7月31日(1993年) これぞ熱戦
この日の横浜M戦はTBSテレビの録画観戦だった。0-0からのPK戦をGK田北雄気が2本セーブし、最後はトリビソンノが真ん中に決めて勝利を飾った。
当時は、まだ35度という気温が殆ど無かった。とはいえ、暑いことに変わりはなく、しかも週2試合のサドンデスは、今から考えると残酷なレギュレーションだった。この試合も0-0のまま延長に入り120分間をフルに戦ったのだが、浦和は交代枠を使い切った後、柱谷幸一が筋肉疲労で退場、10人での戦いを余儀なくされた。終盤はとにかく守りを固めて、ひたすらクリアという状態だった。延長終了の笛が鳴ったとき、木村和司が疲労困憊で歩く様子がアップされたのも覚えている。「熱戦」だった。
日中の気温は35度が殆ど無かった時代と書いたが、夜の熱帯夜は当時から頻発した。エアコンの無かった私の自宅(さすがに今はエアコンあります)、特に古い戸建ての2階に部屋のあった私は、上昇気流と1階部分の屋根の照り返しとで昼はサウナ、夜も気温が下がらず寝苦しい毎日を過ごしていた。窓を開け放っても一向に気温は下がらず(夜中に突然雷雨が来て雨が降り込む事もあった)、窓枠に腰かけてウチワであおいだり、時にはTシャツを脱いで布団に横になったりしていた。選手の宿舎(ホテル借り上げだったとか)は当然エアコン設置だが、安眠できていたのだろうか。
この次の試合でも浦和は勝利し、初めて白星が先行した。「1stステージとは逆の成績にする」と選手からも威勢の良い言葉が飛び出し、私も心躍っていた。1stステージ以上の屈辱が浦和を待ち受けているとは、その時点では全く想像もできなかった。
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