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当事者研究

2009.6.7(日)ある日の『当事者研究』/セルフ・エスノグラフィーの試み

部活保護者会が予定されていた日。雨で運動会も延期されたであろうこの日に、10日ぶりに1日家にいられた。朝は目的意識もはっきりしており、律が出かけるのと同時に「世界の中心」と名付けた食卓に座り、『病をより良く生きる』というタイトルで「詩のようなものⅣ」を書こうと思い立ち、その前に文書整理に取り掛かろうとしたのだが…。

 

 案の定というべきか、財布を整理しようと名刺やレシート類を広げ、いらないものを捨てつつ、レシートを分類している内に混乱し始めた。古い名刺を並び替えながら、過去の思い出が蘇り、ここ2年ほどに頂いた名刺とあわせて整理している内に落ち着いてきたのだが、書斎の文書に目を通している内に不安が興じ、自慰行為をしたくなってしまった。ヨーロッパでの眠れない夜やピースウォークの後に風俗に行ってしまったのと同じ感覚。改めて「オナニーとはリストカット同様、自己の生を確認する行為なのだ」との認識に至る。情動に直接働きかけるので、理性ではなかなかコントロールできない。「やめたくてもやめられない脳」の働き。『求めない』と『BE』を手にしてようやく落ち着いたが、「より良く生きる」どころか「病的な強迫行為」に悩まされている。

 

 手に取った『BE』は強迫性障害(強迫神経症)の特集。Obsessive Compulsive Disorder 略してOCD。ベッカムもこの病に苦しんでいるとのこと。鍵やプリント棚に関して軽い強迫行為があることは自覚しているが、性的アディクションもここから来ているのかもしれない。確認強迫だけでなく収集癖もこの障害に属するらしい。「強迫性スペクトラム」の中にはセックス依存が含まれ、OCDの約3分の1が鬱を併発する、と原井医師は語る。ただ強迫観念はコントロールできなくとも、強迫儀式(行為)は自分の意志でコントロールできるともいう。やりすごせたという体験を繰り返すこと。強迫観念との戦いにおいて「負けを認めること」。放っておけば慣れて何とかなる。確かにそうだ。『つれがウツになりまして』の細川さん夫妻へのインタビューには、「上手にあきらめるコツはそれが大したものじゃないと気づくこと」とある。私の鬱とのつき合いはかれこれ15年。内観と断酒会のおかげで「大丈夫、何とかなる」と思えるようにはなってきた。強迫行為はまだゼロというわけにはいかないが…。

 

 「はいかない」を「はいかい」と打ち間違え、「俳諧」と変換されてとっさに『俳句脳』を読んでいないことを思い出す。目次を見ると「はまる」メカニズムについての記述があった。黛さんのスペイン巡礼体験から「土地の変化が内的変化と連動」することが語られる。受けて茂木氏曰く。「意識が自己と他者の間(あわい)にある」。これは私が内観で体験したことと同じ。外界や行動を制限することで、自分の中から沸き上がってくる意識に耳を傾けることが可能となる。加島氏の語る「求めないことでかえって自分の内なる力を汲みだす」という感覚。

 

 そんな話題の後で「はまる」メカニズムが語られる。要は「ドーパミンによる行動の強化」であると。アディクションを「熱中すること」と肯定的に捉え「学問はドラックと違って、どこまで追求しても、肉体を破壊させることはまずありません」と茂木氏は断言する。だが肉体は破壊されないかもしれないが、精神はどうなのだろう。脳の活性化=作業効率優先主義のような近頃の脳科学信仰を良しとしない私としては、何となく座りが悪い。田中康雄先生の言うように「本来分かりにくいものが分かりやすくなった時には、どこかに欠落があるはず」と思った方がいい。脳の局在論がもつ関係性の隠蔽。斎藤環の指摘によれば、「脳科学化」という「素朴な主体の実体化」は、ナルシシズムの兆候に他ならないことになる。

 

 「病を生きる」とは、自己否定と自己承認の狭間で苦しみつつも、言語化=自己分析を通してそれを相対化し、主体の幻想=ナルシシズムとうまくつきあっていくことなのだろう。岸英光氏に倣って、ネガティブに世界を見ることなく、かといって無理にポジティブ思考を自らに課すこともなく、ニュートラルであろうと志向することが大切なのだ。あるがままを認め、がんばらないこと。ツレさん曰く「焦らない」「特別扱いしない」「できることとできないことを見分ける」という「あ・と・で」=「後で」という感覚で、淡々と生きること。

 

 ゆっくりと「できない自分を楽しむ」くらいの余裕を持ちたい。自分のスピードが速すぎると、周りの現実が見えなくなってしまう。相手に寄り添うためには、立ち止まることが必要なのだ。きっと「病に感謝する」時がやってくる。病んでいるからこそ、世界をしっかりと捉えることができるのだ。その時、「回復した=治った」ではなく「病をよく生きた」と言えるに違いない。

 

 混乱と衝動と鬱に始まった一日だが、何とか自分を客観視して、穏やかに終えることができそうだ。脳ばかり使って少し疲れたが、昼のパスタも夜の鍋も、とてもおいしかった。感謝できる対象があるということは幸せなことだ。「ねばならぬ」とか「良い/悪い」といった価値判断をいったん留保して、まずは全てを受け容れてみる。話し過ぎてしまう弱点を克服すべく、まずは聴くことに徹すること。語るとは評価することに繋がる。「評価ではなく省察」(佐藤学)。かといって難しく考えすぎずに、自然体を志向すること。

 

 「当事者研究」と名付けた自己言及=セルフ・ナラティブ。「エスノグラフィー」というには、相変わらず引用が多すぎたが、他者の言葉の織物こそ「私」なのだから、これでよいのだ。他者性を隠蔽し「内なる声」を特権化するのではない語り。誠実に自らの内側で響いている「他者の声」に耳を傾け言語化し、相対化すること。言葉のフェティシズムが、自己を肯定的に再構築してくれていると捉えよう。理性で情念を飼い慣らすこと=一種の自己暗示には若干の嘘が伴うけれども、何もしないで悶々と過ごすよりは良かった。心地良い疲れ。今日はゆっくり眠れそうだ。恐れることは何もない。明日は明日の風が吹く。何とかなる。日付も変わった。そろそろシャワーを浴びて、ベットで休むとしよう。

 

 新たな一週間を乗り切るために、力を抜いて、流れに身を任せて…。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2009.6.18(木)『当事者研究』その2

 今日も休んでしまう。断酒会でも語ったが、鬱の自覚頻度が高まっているように感じる。昨日は朝、休みたいと思っていながらも、行ってしまえばいつも以上に仕事が進み、新譜の印刷、職会・全協資料準備、コンクールの申し込み、全協参加、保護者会案内、学級PTA参加、音楽実践講座会場依頼までこなして、随分生産性の高い一日だった。もちろん動けなくなって5校時トイレに籠もったが、学年のスタッフに配慮する余裕もあったし、夕方笑って話もできた。石川先生からのMLに反応し、研究ノートを書くこともできた。

 

 それなのに何故、休んでしまったのか。分析するに、昨日の段階で休めるものなら休んでしまおうと思っていた節がある。休むために仕事をやっつけたといっても良い。即ち計画的であったということだ。もちろん朝の段階で気持ちが塞いでいたことは事実だ。だが休むほど不調だったのかどうか(低血圧ではあるが…)。そんなに忙しくないということが、休みを取る大きなきっかけとなったと思われる。

 

 朝学校に電話する時は、当然罪悪感もあった。無理すれば(実際にはそれ程無理でもない)行けた訳だし、行ったら行ったで自分を褒めることもできただろう。行かなかった事で、午前中はすっきりしない気分を引きずっていたが、お昼においしく食事を頂き、午後からは「創造的な音楽づくり」に関する文献に当たって、考えを整理することもできた。休んだ自分を責める以上に、この休みを有効活用できたのならそれで良い。人生に無駄はない。今日一日ゆったりすることが必要だったのだ。

 

 明日は授業3コマに職員会議。7月の生徒会活動計画も2コマの空き時間で整理しなければならない。夕方には2つ学習会もある。来週からは中体連激励会、合唱プロジェクト会議で選曲資料提示、大嶋さんネタで道徳題材作成、音楽小委員会準備、保護者会準備、学年合唱曲選曲、成績処理、西区手稲区演奏会…と、これまでのんびりやってきた分、一気に忙しくなる。コンクールも近づいてきて精神的に追い込まれる時期でもある。

 

 「やらねばならぬ事」のオンパレード。それでもこれまでこなしてきた大量の仕事に比べれば大したことではない。問題は、仕事の生産性が自信に繋がっていないことだ。これだけの仕事をこなしつつ、自らの研究・研鑽も怠っているつもりはない。それなのにどうして鬱気分に退却してしまうのか。それを上手くコントロールできないのか。

 

 『Be』最新号の特集が「自信を持つ」について。水澤都加佐氏は「価値基準」がそれを左右すると言う。断酒カレンダーにある「自分の物差しで他人を見ない、人の物差しで自分を見ない」ということだろうか。「自分ができないことを『自分に認める』ことと、それを他人にもオープンにすること」が大切だとのこと。自分の歴史を確認することで「懸命に生きてきた自分という存在のかけがえのない価値が発見できる」のだ。生きづらさを乗り越え、確実に身につけてきたはずの「ライフスキル」を点検しておくこと。「自分にOKを出せるような価値基準、感情の扱い方、自己表現、自分にとって安全で心地の良い人間関係の育て方…」、これらの備えを確認した上で「他人と比べないこと」、「他人と比べるよりも十年前の自分と比べる」。以前私がレポートで書いた「他者との比較(相対評価)ではなく、過去の自分との比較(個人内評価)を重視すべき」と同じ視点である。

 

 水澤氏曰く、「かつては断片的な情報の中でヒントを求めてあがいていました(中略)それが、何年も何年もたつうちに、統合されて、つながっていく」。この感覚は内観をしたときにも体験したし、それ以前にも何度か感じたことはある。ただその全能感は私の場合、双極性障害(躁うつ)から来ているものに過ぎない気もするが…。繋がったと思ったらバラバラになりの行ったり来たり。その連続の中で少しずつ自己を回復していく過程が、私にとっての「生きること」なのだと思う。不器用な生き方ではあるが、他の誰かと取り替えることのできない「自分の人生」。冷静に振り返れば、自分にしか感じ得ないことや知り得ないことを沢山持っていることに気づく。それこそ「独自性Uniqueness」であり、自らのスタイルなのだと思う。

 

 こうやって休みにコンピュータに向かい、「自分を聴き取る」作業(セルフ・エスノグラフ)をする人間がどれだけいるのか。必要のない人にはあり得ないテクスト生産を肯定的に受け取って良いはずだ。ナラティブは自分にとって意味を持てばそれで良いのであり、他者に読み解かれる必要もなければ、流通させる必要もない。もちろん断酒会のような、ピア・カウンセリングの場でお互いのナラティブに耳を傾けることは大切であろう。ただそこで行われているのは、他者のナラティブを通して自らに耳を澄ますことであり、結局「自分を読む」ことに他ならないのではないか。

 

 それでは、ブログやメールで自己のプライベートを晒す人々のメンタリティーをどう捉えるべきか。NHK『青春リアル』で「秋葉原事件の容疑者は自分を晒け出しすぎたからダメだった。自分は嘘をついてでもつながっていたい」と語る若者の言葉にヒントがあるのかもしれない。私が書くのは一種の「思考のトレーニング」であり、他者に自分を晒すことから生まれる「協働」に期待している所がある。福沢風に「交際」といっても良い。「書くことは対象化や形式化を逃れられない」ということを自覚しつつ、相手に合わせて偽りの自己を演じるのとは違うやり方で、誠実に「自己を晒す」ということ。書きつつ考え、それが物象化していくのをナルシスティックに楽しみつつ、厳しくそれを吟味し、自分の思考を意識化していくこと。文字化することで自らを「聴きうる対象」にしていくといっても良いかもしれない。

 

 レトリックの誘惑に流されつつ、それこそが思考の癖であると受け止め、分析的に眼差してみる。そこから立ち上がってくるものを絶対視するつもりはないが、語り得ないものの所在を逆照射するという意味もあるように思う。一種の自動書記。シュルレアリストの作法には程遠いけれども、思考の運動性そのものを鍛える為に、言葉を連ねてみることが大切だ。それは哲学的な所作でもある。不合理な思いつきの中に、無意識の真実が表現されているかもしれない。エクリチュールの時間性(差延)を利用して、後で読み返してみれば沢山の発見があるに違いない。大した思考ではないと思いつつ、うつ気分から脱するエクササイズとしては十分に有効だった。又近いうちに「その3」を書くことにしたい。

 

 

 

 

 

 

2009.8.6 『当事者研究』その3(コンクール翌日・又も離婚を言い渡された朝に)

 『当事者研究』について『又近いうちに「その3」を書くことにしたい』と書いたのが6/18。『当事者研究』を初めて書いてから、丸2ヶ月が経過しようとしている。

 本当は、14年ぶりに三和と再会する日だった。それが一転、人生最悪の日となっている。「二度と連絡は取らないので、弁護士に頼むわ」。いつもながらの言葉ながら、いつも以上に彼女は本気だ。きっかけは昨日の夕方、つまらぬ事で嘘をついたこと。それも10年前と同じ、「タクシーに乗った」と言えなかったことである。「ちょうど10年の節目にどこまでできるのか」結果は銀賞。私の問題(誤魔化してしまうこと)は何も変わらず、片桐の言葉ではないが「全ては私が悪い」のである。

 何故こうなってしまうのか。言葉を尽くして考え、語ってみる。語っている端から、自らを合理化し、正当化し、美化しているナルシシズム。どこまでも彼女という他者はそこに存在しない。彼女と私の関係がそのまま、私と生徒達の関係と重なる。圧倒的な非対称。問題が起き、それに誠実に向き合っているかのように偽装して、結局は他者が望む言葉をトレースしているに過ぎない。いや、そう簡単にはトレースなどできず、自己正当化だけが延々と述べられる。

 「彼らを追いつめて成果を挙げるのとは別のやり方で、彼らを高めるスタイル」とは何だったのか。結局は彼らを追いつめ、成果も上がらず、レベルの低い自分を確認させるだけの取り組みだったのではないか。「音楽的な探究を通して子どもと共に高まる」と今年の目標を設定しておきながら、ほとんど音楽には向き合えず、トラブル対応と説教に終止したこの1ヶ月。何も変わらない。変わりたいといつも言いながら、結局は変わらない。

 このままで終わりたくない。これからも苦しい日々が続く。逃げずに向き合うしかない。安田侃の彫刻を前に「心を彫る」事について語った、あの時の感覚を忘れずに、生きることのしんどさに向き合っていきたい。

 

2009.8.20 追記

 久々に学校に出て、生徒達の作文を読んで感じることが多かった。まず第1に、自分達を低く評価している者が多いということ。これは様々な事が起き、私も「日本一最悪」と評価したし、結果も銀賞であるから当然ではあるが、どこか責任回避のようになっているようにも感じられ、気になった。

 同様に「最悪なのだから後は良くなる」という構図にはまって、具体的な改善策にまでなっていない生徒がほとんど。書くことの虚構性が子ども達の認識に影響を与えているように思われてならない。ここから問われるべきは、言語による振り返りを重視しすぎている現状の指導なのではないか。彼らが語る言葉の多くは、私が語った言葉であり、だとすれば彼らのメタ認知を規定している自らの言葉こそ問われなければならない。

 一人ひとりの感覚・表現は様々なレヴェルにあり、そこを個別に聴き取る努力なしに、現状の改善は望めないのではないか。その意味で今回の練習ノートの取り組みは意味があった。課題は、そこから具体的な練習の取り組みを引き出すこと。そして何よりも、理屈ではなく音楽的体験から学ばせるということなのだろう。

 「上達論的アプローチに徹する」との決意は達成されずに終わった。「自分が変われば相手が変わる」と信じて、諦めずに淡々と子どもと向き合っていくしかない。

2009.8.18(火)『当事者研究』その4

 コンクールを終えて早2週間が経過しようとしている。とりあえず淡々と日常をこなしてはいるものの、何も為しえていない。そうこうしている内に、休める日も後2日となってしまった。ルスツ高原に行こうと話題にはしているものの、今日も起きたのが10時前で、だらけた日常を送っている。律は久しぶりにピアノに向かい、ラヴェルを弾いている。

 

