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能の様式性で、 ケンジトシの劇評を読んだ

雑誌 悲劇喜劇にゲンジトシの劇評が載った、その中に演出の栗山民也さんが能の様式性を使って演出したという記述があった。

実は、舞台を見た時舞台の大きさといい、後ろに橋がかりの様な通路がある事といい、能舞台みたいだなと思った。また、劇中静かに歩いて登場する中村ケンジを見た時に、橋がかりを歩いて登場する、能役者みたいだなと思っていた。

能の様だと思えば、石原莞爾は昔の名残を訪ねるワキ方、そこで所の者に出会い身の上を聞く、実はその人は能の主人公のシテ方で昔の戦いなどで想いを残して亡くなった人が多い、シテ方は昔の物語を生き生きと語り、たいがい成仏する。ここではトシとケンジがそれにあたり、実は2人ともすでにこの世にいない人と思うと、色々辻褄が合う様にも思う。

なんだ、ケンジとトシの物語の時空がねじれていても、何の不思議もないじゃない。こじつければ、演奏する人が、舞台脇だけど見えるところにいて、コロスも地謡の様に語り始める。物語のクライマックスには、舞があり、歌も謡われる。和歌や漢詩を引用するように、ケンジの作品を引用する。

などと、舞台を思い出してみた。

でも、能と違うのは、ヴィオラの演奏とは別に、ノイズの様な音がいつの間にかずっと鳴って空間を支配していたこと、息苦しくなる様な音だった。


こんなにも、ゲンジトシにこだわるのは、単に私が中村倫也さんの推し(筋金入りの人の足元にも及ばないが)だから、だから、バイアスがかかった判断しかできない、いろいろえこひいきを差し引いても、それでもこの作品は心に残る物だった。





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