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戦国武将たちと茶の湯:明智光秀編

逆賊・裏切り・三日天下・・・なんともネガティブなイメージの強い明智光秀ですが、反面、教養深い人としても有名だったそうです。

ここまで三編にわたって戦国武将と茶の湯の関係について記述してきましたが、そもそもなぜこんなにも挙って戦国武将達が茶の湯に親しんでいるかというと、"朝廷と関係を持つため"という理由が大半です。
いくら武功をあげても、いくら領地を拡大しても、どれだけの名声を得ても、朝廷に認められて将軍に任命されなければ何も意味がなかったからです。
言い方は悪くなりますが、朝廷に取り入って役を任命されるためにはまず朝廷の周りの貴族の取り込みから開始しなければならず、そのための教養が必要で、茶の湯はまさにうってつけだったのです。

光秀はある意味茶の湯マニアといってもいい信長の家臣で、信長に気に入られるためにも茶の湯を嗜み、それとは別に歌に励んだり自分で茶会を開催したりと、朝廷だけではなく信長にも気に入られるためにも自己研鑽に励んでいました。
教養を身に着け、交渉力を養い、政治能力を磨き、兵法にも優れて、さらに医学知識まで・・・たゆまぬ努力の結果、信長からの信用を獲得していったそうです。

光秀は茶の湯を津田宗及に師事しています。
津田宗及とは信長からも重要視された茶人で、京都妙覚寺での茶会にも招かれたり、信長の名物茶道具を種々拝見したり、信長自らの供応を受けるなどとかなり優遇されていたという記録があります。
そんな津田宗及が特に親しくした武将が光秀で、坂本城へもよく招かれたりしていたようです。

光秀は茶人らしく、たくさんの茶道具を所持していました。
出身は岐阜県美濃市。言わずと知れた美濃焼で有名な場所です。
余談ですが、茶人が好む茶碗の順番に
一楽、二萩、三唐津(いちらく、にはぎ、さんからつ)
というのがあります。

楽の御茶碗・・・楽焼。轆轤を使わず手捏ねで成形される。とても脆いが美しい艶があり、表千家、裏千家、武者小路千家と流派問わず茶人に好まれる。
萩の御茶碗・・・萩焼。朝鮮の帰化陶工によって始められたため、作風には李朝風のものが多い。
唐津の御茶碗・・・唐津焼。唐津を中心に肥前一帯で焼成された陶器の総称。楽、萩に比べたら比較的丈夫。

もちろん、他にもとても綺麗な御茶碗がありますが、光秀所有の御茶碗なら、高麗大井戸茶碗 銘「坂本」です。現在は野村美術館に所蔵されており、国の重要美術品に指定されています。
その他、茶壷、釜、色紙、等、名物を多数所有し、中でも青木肩衝(あおきかたつき)という茶入れに至っては、謀反を起こすその時までそれは大切にしていたようです。
この茶入れ、明暦の大火の際に江戸城本丸宝庫の中で被害にあったものの漆でもって修繕され、その後は後藤庄三郎が所有、最後は姫路酒井家所有と持ち主を転々とすることになります。
武士の象徴である刀のうち、名刀もそういう話が多いのですが、実は茶道具もわりかしこういう話は多かったりするのですよ。

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