 私はといえば、書くべきレポートに手が着かず、漫然とキーボードに向かっている。相変わらず未読の文献を机に並べ、読むというより眺めては立ち止まり、拡散しているのを確認しては鬱気分に退却する。いつもの繰り返し。そんな中、竹内さんに頼まれていた原稿はやっつけた。たかが200字程度の中身に1時間弱かけ、自分の生産性のなさに辟易する。まあ休日の仕事なのだから、これでいいのだ。ゆっくり生きること。今の私にはリハビリが必要なのだ。

 

 ふと「書くことの臨床性」という考えが頭をよぎる。『当事者研究』とはまさにこの事の実践であろう。同時に「本を読むことの病」について考える。未整理な文献を眺め、「何のために読みもしない本を集めるのか」と自問する。すぐ思い浮かぶのは「知識依存症」「言葉へのフェティシズム」。セルフ・エスノグラフィーなる取り組みも、所詮はアディクションの現れに過ぎないのか。不安を埋める行為としての「読むこと/書くこと」。実証できないが、脳の中では自慰行為を司る部分と連動している感じがする。生理的(性的)/知的自己満足の表現として、同根のものなのではないか。

 

 自己を他者の入れ物と捉える感覚も、ここにつながっている気がする。斎藤環曰く、ポストモダンとは「ほぼ主体概念が無効になった時代」。無意識も自己に内在するのではなく、「主体の外側で主体の代わりに考え、決定を行うような場所」であるという。自己=主体のテクスト性に拘って平成の20年を生きてきた者が、未だ成熟することなく青年期を既に終えているという、この生きづらさを如何に受け容れるか。そこに問題の核心があるように思われる。

 

 『当事者研究』という概念を教えてくれた「べてるの家」の向谷地さんは、「当事者研究とは、歴史性の取り戻しの作業へのお手伝い」と言う。「歴史性」をセルフ・ナラティヴとのみ捉えるのではなく、病因論的ドライブ(斎藤環)として、諸要因の関係に置いて分析すること。さらに視点を広げて、自らに流れ込んでいる関係性の束を、歴史の相において相対化すること。相対化は客観化とは違う。あくまでもそこに「当事者」として主観的に関わりつつ、その根拠を外部との関係に求めるということだ。

 

 歴史教育者協議会の全国大会でもらった資料の中に、WAM(女たちの戦争と平和資料館)による「証言と沈黙 第7回特別展」のチラシがあり、思わず読み込み立ち止まる。「戦時性暴力」を「戦時性・暴力」と読んできた自分の誤りにようやく気づいた。これは「戦時・性暴力」なのだ。藤本監督の「One Shot,One Kill」のチラシを眺めつつ、戦時下のストレスが性衝動に結びつかないはずがないことに思い至る。戦争そのものが男性性の下劣な表現であり、射精は常に銃のアナロジーとして語られているのではないか。蔓延するポルノ映像には、観賞用の暴力が巧妙な演出と共に詰めこまれている。これは自殺者3万人を超えるストレス社会における「戦時・性暴力」ではないのか。そこにアディクトしている私もまた、慰安所の前に並ぶ兵士と同じ存在なのではないか。

 

 「突撃一番」なる避妊具を手に、極限状態の中で性行為に逃避する兵士に自らの性依存を重ねる時、平和と暴力が性的快楽という同じ地平で語られるおぞましさに気づかされる。気づいていながらも、自分の愚かさを止められない。自分の愚かさが人間の普遍的な悪とつながっているという感覚。向谷地氏の言葉を借りれば「世界の抱える苦しみに自分はつながっている」という事か。ハイデガー風にwelt-schmerz(世界苦)と呼んだところで、それは得意の「言語による思考対象の物象化=自己正当化」に過ぎない。

 

 自分の生存を自慰行為によって確認することで安心したいという欲望が、私を「オナニー依存症」に走らせる。だが自慰行為は「生理的快楽/身体」にすぎず、簡単には精神的(知的)充足を与えてくれない。または自分の実存を言葉によって対象化することで安心したいという欲望が、私を「知識依存症」に走らせる。だが言葉は「記号/他者」にすぎず、簡単には自己承認を与えてくれない。

 

 自慰行為と読書をオナニズム=自己満足の相において共通のものとして捉えること。そこには「かく」という行為が強く関わっている(ダジャレを言っている場合ではないが…)。エクリチュールがどこまでもシニフィアンの横滑りとして表層にとどまるのと同じ構造が、私を巡るオナニズムにおいて成立しているのではないか。どこまでも埋められない空虚感=不在の中心としての自己。病的なセルフを受け容れて生きること。どの主体にとっても、幾分の狂気が常に存在していると認めること。それがこの時代を生きることに他ならないのではないか。

 

 答えは見つからない。「知ることは超えること」と思いつつ、諸条件に規定された実存が関与しうる関係性は、世界内存在として限定されている。その中で壊れやすい自己を守りつつ、他者を排除して同一性を確保しながら無関心を旨として生きるのか。自我拡散を運命として引き裂かれつつも、生きづらい人生を引き受けて生きるのか。二項対立では語り得ないからこそ、悩み苦しみながら生き続けるのだろう。それぞれのフィールドで、私の想像を超えた多様な人々が、様々な利害を抱えつつ、関係と交通を求めて動いている。そこに常に意志的に関わることは実は難しい。

 

 偶然性に身を任せ、様々に立ち現れる関係性に巻き込まれてみること。その中で「できることとできないことを見分ける」ことさえできれば、さほど苦しまずに生きていけるのではないか。リゾーム的生き方を志向しつつ、決して無理せず、時に立ち止まって自分の立ち位置を確認すること。そしてささやかな幸せに気づくこと。パートナーがいて、仕事があって、収入があって、家があって、やりたいこともやるべきこともあって、何が不満なのか。「有難い」と感謝しながら、可能性に充ちた現実を自然体で生きていきたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

2009.11.10(火)『当事者研究』その5(在位20年雑感/私のマニフェスト)

 コンフリクト・フリーを久々に感じる。天皇在位20年に伴う国旗掲揚。校長は「やらせていただくのでお知りおき下さい」。分会からのリアクションもなし。卒業式・入学式・周年行事などでは、あれだけ議論して反対の意志を示していたのに、2000年職務命令以降は、無批判に「やむなし」と受け容れざるを得ない風潮がある。支部の発文書を見ても「10周年と同じ」とのことで、積極的に反対を組織するわけでもない。

 

 もちろん学校現場には様々な課題が山積しているし、既に学力テストを3回受け容れているのに比べれば、「旗を掲げる」事の重要度は低いのかもしれない。ただ昭和天皇崩御の異様な空気を知るものとしては、平成の天皇制がもつ問題点に敏感にならざるを得ない。何と言っても帯広で檜山の「君が代伴奏強制」を知り、東京のファシズムに異を唱えてきた者として、今回の話題はさっと流すことの出来ないことだ。アンチを良しとしない私として出来ること。「日の丸」や天皇制の問題点について、逃げずに語ること。上川の正会員が言っていた「知らないことほど怖いものはない」をうけて、きちんと「日の丸」と対峙すること。白井さんの「『日の丸』に反対しているのではない、『強制』に反対しているのだ」とのレトリックの問題点も含めて、思考停止せずに語り合うことが大切なのだ。

 

 私自身の信条や価値観を脱構築するチャンスでもある。これは決して「転向」ではない。いづさから逃げずに、「政治的・戦略的」に進めること。上手くまとまらないが、「偶然性に身を任せ、様々に立ち現れる関係性に巻き込まれてみる」ことの実践を、自分の心と体と相談しながら無理せず進めるしかない。朝はしんどい気持ちだったが、2時間を経て同僚とつまらない話をしている内に大分楽になった。「何とかなるし、なんとかする」のだ。更に言えば「何ともならなくても、そういうこともある」のだ。私は社会的関係の束に過ぎない。「できることとできないことを見分ける」中で、今回のことも「仕様のないこと」に属するのだろう。現実はそう簡単には変わらない。出来るのは「単にやり過ごす」のではなく「向き合いつつそらす」ことなのだ。昨日の松尾氏の話にもあったように、ホメオスタシス(生体恒常性)としての心理機制を上手に活用すること。「忘れる」「見方を変える」ことを肯定的に受け止めること。戦略的に「忘れたふりをすること」。

 

 関係性の相の下に、民主主義的に市民性を志向するならば、ハリー・ボイトの言う「組織活動としての教育」における「政治的コーディネーター」たろうとする意志が必要だ。真の意味で「パブリック」であるために、「多様な利害と権力のダイナミクスの行使」に積極的に関与すること。ボランタリズムと愛国心の政治に対して、公共空間に開かれた文化変容・人間変容を対置する教育実践を求めたい。今日この日に私に問われていることとは、「二元論ではなく異質な多様性を」(小玉重夫)本気で志向する覚悟があるのか、ということのように感じる。許容しがたい現実ではあるが、こんな風に自分なりのマニフェストを書く機会をもらったことに感謝して、方向性を見失わずに坦々と、粛々と実践を積み重ねることにしたい。

 

 

 

 

 

 

2010.2.3(水)『当事者研究』その6(生徒指導雑感/「こだわり」をめぐって)

 「異質な多様性」に自らを開こうと意識して生活をしているものの、どうしても譲れずに「こだわって」しまう自分とどう向き合うか。きっかけは塩濱に対する声かけが上手くいかなかったこと。事実を整理してみよう。

 

 先週の授業開始時に、声をかけても無視して通り過ぎようとする彼に「ちょっと待て」と呼び止め、説教した上で、言い分を語らせようとした。返ってきた言葉はいつも通り、「別に…」。予想の範囲内であったにもかかわらず流せなかった。過去にも何度もこの言葉を取り上げて指導してきた経過があった。2年時には会議室で、一発触発のような雰囲気になったこともある。彼の持つヴァルネラビリティーに応答してしまう弱さが私にはある。更にさかのぼれば、彼が入学してきたその日に、心配して声をかけたときから始まっていたに違いない。

 

 これまでの指導を連続したものとしてとらえる教師(大人)の視点と、その時々の気分や情動でしか生きていない生徒(子ども)の視点が、単にずれているだけに過ぎないのか。久保先生の指摘するとおり、とにかく幼いだけなので、反発させないようにこちらが配慮し、教えてやらせるしかないのか。ただ、彼の誤解を受けやすい風貌と態度、表現力の極端な低さ(言語能力のなさ)を、指導すべき対象として捉えてしまうことそのものに、問題の所在があるように感じる。

 

 青山新吾氏曰く、「子どもの思いを推察し、思いに添いながら考えること。それが支援の手だてにつながるように思うのです」。私は彼の思いに寄り添えているか?最初から、「困った奴」だと決めつけてはいないか。今日の彼の行動は、それを敏感に感じ取った彼なりの抵抗なのではないか。青山氏はさらに次のように言う。「子どもの背景を知ろうとすること。それが子どもに、何を、どこで、どれくらい、そしてどのように、要求するかを決めるポイントになるように思うのです」。私は彼の背景をどれくらい知っているのか?「気分や情動でしか生きていない」のは、実は彼ではなく私の方なのではないのか。

 

 個別の指導計画を「指導」と「支援」で見直す、との田中博司氏の視点に立てば、彼に必要なのは「今持っている能力で暮らしやすくする」支援なのだろう。特別支援対象ではないまでも、個別の配慮が必要な生徒であることは間違いなく、その点で「生徒指導」の発想では彼に迫ることはできない。なぜ彼は「別に…」としか言えなかったのか。1週間待っても何も語れなかったのはどうしてか。そこに耳を澄ます力こそ、私に求められている能力なのだろう。

 

 久保先生曰く「俺なら呼んで、一人の時に穏やかに話してきかせるけど…。人それぞれ持ち味があるから、笹木さんの指導はそれでいいんじゃない」。担任に伝えても面倒を増やしたようで申し訳なく思う。彼のような表現力のない者にこそ「安心と信頼」の関係が必要なのだ。「支援から共生への道」(田中康雄氏)を求めて、自らの「こだわり」と向き合いつつ、緩やかにそらす生き方を模索したい。考える機会をくれた塩濱に感謝したい。

 

 

 

2010.4.14(水)『当事者研究』その7(転勤所感/「うつ気分」をめぐって)

 「何とか乗り切れる」と思っていた矢先に、昨日・今日と久々に「うつ気分」が襲ってきた。鬱そのものではない。その理由がなんなのか、よく分からないままに午前中、2年生の授業開きを乗り切る。正確には「その気分を抱えたまま、スタートする」というのが正直なところだ。6組は忘れ物があまりに多く、楽しい雰囲気で進めることをあきらめ、終始暗く威圧的な雰囲気で授業を行う。まさに「業を授ける」感じ。転じて2組では朗らかに行うことを心がけ、音楽的な内容にも立ち入って進めることができた。

 

 二クラス終えて気づいたのは、自分のフィールドに未だなっていない場所にいることが、この「うつ気分」の原因なのだろうという事。そう捉えるならば、この気分は当然のことだと言える。今までのスピード感や役割とは全く違う環境の中で、未だ適応できていないというだけのことなのだろう。これを如何にリフレイミングするか。新しい校舎、新しい出会いの中で、気負うことなく、負担の減った環境でやるべき事に専心することができる。ずっと希望してきた担任を最優先し、負担の大きかった部活動もサブとなり、校務上も責任ある立場から離れ、かつ校内研究という最も力を入れたい分野に関わることができる。生徒は確かにエネルギーがあり、一筋縄ではいかなそうだが、篠路時代の記憶を思いだし、直球の生徒指導をする事ができる。職場も穏やかで、チームで指導する空気が流れている。こう考えれば、何も恐れる必要などないはずだ。

 

 だがしかし、そうはいってもコントロールできないのが、この「うつ気分」の恐ろしいところだ。残念ながらそう簡単にはこの呪縛から解放されることはない。「病を生きる」ことを自らの人生の第一義とし、それと如何につきあうかを旨として、早四十の齢を迎えようとしている。教職15年目を迎え、残された年月はまだ20年ある。もしかすると、65歳まで働くことが当たり前となるかもしれないこのご時世に、最優先すべきは「長続きする働き方」を本気で志向する事なのだろう。

 

 考えただけでうんざりする「服務規律実態調査」がいよいよ目の前に迫っている。教基法改悪以来一貫して抵抗し、論議してきた諸課題が、いま暴力的な姿で顕在化している。でも組合員として強く戦えない事情を抱え、様々なジレンマの中で自分の立ち位置を見失いつつあることも、「うつ気分」の原因なのかもしれない。様々考えられうる停滞の条件の中で、そこに抗うことなく坦々と目の前の「やるべきこと」を誠実にこなすことしか、今この気分を乗り切る処方箋は無いのだろう。「慌てず・騒がず・坦々と」をスローガンに掲げて早4年。なかなか現実は変わらないが、焦っても仕様がない。本当は着実に変わっているはずなのに、自分では気づけていないだけということもある。緩やかにこの気分とつき合いながら、長い目で進んでいこうと思う。

 

 傳田氏の『若者のうつ~新型うつ病とは何か』読んでみたいと思う。もう若者とは言えない世代となったが、笠原氏の『退却神経症』と出会って早20年。家族の問題や自分の未来と向き合うためにも、いま「うつ」を考えることには意味がある。地の上に花咲く限り、喜んで日ごと営み、悲しみも耐えて生きよう。明けない夜はないのだから。

 

 

 

 

2010.5.1(土)『当事者研究』その8(「病を生きる」ということ/リフレイミング再考)

 待ちに待った連休。だが心は重い。唯一評価すべきは、朝寝坊しなかったこと。7時過ぎには起きて、シャワーを浴び、カフェオレを入れて、ゆったりと「世界の中心」に腰掛ける。律と語り、仕事を始める。このように振り返ると、随分回復したと言うこともできるだろう。病の真最中には、眠れず、起きられず、何も書けず、酒に溺れていたのだから。

 

 しんどかった転勤1ヶ月をやりすごし、以前よりは格段に「良く生きている」との自覚があるにもかかわらず、この心の重さ、不安感は何に由来するのか。毎日「大丈夫、何とかなるし何とかする、何ともならなくとも、そういうこともある」と自分に言い聞かせ、緊張を感じつつリラックスを自分に課す日々。ゆったりと家にいられる喜びの中で、「自分は病者である」という認識を手放さないでいること。真面目すぎるのか。それともダメな自分に辟易しているのか。

 

 『Be』のリフレイミング特集から、N.グッドマンの『世界制作の方法』を連想し、思わずじっくり読んでしまう。どこまで分かっているのか不明だが、認識論の新たな地平を獲得したかのような錯覚を得る。曰く「世界制作はわれわれの知るかぎり、つねに手持ちの世界から出発する。制作(making)とは作り直し(remaking)なのだ」。「世界が発見されるものであるのに劣らず制作されるものでもあるとすれば、知ることは報告することであるばかりか、作り直すことでもある」。「理解と創造は手を携えている」。

