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サミュエル・ベケット『マロウンは死ぬ(Malone Dies)』(from Trilogy)

第二作『Malone Dies』(邦訳:マロウンは死ぬ)

 ベケット三部作の二番目に当たる『マロウンは死ぬ』(サミュエル・ベケットと三部作については別記事、「サミュエル・ベケット『モロイ(Molloy)』(from Trilogy)」参照)について引き続き論評する。旧訳にあたる高橋康也訳では『マロウンは死ぬ』、新訳に当たる宇野邦一訳では『マロウン死す』の邦訳となっているが、この記事では旧訳の表記を用いる。
 サミュエル・ベケットは第一作『モロイ』にて、揺れ動く時空間を表現すべく、その上に立つ人間の「名前と自己同一性の歪み」と「忘却作用」を強く打ち出した――ところが、この手法では不十分であるとベケットは考えたらしく、第二作『マロウンは死ぬ』において、さらなる実験が展開される。前作で語られた「モロイ(Molloy)」と「モラン(Moran)」の物語とはまったく断ち切れているが、あくまでストーリーや設定においてであり、一連の実験に連なるものと捉えなければ、読解を徒に難しくするばかりである。また、前作から引き続き、語り手のイニシャルが「M」(Malone)であることにも気がつくだろう――この「M」の一族とも呼べるキャラクターたちは、次作『名づけえぬもの』で統合されることになる――おそらくは、フランツ・カフカが「K」を用いたように、何かしらの意味はあるはずだが、それもまたベケットが明示することはなかった。
 『モロイ』での実験からさらに進むものとして、ベケットは『マロウンは死ぬ』にて「意識の不連続性」を強く取り入れている――作品に記されたこの新たな表現に論評の主軸があるわけだが、その前に同時代における潮流を知っておかなければならない。『モロイ』の記事でも触れたが、20世紀初頭は複素数の体系が完成したことにより、世界的な革命が訪れていた(蒸気機関や重工業など、産業の革命ではなく思考の革命だ)――複素数において、特に重要な事実は「すべての数は滑らかに繋がっている」という点である――この滑らかである(=連続している)という性質を基盤にして、直交座標と極座標の連結、線形作用素の再定義、行列の完備……と話が進んでいくのだが、数学史の話は明らかに別個に記事を設けた方が良い。とにもかくにも、数学を発端とする革命は物理学、言語学、哲学と広範に渡り猛威を揮い、当時の知識人たちは新しい思考、新しい表現の発明に迫られていた。
 殊に、「人間の意識は連続なのか不連続なのか?」「物理学の時間と意識の時間は本当に同じ性質なのか?」は数千年に渡る疑問であったが、複素数の存在は、これらの上に新たな金字塔を打ち立てるに資した。哲学の分野では、アンリ・ベルクソンの「時間の概念による意識の流れの提唱」(durée: 持続)、バートランド・ラッセルの「思考に階層制度を設ける試み」(theories of type: 型理論)に結実した。また、(ベケットの師匠でもある)ジェイムズ・ジョイスは「主観による空間・時間の再構成とその言語表現」への苦心惨憺の末に『ユリシーズ(Ulysses)』を、マルセル・プルーストは「意識内の時間、特に一次元の制限を外れて無軌道に動き回る時間」の探求のため『失われた時を求めて(À la recherche du temps perdu)』を、ウィリアム・フォークナーは「偏見と誤謬に基づいた(意識内の)空間と時間の混乱」を基盤に『響きと怒り(The Sound and the Fury)』『アブサロム、アブサロム!(Absalom, Absalom!)』をそれぞれ書き上げた。
 いずれの作品も1920年代に集中しており、当時の文学は「意識内の空間と時間を書き直す」時代であったと言える――ベケット三部作は50年代に一気呵成に書かれており、当然、先代の打ち出した概念と技法を正統に受け継ぎつつも、さらに新しい表現を模索しなければならなかった。
 ここでようやく『マロウンは死ぬ』の話に戻るわけだが、ベケットの試みは前作『モロイ』に見られた忘却作用、その発展として「強い忘却による(意識内の)空間と時間の不連続性」に向けられた――文章の流れからして、結局、意識は連続と不連続のどっちなのだよ、という感じになってしまっているが、ジョイスやプルースト、フォークナーの試みた「意識の流れ」は連続性の保証として、記憶の改竄、思い違い、意味の洗い直しを許していた――言い換えれば、現実と意識の事実が一致するにしろ、相違するにしろ、内面では絶えず捏造が行われ、意識の断絶が埋められるものとしている。そもそも、意識の断絶が意識に属せず、断絶自体を認識できないなら「意識の流れ」は連続的にならざるを得ないというわけだ。
 ところがベケットが『マロウンは死ぬ』で試みた実験は、「記憶を保てず、また記憶を保てないことに自覚的である場合、それでも意識や自己同一性は持続可能か?」である――そのため、この作品では「記憶が数日しか持たない」語り手が延々と同じ話を続ける、という特異な構成を取っている――この、「揺れ動く時空間」をより精査するために、現実に反し、あまつさえ前提を破壊しかねない仮定さえ受け入れる態度は、文学者というよりも数学者や物理学者のものに近い。ベケットはとにかく、論理的で、仮定的な作家なのだ。

