同体、社会、国と規模を大きくしながら、ついには世界そのものにまで統合させるを最終目的と定める――例えるならば、一度積み木を崩して、城を作り直すのだ。
 一方で、分析哲学は「全、神、世界」と呼ばれるものを、唯一の公理として無条件に認める――ここで誤解が生じやすいのは、「あくまで、人間が思考し得る最大射程こそが世界の限界である」という態度だ。分析哲学でも「死」を取り扱うが、五官や感覚ですら通り抜けることのできない死については、世界の外側にあるものと見做し(モーリス・ブランショの「死は経験できない」がここに響く)、直截的な表現で言及することはない――ヴィトゲンシュタイン『論理哲学論考』の「語り得ぬものについては沈黙せねばならない」のアフォリズムにその神髄は宿っている。
 分析哲学では全(あるいは世界)に対して、論理の成立・不成立を以って、無限の荒野に境界線を引いていく――例えば、ある事象が「〇✖✖〇✖〇〇」(成立を〇、不成立を✖とした)の配列を持つならば、それぞれにどのような記号(名前や概念)が与えられていようと、すべてを同圏(あるいは同族)と見做す。多少、込み入った話になるが、上記の一つひとつの〇(か✖)もまた(さらに下位区分の)「〇と✖」の配列を持っており、成立か不成立の論理は無限に下へと層を成している――異なる配列を持つグループのあいだに境界線を引いていくことによって、下位カテゴリーは連なっていき、その規則に従って世界は解体されていく――こちらも例えるとすると、無造作な庭に手を入れて整えていく庭師の仕事と言ったところか。実存主義を統合の作業と言うならば、分析哲学は分解の作業と呼ぶべきだろう――そして、統合と分解は方向が真逆なだけで、実は同一の可逆な操作なのだ。
 世界を細分化する(下位カテゴリーを設ける)と言っても、無限小にまで連鎖していくわけではなく、人間の最小単位を世界の最小単位とする場合が多い――分析哲学では、人間もまた(肉体的にも、精神的にも)複合体であると見做される事象なのだ。ただ、この立場から引き出される「個」への見方は自然厳しいものとなる。全(または世界)を始点にしている以上、ちっぽけな人間の定義は後回しの後回しにされる傾向があり……いや、思い切って「人間こそが人間にとって最後の謎」とまで言い切ってしまって良いのかもしれない(さすがに乱暴すぎる表現だろうか?)。上記の規則に従って分類を進めると、もはや人間一人ひとりのどの組み合わせも、同じ配列になるとは確率上考えにくくなるとは感覚的にわかってもらえると思う――この差異を個性と呼んでも良いのだが、分析哲学の立場からすると、「自分と同じ圏に存在する人間は誰一人として望むべきではない」と冷淡とも取れる表現の方がしっくり来る。〇と✖の並びが有限には収まるにしろ、いくつ並ぶかもわからず、そもそも一人ひとりにおいて同じ桁数になる保証自体がない――このあたり、大いなる意志が介入していると解しても良いのだが(「神」や「運命」も世界の内には含めるが、最外殻に配置される傾向にある)、現代ではもっと単純に、それぞれ割り当てられる配列は偶然によって生成されると述べた方が通りが良くなる。分析哲学も特権階級や英雄を研究対象に取るが、王権神授説や選民思想などを排して、偶然の産物と解することが多い(それならば、アドルフ・ヒトラーやポル・ポトなども生来の悪人ではなく、他の一般人が独裁者に選ばれた可能性もあるのかなど紛糾の種を撒き散らしもするのだが……)。ただ、民族や文化など土着の影響も無視するわけではなく、ほとんどの場合、ランダムのなかにも地域ごとの生成のパターンは構築されているのではと論法が進んでいく――そして、生成確率の話になるとまさに打ってつけの得物は統計学であり、再び数学に回帰していくことになる(偶然の方を基盤に置くことで、男だからとか、ユダヤ人だからとか断定的な表現を避けることができるのも強みである)。
 思いのほか、長々と実存主義と分析哲学について書いてしまったが、言うまでもなく、両陣営の統一理論は依然遠い夢のままであり、まだまだ発展途上の分野である。何だかんだ語ったものの、結局のところ、ベケットもまたこの果てしなき荒野に飛び込んだ一人だと覚えておいてもらえれば十分だ。