 

 L=ストロースのブリコラージュと同じ発想。ストラヴィンスキーの「無からの創造はあり得ない」とも重なる認識。文脈を外して通俗的に理解するならば、「手持ちの世界」とは「自らの認識・解釈の枠組み(frame)」であり、世界制作とは「フレームの作り直し(reframing)」に他ならないのだろう。「知ることは超えること」の哲学的解説とも取れる。

 

 昼食を食べ、午後はジュネットのブリコラージュ論(「構造主義と文芸批評」)再読。「野生の思考」も手に取るが、午睡してしまう。気づけば朝の重たい気持ちは消え、すっかり休日モード。律と共に買い物に出かけ、温かな日差しの中でゆったりとした気分になる。帰宅してコーヒーを入れ、シュークリームと中村先生から頂いたカマンベールチーズと共にティーブレイク。嬉しいのは、それでもまだ日暮れていないということ。こういう時間があれば、まだまだ生きていける。

 

 「病を生きる」とは、こういった拡散を引き受けて、それを楽しむということではあるまいか。「病気に感謝することがきっと来る」との断酒カレンダーの言葉が、少しずつ実感される。今のこの感覚は、明日も明後日も休みだという、時間的な余裕から来るものだということは分かっている。たとえ時間的に余裕がない時でも、病的な不安感そのものを楽しめる様になる時は来るのだろうか。「無理ではなく挑戦というフレームで状況を見る」ハワード女史の感覚に近づくことはできるのか。アドラー心理学的な「勇気づけ」を自らに課したい。「無意識で使ってきたフレームを捨てて、新しいフレームで世界を見る、その世界に生きる…理屈ではない、身体にしみこませることです」

(ハワード・カツヨ)

2010.5.3-4(月-火)『当事者研究』その9(教育目的論雑感/フーコーを巡って)

 連休中日。憲法記念日に憲法から遠く離れて、徒然なるままに手にした書物について、書いておこうと思う。「何故読み、そして書くのか」に対する不在の答えを導き出す企てとなるかもしれない。きっかけは、昨日読もうと書斎から持ち出した『教育思想のフーコー』(田中智志:勁草書房 2009)。動機は憶えていない。参考文献表か昨年のレポートの末尾にあったこの著作の名に惹かれたのだと思う。このように書きつつ、田中哲先生と異字同名であることに気づき、それも影響しているのかもと思い至る。

 

 開いたページに次の文章を発見する。「私たちは、人間形成という概念を廃棄しなければならない。新しい共存在(being-together)の問題に取り組み、実践的で理論的な問題解決の方途を創出するために」(オランダの教育学者・J.マッシュラインの言葉 2003)。

「教育の目的=人格の完成」との前提に対する村山先生の「機会を見て、がっちり教育基本法の原理の問題を研究してみてください。戦後日本の教育の基本的問題の芽が潜んでいるような気がします」との指摘とも重なる。平和を追求し、憲法理念を擁護し、「個人の尊厳」に価値を置く私としては、何ともすっきりしない論点。「主体/客体論」や「個人と社会の弁証法」といった、古くて新しい議論とつながる主題系である。

 

 『学び合い』に注目しつつ、その前提として教育基本法第1条の「教育目的」を疑わないスタンスに、どこか違和を感じていた。人間塾での議論が常に「教育の目的/何のために」に立ち返ろうするのに対して、それが憲法前文の理念(平和で文化的な国家)および第26条(教育を受ける権利)と、教育基本法第1条(目的)および2条(目標)、学校教育法における「教育の目的」にどう関連していくのか。教育法学的な関心と実践上の課題、さらには思想的・理念的論議が重なる場所に、あえてフーコーの関係論を置いてみる。

 

フーコーのあるインタビュー(1978)での言葉。「私は『教える』という言葉を拒否する(中略)私の書いたものは、むしろ何かへの招待であり、公共の場で行われるパフォーマンスである」。田中はここから「多様な生成、変容の可能性を喚起することに専心するあまり、自分の立場すら忘れてしまうこと」を、フーコーが目指した知識人の役割として導いている。脱主体化。同一性の拒否。「何らかの価値規範、過去の自分に深くとらわれることなく生きること」即ち「自分の人生をもっぱら現在に、つまるところ他者に応答するために使う人生」(田中)。この認識は、ブランショを論じた『外の思考』と重なるものであろう。

 

 ブランショの『文学空間』(1955)の言葉。「書くことは、言葉を私自身に結びつけているつながりを断ち切ることである。(中略)言語活動を一つの機能に還元するものから解き放つことである」。田中曰く「主体性・有用性の軛から自由になる限界体験」としての「書くこと」。『来るべき書物』(1959)には次のような記述があるという。「私たちが回復すべく努めるべきものは、(中略)何の力も持たないような(他者との)関係性がある場所であり、すべての主人性や隷属性から無縁で、裸形の(他者との)関係性の中で営まれる言語活動の場所である」。「裸形の関係性」を田中は「他者との無為の関係」と言い直す。これは私に、J=L.ナンシーの『無為の共同体』を想起させる。

 ナンシーへの反論として書かれた『明かしえぬ共同体』(1983)。たぶん大学1年の時に入手しているはずだ。読もうとしては全く理解できなかった書物。バタイユ/デュラス論であるこの書物を、当時の私が読みうるはずもない。集団行動になじめなかった思春期の私。当時訳も分からず、書名が暗示するものに惹かれて手にしたその書物に、20年以上の時を経て戻ってくる。共同体(communautè)は共和制、共産主義、さらにはコミュニケーションと結びつけられる、と訳者の西谷修氏は論じるが、今はその詳細には立ち入らない。指摘したいのは、様々な経験や思考の遍歴を経て、自己言及から他者言及へと向かう私のあり方と、田中氏の次の記述が符合するということだ。

 数年前から、30代前半に書いた原稿を、苦笑いしながら、書き直してきた。文字通り「言葉にならない」いらだちが論理をねじ曲げている原稿を読み、いささか赤面しながら、自分の思考を書き改めた。1984年に出版されたブランショの『明かしえぬ共同体』は、そのころほとんど受け付けなかったが、今やよくわかるようになった。ありありとよみがえる苦い想いと、もはやそうした想いから離れそうになっている自分に、時間の流れと時代の推移を、あらためて感じることになった。(『教育思想のフーコー』あとがき)

「人の自己言及は、他者言及にささえられている」(ルーマン/田中)。マルクスの言う「社会的諸関係の総体」としての自己。メルロ=ポンティは『知覚の現象学』の最後に、サン・テグジュペリの「人間は関係の結び目に他ならない」(『戦う操縦士』)との言葉を置いた。あらゆるものを関係性の相の下に捉え直すこと。廣松渉氏の概念を借りれば「コト的世界観」をもって世界を認識すること。それが価値相対主義の袋小路に陥るのだとしても、そこにこそ独我論の牢獄から「私」を救い出す道がある。様々な引用を通して、私は「私」をその都度再構成する。それが「外の思考」であり、「語ること(narrative)」の本義でもある。私にとっては「自己の物語を語り直すこと」こそ、病からの回復そのものであり、自分の書いたものを読み返し、書き換えることは、その都度自分を生き直すことなのだ。

 

 マッシュライン曰く「私たちの主体性が他者への言及によってのみ成り立っている」「私たちの主体性がつねに自己からの離脱、差異性、依存と責務の関係への包摂を含んでいること」を再確認・承認することが、現代教育学の課題であるという。即ち「社会性の永続的な再構築」こそ、今日の教育が目指すべき課題なのだ。education/educare(教育/教え込み)から、eduction/educere(外への喚起/導き)への移行。「有用な知識技能を伝授し、人を外から操作的に変える営み」ではなく「既存の言説を脱構築し、人の自己変容をうながす営み」へと、思考を転換しなければならないと田中は言う。それが「自己創出支援の教育実践」(praxis educationelle-autopoietique)への道であると。

 

再びフーコーの言葉。「かつて、教育の主要な機能は、個人の形成であり、それは社会におけるその人の位置を決定することを意味していた。しかし今日では、教育の機能は次のように理解しなけばならない。即ち教育とは、個人が自分の好ましさに応じて自分を変えることを可能にすることである、と。」(ル・モンド日曜版1980.4.6)

 

 

 

 

 

 

 

2010.5.5追記

 書物の散乱したテーブルを眺めつつ、「詩のようなもの」に今の拡散を書き留め、最後の休日を半分終えた所で、もう少し今の気づきを書いておきたいと考える。フーコーの「自分の好ましさに応じて自分を変える」との言葉を、少し変奏してみたい。

 

 「好ましさ」を「自分の好きなこと=やりたいこと」と置き換えて考える。志向性(intensity)と呼んでも良い。どうしようもなく考えてしまうこと、言葉へのフェティシズムを捨てられないこと、しかしその表現に満足できないこと。これらは私の志向性ではあるが、「好ましさ」とは言いがたい。しかし、そうであるからこそ変化を志向する、又はせざるを得ないのではないか。

 

 何を持って「好ましさ」を判断するか。自分にとっての「快」とは何か。それはその都度の文脈に規定されている。ここ数日間、ゆっくり過ごすことを許す休日という条件があり、その時間を如何に使うかについては、律との関係性が大きかったとはいえ、自ら決定することが可能だった。だらだらと眠ることを良しとせず、読む予定の無かった書物を手に取り、断片的な読書と平行して、エッセイを書く。書いているうちに「書いている自己」への愛着と、書かれた痕跡への関心が高まる。「書かれたテクストは私ではない」と思いつつ、行為としての「書くこと」を好ましく思っている私がいる。ここから「何か書きたい」との欲望までの距離はわずかだ。

 

 この背景には「書けなかった」あの忌まわしき日々へのオブセッションがある。「自分を変える」ことへの執拗なこだわり。変えたくても変え得ないものからの逃走。変わったことを何らかの形で確認したいという欲求。酒をやめたことも、文章を発表する機会が増えたことも、音楽以外のフィールドを求めていることも、すべてそこに還元できるのではないか。書く実践を通して「自分の外に出ること」を志向しているのかもしれない。内観は「自分の内にあること」に目を向け、それを対象化する行為であったが、ある意味「自己を語り直す」ことで、新たな自己をその都度創出する行為でもあったのだろう。セルフ・ナラティヴとオートポイエーシスを重ねる発想の背景には、この思考がある。

 

 「優先すべきこと=やるべきこと」に囚われ、坦々とやり過ごす日々がまたやってくる。それを「やりたいこと」中心の生活に如何にシフトしていくのか。「やるべきこと」の中に「やりたいこと」を織り交ぜるあり方が理想ではあるが、なかなか思う通りには行かないだろう。仕事そのものを「やりたいこと」にしてしまうことの危険もある。仕事において「やりたいこと」も当然ある。それ自体がとても恵まれたことなのだという認識に立ちつつ、生活のすべてが「やりたいこと」になることなど、決してあり得ないのだと納得することからスタートしたい。そして、生活の折々で「感じ、考え、読み、書く」行為を、継続していきたい。誰のためでもなく、自らの生活を当事者としてより良く生きるために、「自分を変えること」即ち日々「自己創出」する事を自らに科しながら、世界の豊かさを味わって生きていきたい。教育の目的とは「自らを紡ぐこと」なのだ。その為にも、未だ読まれざる様々なテクストに応答し、様々に考え、書くことを継続していきたいと思う。

 

 

2010.5.16(日)『当事者研究』その10(星園高校ドキュメンタリーに想う)

 書かねばならないと思った。こんな衝動は久しぶり。きっかけは深夜、偶然見たNHKのドキュメンタリーに山鹿さんの姿を見つけたこと。彼女に自分の身の上を語ったのは5年少し前、酒をやめる5ヶ月前になる。今考えれば、転勤初年度を終える3月、卒業式の飲み会の1次会だったのではなかったか。様々な葛藤を抱えつつ、何とか乗り切った陵北1年目。彼女の苦しかった過去も聞き、その後比留間さんと語り、2次会では番匠さんに絡まれ、挙げ句の果てに久保さんにラーメン屋で言われた「あんたは何もやってないじゃないか」との言葉に切れ、歩いて北18条まで行き、感情を抑えられず久保さんに再度電話し…。今思えば、身勝手で自己を相対化できず、自分の言い分を通したいだけの青二才だった。

 

 その後山鹿さんとは、もう1年同じ学年で働けた。転勤した最初に話したのも彼女だったように記憶している。新入生受付のために教室の後ろにブルーシートを敷いていた時、なかなか慣れない感覚を率直に伝えたら、それを受け止めて私もそうだったと共感してくれた。その彼女も、桂さんの自殺の件では相当に落ち込み、深く悩んでいた。私も酒をやめたばかりで、自分のことで精一杯だったため、彼女の苦しさに気づくことなく過ごしていたのだったが…。思えば桂先生の「表現力は他の領域とリンクしているから、その構造が示せるといいね」との指摘に、今の私の教育研究の原点がある。陵北2年目、学校祭を終えた直後の校内研修会。桂氏の姿はそこになかった。休んだことのない彼がいないことを心配してはいたが、まさかその時既に命を絶っていたとは…。彼への返答の意味を込めて、翌年には必死で研究をまとめた。でもその提言も受け止められることなく、特に一緒に仮説作成をしたはずの中根さんに意味不明の反論をされて…。まとめの研修会が終わったその足で校長室に向かい、「もう限界です、担任を降ろして下さい」と言ったのではなかったか。

 

 研究のまとめで指摘した「自尊感情」の問題が、3年の時を経て新たに私のテーマとして浮かび上がってきた。3校目でも研修担当となり、陵北の研究で課題として残った「自己肯定感」の問題を副主題に据えて、新たな校内研究が始まろうとしている。そのタイミングで、偶然にも山鹿さんに、星園高校閉校のドキュメンタリーの中で再会するとは…。彼女が語った「保健室に来ても、自分の症状を言葉で表現できない子が増えてきている」との指摘が、私を「自尊感情」の方向へと導いたのだと、今となっては思う。

 

 昨年の教育科学研究会の例会で、須貝則昭先生の隣に座ることができ、直接今日の番組につながる実践についてお話を聞くことができた。市原さんはSSWの件で、陵北にもヒアリングに来ていたし、何か不思議な縁を感じる。須貝先生は、NHK「ハートねっと」の討論にも参加し、福島少子化担当大臣(自称子ども担当大臣)を前に、高校生が直面しているこの困難を直接訴えていた。3月をもって退職とのことを異動リストで知り、その後どうしていらっしゃるのか気になってはいたが…。大通高校に統合された星園の子どもたちは、今どうしているのだろうか。澤田美代子たちの先輩として、新しい校舎で頑張っているのだろうか。番組の中で紹介された生徒達の姿が心に刺さる。ダイスケくんの「大人を信用できない」という言葉は、そのまま二十数年前の私の言葉でもある。「こんな世の中にしたのは大人、自分が成長したら、子どもにこんな想いをさせないような大人になりたい」と彼は言う。他の女子生徒のつぶやき「子どもって楽、大人になるのって難しい…」。コウキくん曰く「中学卒業の時、親の離婚で行きたい高校に行けなかった」「部活さえできればとの考えで適当にやってきたが、今となってはちゃんとやっておけば良かった、環境のせいにして努力が足りなかった」…。

 

 ただでさえ、普通の子達より複雑で困難な事情を抱え、自信を失ったまま不安の中で生きている定時制の子ども達。就職内定は半分に満たず、SSルームに通うも、先の見えない日々。番組はそんな彼らの内面に寄り添おうとするスタッフ達の姿も映し出していた。若い女性の学年主任。ダイスケがいらだち退室した後、残った女の子達と、彼の内面を想像する。戻ってきた彼に「落ち着いた?彼女泣かしちゃダメだよ」とさりげなくつなげる。子どもたちの生きづらさに共感し、しんどい背景を持つ仲間同士だからこそ分かり合えるその優しさに寄り添う。学校外のスタッフには心を開く彼、「松田さんは考えを押しつけないから話ができる」と少しずつ心を開いていく。傾聴と介入のバランスを心得たキャリアカウンセラー達。教育に携わる者として、学ぶべき点はとても多い。

 

 ふと本田由紀氏の言葉を思い出す。彼女は昨年1月の講演会の最後を「若者が悪いのではない、こんな世の中にした年長者の責任が大きいのだ。世の中をこのままにせず、構造的に変えていくための一歩を、地鳴りのように共に踏み出して欲しい」との言葉で終えていた。『教育の職業的意義』(ちくま新書)の表紙には次の言葉が引用されている。