前編「サポの話」と後編「マックマンの話」

 この記事では『マロウンは死ぬ』を前編「サポの話」、後編「マックマンの話」に分けて論評するが、あくまで便宜上のことで、本文では明確な区分けが置かれているわけではなく、いつの間にか話が移り変わっている具合である――それでいて、『モロイ』や『ゴドーを待ちながら』と同じく、ベケットが「二度同じ経過、同じ結末を辿る」という構成を意識していたことも確かだ。
 この作品は、語り手が現在の身の上を語りつつ、合間合間に物語(前半では「サポの話」、後半では「マックマンの話」)を挿入する形式を取っている――さて、ここで『マロウンは死ぬ』全体の構造を説明するわけだが、これがまた入り組んでいる――しかも、本来ならば語り手の逸脱と脱線に付き合いつつ、小出しにされる情報から自分で再構成しなければならないのだ!
 とりあえず、冒頭数ページを読んで把握できることは次のことだけである。
・語り手(題名どおり、マロウンという名なのかも不明)は病院(らしきところ)のベッドにおり、死の時を待つのみである。
・語り手のいる一室には窓とドアがあり、そこから(雑踏や看護人など)人の足音が聞こえる。おそらく街のなかにあり、まったく孤独というわけではないが、ベッドから動けない以上、実際に誰がいるのかは知らない。
・語り手の手元には一本の鉛筆と一冊のノートがあり、自分の回想を書き留め続けている(このノートこそが、『マロウンは死ぬ』本文らしい)。

 「おそらく」、とか、「らしい」、とか、お前は説明する気があるのかって感じだが、本当にこれぐらいしかわからないのだ――部屋の壁の色すらわからない――太陽の動きは確かにあり、部屋が灰色に染まる、紫に染まる等の言及はあるが、そもそもの壁の色については触れられない――しかも、昼と夜のサイクルがなぜか不規則であり、嘘をノートに書きつけている可能性がある(本当は考えているだけで、書きつけていない可能性すらある)。「信用できない語り手」とはよく言ったもので、語り手は自分で書いた文章に対して、「多分間違っている」と注釈をつける始末だ。
 このあたりのトリックをできるだけ簡潔に説明すると――語り手は数日しか記憶が持たず、自分に対する覚書としてノートを書いている。過去の記憶と現在の状況を繰り返し記録しているわけだが、あくまでそれまでの記録から再現しているだけで、語り手は自分自身について一切を理解していない。実のところ、ノートに残っている記録は「自分の現状について」「サポの話」「マックマンの話」くらいで、それも何遍にも渡って記されており、それでも書き続けるのは単なる暇潰しである――というところか。またもや曖昧な言い回しだが、これらのことも語り手から明示されるわけではなく、あくまで記述の矛盾や(自分で書いたはずの)文章に対する無理解などから割り出すしかない。
 『マロウンは死ぬ』は前編、後編の区切りがあるわけではない、と先に述べたが、一応、作品のちょうど真ん中あたりで、語り手の記憶が明らかに途切れる場面がある――この後に続く語り手は明らかに(作品の)前半部分に書きつけたことを忘れており、また、記憶を失ったこと自体にはさほど動揺していない――それから、「マックマンの話」が始まるわけで、何となくの分かれ目はあるのだ。三部作全体にも言えることだが、小説に必要とされてきた「情景描写」や「心理描写」は悉く必要なときに後付けする、といった有様で、物語を動かしつつ物語の設定を定義する記述は、プログラミング言語に近いとも言える――ここで同じアイルランドの先輩作家、ローレンス・スターンの『紳士トリストラム・シャンディの生涯と意見(The Life and Opinions of Tristram Shandy, Gentleman)』から技法を受け継いだとか、インターネットにおけるハイパーテキストを先取りしているだとかに解説を繋げるのは簡単だが、白紙の態度で三部作に臨むにしても、先に覚えておかなければならない唯一は「何もかもが動的に記述される」ということだ――しかも、再定義というか、前述が否定されることも珍しくはない。

