『ワクチン接種推進派とワクチン反接種推進派の<不毛の対立>を超克するために』

【哲学的思想問題考20240614】
『ワクチン接種推進派とワクチン反接種推進派の<不毛の対立>を超克するために』

新型コロナのワクチン問題で、接種推進派と反接種推進派の間で、激しい論争が行われている。接種推進派は、反接種推進派を、「陰謀論者」「頭がおかしい」と罵り、反接種推進派は、接種推進派を「洗脳されている」「頭が遅れている・無知無能」と罵る。互いに、自己反省を担保した「対話」をしようとはせず、一方的に相手を攻撃することに終始している。
その対立は、友人・親子・兄妹そして夫婦の絆に亀裂を生み、分断するほどに激しい。

私もその渦中にはまってしまっていたが、他方、物の見方・考え方という位相から、その敵対的関係を憂い、悲しく思ってきた。
この不毛の対立をどうしたら乗り越えられるのだろうか?

そこで、<不安>というキーワードが浮かび上がってきた。
そう、接種推進派・反接種推進派ともに、<不安>を直視することが必要なのではないかと。

二つの<不安>の存在。
一つは、「ワクチン接種は、有害であり、死をもたらしかねない」という<不安>。「ワクチンに殺されるのではないか」という<不安>。
もう一つは「新型コロナは、恐ろしいウイルスで、中世のペストのような人類規模の死者を生むのではないか」という<不安>。「(ワクチンを打たなければ)新型コロナに殺されるのではないか」という<不安>。

私は、哲学的論理思考の位相から、接種推進派・反接種推進派の両者とも、それぞれ、相手方が抱いている<不安>の存在を、真摯に直視すべきではないかと、今考えている。

繰り返すが、事は、「新型コロナで殺されるか」「ワクチンで殺されるか」という二つの<不安>を生じさせている問題である。

その論争においては、「新型コロナなどただの風邪だ」「ワクチンの有害論は政治的陰謀だ」という事実に抵触する極論---2021年の1月から20222年の3月の時期、まだワクチン接種が行われていなかった時期のコロナ第3波流行まで、世界で500万人を越える新型コロナによる死者が出て、医者たちは「トリアージ」という究極の<命の選択>を迫られるほど追い詰められていたという<事実>がある。また逆に、ワクチンとして極めて不十分な治験しかされず、実際にワクチン接種によって生じたと疑いざるを得ない・因果関係を認めるべき事例が数多発生しているという<事実>もある。この二局面の<事実>を真摯に直視しない---を頑なに主張する人々が双方にいて、ヒステリックな声で煽り、激しい対立をより悪化させてしまってきた。

今、私たちは、この<不毛>の<敵対的対立>に、「終止符」を打たねばならない。
そのためには、ワクチン接種推進派・ワクチン反接種推進派の両者が、お互いが抱えた二つの<不安>の存在を、真摯に直視すべきではないか。
「新型コロナで殺される」という<不安>を抱く人々にも、「ワクチンで殺される」という<不安>を抱く人にも、それぞれ、その<事実>を認め、<不安>に「理解」を示す時ではないか。

それこそ、両者が抱く<不安>には「正当性」が認められるのだから、相手が<不安>を抱いている<事実>そのものを「ナンセンス。狂ってる。頭が悪い。知能が低い」なぞ論争の域を超えて<人格攻撃>まで行い断罪することを止め、「そうだよなあ。ワクチンは、打つも<不安>、打たぬも<不安>だよなあ。向こうの言ってることも一理あるよなあ」という素朴な感情と意識を、今こそ、<共有>すべきではないか。

蓋し、私は、「哲学的論理思考」が明示する<二つの不安>論(相互に相手の<不安>を<共有>すること)が、ワクチン接種推進派(新型コロナ恐怖論)とワクチン反接種推進派の両者の「和解」の一助になることを強く願ってやまない-----。

【追記1】
因みに、私自身は、ワクチン接種は2回している。その後は、ワクチン接種の有害性に対する危惧から、ワクチンの「危険」と落ち着いてきたと思われる新型コロナの「危険」の度合いを天秤にかけてみた場合、今は、ワクチン接種は私自身控えたほうがいいかなと、また社会的にも今や「新型コロナで死ぬか、経済的危機で死ぬか」という新たなフェーズも生まれており、そうすべき時期に来ている(妊婦や子どもたちへの接種計画は中止すべき)と、個人的には考えている。※注:新型コロナによる死者数が不明になっているので、最新の新型コロナによる被害状況をご存知の方がいらしたら、ご教示いただきたい。

【追記2】
私は、直近で、「ワクチンビジネス論」ばかりか、件の「人口削減計画論」に関して、極めて重要な<事実>を入手していること、それについても真摯に直視すべきであると考えていることを、書き添えておきたい。

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