 このままでは、教育も仕事も、若者たちにとって壮大な詐欺でしかない。「教育の職業的意義」を高めるという私の主張は、自分よりも後から世の中に歩み入ってくる若者に対して、彼らが自分の生の展望を抱きうるような社会を残しておきたいという思いから立ち上がってきたものである。

 

 昨年の全道教研レポートの末尾で、私は今後の方向性として「市民性に立脚した教育実践」を提起している。小玉重夫が紹介するハリー・ボイトの議論、即ち「ボランティア(奉仕活動)ではなくパブリックワーク(組織活動)」としてのシティズンシップをモデルとして、文化変容・人間変容を志向する新しい市民性の教育を展開しようとの論旨である。本田は上掲書において、小玉/ボイトの論が政治的意義を強調しすぎることについて、自己の「職業的意義」を対置しつつ、次のように反論している。

 完全にあらゆることについて「無能」でありつつ政治的にのみ発言するような「市民」は想定しがたい。シャンタル・ムフが述べているように、「政治的なもの」が個々人の立場性やその敵対性を不可欠な基盤とするのであれば、そうした立場性を欠いた一般的な「政治性」を、まだ社会に出る前の子供や若者に埋め込もうとする意図は、挫折を余儀なくされるはずである。

 

 セルフ・ライフヒストリー・アプローチから、新たな「職業的市民性」の議論へ、次の研究課題が見えてきた。社会の現実的困難に向き合う教育実践研究を、今後も継続したい。

 

 

 

 

 

2010.6.8-10(火-木)『当事者研究』その11(野外学習を終えて)

 天候に恵まれ、清々しい気持ちで行事に向かうはずの朝に、またも「うつ気分」に退却している自分を発見する。より正確に言えば、その気分の正体を意欲的に探究しようとしている自分がいる。だから、何もできない真性のうつではない。きっかけは土曜日の妻との語らい。自らのアディクションといかに向き合うか。だらしなさからどう脱却するか。ごまかさない生き方を実現するにはどうするか。6月に入って、既に4回床で寝る生活に戻っている。授業は上手くいかず、まるで新卒の頃のよう。個人情報紛失事件から丸3年が経過し、あの時のトラウマが未だ癒えていないことを確認する。健康診断の結果も出て、今年も内視鏡を入れなければならない。5月から感じていた空腹時の胃の痛みをケアするタイミングが来たということか。

 

 何よりも向き合わねばならないのは、自分の性的な欲望のように感じる。そう書きつつ、誰にでもこのような劣情は存在しているのだろうし、その根拠に生理的な自己保存欲求があるのだから、否定しても仕様がないと思っている節もある。この開き直りが、男性性の愚かな文化の基礎にあるのだと理解しつつも、それを止められない自分がいる。勿論、病的な反復は無くなった。以前よりもコントロールできるようになってきてはいる。今何が必要か?今一度内観することか?ただ、個人の認識論に還元できる問題ではない。パートナーとの関係、教師という社会的役割、表現的な女性性(性的な記号性)、脳生理学的な自動化…。様々に考えなければならないファクターがある。

 

 以前はストレスからの逃避行動として、必要悪と捉えていた節がある。過去にこのテーマで書いたことがあったはずだと振り返ってみたら、1回目の「当事者研究」を書いた日から、ちょうど1年が経過していた。強迫性障害(OCD)は治らない。ネットや性的なアディクション、嘘をつくこと、経済観念のなさ…、克服しなければならない課題は未だ山積みだ。自分を振り返るために始めた「当事者研究」も、目的化して依存の対象となりつつある。ただ冷静に考えれば、プリント棚の確認癖は無くなったし、朝活も始めてだらしない自分に対する嫌悪感は強まってきた。「きちんとしたい」との観念そのものがOCDだとしても、理想と現実の狭間で日々悩みつつ、やり過ごしながら生きているのが現状だ。

 

やりすごせたという体験を繰り返すこと。強迫観念との戦いにおいて「負けを認めること」。

 

 なかなか「負けを認める」生き方ができない。「こういう事もある」と毎日自分に言い聞かせながら、いい意味で「いい加減に」「適当に」力を抜いて生きること。持ちきれない荷物は、一度手放してみること。持てない荷物は、誰かが持ってくれるかもしれないし、持ってくれないとしても、それは持つべきものではなかったのだと諦めることが肝要だ。

 

 中村先生からセミナーの案内が届いた。先生も様々にもがきつつ前進していらっしゃる。虚心坦懐に他者と出会うレッスンが、今まさに必要なのだろう。できることとできないことを上手に見分けながら、できない自分を受け容れ、緩やかに生きることを志向したい。

 

 

 

 

2010.6.20(日)『当事者研究』その12(私は何故「研究」を志向するのか)

 1日家にいられたのは5/16以来1ヶ月ぶり。昨日から、自分の書いたものや、読まねばと思ったものに大量に目を通した。風邪が治っておらず体調は今ひとつ。眼精疲労か前頭葉が痛む。いつもながら優先順位を間違え、やらねばならぬ「研修部だより」とやろうと思っていた「札教研用意見書(敦史へのメール)」には手つかずでいる。「自己肯定感」や「音楽科教育課程」に対するインセンティブは薄れ、様々な雑念を研究ノートに綴っている内に、既に夕方5時を回っている。そもそも、どうしてこんなにも多岐に渡る領域について、読み・考え・書く事を志向しているのか。過去には「知識依存症」という捉え方でこの事を考えてみたが、もう少し素直に「研究的実践」と呼んでみることにする。

 

 「実践的研究」ではないとの指摘と共に、この概念を教えて下さったのは安藤修平氏だった。教師9年目にして、初めての転勤で研究部に所属し、お盆に妻の実家へ帰省する直前に中根氏と川原氏と3人で安藤先生宅を訪ねたのではなかったか。あの時のお話に刺激を受け、頂いた著書を興奮しつつバスの中で読んだことを思い出した。それまで意識的に「教育研究」の胡散臭さから距離を置き、明治図書やぎょうせい発行の著作を手にしないと決めていた私が、教育関係の著作を意識して読むようになったきっかけがこの時にある。

 

 確かに修士課程に在籍し、学部以来の書けない苦しみを味わいつつ、60ページ・原稿用紙180枚の修論を書いた経験はあった。しかし教育現場に身を置いてからは研究どころか、日々をやり過ごすことで精一杯であったように思う。転勤して外的な制約として「研究」なるものを校務とせざるを得ず、全道音研の研究部に所属したこともあり、少しずつ教科を中心とした教育研究に身を置くようになっていく。この時は春先にイラクの人質問題があり、社会の右傾化と音楽科の指導要領体制が自分の中で重なって、かつ札中音研の事務局長が小泉氏であったことから、全市集会で批判的発言をしたのだった。

 

 小泉氏に対する怒りは、もちろん律への不謹慎な対応に端を発しているのだが、その後研究所の指導主事として初任研でも世話になり、女性問題で左遷されても数年後には中学校の現場に復帰して、かつ研究の中心に座っていることが許せないというルサンチマンが、私に火を付けたのだった。他にも兼平や中原、山下、萬、藤本、勝谷といったメンバーに対する対抗意識もあった。特に萬さんに対しては、学部時代の「音楽科教育学集中講義」に対する疑問・不満が残っていた。大学院の時にジュネスの副指揮の件で中村先生とぶつかったきっかけとなったのも萬氏であった。全道音研を前にして、研究部会で「指導要領=基礎・基本」なる藤本氏の説明に反論したとき、言葉を選びつつ丁寧に回答したのも研究部長だった萬氏だった。その後わざわざ電話をかけてきて1時間近く議論し、附属の研究大会の後も勝谷氏と3人で酒を飲んだ。あの時は勝谷氏の「日の丸背負って中国で謝罪」発言にうんざりしたのを覚えている。萬氏は特別支援教育の重要性について、熱く語っていたように記憶している。兼平には「ラップの学校化」との批判をぶつけ、附属が志向していた「対話的な学び」の価値について全く理解していなかった。

 

 転勤2年目には札教研の授業を引き受け、実践を地区報で紹介していただいた事もあった。当時、札教研副会長であった金田先生への恩返しの意味もあったように思う。残念ながらその翌年には自民党道議会議員の言いがかりから札教研が解体し、金田先生は当事者として、相当嫌な思いをなさったに違いない。修学旅行の回復日にもかかわらず、北陽中に出かけて須藤指導主事に噛みついたこともあった。あの時は勝谷氏が応答し、またも行政の出鱈目さ、政治の胡散臭さにうんざりしたのだった。10年者研修の真っ只中で、音楽の指導主事が因縁深い山田さんであることも加わり、ますます反体制的な態度が強化されていったように思う。重ねて安倍内閣の発足、教育基本法の改悪、教育再生会議の議論などが重なり、それらへのカウンターの為に必要以上に頑張ってしまったことは否めない。折しも研究部としてのまとめと重なり、様々な危機感から大量の文献に目を通し、自分の研究授業に合わせて長文の論考を作成したのだった。思えば仁田先生とのブログでの交流が、私を勇気づけていた。トップダウンの指導要領体制に抗して、「子どもの側に立つ」を合い言葉に必死で反論を連ねて出来上がった「研究のまとめ」も、残念ながら職場で共有されることはなかった。ひたすらに消耗した研究部としての3年間であった様に思う。

 

 悔し紛れにそれらを書き直して、10年研の「特定課題研究」として市教委に提出。柿崎先生の「大学教員の方が向いているんじゃない」との言葉に、博士課程で学び直したいとの着想を得たのもこの頃だった。翌年からは組合教研で発表するようになり、全道教研にも3年続けてレポートを提出する機会を得た。全道2年目には全国に推薦され、共同研究者から評価を得て全国集録にも掲載された。河原井純子さんとの出会いから、一回目の全道レポートを書き直して市教委に提出することもできた。あの時の鹿内氏の講評「理想論であって公教育では無理だ」、山田指導主事の「我々はパブリックな教育に携わっている、その流れでやれないのならやめるしかない」との発言も強く印象に残っている。

 ここ数年は教育人間塾に参加したことをきっかけに、「教師力ブラッシュアップ」関連の先生方とも交流が始まった。『学び合い』の考え方と出会い、自らが中心となって研究会を行うようにもなった。千歳の山崎先生との出会いから、美術科関連の皆さん(美術による学び研究会)とも交流するようになった。村山先生や亀貝先生との議論から、広く教育を論ずる機会も頂いた。教科研究においては「日本学校音楽教育実践学会」の地区例会に3年続けて参加し、今年は実践発表をする機会も得た。組合から半年間距離を置くことを決め、学会へのコミットを始めようかとも考え始めている。上越教育大・西川氏の「臨床教科教育学会」にも加入の申し込みをした。実践学会には入るかどうか迷っている。「音楽教育学会」「音楽学習学会」「音楽表現学会」への参加も検討中だ。

 ここまで書いてきて改めて思うこと。残念ながらこれらは「研究的実践」では無いらしい。はっきり言えば「ルサンチマンからくる抵抗」に過ぎず、単なる「関係依存」というのが相応しいようだ。アディクションではなく、真に学問的な探究心であると自信を持って言うことはできない。でもそれで良いのだ。20年かけたリハビリの結果として、今私はここにいる。全く書けなかった暗闇から抜け出し、317ページ・原稿用紙で1900枚分のテクストをWEBを通して生産するようになった。自己満足でしかなくとも、40代からの知的生産に向けて方向性を見定めるのみ。慌てず・騒がず・坦々と進みたい。

 

 

 

 

 

 

 

2010.7.23(金)『当事者研究』その13(転勤最初の一学期を終えて)

 久々に書く。体力が落ちており、ここ数日は何度も休憩しながらの生活だった。歳には勝てないということか。ようやくこの日を迎えられた、というのが正直なところだ。2校目の一学期に比べれば「慌てず・騒がず・坦々と」の自己暗示が功を奏したのか、大きな混乱もなく、一学期を終えようとしている。

 納得のいかないことは多い。特に子どもとの関係において、イメージしたとおりの指導ができない。自分の気力や体力の問題と共に、対する子ども達の質が陵北とは違う。篠路の頃に比べれば、随分幼く穏やかな子ども達だが、それ故に育っていないための問題行動も多い。古典的な「生徒指導」の論理では対応できないと思い、臨床教育学の眼差しで子どもを見ることを研修部便りで訴えるも、自分自身が「管理的な指導論」を超えられていない。何よりも「現実を眼差せない私」が厳然と存在する。「子どもの声を聴く」と言いつつも自分の情動を優先してしまい、文脈が読めず受容できないことの何と多いことか。

 

 そう直ぐには変わらない。病的な自己を抱え、歪んだ発達を無自覚に生きざるを得なかった私が、簡単に他者を受容できる人格を持ちうるはずがない。こうやって自らの観念を言葉にする努力を続けていることが、せめてもの救いなのだ。「変わらない・変えられない」からこそ「変わりたい・変えよう」とするのだし、長いスパンで振り返れば「変わった」ことも多いはずだ。こうして「朝活」と称して早起きを心掛け、自分に向き合う努力をしていることもそうだ。

 

 「酒をやめた」ことを境として、大きく私の人生は変わっている。ほぼ毎日コーヒーとお茶を自分で入れ、食洗機から食器を出し、朝食を採って休まず学校に行く。やるべきことを極力優先しつつ、学びたいことにも時間を割き、書くことの実践も続けている。「大丈夫」と日々自分に言い聞かせ、「何とかなるし、何とかする、何ともならなくてもそういうこともある」と呪文のように口ずさみ、停滞しそうになる自分を何とか前に進め続けている。

 確かに疲れを感じ、「残り20年、もつのだろうか」と日々不安に駆られることも事実だ。しかし、あの根津さんを支えているのは、彼女が40代を過ごした石川中での体験だったという。「希望は生徒」と言えるような濃密な体験を、今の私は生きられているか。北海道の教育が一気に東京化しつつあるこの難局にあって、根津さんら「私を貫く教師達」の生き様から学ぶことは多い。しかし、彼らほどの力量も覚悟もない私に、これからの厳しい現実を生き延びることはできるのか。

 

 結局、私は私の人生を生きるしかないし、人の人生を生きることはできない。私なりの「私を生きる」やり方があるに違いない。それは決してドラマティックでも理想的でもないのだろう。もっとどろどろとして、かっこわるく、苦悩に満ちたものとなるのだろう。それでいいのだ。「途中で止めるというのも一つの克服の形」(落合恵子)との自己実現の在り方もある。緩やかに、穏やかに、無理せず、毎日を生きていきたい。

 

 

 

 

 

 

 

2010.9.5(日)『当事者研究』その14(4年前のトラウマと向き合う) 

 北大大学院・奇さんのインタヴューを受ける当日となり、過去の学級資料を見ていたら、4年前の学校祭での佐々木遙との対応について、以下のような記録が出てきた。

 

2006.9.29(金)午後5:30過ぎ

今、娘は帰ってきて横で泣いている。笹木先生は娘のことを、他の生徒に「あの子とよくつきあっているな」と言ったというのは本当ですか、とのこと。

学校祭プロジェクトであった木村智美(3-2)に、「私(笹木)は彼女(佐々木)とうまくコミュニケーションがとれないが、君(木村)はよくやっているな」と、木村に対する配慮から話した事実はあったので、その事だと思い、誤解を解こうと誠実に説明しようと試みた。しかし月曜の夜から連日徹夜の編集作業の疲れで、ほとんど頭が回っていない状態でもあったため、上手くこちらの意図を伝えることが出来ず、「先生は娘に対する不満からそういう発言をしたんですね」という話の流れになってしまった。土日に必死でつないだ編集データを、月曜の放課後の作業で佐々木がバラバラにしてしまったと言う事実があり(わざと壊したわけではない)、それを佐々木に対する配慮から厳しく指導することをさけ、翌日にかけて徹夜で編集し直し、さらに火曜日はコンピュータを録音で使わねばならなかっため、佐々木に編集作業を進めてもらうことが出来ず、水曜日は、別のコンピュータを使って録音作業をし、その間佐々木には編集作業を進めてもらったが…

 

当事者研究に繋がると思い、追記する。

 2年ぶりの担任、3校目に転勤して、久々に学級を持って学校祭に向かうにあたり、過去の記録に目を通していたら、上記の文章を発見した。ずっと封印してきたトラウマ。今冷静になって言えるのは、どう考えても自分が悪いということだ。自分の立場・感覚でしか生徒に向かえていなかったことを証明するような、自己弁護の言葉。渡部との関わりもあり、遥に対してフランクに向き合えなかったことが、全ての敗因である。