 さて、正直なところ、ここまででも読解に供するに耐え得る評論に構成でてきているのか自分でもわからなくなってきた――三部作の読解に、(ベケットの好んだ)深い森の最奥へ進む、という比喩を用いるならば、まだまだ道半ばなのだ。この後、挿話たる「サポの話」、「マックマンの話」に個別に当たったあと、もう一度、語り手「マロウン(?)」に戻り、総括するわけだが――しかも、そのまた後に三部作の完結作『名づけえぬもの』が続く――なるほど、私がベケット三部作の論評に取り掛かったのは、文学のマイルストーンの一つであるにも関わらず、(『ゴドーを待ちながら』など他の作品に比べ)評論が極端に少ないのが気に掛かったからなのだが、真面目に取り組むに値しない仕事なのかもしれない――ベケットは三部作にて、隙あらば読者を罠に嵌めようとしてくる――そして、私が先に伝えておくことなど、畢竟、「罠に気をつけろ」の警告だけなのだ――私は一連の記事において、読者の案内人の振りをして、実はベケットの罠に与しているのかもしれない。
 まあいいや、私の愚痴はそろそろ脇に退けて、「サポの話」に移ろう――ここでもまた、私は警告から文を起こすしかない。挿話「サポの話」「マックマンの話」は独立性が高く、個別の内容は「三部作」から遊離しているようにも思える――その内容も、ベケットが強い関心を抱いていた題材ではあるのだが、そもそも「三部作」は全体の構造と不調和の実験場であり、細部に嵌め込まれた描写の意味は背後に退いている感じがある――それならば、「サポの話」「マックマンの話」を個別に扱うことに、さほど重要性はないのか、という話になるが、やはりここでも語り手「マロウン(?)」の厄介さが飛び出してくる。
 語り手は「過去の自分が現在の自分に嘘を吐いているのか?」すら判断できない――そのため、『マロウンは死ぬ』全体と挿話「サポの話」「マックマンの話」の関係に次の問題が出てくる。

・「サポの話」「マックマンの話」は過去の経験であり、「サポ」「マックマン」、あるいはその周囲の端役のいずれかは語り手自身なのか? それとも、何かしらで読んだ物語に過ぎず、初めからフィクションなのか? さらには、過去の語り手が暇潰しに作った創作である可能性は?
・「サポ(Sapo)」の本名は「サポスキャット(Saposcat)」らしいのだが、ノートにおいては「Sapo」と一貫して省略記法が使われている――ここから、何遍も繰り返して書き起こすうち、挿話が切り詰められていったことが伺える。それならば、(事実にしろ創作にしろ)原作からどの程度欠落しているのか? また、語り手はあくまで暇潰しでノートを記しているのであり、改竄や脚色、逆に記述を増やすことを一切しなかったと言い切れるか?

 少なからず、二つの挿話がオリジナルの形を保っているとは考えにくい――すなわち、常に「挿話自体は何についての話なのか?」「繰り返し挿話を書くうち、語り手はどの程度歪曲を加えているか?」の二重構造が付き纏うことになる。そのため、挿話の内容そのものが重要か否かに関わらず、一度個別に当たったあと、「マロウン(?)」の事情を被せるという反芻のような作業を強いられるのだ――三部作の語り手は悉く遠回りを強いられるが、それは読者も同じであるらしい――そして、先に書いてしまうが、「サポの話」と「マックマンの話」、どちらも物語を成立するに必要な要素が抜け落ちてしまっており、何かしらの結論を引き出すことができない――辛うじて物語の構造を保っているのは『マロウンは死ぬ』全体としてのみなのだ。

前編「サポの話」は何についての物語なのか?