ベケットの表明

 分析哲学は「全=世界」を最初に公理として置くと書いたが、科学技術の発展から強くフィードバックを受ける分野であり、その限界をどこに定めるかは時勢や哲学者それぞれによってブレが生じている(とは言え、コペルニクス的転回などなく、何となくの感覚は共有できているようだが)。おおよその場合、「死」と「未来」は「経験できず、語り得ないもの」として世界の外に置いており、逆を取れば、それ以外のすべては世界の内にある、という解釈が取られる傾向にある。
 ところが、ベケットについてはもう一つだけ、世界の外に置きたがっていたものがある――まさに、ベケットが終生を掛けて取り組んだ「言葉」である。ただ、非常に抽象的な分野であるゆえ、一般的な「言葉」とも意味のズレが生じており、そこの解説は入れなければならない。
 「サミュエル・ベケット『マロウンは死ぬ(Malone Dies)』(from Trilogy)」の記事ではさらっとしか触れなかったが、ベケットの言葉に対する精査として、「いかなるものにも癒着する性質」に殊に注目していたように思う――そして、「愛」と「信仰」も同じ性質を持つものして、同圏に捉えていた節がある。もちろん、言葉、愛、信仰を日常言語で使えば、混同されることなどないのだが、分析哲学の立場では、同じ「性質と器官」を持つものならば、同じ境界で括る操作を行う。「言葉=愛=信仰」の三位一体とは要するに何ぞやという感じだが、厄介なことに、これこそが「名づけえぬもの」なのだ――言葉は癒着する、と書いたが、ベケットは識別や分化の作用は癒着する方(言葉)の性質と考えていたらしく、正確に「もの」を捉えるには命名を拒絶しなければならないとは、小説でも戯曲でも評論でもモチーフとして繰り返し登場させてきた(それならば「もの」の何を捉えるかと言えば、内奥に潜む「〇と✖」の配列である)。この「名づけえぬもの」を可能な限り捉えんがこそ、ベケットは三部作の完結作にて最後のあがきを試みている。
 ところで、少し数学的な話になるのだが、「言葉=愛=信仰」を生成する元は(抽象的な次元に属するとは言え)必ず存在する――目がなければ、視野が発生しないように。この元が世界の内にあれば矛盾が生じるとベケットはいつ頃か考えるようになったらしい――もしも、元が世界の内にあるならば、万物流転、有為転変、諸行無常……もはやベケットを語るに何の言葉を使うかはどうでも良いが、「いかなるものにも癒着する性質」自体にも何かしらの歪みが生じるはずである。ところが、歴史を鑑みるに、また、ベケットが三部作以前の諸作品で試みた実験のどれを取っても(言葉を失ったり、恋人が変貌したり、信仰を丸っきり忘れてしまったり……)、元の部分だけは変化することもなく、消滅することもなく、改竄されることもなく、性質と器官を保ち続けているように見える――たかが、ホモ・サピエンス十数万年の歴史を以って永遠に変わらないもの、と断じるのは早計かもしれないが、少なからず、ベケットは不変が世界に内在していることは明確な掟への裏切りと捉えたらしい。そして、当然の帰結として、ベケットは「死」と「未来」に加え、「言葉=愛=信仰」の元も世界の外、「語り得ぬもの」と見做すことにしたらしい。この、「世界のすべてに当てはまるがゆえに、根本(=視野を放つ目)は世界の外になければならない存在」については、ヴィトゲンシュタインも「超越論的」存在として言及している――そして、断定は避けているものの、ヴィトゲンシュタインは「論理」と「倫理」も世界の外に置くべきだとほのめかしている。ベケットの「言葉=愛=信仰」とヴィトゲンシュタインの「論理、及び倫理」を同一視するのは些か乱暴だろうか?
 無論、上記の論法はベケット固有のものであり、分析哲学に関わるものすべてが、「言葉=愛=信仰」に同意しているわけではない――だが、三部作の完結作、『名づけえぬもの』ではその思想がありありと表れており、読者が納得するか否かに関わらず、この態度だけは頭に入れておかなければならない。
 ベケットはこの作品において、分析哲学に対する自身の立場、延いては、以降の創作におけるスタンスを表明しており、その意味では自身の「結論」というよりも、自身の「挑戦」を明示したものと考えた方が良いかもしれない。