 

 今、彼女はこの事をどのように記憶しているのだろう。大人の私ですら、大きな傷と感じているのだから、きっと忘れていることはあるまい。思えば、陵北離任の日に田原に言われた言葉も、同様の配慮のなさから生まれたものではなかったか。卒業式での大川の言葉も、江河の手紙も、その後の得能も…。

 

 「自分病」と名付けた、どうしようもないこだわり。篠路最後の年の春も、同じ状況の中でたくさんの子ども達や同僚に迷惑をかけた。振り返れば、数限りなく周りに迷惑をかけ続け、特に律に対しては、一緒にいてくれていることが奇跡だ。ただ気を付けなくてはならないのは、自罰型の思考では、何も問題解決しないということ。「開き直る」のとは違う在り方で、自らをリフレイムし続けること。言い換えれば、「誠実に今を生きる」ということが求められている。

 

 無罰型(アサーティヴ)の「あわまけぐま」を心に、慌てず・騒がず・坦々と生きよう。そうしていれば、過去を肯定的に受け止められる日が必ず来る。そう信じて前へ進もう。

 

 ここまで書いて、これまでの「当事者研究」も読み直し、ほとほと自分は同じ問題の周りをグルグルと旋回しながら生きているのだなあと、改めて思い至る。「原問題」に立ち返ること。思えば人は、常に「私」の呪縛(独我論)から逃れられないのではないか。

 

 広井良典氏の言葉を引いておく。

 あまり簡単に一般化はできないとは思うが、人間は確かに、思春期や二〇歳前後の頃に考えた問題-いわば“原問題”-を、形を変えながら、一生考え続けるという面を持っている。  『コミュニティを問い直す-つながり・都市・日本社会の未来』あとがき

 

 『学び合い』の会での「セルフ・ライフ・ヒストリー・アプローチ」も、結局は自己言及に過ぎなかった。ただ「関わりながら学ぶ」ことへの志向性が、どこから生まれたのかを意識化する機会にはなった。校内研究で「相互評価」に迫らなければならなかったという外的な要因はあれ、自らの被=教育のプロフィールの初期に刻まれた「自主学習」という体験は、想像以上に私のアイデンティティ形成に影響を与えているようだ。

 

 そこから今日のインタビューのテーマである『集団づくり』が導き出される。奇さんは折出健二氏の次の定義を引いている。

 日常の学級という場を基盤として、この関係性を暴力的でなく平和的に、支配的でなく共同的に築きながら、この活動を参加・共同・自治の教育内容として具体的に構築する営みが必要となる。学級またはホームルームのもつ集団的教育作用を子どもたちの人格形成のために資するように発揮させる。これが、今日求められる《集団づくり》である。

 

 

 今日の奇さんとの対話から、何が引き出されるのか、自分でも楽しみだ。残念ながら昨今の子ども達の現実は、内藤朝雄や土井隆義らがいう「排除型いじめ」の様相を呈している。単純にコミュニケーションの大切さを謳うだけでは如何ともしがたい状況だ。その中で、共同体の「集団的教育作用」をどこまで信じることができるのか。そこに議論の分水界があるように感じる。続きは彼女との対話の後で整理したいが、とりあえずのスタンスを記すならば、「交流的自己」(ブルーナー)として「私」を捉えること。西川先生に送ったメールの文言を引けば、「私」を含めた「みんな」すなわち相互主体的な「われ=われ」として「自己」を捉えること。そこから平和を志向する個人の育成が可能となるのではないか。

 

 インタビューは1時間半に及び、井上卓也のケースを中心に語ることができた。7年以上前のことなので随分脚色が入ったが、物語化されているからこそ、本質的であるように感じる。夕方には残念ながら、自らの愚かさ(タクシー・本・金)が露呈し、久々に律に激昂され、しんどい経験をした。抽象的な議論に逃げ、自らの弱点(虚言)に向き合わない生き方は、もう立ち行かない。逃げているつもりはない。だが、染みついた愚かな生き方はなかなか変えられない。果たして「心的外傷と回復」(ハーマン)は、私に可能なのか。「在特会」を目の当たりにし、皆が病んでいると気づきつつ、重荷を手放す日を夢見て、淡々と生きていくしかなさそうだ。観念の呪縛から身体性を取り戻すこと。「誠実に今を生きる」とは、この苦しさを抱きしめることなのだ。「やるべきこと」に向かおう。

 

 

 

 

2010.12.24-25(金-土)『当事者研究』その15(Michael Jackson This is itに寄せて)

 2学期を終え、律は珍しく夜にバレエ・レッスン。クリスマス・イブに一人留守番。テレビをつけたら、マイケル・ジャクソンの特集番組。思わず見入ってしまう。圧倒的なパフォーマンス。本当にこれが死の直前だとは思えない。ヴォーカルも、ダンスも、ミュージシャンも、スタッフも素晴らしい。「アース・ソング」の深い思想性。音楽的にも多様で、かつ質が高い。若くして成功し、才能を開花させ、欲望のままに生きたMJの生涯から、私のような平凡な存在が学びうることはあるのか。彼のような非凡な存在を鏡として、自らのあり方を映し出してみること。まさに「The man in the mirror」に重ねて、2学期の自分を振り返ってみたい。

 

 この2学期は、様々にこれまで経験しなかったようなことが起きた。特にハンガリー研修と前任校トラブル対応が相次いで起きた10月の体験は、生涯忘れられないものとなるだろう。そう書きつつ、詳細を思い出すことを拒む心理機制が働いている。10月後半、様々な対応に追われ、何も書けない時期が続いた。職を追われるかもしれないとの不安から、落ち着かない心理状態となり、里谷校長との対応において強烈に精神を磨り減らす日々であった。陵北の50周年の直前でもあり、自らの陵北在籍6年間の意味が、こんなトラブル一つでマイナス評価されてしまうのかと、むなしい思いになった。ふとMJにとっての「児童虐待疑惑」も、その様なものであったのかもしれないとの考えが去来する。さらにはあらゆる報道は断片のみしか捉えられず、それへの解釈しか提出できないのだとも考える。もっといえば、そこには大衆の欲望が反映しているに過ぎず、真実とは常に明らかにされ得ない主観的なものであるのだろう。そして、その主観的真実そのものも、他者の評価の反映に過ぎないのだとすれば、果たして何を信頼して良いのか。ポストモダニズムの袋小路。価値相対主義のニヒリズム。斯くして私の思考は、いつもここに帰着する。

 

 翻って、私の現実に「これだ」と言えるようなものはあるか?バッハのクリスマス・オラトリオに耳を傾けつつ、自ら入れたコーヒーを味わい、律と一緒にいられる幸せをかみしめる。綱渡りの人生ではあるが、確かに私はここにいる。こうして書いていること自体が、言語的な虚構に過ぎないのだとしても、そのフィクションを日々創造する私の実存が確かに存在している。時折太陽の光を身に受けて「私は生きている」と実感するように、論理的には説明のつかない現実の中で、その都度の現在を味わいつつ坦々と生きていくしかないのであろう。MJのように肥大した自己意識の中で、メディアによって拡張した私を演出して生きるのとは別のあり方が確かに存在する。非凡であることを志向する人生の季節は、既に私から去ったのだ。

 

 MJが指し示す「it」は、所詮メディアが創り出す虚構に過ぎない。死してなお虚構の中で、イメージとして機能し続けるMJ。思えば私にとってのコダーイもその様に機能しているのではないか。深い哲学的主題。ここには象徴の機能についての議論が横たわっている。ランガーを深く読む必要がありそうだ。「本を書いたら」との村山先生の言葉に応答して、来年のテーマとしてみたい。単年度で答えの出るものでは無いと自覚しつつ、安易にハウツー的な実践書を書くことを拒む心性を大切にしたいと思う。粛々と前へ進もう。

 

2011.2.11-14(金-月)『当事者研究』その16(徒然なるままに/この2年を振り返る)

 ひさびさに「世界の中心」に佇み、今年最初の『当事者研究』を書こうと試みる。思えばこの試みのきっかけとなった「詩のようなものⅢ注釈」の日付はちょうど2年前。庄井先生の息子さんの「お疲れ休み」に反応したのがきっかけだった。

 

 庄井氏の講演録を読み直し、その優しさ・緩やかさに感化される。直接お会いしたのはそれに先立つ8ヶ月前。人間塾で知り合ったばかりの亀貝先生に、自由が丘主宰の学習会を紹介されてのことだった。いかにして「響き合う」教育実践が可能となるのかフロアから発言し、会が終わった後レポートをお渡ししてご挨拶したのだった。フィンランドの事とからめて中村先生の事をお話ししたのではなかったか。あの時、中村先生とハンガリーにご一緒するなど考えた事もなかった。

 

 3連休をゆったりと過ごし、又もやるべき事を後回しにして、どうでも良いことに時間を費やす。思えばこの2年も、もっと言えばこれまでの多くの時間がその様に費やされてきたのではなかったか。ただ「無駄に」とは言いたくない。このような「徒然なる」生き方を、私は選び取ってきたのではなかったか。

 

 今も早く寝た方が良い事は分かっているし、風呂に入るべきなのも、テストに手を付けるべきなのも分かっている。それでも「何とかなるし何とかする」と思ってしまうのは何故か。あんなに嫌な思いをしても、ぎりぎりにならなければ動き出せないこの性質はどう仕様もないのか。

 

 結論から言えば、今のところはどう仕様もないのであろう。ストレスで胃を壊しても、どうも治らないだらしなさ。人に指摘されてもなかなか変わらない。変わりたいという気持ちはある。でも変えないのには何らかの理由があるのではないか。

 

好きな人を救うためなら 50年間 保ち続けた 信条を変えてもいい と思ったこと

『生きる わたしたちの思い』より P.57(ひさんの作品)

 

 ふと上記の文章を想い出して書き留める。この本を手にしたのは庄井先生と出会った年の冬の事。まだ組合というスタンスからしか世界が見えていなかった時期に、自らの拘りや囚われに辟易しつつ読んだのではなかったか。他者のために自らを差し出し、アイデンティティを無効にする事。酒害者から断酒家への歩みの中で、いかに「利他」の構えを身につけることが出来るか。まだまだ道は遠い。

 

 様々な人と出会い、様々に考え、自らを更新しようと歩んできた2年間。そう簡単には変わらないが、大切に思ってきた信条を手放すときが近づいている。私にとってそれは何を意味するのか。「好きな人を救う」というよりは「大切な人と共にいる」為に、今は甘んじて受け容れなければならないのであろう。「50年間保ち続けた」想いとは比較にならないまでも、時は人を変えていくのだ。変わらないと思いつつも、きっと変わっていくのだ。

 

 

 

 

 

2011.3.19(土)『当事者研究』その17(「拝啓・十五の私へ」の取り組みに代えて)

 思いを込めて作った学活資料。以下に転載する。

 

拝啓・十五の私へ~進級を控え、未来の自分に宛てて書く『手紙』~

 素晴らしい卒業式でした。先輩方の想いをしっかりと受け継ぐ感動的な合唱を歌い上げてくれた皆さんに、心から「ありがとう」と言いたいと思います。送別集会で皆さんが歌った『ありがとう』、そしてそれに応えるように先輩方が歌ってくれた『手紙』。さらにそれを受けて見た『続・拝啓十五の君へ』。ワークシートにはこの曲から受けた感動と、卒業式への意気込みが綴られていました。

 皆さんが「中学1年生」として過ごすのも残り一週間です。今日は進級を控えて、さらには義務教育終了まで残り2年を切った今の気持ちを、「未来の自分に宛てて書く手紙」に託してほしいと思います。今日書いてもらう手紙は2年後、皆さんが受験を終え卒業式を迎えようとしている時まで、大切にお預かりしたいと思います。皆さんの「今」を素直に打ち明けてみて下さい。

 

参考に長崎・五島列島の若松中学校、合唱部部長、増田志保さんの言葉を紹介します。

『手紙』の歌詞にあるように、『いつの時代も悲しみを避けては通れない』と思うんですけど、笑顔を見せて生きていかれたらいいなと思ってます。笑顔を見せられないときもあると思うけど、それでもがんばれば絶対大丈夫だと思うから。みんなとは本当の仲間になれたと思います。卒業まで、みんなと一緒にいられる時間を大事にして、笑顔で過ごしていきたいです。(NHK全国学校音楽コンクール制作班編『拝啓十五の君へ』ポプラ社)

 アンジェラさんも悩み多い十代を過ごし、歌手になると決心してアメリカに渡ったものの、昼は会社勤めをしながら夜ステージで歌うという苦しい生活をしていたそうです。会社の上司に「Take a chance on you.(自分に賭けてみなさい)」と言われ、25歳で日本に戻ってきたものの、簡単にデビューできるはずもなく…。そんな彼女を支えたのは「TO DO LIST(やるべき事リスト)」でした。達成目標を具体的に書き出し、そのリストを壁に貼って毎日眺めながら、「今日やるべきこと」に集中して、日々努力を重ねたそうです。彼女が決めた目標は5年後に「武道館でライブをする」こと。毎日やるべきことをやり続け、3年後の28歳で武道館ライブを実現させたのでした。

 彼女が30歳の時に受け取った「自分からの手紙」も、この「やるべき事リスト」も共に、精一杯「今を生きている」ことを、目に見える形で表現したものです。震災から今日でちょうど一週間。被災地では今も多くの方々が「苦しい中で今を生きて」います。こんな時だからこそ私たちがすべきことは「自分の声を信じる」ことなのだと思います。ぜひ心を落ち着けて、2年後の自分に宛てて、今の想いを書いてみて下さい。

 2年後、この手紙を読んでいる皆さんが、増田さん達のように「本当の仲間になれた」と言いながら幸せな時間を過ごしていることを、心から願っています。

 

 CDプレーヤーまで用意して、気合いを入れて臨んだものの…。「席替え」という彼らにとって最も利害の絡む事案を、最後くらいは自分達で決めて欲しいという願いもあり、「自由にしたい」という彼らの意見を尊重して預けてみた。「みんなで・みんなが」にこだわって(私だけか?)取り組んできたクラス実践。朝学活で「心配だ」と言った通り、残念ながら昼休みの5分では決まらず、5校時開始のチャイムまで待ってもダメ。良い機会かと思い、予定を変更して「みんなで」決める事の意義と難しさを語る。

 彼らにしてみれば「またよく分からない難しい話が始まった…」という感覚であったに違いない。でも私にとってはあのタイミングで語る必然性があった。合意を作ることの難しさ、被災地への想像力(岩手日報の「中学生ボランティア」の記事が念頭にあった)、「自由」の本当の意味(テッサ・モリス・スズキの「自由を堪え忍ぶ」や赤木智宏の「希望は戦争」を紹介しつつ、新自由主義の残酷さを語る)、「グループ」よりも「チーム」になることの大切さ(『学び合い』の基本思想にも繋がる)などについて言葉を選びつつ語ったが、どこまで伝わっただろうか。きっとほとんどわかっていないだろう。「話し合って物事を決める」ことの積み重ねなしに、私が伝えたいことを理解できるはずもない。「合意を形成する」ことは、トレーニングしなければできないのだと痛感する。

 ここまで話して残り時間15分。手紙の話題にはならないと判断し、残りを席替えに当てて良いこととする。「総務にお願いね」と振ってみたが、「総務で集まる」ことすらできないという現実。そんな中、三浦がもっともな意見を総務に出す。「リセットしてくじでやるか、席替えしないか、どちらかなのでは」。それを受けてようやく調整が始まる。しかし後はお決まりの展開。澤田が動かないのに過剰に反応し、「どうして集まろうとすらしない」と全体の前で迫ってしまう。教師の権力性について自覚しているにもかかわらず、これでは全くのダブルバインド状態。澤田や小笠原が言うに「男子の総務2人と他の男子が話しているので、入らなくて良いと思った」とのこと。結局座席については、時間切れで決まらず。各自どうすればみんなが納得できるか考えてきてもらうことにし、「火曜の朝に調整して決まるといいね」と伝えた。「未来の自分への手紙」は3連休中に書いてくるようお願いし、そのまま廊下整列させ完全下校となる。