 前半部に挿入される物語では、少年サポの一家とランバート家(英語版:The Lamberts、仏語版ではルイ家(Les Louis)となぜか相違が生じている)、二つの貧しい家庭について語られる。サポの両親は、息子に勉強して欲しい旨で万年筆を送ろうと考えている――しかし、この両親も学がないらしく、何の勉強を、とか、どのように勉強を、とかは教えようとしない、というよりも、そもそもを知らない――ただ、医者や弁護士にでもなれば、とあわよくば思っているにすぎない。
 一方、ランバート家は父親が無精者ゆえ(でぶのランバート(Big Lambert)と何度も呼ばれるところに集約している)、一家はその日暮らしの生活を強いられている――ときに、豚の屠殺や死んだ馬の解体を引き受けることもあり、子供たちに手伝わさせてすらいる。馬の埋葬のため、父と息子が穴を掘るシーンが印象的だが、情景描写にのみ絞られており、それを見物しているサポの心情は一切語られない。また、この家の娘も陰鬱で、些細な仕草から(性暴力含む)虐待を父から受けていることが暗示されている――引き取り手もいないと見做されているのか、ランバート家はこの娘をサポに宛がおうとしている節がある――しかしここでも、サポの、娘に対する印象は語られない。
 この挿話の中心には確かに少年サポがいるのだが、その心情はまったく抜け落ちており、両親やランバート家の皮算用(それも、無知や貧困ゆえに抱く一縷の希望ではあるのだが……)ばかりが強調される――サポは本当に彼らを観察しているだけなのである。それでいながら、小川や草花、飼っている鶏など自然もしっかと見ており、(芸術家なり学者なり)高い資質を備えていることも窺わせる。
 「サポの話」もまた、何度かに分割して語られるが、全体を合わせると、「無知と知」、「天才と狂気」、「貧困と運命」など、ベケットが三部作以前にも取り扱った要素が見られる。ただ、この挿話も中途半端なところで切れており、神童サポがこの後どうなるのかは語られない――語り手曰く、ノートを遡っても、結末に当たる部分が見当たらず、そもそも、自分が話の全体を知っていたのかもわからない。ただ、状況の好転などなく、サポは無知な人物に囲まれたまま、埋もれていったのだろうとは語り手も感じ取っている。
 結末が削り取られた結果、「醜悪な現実」を書いた部分だけが残り、「サポの話」は不都合な印象を与えるばかりだ――ベケットは不都合を意図的に取り入れる作家で(現実の不都合な面しか見ていないとすら言える)、読者にその無慈悲を何度も突きつけてきたが、『マロウンは死ぬ』においては、語り手が自分で自分に突きつける、という構造になっている。無論、語り手も自分がどのような意図でこの話を書き留めたのか推測しないでもないが、どれほど暇に飽かしても、「わからない(I don't know)」の一語に収束していく――理屈が成り立たないから「わからない」のではなく、理屈の上で「わからない」の地点に行き着くしかないのだ――それは、「わからない」以外の結論を許さないということでもあり、この「I don't know」は次作『名づけえぬもの』にて連呼されることになる。

後編「マックマンの話」が突きつけるもの

 続いて、「マックマン」の挿話について触れるわけだが、いくつかベケットを読んだことある人ならば、この大見出しの結論も予想がつくかもしれない――すなわち、ベケットはここでも「同じ経過、同じ結末」によって改めて語り手(と読者)に不都合を突きつける――ノートに二つの挿話しか残っていないから二度で止めるが、もっとあれば、そのたびに突きつけていただろうとほのめかしながら。
 無論、「マックマンの話」と「サポの話」は無関係で、それぞれの内容は独立している――しかし内容の如何によらず、『マロウンは死ぬ』のテキスト上では、二つの挿話は確かに同一の役割を担っている――言ってしまえば、全体の形式との兼ね合い(不都合を突きつける機能)が重要なのであり、その内容などいくらでも置換の利くものなのだ。それでも一応、「マックマンの話」の内容にも触れておこう。
 あるとき、マックマンは理由もわからず病院に監禁される――雰囲気から、精神病院か救貧院らしいが、詳しいところは一向にわからない。マックマンはそこで一人の老婆と出会い、二人は恋に落ちる――。
 なるほど、この挿話はマックマンと老婆の恋愛話なのである。ご丁寧にも、ラブストーリーの王道をなぞっており、老婆と互いの悲しみを埋めるため慰め合ったり、愛の言葉を書き留めた手紙を交換したりする――しかし、老醜や宿痾のイメージが背後に下がることは決してない――語り手ですら、自分で書いておきながら自分で苦言を呈する始末だ。
 ベケットは「愛」について厳しい姿勢を取っていた――愛は無意味だとか、幻想だとか、そういう意味ではない――愛は言葉と同じく、あらゆるものに癒着すると考えていた節が強い。「もの」と「もの」、「こと」と「こと」、あるいは「もの」と「こと」、その繋がり(関係性)を愛と見做す姿勢は、確かにキリスト教における「神の愛」にも通ずるものがある――ただ、ベケットはあえて愛を老い、病気、死など、醜悪に結び付けて提示することが多い――美や善と結びついた愛を認めるならば、醜悪と結びついた愛も認めることが当然の帰結だと暗に示すのだ。
 しかし、ベケットは決して姿勢を押し付ける作家ではなく――こちらの方が意地が悪いとも言えるが――ただ事実を列挙するに留める。老婆と恋愛に耽る「マックマンの話」も単に語られるのみであり、語り手も嫌悪を覚えるにしても、内容そのものを掘り下げようとはしない。そして案の定、「マックマンの話」もまた結論部まで辿り着けず、「たまたま目の前を通り過ぎていった」印象だけが残る。
 三部作全体から見ても、ベケットが「愛」を主題としているのはこの挿話においてくらいである――中期以降の作品全般に言えることだが、ベケットはどうも愛に関しては深入りしたがらない節がある――少なからず、「言葉そのものの探求」に比べると情熱は薄い。ただ、この態度も愛は語り得ないものだから語らない、というのとも違う――むしろ、「あらゆるものに癒着する」、その性質において言葉と同一ならば、言葉だけを記せば事足りる、という決意のようなものさえ感じさせる。この態度もまた、文学者よりも数学者や物理学者に近いものだと言えよう。

