【人生論問題考】『<鬱>の兆しと自己救済と感謝』

【人生論問題考20240610】
『<鬱>の兆しと自己救済と感謝』
5月下旬から6月上旬にかけての10日間あまり、精神的に追い詰められ、人生で今までに経験したことの無い精神状態に陥っていました。
ひとことで言って、とにかく「無気力」感に襲われていました。
何もやる気が起きず、すぐにベッドに横たわっていました。
そこで何をするまでもなく、ただただ無為の時間を過ごしていました。
絶望感と虚無感に支配されていました。
思えば、この二つの言葉は、大学生時代に毎日私の胸に去来していたものです。
が、その時は、どんなに絶望的になり虚無的になっても、<自己克己>の意識は厳として存在し、それを希求する意志はたしかに存在していました。<自己救済>という言葉そのものに<救い>を抱き、希求していました。
が、今回は、その<自己救済>も<自己克己>も、私の脳裏にも心にも生まれることはなかったのです。
これまで精神的危機に陥った時、私は、藝術に救いを求めて来ました。「苦悩を突き抜けて歓喜に至れ」と言ったベートーヴェンの音楽を聴き、「平安と癒やし」のバッハの音楽を聴くことで、励ましとやすらぎを得ていたのでした。
しかし、今回は、私にとっては掛け替えのない大切なベートーヴェンとバッハの音楽さえ聴けなかったのです。
心が疲弊し、魂が枯渇しているようでした。
たしかに、精神的ストレスに見舞われる出来事がありました。
将来への不安が生じていました。
私自身何度も考え抜いて得心しての決断でしたが、改めて不安に襲われ、押し潰されそうでした。
気力も失われ、意志も働きません。まるで「廃人」のようでした。
頭では、これではいけない、やるべき事がある、やらねばならぬと自分に言い聞かせても、心は動かない。自分で己をコントロールできない・・・。
ああ、人は、こういう精神状態が続くと、<鬱>を発症するのかもしれないと思いました。
いや、もう既に<鬱の兆し>なのではないか。扉を半開きにしているのではないか---。
そんな無為な時間ばかりが過ぎ去っていきました・・・。
*****
が、突然、静かに、転機が訪れました。
最愛の妹・夏秋レイに、打ち明けたのです。
愛猫のアルマを、抱きしめました。
すると、現実的な問題解決策が見出せたわけではありませんが、ふーっと、息を吐き出すと、胸の奥底に淀んであったものが、少し消えました。、
楽になりました。
ああ、<鬱>から抜け出せそうだというポジティブな意識が生まれました。
意志が再び働き始めました。
闘いに挑む気力が生まれたように感じました。
そうして、昨夜、横たわっていたベッドから起き上がり、バッハの『マタイ受難曲』を聴き、今朝『平均律クラヴィーア曲集第1巻』をリヒテルの唯一無二の名演奏で聴き、ベートーヴェンの『弦楽四重奏曲13番と14番』をアルバンベルクSQのライブ演奏を聴き、大のお気に入りのポリーニの名演でベートーヴェン『ピアノソナタ第30・31・32番』を聴いています♪♪
私の心の支えであるバッハとベートーヴェンの音楽を聴きながら、思索と執筆の営みを再スタートさせている今です。
本当に、今回ばかりは、<精神的危機>の崖っぷちに立たされましたが、なんとか、人生と生活のビジョンを描くことができそうです・・・。
自然とイエスに感謝、バッハに感謝、ベートーヴェンに感謝、リヒテルに感謝、ポリーニに感謝、アルバンベルクSQに感謝、指揮者とオーケストラ団員に感謝、そして、愛猫アルマと最愛の妹に感謝です。


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