古代『阿波』国の中の『ヒエ』

 今回の地名は、 
『日本三代実録』(873年)に乗鞍岳を『あぼうやま・あわやま』と呼んだ場所と言われる、
岐阜県:飛騨国大野郡阿拝郷です。

「和名抄」所載の郷で『阿拝』の読み・訓注は高山寺本には「安波」、東急本には「阿波」とあります。 (コトバンク等参照)

『あはい』と書いて『あわ』と読みます。
もう一つ、『淡海(あわうみ)』の呼び方は『近江(おうみ)』に変わった事。
ここで引っ掛かって来たのが、 『随書』(倭国伝)の記述で、
「倭王の姓は阿毎(アマ)、字は多利思比孤(タリシヒコ)、号は阿輩雞彌(オホキミ)。」
とあります。

阿輩雞彌の読み方は、『あほきみ』『あはきみ』『おほきみ』『おおきみ』等と色々説が分かれています。
今の発音だと『おおきみ(天皇の敬称の一種)』だと言うのが通説のようです。

阿拝(あはい)で『アワ』と読むなら、『阿輩(あはい)』も『アワ(阿波)』と読むのではないか?、
淡海(あわうみ)が近江(おうみ)に変わったのなら阿波(アワ)は『王(おう)』に変わったのではないか?、 王(皇)様は『アワさま』。
大王は『阿波の君』。
阿波の国を統治する男のリーダーは『粟様(あわさま)』と呼ばれていて、国名が『粟国』になり、 『粟様』は後に『王様』に変わった。

ここから先は突拍子もない思い付きなのですが、 「そう言えばヒエは何処にいった?」と考えだしました。
「そもそも阿波では稗の栽培をしていないのか?」 と思って調べると、
『四国稗(しこくびえ)』があり、しかもこの別名が『弘法稗(こうぼうびえ)』と言います。

阿波古代史研究において阿波の隠蔽に大きく活躍したとされる弘法大師の名前がついている事に引っ掛かります。

『稗(ヒエ)』の呼び名の由来を調べると、 「日毎にさかんに茂るので『日得』と言う」とあります。

『日』の力を『得』て実る穀物。
天照大御神・大日孁貴・大宜都比売神はこちらでは無いのか? 「粟の国」より「稗の国」の方がネーミング的には良くないか?、と考えました。  

ここで出た仮説が、阿波国ではより古代に女のリーダーを『ヒエさま』と呼んでいて、 国名を『稗国(ひえのくに)』と呼んでいたのではないか?と言う事です。

『ヒエさま』は『ひいさま(姫様・女王様)』に変わって行った。
旧仮名遣いでは『ヒ』と『イ』は互換性がある。(例えば『おしまい』は『おしまひ』、など)
『稗国(ひえのくに)』は『ひいのくに』に変わり、
『イイの国(飯の国)』に変わり、
『イの国』となった。(阿波国の前身のイ国)
『イの国』は『ひいさまの国』で『姫様の国』となり、中国からは『東海姫氏国』と呼ばれた。

四国は当初は女性のリーダー(ヒエさま)の統治する『稗の国(イーの国)』で、
女王が『稗巫女(ひみこ)』で、
実際の政務を行う弟が
『稷(あわ)君』
それが後に男性のリーダー(アワさま)が統治する国となって、
『稗の国(イの国)』から『稷の国(アワの国)』に国名を改めた。

阿波の字は『粟』よりもこっちの『稷(アワ)』だったのではないかと。
『魏略』の方の倭人伝の「倭人は自らを太伯の後裔だと名乗った」から太伯は周王朝の姫氏の血筋。

姫氏の祖は農業神の后稷(こうしょく)であり、 「姓は姫、字は棄、号は稷」 つまり号が『稷さま(あわさま)』という事になり、 『東海姫氏国の稷(あわ)さま』となり、

『東海姫(ヒエ)氏国』でも『東海稷(アワ)氏国』でもシームレスで繋がり、
しかも姫も稷も(現代中国の)発音は同じ『j i』になる。

ネットの中国辞書で『稷』を調べていたら次の様な記述がありました。 「稷(しょく)は齋(たかきび)なり。」 アワはインベであり、インベもまた穀物と言うことに‥‥‥‥‥‥ 阿波国と特に関係ない中国辞書に何故に稷(アワ)と齋(忌部)がセットになって出てくるのか?

気になります。


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