語り手「Mの一族」

 あまりにも前置きが長くなった自覚はあるが、『名づけえぬもの』は異色作中の異色作であり、論評するに、商業ベースに乗せるような定石に従っていては悉くを書き損じてしまう。ここからようやく、本題に入れるわけだが、起こしとして語り手がどのような人物かを解説しようとするところでまたもや難所にぶち当たった。
 何というか、語り手はこれまでの二作品、『モロイ』と『マロウンは死ぬ』の内容を知っている、というか、本人として経験しているようなのだ――それも、『モロイ』に登場したルースなる老婆、『マロウンは死ぬ』で挿話として語られたサポスキャットやマックマンとしての経験もあるらしい(このあたり、曖昧なところはあるが、『名づけえぬもの』については知ることと経験することは同義として表現されているように思う)。それどころか、マーフィー(『マーフィー』"Murphy")、ワット(『ワット』"Watt")、ベラックワ(『蹴り損の棘もうけ』"More Pricks Than Kicks")など、ベケット初期作品での名も飛び出すことがあり、三部作以外にも熟知しているようだ――ただ、やはりモロイとマロウンに対する言及が殊に多く、その一連の末裔として、今作の語り手を「M」と称する(語り手もまた「名づけえぬもの」だとはわかっているものの、論評においては便宜的に記号を付さないと七面倒で仕方がない。ご海容を)。ベケットの描いてきたキャラクターに熟知しているならば、ベケット本人ではないか、という仮説も成り立つが、今作においてはMがベケットだろうとそうでなかろうと、どちらにしても読解に供するところはない。
 物語の舞台は暗黒のなかであり(本当に暗闇なのか、Mの五官が退化してしまっているがゆえの暗闇なのかは判然としない)、視界が開けるなり、場面が転換するなり、終始一貫して舞台装置に変化などない――ベケットの作品に精通するMはこの舞台の上では全能に近いと言えるが、それでも、「死」、「未来」、「言葉=愛=信仰」の三つだけは解き明かすことができておらず、神のように振舞えるというわけでもない。Mはおそらく、歩き出すこと自体はできるのだが、モロイやマロウンの運命を熟知している以上、旅の終着地にて何も加えられることなく、何も引かれることなく、再び現状に戻されるだけだと先んじて知っている――無精だから動かないというか、旅の始まりと終わりが完全に一致してしまっているため、歩き出す動機を持ち得ないのだ――肉体としての足ではなく、頭のなかの足を失っていると表現しても良い。そして、現状についてもMは熟知しているわけで、動くわけでもなくその場で呼吸するだけの自分を何度もワーム(worm: 芋虫)に喩える。
 Mもまた、100%の理性である神や悟りを開いた仏というわけではなく、現状を割り切ることもできず、堂々巡りになると理解していながらも、自分が歩き出す動機、あるいは大義を探さずにはいられない――ところが、舞台はMの祈りや願いを反映して暗黒を変えるものでもなく、初めから知っていたことではあるが、事態の好転なんてものは端から用意されていない。全能に近いMの思考の流れはまさに博覧強記というか、神学論争でも禅問答でも、人間が出せるものはすべて出てくると言った具合だが、それでも現状から一歩を踏み出す理由だけは引き出すことができない。
 Mが滔々と語り続ける問答は驚くべきほど理論的で、何よりも、抜本的である――『名づけえぬもの』の冒頭文からして、