結局座席は決まらずに終わったが、私にとっても彼らにとっても、これは必要な時間であったはずだ。決まらなかったからこそ、上記のような多岐に渡る論点を考えるきっかけを与えることができたのだ。横藤先生流に言えば、今年はあえて「縦糸=システム」を強調しなかったことが裏目に出たと言うことだろうか。しかし「人間関係」の力学は、そんな簡単なものではない。班長会を中心とした、伝統的な集団づくりの手法をあえてとらなかったこそ学べたことがあったと思いたい。自分の求めている学級は「教師による管理の行き届いた、見てくれの良い整然とした集団」ではないはずだ。一人ひとりの声=要求が立ち上がり、それを互いに聴き取りつつ「みんな」になっていく集団。湯浅誠なら「みんながプチ活動家である社会」と言うだろう。その意味で、彼らの願いを否定せず、上手くいかない葛藤も引き受けて、「みんなになろうとする個」(交流的自己)へと彼らを方向付けるきっかけとなったのではないだろうか。ある意味「手紙」を書くよりも深い学びとなったのではないか。

来年度も彼らと共に進級して、担任として彼らを見守り、一緒に日常の現実を織りなしていく機会をいただいた。しんどいが、実践のフィールドがあるという喜びを大切に、慌てず・騒がず・坦々と「子どもと共に生きて」いきたいと思う。

 

 

 

 

 

 

2011.5.5(木)『当事者研究』その18(「インターネットと私」:律への回答として)

 連休が終わる。いつも通り何も為しえず。まあ、「いつも通り」であることをひとまず受け容れようと思う。その上で、3月末からの宿題であった「インターネットと私」に漸く手を付ける。もう一つの宿題であった手紙は、何とか書き上げた。残念ながらレトリックに過ぎない気もするが、明らかにしておくことに意味がある。「優先順位の一番にあなたとの生活を置く」との決意に嘘はない。心の底からそう願っているのだ。

 

 問題は、それが物理的に可能であるのかどうか。優先順位を間違わせているものはいったい何なのか。そこにオンライン・コミュニケーションがどう関わってくるのか。昨日、ほぼ一日かけてこれまで私がメールやブログで書いてきた膨大な文章(419ページ分・原稿用紙2514枚・百万字以上)に目を通した。交流した人々の一覧を作ったところ、仁田先生からとんたんさんまで、5年間で84人。メーリングリストで関わっている人々を入れれば悠に百人を越える人々と、オンラインで議論したり用件を済ませたりしてきたことになる。

 

 ふと、昨日の夜に感じた虚無感を思い出す。簡単に言えば「それがどうしたというのだ」という離人症的感覚。合わせて、この2年間に書いた研究ノートが12冊に達していることや、「個人用」に使っているUSBのデータ量が833MBになっていること、本棚に入りきらない文献や書類が山積みになっていることなどが想起され、「これでよいのか」という気持ちになっている自分を発見する。確かにこの現状に至っている大きな要因として、インターネットで接しうる情報の膨大さが挙げられるだろう。果たしてそれらの情報は、私にとってどのような意味を持つのか。昔から収集癖があり、整理下手で物を捨てられない私の弱点が顕かになっているに過ぎないのではないか。さらに私の精神疾患とも関わってくる。「依存症」「自我拡散」「スキゾ的傾向」…。これらに通底しているのは、仮想現実がもたらす全能感。メンタルヘルスの保持を考えると、何とかして現状を変える必要がある。

 

 人間塾のMLに村山先生への返信・反論として書いた文章から、送信前に読み直し削除した文言は以下のようなものだった。

私事で大変恐縮ですが、私の姉は中学・高校で受けたいじめがきっかけで不登校を経験し、高校時代の担任の尽力で何とか卒業はしたものの、勤めた地元のスーパーでも同僚から嫌がらせを受け、精神的なプレッシャーからひきこもり状態になり、そのまま精神疾患(双極性障害)を経て通院、残念ながら初期に適切な医療処置が執られず、未だ精神科への入院を余儀なくされています。姉が不登校であった当時は「登校拒否」としか呼ばれず、学校からも家族からも否定的にしか対応されませんでした。

 

 「実存は誰にでもある」「レッテルを貼られないようにした方がよい」との村山氏の言葉が、私のカミングアウトを躊躇させたと言える。更に言えば、律には日頃から「お姉さんのことを人に語るのは卑怯だ」とも言われている。その通りかと思いつつ、どうしても語ってしまう自分がいる。自らの当事者性の核にある「精神疾患」。そこを表現してしまう弱さ。その弱さを他者と共有することによって「甘えの関係」を無意識的に構築しようとしているのではないか。

 

 ふと「ネットで文章を書くこと」は、自分にとって「他者になること」を意味しているのではないかと思い至る。何も書けなかったあの大学院時代のトラウマやルサンチマンを、ネットによる全能感の後押しを得て、時を経て補償しようとしているのではないか。「書けない自分」を乗り越えることで、過去の自分とは違う自分=他者になるという意味もあるだろうし、常に他者の言葉に応答することで、誰かの他者としての自分の存在を確認しているという意味もあるだろう。

 

 インターテクスチュアルなものとして自己を捉える傾向が、ポストモダニストとしての私の基底にある。だからこそストラヴィンスキーの引用をポストモダンの先駆と捉えたがったのだし、「無意識は言語のように構造化されている」とのラカンの定式や、「言語とは常に他者の発話である」とのクリステヴァの論理に全面的に賛同してしまうのだ。しかし、こういった構造主義的な自己像から、私の実存が救い出されることはあるのか?

 

 戸高七菜氏(一橋大学助教)の博士論文「自傷行為の社会学的分析-嗜癖性とコミュニケーション資源という二つの側面に着目して-」審査要旨より 

 著者が一貫して強調するのは、傷つき体験の後遺症を抱えながら、どのような人間「にみえる」かだけでなく、どのような人間「である」かまでが再帰的な評価のまなざしにさらされる後期近代の時代特性の中で、苦しい状態を生き抜き生活するための方策として自傷行為に頼らざるをえなかったという点である。そうした経緯を描くことで著者は、このケーススタディが、現代社会で育つことの困難の一端を描き出したものとしている。

 

 「再帰的な評価のまなざし」がポストモダン=後期近代の時代特性であるとするなら、私が常に強調する「自己評価」の問題は、「自己言及=セルフナラティヴ」の暴力性として立ち現れる。自己疎外をもたらすものとしての「自傷行為」が、実は自己存在を確認するアディクションでもあるという二重性。その視点から私のネット・アディクションをどう解釈するか。

 

 柳田邦男が紹介する、小此木啓吾によるインターネットの5つの特徴。①匿名で別人格になれる。②「全知全能な自分」を感じられる。③自分の気持ちを純粋に相手に伝えられる。④特定の人と、親密な一体感が持てる。⑤イヤになったら、いつでもやめられる。

 柳田氏の言葉「ケータイ・ネット依存症から脱け出すには、メール二十本を発信する時間、あるいはパソコンの前に座り続ける時間を減らして、生身の人間に会ったり、散策や読書や絵画展や音楽会を楽しんだりするところから始めてはいかがだろうか」

 

 自らの病を自覚し、人間性を恢復するために、「コンピュータなど所詮道具に過ぎない」と割り切ることが大切だ。自傷はもうやめて、生身の関係性の中で自らを癒すことを志向したいと思う。「いつでもやめられる」のがネットの特性なのだ。坦々と粛々と実践したい。

 

 

 

 

 

 

 

2011.6.19(日)『当事者研究』その19(健康について考える)

 前回の「当事者研究」から一ヶ月半が経過した。その間、5・21のチャリティイベントや宿泊学習をこなし、うんざりする生徒指導事案をさばき、吹奏楽部の保護者会も何とかやり過ごし、書けなかった「研修部便り」もようやく書き上げた。

 

 3・11から百日が経過し、未曾有の大災害の中で、直接の被災者ではない者として、かつて無い時を過ごしてきたが、果たしてそこで見出されたものは何だったのかと考える。すぐに脳裏に浮かぶのは「自らがいかに不健康であるか」ということ。学級・学年の生徒指導に追われる中で、強烈な胃痛に襲われ、何度も動けなくなった。病院にも足を運び、処方薬を毎日飲むようになった。しかし、それをどこかでメタ認知しつつ操作している自分がいる。分かり易く言えば、一種の「演技」として、不健康な自分を演じている節があるということだ。

 

 胃の痛みそのものに嘘はない。今も重さと痛みを感じ、うんざりしつつコンピュータに向かっている。だがこの痛みは、単なる空腹から来るものに過ぎないことも知っているのだ。若い頃からの自家中毒癖とでもいうものの延長に、今の不健康が存在していることは間違いない。そこで改めて考える。真に不健康なのは身体ではなく、「認知」なのではないのか。

 

 痩せて体中にケロイドがあり、右目はほとんど見えず、右手もやけどで不自由。おまけに偏頭痛持ちで肛門周辺炎や歯周病にも罹っている。水虫もあり、膝は常に痛く、低血圧で胃には過形成ポリープ…ある意味、満身創痍といっても良い状態だ。加えてうつ病で入院経験があり、自助グループで治療を継続している。

 

 この様に現状を文字にしてみて尚、この様な心身の不調は全て「自分の自己認知のゆがみが引き起こしたもの」と解釈しうるのではないか。思えば、幼いときから自己中心的かつ他者依存的で、環境に上手く適応できない発達障害的特性(アスペルガー的)と共に生きてきた。いじめられ傾向にあったことや、姉を巡る家族の問題、そこから酒害を得て、生きづらさの中で時を過ごしてきた。考えてみれば、健全な自己認知など望むべくもないというのが事実だろう。

 

 香山リカの文藝春秋への寄稿「うつ病にかかっている国」より

(前略)うつ病の基本的な症状ともいえる「なにごとも悲観的にしか考えられない」「後悔、ノスタルジーなど過去にばかり気持ちが向く」という傾向が強まっており、うつ病の背景に見られるといわれる認知のゆがみや心理的視野の狭窄化も顕著である。(後略)

 

 私の「セルフ・ライフ・ヒストリー・アプローチ」というのも、単なる「ノスタルジー」であり、うつ病の徴候でしかないのか。ゆがんだ心理的視野から描き出される虚構を、「ナラティヴ・アプローチ」といって肯定的に捉えることに何の意味があるのか。だが、私はこの「認知的不健康」を生きていくしかない。それが我が「心的現実」である限りは。

 

 

 

 

2011.8.7(日)『当事者研究』その20(「ひとり」でいるということ)

 『学び合い』の会を終え、ようやく「夏休み」がやってきた。手帳で確認すると、前回の『当事者研究』を書いた6・19以来、ゆっくり家にいられるのは今日が初めて。何ということだ。まずは、どうにか今日に辿り着いたことを喜びたい。

 

 遠くから盆踊りの音楽が聴こえてくる。クーラーを自粛し、窓を開けたまま「世界の中心」に佇んでいるからこそ聴こえる響き。「♪そろたそろたよ~」の節に合わせて、私の子ども時代も小学校前に集い、踊ったのではなかったか。小学校の低学年までは、中寺さんの所の十字路に櫓を建てて、町内会で集っていた時期もあったっけ。

 

 2日前には又も律ともめ、「別居か離婚か」を迫られた。思えば例年、コンクールが終わってお盆前には必ずもめるのだ。すっかり慣れてしまい、一々動揺しなくなっている自分が、ある意味頼もしい。彼女にしてみれば「何度同じことを繰り返しても変わらない」と見切りを付けられる所以でもあるのだが…。

 

 ふと「本当にひとりになったらどうなるのだろう」と考える。もめているときにはイライラして「ひとりのほうがどんなにか楽に違いない」と思うのだが、本当の意味で「ひとり」であった経験のない私は、正しくそうなった時の未来像を描くことができないのだ。

 

 ここに私が『学び合い』や「協働・共同の学び」に拘っている真の理由があるのではないか。簡単に言えば「ひとりでは何もできず、他者に甘えて生きてきたので、その状況が無くなることを恐れている」のに過ぎないのではないかということだ。きっとこの気づきは真理だろう。さらに言えば、こんなことは大学に入った頃から分かっていたことなのだとも思う。

 

 転じて多くの「ひとりでいる人たち」の現実について想いを馳せる。おそらく人口の多くの割合(3割以上はいるのではと予想する)が「ひとり暮らし」であろうこの国で、その様な人たちを「幸せでない」と見なすことは間違っている。他者と関わることの面倒を避け、気楽さと自由を謳歌している方も多いに違いない。「ひきこもり」「おひとりさま」「無縁社会」「自己責任」といったキーワードで語られていた3・11以前の日本は、基本的に「ひとり」であることを前提としていたのではないか。「家族」に代表されるようなコミュニティ・ベースの生き方が崩壊していることは、今や誰もが認めることであり、だからこそ「疑似家族」的な新たなコミュニティの再興が志向されているのではないか。

 

 それは新たな「ひとり=ひとり」の繋がり合いを志向することでもある。3・11以後の社会像を考える時、憲法が謳う「個人の尊厳」をベースにしつつも、それを自己責任的な「自立」に還元するのではなく、「共同性」のなかで再定義することが強く求められている。やはり私は「ひとり」であることに堪えられない弱い存在だ。律はその様に時間を過ごすことを私に「強いられて」いるのだ。この現状はきっと我々夫婦だけの問題ではない。

 

「新たな共存在 being-together」(マッシュライン)について、もう少し考えてみたい。

 

 

2011.8.19(金)『当事者研究』その21(「無気力」を乗り越える/病の師と向き合って)

 ようやく書き上げた『学び合い』の会報告。5ページ、12000字(原稿用紙30枚)もの分量を使い、この内容の無さは一体何なのか。書けば書くほど「これはレトリックに過ぎない」ということが思い知らされる。例えば次の一文。『学び合い』に限らず様々な教育論を参照しつつ、「教えること=学ぶことの本質論」に迫ってみたい。

 

 本当に私は「本質」に迫りたいなどと思っているのか?学べば学ぶほど迷宮に迷い込んでいくような感覚に、果たして堪えられるのか。こうして一仕事仕上げても、充実感どころか虚無感に苛まれている私が、教育=発達援助を研究対象にして何らかの表現をしていくことなど、果たして可能なのだろうか。

 

 思えば人間塾の議論の中で、勢いで「エンパワーメントの脱能力主義的再定義」などという主題を思いつき、「夏休みを目処にまとめてみたい」などと書いては見たものの、既に夏季休業日も残すところ5日となってしまった。コンクールの翌日から「校外研修」として様々な学習会への参加を予定していたが、結局参加できたのは道民教と全日音研の創作部会のみ。『学び合い』の会以降は無気力に苛まれ、「詩のようなもの」にも「何が全国大会だ。音楽科教育がどうであれ、それが私の人生にどんな意味を持つというのか」と書き殴る始末…。

 

 そんな中、中村先生から電話があり、来年のコダーイ協会全国大会のことで相談を受ける。律にはアシスタントとして動いて欲しいとの依頼。一方、寺沢先生からも電話あり、「ピアノどうする」の言葉の影にがん転移の不安を感じ、野村と連絡を取って久々に会いに行くこととする。放射線治療の影響で坊主頭になった師の姿に接し、その時ばかりは背筋が伸びる想い。病を得て尚も変わらぬ気丈な姿に様々な感慨を持つが、上手く言葉にならない。未だ音楽への情熱は衰えず、フンメルのコンチェルト全曲をコンピュータに打ち込み、我々に聴かせ意見を求める。吉田佐氏・遺作のアレンジは、寺沢先生ならではの独創的なもの。転じて我々の生き方と言ったら…。少なくとも私の生き様はあまりに無様だ。

 

 かつて聞いたことのある言葉が、再び寺沢氏から語られる。「おれは才能を伸ばす=えこひいきしかできない」「だから学校の先生はおれには無理だ」「おれはおまえ達の後に弟子は取らない」「教えるってことは、同じだけやるっていう責任がある」「おまえ達良くやってるよ」…。これらの言葉を受けて、私に語れることなど無かった。自らの言葉の無力を思い知る。「言葉にならない」ということは、「それだけの想いがない」ということを意味してしまうのではないか。言葉の不在が証明する、自らの非力…。何ということだ。

 

 何度も「すみません」と頭を下げつつ、先生から受け取ったものの大きさを語ろうと試みる。野村には「何難しいこと言って…」と茶化されたが、「人を育てることの難しさ」について語ろうとしたことに嘘はない。未だ言葉にならぬ想いをいつか形にすることはできるのか。数多の教育論など参照しなくても、寺沢先生との出会いの中に人を育てることの「本質」が隠されている。自らにゆっくりと耳を傾け、いつか「本質」に辿り着きたい。

 

2011.11.4(金)『当事者研究』その22(「うんざりする」ということ)

 学校で「当事者研究」を書こう、などと思うのは、初めてかもしれない。折々に罫紙にやりきれない想いを綴ることはあったが、どうもそれでは間に合わない、というか、このストレスフルな状態を、一度客観視しておく必要を感じたということだ。

 

 昨日の「フィンランド一日大学」で、ヘイノネン氏や庄井先生の言葉に深く同意し、教育における自由や内発的動機の重要性などについて、改めて想いを新たにしたのだった。しかし日常に戻れば、子供に向き合いつつ「うんざりする」と心の中で何度も叫んでいる私がいる。思えば新卒の頃から、子供たちの心ない言葉や行動に、いつも「うんざり」させられ続けてきたのではなかったか。時には我慢しきれず、感情をむき出しにして叱ったり、反省を求めたり、改善を要求したりしてきたのだった。まさにフィンランドの「やらせない・強制しない」教育とは正反対のことばかりしてきたように思う。

 

 転じて、自分のことを考える。私自身は妻から叱られ、反省・改善を求められて、行動が修正できているか?少しづつは変化してきているように思うが、肝心のこと(衛生面・嗜癖…)は、ほとんど治っていない。これが現実だ。そんな私が、生徒のことを言う資格はあるのか?

