構造と主体---構造主義論ノート

【哲学的思想問題考20240624-1】
『<構造>と主体』

個人は、たしかに、言葉にはじまって、慣習や制度や秩序や共同主観による通念などの<構造>の中に閉じ込められている。

そこでは、たとえば、私個人の意志や思念や感情など微々たるものであり、「状況」を変える力など皆無に思えるし、実際そうだろう。

が、その厳しい事実を以て、<構造>の下で、<個>が支配され閉ざされると考えるのは、どうか。

<構造>がもつ核となる価値観や秩序と対峙することは可能だろう。他ならぬ<個>が、そうした<構造>をいわば相対化することに成功したとき、<個>は、<構造>の内側にありながらも、その枠を打ち破る契機となるであろう。

そして、その時、<個>は、<構造>から「主体性」を取り戻したのだと言えると思う。
もちろん、急いで付け加えれば、その時の「個の主体性」とは、西欧近代主義---それ自体が、<悪しき構造>と化している---のそれではない。

絶対的な西欧近代主義における「個の主体性」というドグマそのものを相対化し、弁証法的に新たな意匠のもとに誕生し構築された「個の主体性」である。

こうして、人は、己自身の「主体」が<構造>によって極限まで矮小化させられたが、逆に、その宿命論的とも言える<構造>を、「主体」が超克するという逆転劇を演じるチャンスをものにし得たのである。

*追記1
「自由論」のテーゼにおいて---

・実存主義者サルトルが、語る「自由」は、構造主義者レヴィ・ストロースによってジャッジされるような楽観主義的なものであったのか、それとも、或いは、サルトル自身でさえ気付かなかった「哲学」の位相における「本質的自由」であったのか---。

・構造主義の登場によって舞台から降ろされた実存主義者が、「人間は<自由>である」と言うとき、歴史的事実経緯はともかく、こんにちにおいては、<構造>を明確に認識し対峙し得たなら、再び、新たにその「本質的自由」を具現化することになるのではないか。

・圧倒的な<構造>の前で個々のあまりにもあまりにも無力な「自由」は、哲学的に、そして「社会」的に共同主観となり、やがて新たな<構造>を構築することに至るのではないか。


*追記2
「構造主義」のテーゼにおいて

・「構造主義」は、弁証法によって、固定的・普遍的な宿命論としての思想から、それ自身も絶えず変容し新生する思想となるのではないか。

・「構造主義」は、諸々の封建的な矛盾と不条理をはらむ体制を不本意ながら擁護する保守的で御用(学者)的な立場から、差別と偏見に満ち傲慢で歪んだ西洋近代至上主義打破という歴史的使命と役割を担う思想としての革命的な立場へと上昇し得るのではないか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?