見出し画像

11月23日(1999年) 葬式からスタジアムへ

この日は希望休日を取り、等々力に参戦した。17日の市原戦から平塚戦、そしてこの日と連続して参戦していたが、この日は急遽、特別な用事が組み込まれた。まさか試合の日に葬儀参列することになろうとは。それでも試合参戦はあきらめなかった。

平塚戦に勝利した翌日だったか、等々力と同じ東急東横線沿線の店舗に勤務するパート社員が急死したとの連絡を受けた。私はこの店舗の開店時のメンバーで(3店舗続けて新規開店に携わった)、亡くなったパート社員へのレジなどの教育をしていた。笑顔の素敵な女性で、レジ研修では初めは明らかにオドオドした表情だったのが、慣れるにしたがって本来の笑顔になっていったのが印象的だった。死因は急性くも膜下出血で、自宅のトイレで倒れた事、亡くなる前日も通常通り出勤し、いつも通り業務をこなしていた事を知った。まだ50歳前後の若さだった。

告別式が試合の日の午前中だった為、私は喪服を着て家を出た。会場へ向かう途中、武蔵小杉駅を通った。下車するサポの姿に気持ちがはやるが、必死で抑えた。会場ではご主人の憔悴しきった様子に胸を痛め、最後のお別れの際に見た故人の顔に研修していた時の様子を思い出し、本当に居た堪れない気持ちだった。

葬儀が終わると即東急東横線に駆け込み、武蔵小杉駅に着くやトイレに一目散。喪服からレプリカ姿に変身。身も心も戦闘態勢に切り替え、等々力競技場に向かった。慌ただしい行程だったが、滞りなくこなせて無事に等々力のスタンドに潜り込めた。これも高いモチベーションの成せる業か。平日の試合に職場から駆け付けるサポの気持ちが、この時よく解った気がした。

後半43分の北澤の同点ゴールは衝撃的だった。岡野の骨折しながらの疾走で得たPKで一度勝ち越していたから、ショックは大きかった。決して気を抜いていた訳ではない。ホーム最終戦で、しかも2万人を超える入場者でV川崎の気持ちも入っていたのだろう、と理解するしかなかった。ただ、試合終了後に他会場の経過・結果を知らせてくれない試合運営には、非常に腹が立った。まだ携帯にそれほどの機能が無い時代である。スタジアムDJの顔ばかり映すビジョンに、大ブーイングが起きたもの当たり前だ。

葬式からスタジアムへ、という滅多に味わえない1日は(数年後、今度はスタジアム→通夜参列を体験することとなる)、こうして過ぎていった。残留を争う市原が5-0で快勝したという一報にも衝撃を受けたが、気持ちは27日の駒場へ向けるようにした。27日に描くことになるだろうが、同点ゴールや市原の勝利以上に衝撃的な言葉を、この翌日に受けることになるとは、この時点では知る由もなかった。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?