構造と自由な主体
【哲学的思想問題考20240621】
『天皇制という構造と個の主体』
思うに、「天皇制」も<構造化されたイデオロギー>ではないか。
個人と集合体など主観の<利権>や精神の<秩序や安定>を求めたイデオロギー。
この時、<構造>とは、個人の<主観>を成立させるアプリオリな制約や、既存の「価値観」と「秩序」と言ってもよい。
それは、絶対的かつ圧倒的な「枠」で個人ばかりか集団をも、意識の根底から無意識の位相にまで浸透し、支配している。
個人は、時に集団は、決められたレールの上を走らされるだけのようだ。
個人も、集団も、その<構造>の外には出られないかにみえるし、実際、現実にその証を見つけることは難しい話ではない。
では、個人と集団は、そしてこの「私」に、<自由>はないのだろうか?
いや、わたしたちは、その<構造>をいったん自覚し認めたうえで、それと対峙することで、その「枠」の外に出られるのではないか。
そもそも、<構造>を明らかにすることに成功した「個」は、既に、<構造>を相対化し得ているわけで、絶対的な「閉ざされた秩序」から自由になり、その「枠」を超克することが可能となるだろう。
人は<構造>を突き破り、<主体>を取り戻し<自己解放>を成就し得えるだろう。
このような意味合いにおいてなら、人は、個の主体として、<構造>から、「自由」な存在だと言えるように思えるのである。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?