 Where now? Who now? When now? Unquestioning. I, say I.
 今はどこにいるのか? 今は誰なのか? 今はいつなのか? わかるはずもない。ただ、私は私だ、としか言えない。

『名づけえぬもの』冒頭分

 であり、自分が人間であることに自信がないばかりか、物語の枠組みとして、(伝統的に)暗黙の了解とされる舞台装置まで否定している。この地点から、Mの内省と思考は始まり、この舞台が何なのか論理的に定義しようとする――言い換えれば、冒頭の時点では物語として成立していないのだ――そして、この問答が『名づけえぬもの』の大部分を占めており、ついに舞台装置が定義されたときには、もう完結部分にまで進んでしまっている――三部作の最後に至り、ベケットはいよいよ物語さえ放棄したのだ。ただ、Mは本腰を入れていないというか、やる気がないというか(『マロウンは死ぬ』の語り手と同じく、あくまで暇潰しのつもりなのかもしれない)、わりと自由に語っており、論法も他人に理解させるためというよりも、自分に理解させるための弁明に近い――しかも時折、明後日の方向に思考が飛んでいき、逸脱と脱線もいよいよ目立つ――それでも、支離滅裂にはならないあたり、ベケットの文才が窺えるだろう。
 舞台装置の暗黒そのものに一切の変化はないが、分析哲学の立場においても、他人の存在を無視することはできない――というか、他人の総体こそが世界であり、自分はそれを俯瞰する一点の抜けと解することが多い。Mの前にも、ときおり他人が通り過ぎることがあり、それが「Mの世界」に対する唯一の外からの介入と言えるだろう――ただ、暗黒のどこから現れ、どこへ消え去っていくのかも判然とせず、お喋りをするにも適当なことばかり抜かして互いに意味が通じていない嫌いがある。通り過ぎていく他人のなかでも、特筆すべきはマフード(Mahood)と呼ばれる人物だろう――おそらくはMの一族以外の人間が統括された存在であり(Mahoodはおそらくmanhood: 人間たるもの、のもじりである)、時々現れてはMに人生訓のようなものを説いていく。その態度も司祭や哲学者と言った感じなのだが、暗黒の舞台にあっては全能に近いMに講釈を垂れるなど、まさに釈迦に説法である――人生を知った気になって、説教、衒学、自慢……好き勝手に喚き散らす姿を私たちに重ね合わせるのは意地の悪い解釈だろうか? そして、マフードに対するMの考察で、特に三部作全体に関わってくるものは、「マフードもまた、さらに別の他人から教わったことを繰り返しているだけであり、何か新しい言葉を語っているわけではない」という見方である――同じことを繰り返す、それ自体の意味はこの記事の最後で掘り下げるが、付随する意味として重要なことは、その見方はM自身にも当てはまることで(Mも、これまでのあらゆるMの猿真似をしているとは自覚がある)、Mとマフード――自己と他己には確かに重なり合う境界面があり、一切が独立しているわけではないというところだ――無論、このこと自体についてもMはとうに思い至っている。