 

 フィンランドの学習文化と日本のしつけ文化の間で、ディシプリンから逃れ続けることしか考えてこなかった私に、何を語れるというのか。「強制すれば、本来の学習がぶち壊しになってしまい、教育にならず、かえってマイナスだ」との考え方を、昨年研修部だよりで紹介したことがある。だがその対極には「教育は二万パーセント強制」とのおぞましき橋下府知事発言があり、10年前には札幌市の教育長も「教育は強制である」と、日の君職務命令時に答弁したのだった。合唱の持つファシズム的要素に気付きつつ「歌わせる」ことを拒みながらも、そうしかできないジレンマにこそ、実は最も「うんざり」しているのではなかったか。

 

 無罰型問題解決を志向しつつも、いつも他罰→自罰の罠にはまってしまう。そうして「うつ気分」を抱え、どうでもいいことに逃避し、やらねばならないことを先延ばしにしてしまっている。今も、安藤先生との打ち合わせに向き合えず、研修会のデザインを考えたり、総合学習の資料を作ることから逃げている自分がいる。何か一つでも手をつけてしまえば気が楽になるはずなのに、判っていても動き出せない。動き出そうと意を決してかけた木村校長への電話も、当然ながら期待外れに終わる。そして中村先生への連絡という、新たな雑事を呼び込むことになってしまった。

 

 きっと古本先生も、私と同じような心象の中で闘っておられるのだろう。そう拝察するからこそ、クラスが落ち着かず迷惑をかけている状況にも「うんざり」させられているのだ。「注意・声かけを続ける」「時々授業を見に行く」「古本先生の話をまめに聴く」と方針を立てたものの、どこまでできるのか。「信じて待つ」しか解決の道はないというのが経験上の真実なのだが…。「うんざり」を楽しむ生き方は果たして可能か?しんどい日々は続く。

 

 

2012.1.3(火)『当事者研究』その23(新たな年に想う/夢・希望を語るということ)

 一人「世界の中心」に佇み、ラジオに耳を傾ける。佐渡裕氏のインタビュー。「子どもの前に立つときが、一番自分の音がする」「鏡のような関係だ」との言葉に、姿勢を正す。その前は大友良英と金子勝の対談。ポジティヴであることの価値を語り合うのを聴きつつ、何と自らの立っている場所の儚いことか。

 

 年前には連載原稿も書き上げ、2月までと定めた学会関連の発表タイトルも決め、何とか前向きにやって行けそうだと感じたのだったが…。正月休みを挟んで、又も無意力に退行している。思えば私も今年で42歳。何と言うことだ…。佐渡氏がベルリンフィルから最初の出演依頼を受けたのが10年前の40歳の時だったという。42歳の時には兵庫県立芸術劇場の芸術監督に就任。彼の若い頃からのエピソードを聴きつつ、私のセルフ・ライフ・ヒストリーとも重ねて、様々な想いが去来する。

 

 例えばこんな言葉「成功のプロフィールの何倍も失敗のが書けますよ」「上手くいかなくて、冷たいピザを食べながら一人涙して、日本に電話したこともある」…。音楽家としての頂点を極めた佐渡氏と自分を重ねること自体が不遜でしかないのだが、自分の中にある「指揮者」への志向性が、一種の共感を呼んでいるのだろう。連載で指揮修行のことを書いたばかりというのもあるに違いない。

 

 佐渡氏とのエピソードを幾つか。彼の単書を勧めてくれたのは石塚くんではなかったか。律とつきあい始めたオペラ合宿の時だったように思う。その前に青少年会館でのティルのリハーサルが印象に残っている。ぎりぎりまで一人ロビーで譜面を読み続ける姿。あの時私はまだ指揮科の学生ではなかった。芸森でのキャンディード全曲初演からも強い印象を受けた。敦史の車で真駒内まで送ってもらったんだったっけ…。直接お会いして言葉を交わしたのは大学院の2年の時。「兵士の物語」のリハーサルだった。中村敬一さんのことを話題にしたはずだ。その年のPMFでは大阪センチュリーのドヴォルジャークを聴き、新卒の年にはヴェルディのレクイエムも見た。札響とのシベリウス2番のリハーサルにも通った。それを最後に、札幌に来ることはなくなったのだったが…。

 

 その言葉の端々から、年齢を積み重ねて得た謙虚さがにじみ出る。ふと山下さんはどうしているのだろうとの思いが頭をよぎる。同い年で、バーンスタインとカラヤンの最後の弟子として並んで語られた時期もあった2人の、その後の歩みの違いを考えると複雑な気持ちになる。片やタバコもやめ、健康管理をしっかりしながら充実した仕事をしている佐渡氏。一方きっと変わらず酒に溺れ、仕事もままならないで空しく生きている(だろう)山下氏(と勝手に想像しているのだが…)。さて、私はどう生きる?

 

 酒をやめ、胃に病を得て、人生の残り時間を意識するようになった私に、夢や希望を語る余地などあるか。余地などなくても、子どもの前に立ち続けるからには「大人が夢を示し続ける」ことが必要なのだろう。「学び続けるものにのみ、教える資格あり」との横藤先生の言葉を胸に刻みつつ、今年も坦々と、粛々と、自分にできることを精一杯やるしかないのだ。

 

 

2012.1.5(木)『当事者研究』その24(年賀状を整理しつつ感じたある朝の不安)

 つくづく自分は根暗だと思う。いつからこうなってしまったのか。きっかけは朝活しようと目覚めたものの、コーヒーフィルターがなくて、律にいつものようにまくし立てられ…。「優先順位が立てられないこと」をどう捉えればよいか。今年のアファーメーションにも、「うつ気分」予防の観点から入れては見たものの…。こうして書いている事自体が「優先順位無視」でしかない。

 

ちなみに今年の誓いは、今のところ3つ。

1.「やらねばならない」ことを楽しむ

2.常にリフレイミングして、肯定的に生きる。

3.優先順位を間違えない(気の重いものから先にやる)

 

こう書いた瞬間から、その通りできない自分を発見し、ネガティブ・シンキングの悪循環。こう書きつつ、「シンキング」から連想して、大澤真幸の個人雑誌のことを手帳にメモする。

 

年賀状の整理をしている内に不安感が高まる。様々なつながりを両義的に受け止めている。「ありがたい/めんどうだ」いつも私は後者に流されて、残念な生き方をしてきた。それを払拭しようと、酒をやめ、自分を見つめ、書くことを自らに課してきたはずだったが、アディクションはおさまらず、その都度自分の弱さを味わうばかり。それに輪かけて、本質的な自己変革を先延ばしにし続けている。

 

年賀状には、様々な他者の現在(と私が解釈しているもの)が映し出される。それはあくまでも「他者」でしかないのだが、それらの反響こそ「自己」であるので、その一つひとつから過剰にメッセージを受け取ってしまう。例えば田中哲先生の「音楽から力をもらって、かろうじて生きのびています」、村山先生の「牛歩ですが、書きつづけるつもりです」、御法川先生の「いつも気にかけてくれてありがとう」、樋口先生の「年を重ねて見えるものの豊かさを感じるこの頃です」…。それぞれは他者のナラティヴ(語り)なのだが、それが私の物語に重なり、深く心を動かす。

 

偶然開いた「臨床教育学研究」の山崎隆夫論文に、次の文章を見つけ涙する。

「教師は、自らの指導によって学びを展開し子どもの発言を引き出していると考えやすいが、奈美のように子どもの側から教材とはまた違った思いがよせられることによって、授業が成立しているということを知らねばならない、と思った。学び合う場は、心触れ合い、子どもと教師、子どもと子どもをつなぎ合う場でもあるのだ。」

 

山崎実践と私が立っている場のいかに遠いことか…。いや、20年近い時を経て、師と呼ぶ人たちの言葉を反芻しながら悩み苦しんでいる「私のナラティヴ」こそ、「子どもの側」に立とうともがき続けていることの証なのだ。偶然「ペトルーシュカ」がラジオから流れてくる。私とはまさにこの曲のように「コラージュ」でできているのではないか。「多様なアイデンティを紡ぐ」ナラティヴ的探究に行き着いたのも、一種の運命だったのかもしれない。

 

 

2012.4.29(日)『当事者研究』その25(徒然なるままに・その2/専門性とは何か)

久々に書く。ようやく連休となり、ひさびさに家にいられる。3/25以来なので、やはり1日家にいられるのは、月に1回あれば良い方なのだと切なく思う。石川さんは育休に入り、ひたすらに娘さんとの豊かな時間を味わって生きておられる。音楽・自然・思索と共にある生活。羨ましい限りだが、それも「隣の庭」であって、実際には「人の育ちに寄り添う=自らの欲を捨てる」日常は、想像以上に大変なのだろう。

 

昨日の夜から、律がひたすらに流し続ける音楽ビデオにつき合い、どうも共感しきれないながらも、ふと「自らの専門性とは何か」との考えが浮かぶ。公立中学校の音楽科教諭を生業としているからには、「(学校)教育」または「音楽(科)」というのが、我が「専門性」なのであろう。だがどうもその世界を「極めたい」とか「極めよう」とかいうメンタリティーにはなれない。律にとっての「音楽」もっと狭く言えば「ピアノ」に当たるようなものとして、かつての私には「指揮」があったような気もするが、今となっては遠い過去となってしまった。しかし、8月の「日本コダーイ協会全国大会」に関わることとなり、そのプロフィールだけ見ると、今でも「様々に指揮活動をしつつ、コダーイの理念に基づく音楽科教育を実践している中学校教員」のように見える。加えて「臨床教育学」などという耳慣れない学問にもコミットして、教育=発達援助実践のエキスパートであるかのようにも映るのではないか。

 

しかしその実際は、うつ気分を抱えつつネットにアディクトして、無駄に時間をやり過ごしている只の中年に過ぎない。この相変わらずの自己肯定感の低さ。いや、これこそ正確な自己認知なのだ。かつての自我拡散に比べれば、随分と身の丈の自分を認められるようになっていることを喜ぶべきなのだろう。ここから「専門性」など単なる虚構に過ぎないとの想いが募る。思えば、音楽の専門教育を受けたのが遅かった私は、常に「音楽」なるものへの「憧れ/コンプレックス」と共に生きてきた。大学で音楽の専門課程に進んでも、その世界に素直に入り込むことができず、思想や文化・芸術の多様性に逃避し、良く言えば「多様なアイデンティティ」を模索しつつ、只単に「もがき苦しみつつ惑う」青年期を生きてきた。

今、様々な領域の多様な専門家達と交流し、「人が育つことの本質」を見極めたいなどと言っているのは、きっと未だに惑っていることの現れなのかと思う。しかし、それはそれで良いのではないか。もし私が若くして「音楽」や「教育」の世界で成功し、その世界の専門家(プロの指揮者、又は著書を持つような実践家)になっていたとしたら、きっと今私がもっている幅広い人脈や、普通の生活者の視点は持ち得ていなかったと思う。現在の「豊かさ」は、我が青年期の同一性拡散がもたらした果実であり、それ故にこそ村山先生とも再会し、その縁から自らの対極に立っていると見なしていた教育行政のキャリア官僚とも友人関係になることができているのだ。武藤さんや古田さんといった、普通に生きていては出会えなかった人々との繋がりは、「専門性への懐疑」がもたらした我が人生の奇妙な縁なのだろう。もうしばらくは脱領域的に「多様なアイデンティティ」を志向してみよう。人間の在り方が多様であるからには、発達援助専門職としての専門性の核となるのは「柔軟に多様性を受け入れること」にあるのだ。拘りを手放し、様々に縁を紡ぎつつ、緩やかに生きようと思う。

2012.5.1(火)『当事者研究』その26(歪んだ自己意識を抱えて生きる)

 連休中日、日本中の勤労者が同じ思いを抱えて生きているのだろう。その思いとは「気が重い」「やる気がしない」というあたりだろうか。私の心象に忠実に言葉とするなら「うんざりする」「どうしてこれ程までうつ気分に苛まれるのか」となる。こう書きつつ、こんな風に「当事者研究」に向き合えるほどには時間の余裕もあり、放課後の教室に一人佇んで、ゆったりとした心持ちでいられることを、喜ぶべきなのだろう。

 

もう少し冷静に分析すれば、昨晩武藤ご夫妻とお会いし、久々にすすきので食事をし、しばらくぶりに接待めいた関わりを自分に強いたことが、この心的疲労感の主な原因かと思う。帰宅も遅く、シャワー浴びて久々に布団に入ったものの、寝すぎて朝活もできず…。寝坊してコーヒーと朝食をなんとか済ませ、1時間だけの1年授業も重い気分のまま何となくやり過ごし、空き時間や係会議の時は睡魔に勝てず居眠りしてしまう始末…。クラスにいても指導の歯切れは悪く、曖昧な指示ばかり。イライラしているのか、普段なら柔らかくかわせる所を、命令口調で「すぐ上着を着なさい」とか「号令やりなおし」とか…。書けば枚挙にいとまなく、今日は調子の出ない一日だった。

 

 ふと「このまま退職まで勤め上げることはできるのか…」との不安に駆られる。武藤さん曰く「運動が一番いいですよ」との言葉が耳に残る。想像を超える官僚としての激務の中で、様々な雑事を手際よくさばき、自分なりの仕事術を身につけている彼と、呑気に自分のペースで仕事をしてきたできない自分を比べるのもおこがましいが、彼もひどい頭痛と肩こりに悩まされ、笑えない日々を過ごしていたことがあったという。「実存は誰にでもある」との村山先生の言葉通り、誰一人としてこの世界を完全に健やかに生きられている者などあろうはずがないのだ。誰もが何かしらの痛みや悩みを抱えて、それと付き合いながら生きているにすぎない。

 

 であるならば、事あるごとに「うつ気分」に退却し、やるべきことを後回しにして、頭でっかちで暗く、理屈を並べるだけのわが人生は、まったくもって「残念な生き方」であると言わざるを得ない。月200時間の残業、1日に300通のメール処理…。にもかかわらず、今自分がやっていることの意義を目隠しされたまま、ただひたすらに組織の一員として「やらねばならぬこと」をこなしながら生きること。私にそんな経験はない。自分の甘さにうんざりさせられる。だが…、では私は彼のような「猛烈な働き方」を経て、仕事のできる有能なキャリアになりたいと思っているのか?答えは否。自らの力量や性分からいって、そんなことは目指しようもないし、目指す気持ちもさらさらない。「豊かな生き方」の基準が、すっかり変わってしまっているのだろう。

 

 常に「新しいもの・未知なもの」と出会うことを自らに課し、多様性に自らを開いてあることを楽しむ武藤さんの生き方に刺激されることは多い。しかし同時に自らが病を得た7年前を振り返り、「降りる生き方」を選んだ私の人生にもそれなりの意味や価値はあるはずだと思い直す。悲観的に傾く歪んだ自己意識と向き合いつつ、その心的現実こそが私のナラティヴであり、それを丸ごと受け止めることからしか日常は生起しないのだ。ゆっくり進もう。

 

 

2012.5.4(金)『当事者研究』その27(2日間で30時間眠った感想)

 40年以上生きてきて、尚も「初めて」なことというのはあるものだ。それも期せずして体験することとなった。2日の深夜12時過ぎから、3日の夕方4時過ぎまで、16時間眠ったことだけでも驚くべきことなのだが、その後3時間だけ起きて食事をした後、夜8時から4日の10時まで、再び14時間眠ってしまう。

 

