「戦時体制確立」の動き--そして「愛と平和」の哲学

【哲学的思想問題考20240625】
『戦時体制確立と愛と平和の哲学』
私は、1987年の春に、当時の中曽根元首相が「戦後政治の総決算」というイデオロギーによって、日本の「戦争のできる国家体制」の確立に向けて動き出したと書いた。
当時、左翼からさえ「杞憂」だと真摯に受け止めてもらえなかったのだが、2024年の今、事態は深刻さを増し、タモリ言うところの「戦争前夜」、すなわち「戦争する国家準備体制」の確立に向けて急速に前のめりになっている。
頻りに「台湾有事」が叫ばれ、その他国の動向が「日本の生命線」であるかのごとく危機を煽っている。また、北朝鮮のミサイル発射に対して、「アラート」を発し、大きな建物の中か、地面に伏して身を守れと、まるで先の大戦における「竹槍」を想起させるような有効性が極めて乏しい茶番劇が大まじめで繰り広げられている。そのプロパガンダに殆どのメディアもまるで政府の広報機関であるかのような報道ぶりで後押ししている。
冗談は休み休み言えと私は言いたい。現実問題として、日本は、最早「戦争のできない」国になっているのである。
原発を50基以上も建設し、また食糧の自給率も、先進国の中では最低水準で、日本で食べられているもののうち、38%が国内で生産されたもので、残りの62%は海外からの輸入に頼っているという悲惨な有様だ。
もちろん、原油などインフラも「戦争できる国家体制」づくりからすると全く担保されてなどいない。
一方で、「秘密保護法」や「共謀罪」などを強行採決によって成立させ、今また事実上の戒厳令でありその条項の下、国会や選挙や憲法さえ<停止>させるという<ファシズム>への道を突き進む「緊急事態条項」導入と「憲法改悪」に血道をあげている。国内における「戦時下体制」の確立という点には本気で暴走しているのである。
この観念と事実との間にある致命的なギャップをかかえたまま「戦争」に突き進むことがあれば、焦土と化した先の大戦以上の悲惨極まりない結果を招くことは論を待たない。
自民党の国防族のみならず多くの国会議員が妄想に駆られた暴言を吐いているが、今や、日本は過去の戦争がそうであったように<勝利>を担保する「戦争などできない」国になっているのである。
現実的に可能とされるのは、「専守防衛」に徹した「局地的」な戦いに限るのだ。よもや「先制攻撃」の愚に走り、相手国の「主権と独立」を侵し、「自衛」の大義を与え、原発にミサイル攻撃を誘発させるが如き「国家存亡」の危機を招くことなどあってはならないし、また客観的にはそんな「全面戦争」などできないことは明白なのである。
蓋し、理性と知性が欠如した感情にまかせた国防、すなわち「戦争」など以ての外であり、日本の主権と独立は、徹頭徹尾、「平和外交」と「国民同士の友好的な交流」によって守られるべきなのである。
日本人は、前のめりになっている自民党と維新や国民民主の議員などの<煽り>に乗せられることなく、今こそ、「現実的平和主義」という「平和の哲学」に即した意識と感情と思念を惹起すべき時である。
平和憲法の下、デモや集会やSNSなど法と秩序に配慮したあらゆる方法で「反戦平和」の声を上げるべき時であり、「愛と平和」を絶対に死守すべきであると、私は強く訴えたい---。


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