報道の公平と中立とは何か?

【哲学的思想問題考20240706】
『報道における<公平>と<中立>とは?』

いよいよ東京都知事選挙が明日に迫っている。
twitterなど見ていると、なかなか白熱した選挙戦が展開されているようだ。
ところが、である。

大手の新聞やテレビなどでは、異常なほど報道が為されていないのだとか。
特定の候補に有利にならないように、また不利にならないように、という「公平」を担保するためだという。
報道機関が、選挙結果を左右しかねないような役割を果たすべきではなく、あくまでも「中立」を保つというわけだ。

が、この一見正しいく思える大義名分による対応は、やはり根本的に間違っていると思う。
「公平」と「中立」を保つために、<情報>を都民に提供しないというのは、それこそ報道機関がその存立の根拠としている「使命と役割」を果たしていないことになる。

「公平」と「中立」を担保すべく「知らせない」というのではなく、それらに配慮した上で「知らせる」ということでなくてはならない。
すなわち、ある候補者に反対する人々が主張する「否定的」な事実を伝える一方、その候補者を支持する人々が主張する「肯定的」な事実も伝えるという報道の仕方があるではないか。

肯定的事実と否定的事実のいずれをも「意見」としてではなく、「情報」として伝えることで報道機関としての「公平」と「中立」は保たれるわけだ。
事実を明確に示して、あとは、選挙民の判断と意志に任せることだ。
何も難しいことではない。

候補者Aが批判されている事実を伝える一方、候補者Bが評価されている事実を伝えるだけという事なら、なるほど候補者Bに荷担しているとなり、「公平」と「中立」に悖る話になるであろう。
が、それぞれの支持者から為される肯定的事実と不支持者から為される否定的事実を、共に伝えるのであれば、報道機関として「公平」と「中立」は、担保されるはずだ。

とにかく、報道機関は、「情報」を提供して、あとは選挙民の「判断」に帰するという、報道機関として当然の「使命と役割」を果たすべきである。

「伝えない」というのは、報道機関の存立の意義と根拠そのものを失わしめる<陥穽>であり、いやそれどころか、むしろ、特定の候補者を「支持し応援」しているがゆえのことではないのか。
「公平」と「中立」という如何にも尤もな理由を大義名分としつつ、実は、巧妙に「政治的活動」を果たしているとの疑念を抱かれても仕方あるまい。
もしそういう事であるなら、報道機関としての「理念」に悖る卑劣で悪質、醜悪な振る舞いであり、自殺行為であると批判されなければならない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?