 ただ、マフードの無駄話のなかにもMの琴線に触れるいくつかがある――マフードたちのなかに、同じ存在として形作られているが、姿も見えず、声も聞こえない、異端の存在がいるらしい――そして、マフードはその特別なマフード(?)を何千年にも渡り、探し求めているらしい。思い切って書いてしまえば、救世主の暗喩であり、一応はキリストをモチーフとしている感じなのだが(ベケットは敬虔と懐疑の入り混じったカトリックである)、肝要な点は、マフードたちのなかに(=世界の内に)語り得ない存在がいるということである――この救世主、ベケットの慣れ親しんだ文化から表現を選んだだけで、弥勒菩薩でもヴィシュヌでも代替は利くと思われる。
 Mは「死」、「未来」、「言葉=愛=信仰」――世界の外にあるものには手を触れることができないとは心得ている――しかし、神経質かつ理論的なMにとって(と言うか、ベケットにとって)、世界の内に解き明かすことのできない存在があるということは、矛盾というか、不可解というか、「生」における最大の謎としてまで立ちはだかる。Mは自覚しているにしろ無自覚にしろ、救世主という概念に多分に執着しており(繰り返しになるが、救世主を特別視する理由自体、暗黒の舞台にはないはずなのだ)、極限状態にあってなお、救世主への祈りだけは捨て去ることができていない。
 救世主に纏わるMとマフードの問答については、ベケット自身の後悔というか、懺悔というか、マゾヒズムのようなものまで滲んでいる。三島由紀夫は第二次世界大戦後、「あの戦争で神風は吹かなかった」と述べている――二度の元寇を最たる例として、日本は神々の国として、極限状態では人々の祈りを反映して、神風が吹くという信仰がそれとなく根付いている(さすがに現代では薄れているようにも思うが)――戦時中、日本人が勝利を願っていたとは言うまでもないが、太平洋戦争ではどれほどに思いが強くとも神風は吹かなかったのだ。いきなり三島の話が始まり、ベケットに何の関係が、と訝るかもしれないが、この「極限状態における祈り」について、二人は同じ結論に達していたように思う――論理に論理を、精査に精査を重ねて、「神の不在」という最果てにまで達しても、私たちは「神風が吹かなければ」、世界から裏切られたように感じられる――この一見不可解な感情を三島もベケットも見つめていたわけだが、この二人の才覚を以ってしてもどこまで文章として明示できているかは怪しい。
 『名づけえぬもの』にて、Mは救世主の存在を肯定するわけでも否定するわけでもない――だが、救世主の実在・不在とさえ無関係に、世界は「私」の祈りを反映しないとは、Mだって作品が始まる前から熟知している。ところが、世界の外にあるものについては論理の終着点として、「沈黙しなければならない」と確信できていても、世界の内にある救世主については、「そちらへと足を踏み出す道標」として、根拠がないことを知りつつも空目してしまっている。そして、この誤謬、あるいは妄想、あるいは偏見こそが、動機になり得るものだとMは気がついていく。