作品全体の総括

 「マックマンの話」と『マロウンは死ぬ』、部分と全体の関係にある二つの物語は結末をともにする――つまり、「マックマンの話」が途切れることで、『マロウンは死ぬ』も幕引きとなるのだ。
 どうも、「マックマンの話」を書いているあいだに、語り手の意識に限界が訪れたらしい――文章が混濁し始め、文法が解体されていき、ついに単語の羅列となったところで、作品が終わる。二つの挿話どころか、『マロウンは死ぬ』全体としても、語り手は完結させることができなかったのだ――そしてこのあと、再び記憶を失って目覚めるのか、本当に死んでしまったのかは語られるところではない。
 言葉の機能を十全に精査するに、ベケットは例外も包括できなければならないという意識が強い――その背景として、素粒子物理学の胎動等、自然科学が「特例をすべて集める」方向に進んでいったことと結びつけるのは些か強引だろうか? とにもかくにも、ベケットは三部作において語り手たちを現実からも逸脱した極限状態に置き続ける――それは試練とも旅路とも言える形で現れ、一作ごとに窮地は極まっていく。
 『マロウンは死ぬ』の語り手は記憶を失っては目覚めるを繰り返しており、頼りにできるものも一本の鉛筆と一冊のノートだけだ――いや、もはや考えることと書くこと以外には、何もできないと言った方が正しい。この状況を「マロウン(?)」は次のように表現している――「死の訪れる瞬間を、永遠に待ち続けているかのようだ」。語り手が何度、現状を繰り返しているのかだとか、作品の結末で意識が途切れたあと、もう一度目覚めるのかだとかはわからない――語り手が知っていること、そして読者に提示できることは死の瞬間を待つこの緩慢な時間だけだ。
 生と死の過渡で宙ぶらりんにされ続ける、というモチーフは次作『名づけえぬもの』にてさらに極まった状態で引き継がれる――三部作の完結作に相応しく、『名づけえぬもの』ではありとあらゆるものが極限にまで至っており、抽象的な仮定が延々と続くのみだ――だが、その論評はそちらの記事に譲るべきだろう。
 「マロウン(?)」は死を待つだけの現状を、「暇である」とも「いっそ死んでしまいたい」とも思う――無論、いつ死が訪れるかなど、語り手の願いを反映するものでもないが。そして、考えることと書くこと以外に何もできないため、考え続け、書き続けるのだが、いずれの題材を取っても結論部は飛んでいってしまう――というよりも、「わからない(I don't know)」以外の地点に着地させる方法がない。
 実のところ、三部作全体の結末もここで提示されてしまっている――「モロイ」、「モラン」、「マロウン」、それぞれの「M」は窮地を通り抜け、一つの結論――実は初めから知っていた結論――「I don't know」に辿り着く。そして、三部作で展開される旅路もこれで終わりなのである。次作『名づけえぬもの』の語り手は終着地("I don't know")で目覚め、そこから一歩も動けずに終わりを迎えるだけなのだ。

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