実存と摂理(=神)、愛を生きる

【哲学的思想問題考20240707】
『<摂理>としての神の存在を信ず』

「実存は、本質に先立つ」というサルトルの言葉は、無神論の立場に立てばそのとおりだし、たとえ(意志を持つ)神が存在しようとも、その<神の啓示>を直接感じ取れない私においては、本質を受容するにも、その前に主体の存在(現存在)が大前提になるという意味で、やはりサルトルの言葉は、有効だと考えざるを得ない。

果たして現存在たる主体は、絶対的自由と可能性を有しているか、換言すれば、「<構造>が、<現存在>たる主体に先立つのではないか」という例の問いを発しようとも、言わば、「私は、<構造内主体>として存在するに過ぎない」としても、それでも、私は、意識の位相において、<絶対的自由>を得ているのだと考えることができる。

そして、その<絶対的自由>を本質に先立って得ている私だが、現実世界において、私に対する「神の意志」を知り得ぬ以上、その存在と生命は、<絶対的保証>を得ているわけではないという意味で<混沌>として「無」であり、「偶然」であり、<絶対的孤独>の中にあると言わざるを得ない。

たしかに、そうした私は、私の出自においてそうであったように、事実上「孤児」同然であり、「幸福」が約束されている存在ではない。
正に、一瞬先は闇であり、その事実は、希望ではなく「絶望」を、また安心ではなく「不安」をもたらす。

言葉をかえて言えば、(意志ある)神なくば、或いはその神の啓示を知らぬ私は、「絶望と虚無」の中に、細々と存在しているのである。

が、「恐怖」でしかない私の<実存>だが、しかし、この言わば<絶対的平安>の意識感情の中にあるのは何故か?

なぜ、私は、絶望もせず、発狂もせず、こうして己の「存在と生命」を受容し得ているのか?

それは、私が、「摂理」を、信じているからだ。
幸いにも、この「世界」は、「摂理」を以て存在している。
量子の世界もまた「摂理」を有して「在る」のである。

わたしとって、「神」とは、その「摂理」に他ならない。
物語の中にある神ではなく、神話の世界の神ではなく、「摂理」という<超越的>存在としての「神」を、私は信じているのである。

この実存する私は、「摂理=神」に生かされている---。
そして、そこには、自然だの、藝術だの、人だの、猫だのといった諸々、いや「万物」に<愛>が存在し、それに私は支えられている---。

ゆえに、私は、こうして「(絶対的)幸福感」に満たされており、平和と平安の中に、生きていられるのである。

【補記】

・「実存は本質に先立つ」と言ったサルトルは、そこから「自由」の発見と「アンガンジュ」という概念を見出し、彼の信ずる「歴史」への参加を語った。
・私もアンガンジュを語るが、その前に、ここでは、私は、「愛」の発見と、超越的存在の「摂理=神」と私について、語りたい。
・実存という認識に至ったサルトルは、そこからさらに「哲学」していくが、私はそこから「哲学的科学」へと進む。
・「科学」的思惟と認識を経て、再び、「哲学」に至ることになる。

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