人間「M」

 マフードとの禅問答、あらゆる「M」として生きてきた回想、ワームとして存在する自分の内省を繰り返した結果、Mもまた事実、動機を持ち得る以上、自分も人間の一人だと認めざるを得なくなっていく(逆を取れば、人間は等価なすべてから、一部だけを特別視せずにはいられない、になる)――ここに至り、ようやくMの正体が定義され(それも、「Mは人間である」という、確かめる必要があったのかも疑わしいものである)、物語のスタート地点に立つわけだが、『名づけえぬもの』はほとんど終盤に差し掛かっており、(メタ的に)旅に出る時間など残されていない。そして、Mは人間として一歩を踏み出すかと言うと、そんなことはまったくなく、これまでで精査の終わったはずの問題が蘇り、再度激突してくるのだ――マフードの性質として上に書いた、「何度も同じことを語る」という問題だ。
 「救世主を空目する」こともまた、マフードたちが何千年にも渡って繰り返し、また語ってきたことでもあり、Mもまた確かに救世主に執着を持ちながらも、そのために行う「新しいこと」の一切を見つけられない――事によると、Mは人類史と同じ長さだけ生きており、あらゆる誤謬、あらゆる妄想、あらゆる偏見だってすでにすべての「M」として経験しているかもしれないのだ――そして、救世主探しだって、旅の終着地に辿り着けば、現状に戻されるだけとはすでにM自身が語ったことだ――この状態をMは「自分のなかには木霊と吐息しかないのだ」と表現している。無論、もう一度何かを繰り返すにしても、新しい意味が付け加えられることがないからといって、誰かから禁止されているわけでもない――そもそも、あらゆる「M」だって、それ以前の「M」をもう一度繰り返してきたわけで、そこに罰則や処刑が付き纏った例はなかった。
 人間を自覚したMが改めて引っ掛かる点は、わざわざ自分が「繰り返す」役目を引き受けずとも、暗闇を通り過ぎていく人々、あるいは暗闇の向こうにいるだろう見えない人々が絶え間なく、それも無数に「繰り返す」を行っており、そこにもう一度を付け足す理由もやはり存在しないというところだ。「救世主を空目する」理由なき執着を為すために、「もう一度繰り返す」理由なき執着を為さねばならない……そしてそのために、「もう一度繰り返すことを「もう一度繰り返す」」理由なき執着を為さねばならない……と、ようやく持ち得た動機は無限後退に陥る上、その処理から抜け出して、手順から外れた理由を見つけること自体も不可能だとMは思い知る(仮説として、外から何かを持ち出すにしても、その仮説から別の無限後退が始まってしまう)。
 そして、Mはこの無限後退こそが、この舞台における最大で最後のジレンマであり、人間として自覚した以上は、そこから抜け出せず、ひたすらに引き受け続けなければならないとますます論理の奥地へ引きずり込まれていく――言い方を変えれば、この無限後退だけが「持続」するものであり、Mが暗闇に取り残されているのは(思い切って、「生」と言ってしまおうか)、畢竟、持続に与するためだけなのだ。一歩足を踏み出してみる、声を出してみる、何かに触れてみる、いずれもがもう一度繰り返す形でのみ実現され、祈りや願いとも無関係に、勝手に無限後退に組み込まれる――持続に与しない選択肢もまた、初めから用意されていない――我々の言う「何もしない(do nothing)」が示すすべての行為のうちにも、無限後退から脱する例外はないのだ――「持続させる」、それだけがすべてのものに付すことのできる理由だと解しても良い。Mは無限後退のジレンマが言語を絶しているとは知っていながら、知らず知らず語りのみによってこの構造を明らかにしようと、最後のあがきに飛び込んでいく。呼応と反復が延々と連なっていく形式を取っているが、文章の繋がりが解体されつつあり、全体として観念的かつ複合的過ぎるので、片手落ちになるとは理解しながらも、特に反復されるフレーズだけを抜き出す。

・持続はしなければならない(I must do.)
・持続させるすべての権利は先んじて与えられている(I can do.)
・私は持続を欲していない(I don't want to do.)
・だが、「何もしない」こと自体も一つの持続である(I do nothing but do anything)
・持続は強制であり、そのためには何かしらを欲するべきである(I'm obliged to do, so I should want one.)

 かっこ書きに付した英文はベケットが実際に用いている表現である――ただ、「do」の部分は逐次、see、say、hearなど五官に関する動詞で置き換えられていくと断っておく。英文法の最も単純な形式の羅列だけで、この、生の不可解の最奥にまで到達せんとする挑戦を二十世紀文学の頂点――それこそ、師匠ジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ(Ulysses)』第十八挿話、ペーネロペイアの独白に匹敵する白眉と評するは贔屓目が過ぎるだろうか?
 そして、この反復に次ぐ反復の最後、あるいは三部作の本当に最後の最後、Mはただ一つだけをもう一度繰り返そうと決心する――歩き出すことでも、息をすることでもない。これまで、あらゆる「M」として何遍にも渡り繰り返してきたこと、すなわち「語ること」だけを持続させると思い定め、『名づけえぬもの』及び「三部作(Trilogy)」は完結する。

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