 理由は問うまい。どうであれ「こんなにも眠れた」という事実が私を驚かせる。「眠ってしまった」という後悔や、「寝て楽になった」という喜びより先に、「人はこんなに沢山眠れる」という事実に困惑している。律には「疲れてたんだよ」の一言で済まされたが…。

 

 確かに疲れる日常は存在するし、ゆっくり休みたいという欲求もあった。しかしながら、こんなに寝てしまうほどの仕事はしていない。武藤さんと話した夜から、なかなか調子のでない2日間をやり過ごし、ようやく自分のために時間が使えると喜ばしい気持ちになったのも束の間、その後はひたすらに眠り、リミッターの外れた無意識の中で、意味不明の夢を見続ける。そこに潜在的な欲望を見出すことも容易だが、どれもどこかで見たことのあるような映像でしかない。まさに斎藤環氏が指摘した「主体の外側で主体の代わりに考え、決定を行うような場所」としての無意識を想起する。

 

 身体が休まったのかといえば、残念ながら腰や肩の痛みは助長され、眠りすぎて頭は朦朧とし、偏頭痛の徴候もある。結論から言えば、沢山寝たことのメリットは、残念ながら無いようだ。心身両面において、大きく停滞していることを確認したに過ぎない。

 

 さて、それでは何をしよう。様々に「やった方が良いこと」はある。資料の片づけ、町内会費集め、振り返りジャーナルのチェック、村山論文の検討、文書整理、アイロンかけ…。しかし、その全てが「やらなくても何とかなること」であり、そう思うと結局「やらない」という残念な(そしていつも通りの)行動に帰着する。では「やりたいこと」からやれば良いのではないか?でも、それが見あたらない。要するに「何もしたくない」のだ。この感覚が眠気となって再び私を襲う。そしてそれに抵抗できないまま、又もベッドへと向かうことになるのだろうか…。

 

 今こうして徒然と『当事者研究』を書いていることは、私にとって「やりたいこと」「やった方が良いこと」「やらなくても何とかなること」その全ての要件を満たしている。では「やるべきこと」に邁進しているときと比べて、どちらが豊かだと言えるか。この問い自体が矛盾をはらんだものだとしても、問うておくことに意味がある。「やるべきこと/Sollen」からは逃げられない。「やらねばならぬこと/Mussen」を誠実にこなす中で、その遂行こそがSollenであり、かつWillen(やりたいこと)でもあるような生き方を構想することは可能か。我が人生に与えられた時間は限られている。少なくても2日間で30時間も寝ていられるほどの余裕はないのだ。それでもきっと「やってもやらなくてもどちらでも良いこと」に、これからも多くの時間を費やすのだろうと思う。思った通りには進まないのが人生の常であり、その「大いなる無駄」の中にこそ、人生の真実があるのだ。倦まず進もう。

2012.5.12(土)『当事者研究』その28(「生きる」ことの多様性について/オペラ再考)

 記念日(11日)の事を、「善き様々なものと、悪しき様々なものが、11を通して<二人に>流れ込んできてる」と中嶋氏は書いて下さった。まさにその通りで、毎月11日には何かが起こる。大抵は「悪しき」もので、今回も帰宅が遅かった上に、手をきちんと洗わずに食洗機の取っ手に触った朝の出来事を取り上げられ、嫌な雰囲気で口論となったのだった。翌朝も腕まくりをせずにトイレに入っていることについての指摘(今朝の第一声も「手洗ったの」だった)。さすがに今朝はしんどくて、強烈に胃が痛み、食事もせずに胃薬を飲む始末。つくづく自分が生徒に対して叱責することの無意味さを思い知る。

 

 一方、許せないことがあると沸点が上がり、強烈に言葉にしてしまうのは私も同様なので、彼女の気持ちは良くわかる。私が子ども達を前に日々感じていることを、彼女は私と出会ってからの20年来、日々味わわされているのだ。その視点に立てば、結論ははっきりしている。「私が変わるしかない」のだ。

 

 絶望的な気分で律を送り出し、落ち着かない気持ちを抱えたままコーヒーを温める。ふと武藤さんへの返信で言及した湯浅誠氏の著作のことが気になり、書斎で捜し物。いつものごとく、他の文書ばかりが目につき、不合理な時間を過ごす。でもこういった「無駄」が新たな認識をもたらしてくれることも事実だ。函館大にいた頃の金山健一氏(現県立広島大学)による「予防的生徒指導」に関する講演録(ガードナーの「多重知性理論」とラーニング・ピラミッドを重ねた図が秀逸)や、姉の自筆ノートなどを手にとって、しみじみと感慨に浸る。特に姉の妄言は心に痛いが、ナラティヴ研究に向かおうとしている私にとって、このタイミングで再度読み直せた事には、何か因縁があるように感じられてならない。

 

 その後コーヒーを飲みつつ、何か聴きたいと思いプーランクの『カルメル会修道女の対話』に、11年ぶりに耳を傾ける。ずっと避けてきた音楽だが、長い空白を経ても尚、自分の中に残っている(音楽家としての)身体的感覚に気づく。終曲の断頭の響きに、涙が止まらなかった教文での二期会公演を想起する。この公演を藤本先生は「ひめゆり」に重ねていたのだった。3・11を経て、様々に想いを綴ってきた現在の私のアイデンティティの核に、未だ「オペラ」が位置づいている(かもしれない)と考えさせられた。

 

 帰宅した律の声を受け止められないのを感じながら、モンテヴェルディ『オルフェオ』を聴く。何とガーディナーがこの録音をした年齢は、今の私と同じ42歳。当然ながら格が違う。数日前に見直したリハーサルビデオでも痛感したが、音楽に全霊を寄せている存在でなければ、こんな演奏はできるはずもない。その響きを味わいつつ、残念ながらこの世界を私が実現することは決してないし、そこに向かおうとも思えない自分を発見する。

 

 小沼純一氏の『パリのプーランク その複数の肖像』(1999)を手に取る。音楽家についてのモノグラフィーを読むなんて、いつから無いのか。P.226には『カルメル』の献辞にモンテヴェルディの名があることが記されている。思えば『ポッペアの戴冠』における対話と書法上の類似があることには、取り組んでいた当時も気づいていたような気がする。『ポッペア』の記憶は、初任者としての1年に重なり、『カルメル』同様、アンビヴァレントなものだ。思えば「指揮やるのか教師やるのか、どっちなんだ」と、教師としての未熟さを指揮の仕事のせいにされていた時期が懐かしい。石狩市制記念の『第九』とも重なり、ストレスから山下氏に教えられたワインの世界に傾倒していった頃でもあった。初任研全体研修初日は、初めて風俗店に足を運んだ日であったのではなかったか。

 

 ミニスカート、プラネタリウム、ヨハン・シュトラウス、ピカソ、アルプスを、「全ての美しいもの」から析出し、『生きる』に並べた詩人は、自らの10代の終わりを振り返りつつこう書く。

 十代の終わりのころ、私はベートーベンの音楽に励まされていました。私が受けた感動は一言で言うと「ぼくは生きられる」というものでした。(中略)決して止まらずに動き続けていく音楽、限りない〈今〉の連続としての音楽、音楽もまた風のように、私たちを生の一瞬に目覚めさせるものではないでしょうか。

谷川俊太郎「今=ここ」『生きる わたしたちの思い~第2章~』所収(2009)

 

「セルフ・ライフ・ヒストリー・アプローチ」などと気取って、自らを歴史性の中で再構成しようともがいている私の〈今〉。常に「トラウマ」に回帰しつつ、そこから動けずに、自分が変われないことを言い訳し続けている〈今〉。「当事者研究とは、歴史性の取り戻しの作業へのお手伝い」との向谷地氏の言葉に立ち戻る。〈今〉の相においてしか「過去=歴史性」は認識しえない。「今=ここ」の現前に「生きる」ことの可能性を見る詩人の思考は、そのまま「私」を「音楽」の相において「生」に結びつける。フロイトを補助線とすれば、そこから「リビドー=性」までの距離は僅かだ。「命」の根拠としての「エロス」。その実感を切望するが故に、自らの空虚を埋める様に性的なアディクションに向かってしまうのではないか。

 

 求めない-すると いまの自分が 大切になる

 求めない-すると 自分の声がきこえてくる

 求めない-すると 沈黙が生まれる

(その静けさから 君のなかになにかが湧いてくる-愛かもね)

求めない-すると 命の求めているのは別のものだ と知る

加島祥造『求めない』より(2007)

 

 16年ぶりの『ポッペア』に耳を傾けつつ、ひたすらに自我拡散の中で生きてきた(生きている)自らの生の諸相に想いを馳せる。常に何かであろうと求め続け、結局何者にもなり得ていない〈今〉を空しく省みる。様々な「音楽」が呼び寄せる、我が過去の「今=ここ」。その一つひとつに、何とも言えない懐かしさと悲しみが宿っている。いつの日か「いまの自分が大切になる」という自己肯定感を手に入れることはできるのか。Composing diverse identities(多様なアイデンティティを紡ぐこと)を実現するには、自らの(過去の)あり様をそのままに認め、受け止めるしかないのだ。様々な志向性の中で、「求めない」境地に立つことを求める逆説を生きていく。いつの日か「自分の声」に辿り着くことを信じよう。

 

 

 

2012.8.18(土)『当事者研究』その29(「親」になるということ/この夏を振り返る)

 ゆっくり家にいられるのも今日が最後。「ダボハゼの会」に参加することを早々にあきらめ、律と一緒にいることを選ぶ。どうもやる気がしない。本も読めず、何も書く気にならず…。中高と明治図書のMMに目を通している内に少し研究モードになりかけたのだが、やはり睡魔に襲われ何もせず…。午後出かけて露天の八百屋で買い物をし、電機屋でケータイの契約をしようとするも結局やめる。体重計を買って、ツルハに寄り、夕方帰宅して『当事者研究』の冊子に目を通す。

 

 この夏は、これまでとは一線を画する記念すべき時として記憶されるのだろう。思えば吹奏楽コンクール翌日の朝(8/4)、律の大きな声に驚く。妊娠検査薬が陽性を示していた。6月、一時期熱心に子作りしたものの、一月頑張ったくらいで直ぐ妊娠するなどとは思っていなかった。何とも不思議な感覚。『陽のあたる教室』という映画で主人公が感じる当惑に自分を重ねる。映画ではコルトレーンとの出会いがエピソードとして描かれるのだが、私もホランドの様に、段々と分かってくるのだろうか。

 

 結婚12年目、つきあい始めて20年目の節目で、ようやく「親」になることとなった。思えば家族の機能不全に悩み、子供を作ることを躊躇して生きてきた。義母の呪いの言葉(子供は作るな)のせいにしてきたが、本当の所を言えば、お互いに親になるふんぎりがつかぬまま、悩みつつその時その時を生きてきて、その準備ができていなかったということなのだろう。3年前、なっつさんはメールにこう書いて下さった。

「ちなみに、子どもは、産まれるタイミングを選んで来ると聞きます。たぶん、笹木先生のところに産まれてくる予定のお子さんも、タイミングを選んでいるのでしょうね。早く来てくれるといいですね。」(2009.4.20)

 

 ようやく「タイミング」が来たということなのだろう。14日、北大病院で妊娠が確認できた時の律の涙は忘れられない。不思議な縁で、立ち会ってくれた看護婦さんは私の篠路時代の教え子だった。他にも大田堯氏の『教育とは何か』を持ち歩いていたことにも深い縁を感じる。上記の山田さんとのやりとりは、義父が亡くなってすぐだった。『教育とは何かを問い続けて』を熟読し、この1月には『かすかな光へ』を見た直後、寺沢先生との別れがあり…。大切な人の死と新たな生とが隣り合わせにある中で、大田氏の「いのちの教育学」がオリエンティーレンとなって、私達にも新たな人生のステージが巡ってきたように感じる。

 

 律はすっかり妊婦で、酷いつわりに日々悩まされている。そんな中、私がやるべき事は只一つ。今こそこれまでの不義理を取り戻し、大人として誠実に生き直すチャンスなのだ。漸く巡ってきた「人としての成熟」を引き受け、「命の容れ物」としての生物学的なミッションを果たすべく、坦々と粛々とやるべき事を喜んでこなすのみ。こんな私にも親という役割が与えられたことに感謝して、日々を大切に生きていこうと思う。

 

~教育というものを何よりも人間という動物種の育児行動、種の持続のためのいとなみとしてとらえなおすところから出発するほかはあるまい~

大田堯『教育とは何か』はじめに

 

2012.9.11(火)『当事者研究』その30(11回目の9・11/震災一年半に寄せて)

 日曜(9日)の夜、久々に高熱(39度越え)に襲われ、震えが止まらず、そのまま月・火と仕事を休む。今朝はすっかり解熱していたが、学校に出ても仕事にならない(やるべきこと=テスト採点が進まない)ことから、3コマを自習とし学活も副担に預けて、朝から世界の中心に腰掛け採点に励む。それでも午前中2クラスしか進まない。どう考えても明日全クラス返却には間に合いそうもないのに、またも優先順位を間違えてコンピュータに向かっている。つくづく私は、どこまでも「残念な人」なのだとの思いがぬぐえない。

 

 NHKAMでは「ふるさとラジオ」で、被災地沿岸部の復興情報が次々と流れる。大船渡、気仙沼といった大被害を受けた街から、商店街を再開したとか、漁の水揚げが行われたとか、希望を感じる話題が発信される。しかしそれを素直に受け止められない、私の歪んだメンタリティー…。それはそうだ。本当なら学校で慌ただしく動いているはずの時間なのだから…。

 

 しかし、ふと立ち止まる。かの被災地では「慌ただしく動いているはず」の人々が、一年半の間その当たり前が適わずに、多くを奪われたまま生きることを余儀なくされているのだ。ラジオで語る元総務大臣・岩手県知事、増田氏の言葉が痛い。「去年のお盆以降、ほとんど風景が変わらない」。

 

昨年7月の地デジへの移行をきっかけにTVメディアから離れ、その他ラジオや新聞にも必要な時しか接しなくなった。インフォメーション・ディバイドを自ら引き受ける。にもかかわらず、相も変わらず「言葉が多すぎる」(マザーテレサ最後の言葉)と感じてしまう。

 

中高MMで鹿児島の堂園先生が紹介した茨城のり子の『マザーテレサの瞳』。既知の詩ではあったが、震災に重ねて読むと、何と心に迫るものか。次の一文が重い。

 

鷹の眼は見抜いた日本は貧しい国であると

 

昼1時のNHKラジオトップニュースは、アメリカ市街地へのオスプレイ緊急着陸。北九州・暴力団の脅迫事件、スマホ・復興による景気回復で終わり。次のコマは韓国の竹島関連広報予算倍増、東北復興関連でブラジルでの日本酒試飲。次は野田総理の防衛省高級指揮官への訓示、東芝液晶ディスプレイ価格協定に関するアメリカでの裁判に23億円支払って和解、外務省人事(アメリカ・中国大使変更)、シカゴでの教員評価三万人デモ(30万人が学校通えず…)、政府原子力委員会の「核のゴミ」意見書、尖閣諸島の国有化完了(予算20億5千万円!)、アメリカ大統領選に関する世論調査、他はスポーツ、為替、株価…。5分の枠とはいえ、いつまで経っても9・11のことには触れられない。正午前の民放ニュースでは、自民党の総裁選に安倍元首相や石原幹事長らが出馬予定と言っていた。

 

何という貧しい現実の数々…。一つひとつ立ち止まれば、苦々しい、気分を害するニュースばかりだ。しかしマザーの語った「愛の反対は無関心」に反して、いつの日からか自分の心を守るために、報道を避けるようになってしまった。「無知」に守られた偽りの平安。

ラジオでは変わらず、様々に復興(復旧ではないらしい)に向けてのビジョンが語られる。元の状態に戻すのではなく、構造転換が必要なのだとの論理。確かにそれは一理ある。「ピンチはチャンス」と、私も多くの場面で子ども達を励ましてきた。しかし、本当に今必要なのは「構造転換」なのか。人のメンタリティーはそう簡単に「転換」されうるものなのか。

 

何が大切なのかを、みんな忘れているのではないだろうか。少なくとも私には、本質が見えなくなってきているように感じられてならない。いつか「本質」に辿り着きたい、とは一年ほど前、寺沢先生と最後に言葉を交わした後に記した『当事者研究』の言葉。あれから一年以上が経過したが、相も変わらず「本質」は見えてこない。再び茨木氏の言葉に立ち戻る。

二十世紀の逆説を生き抜いた生涯

外科手術の必要な者に ただ包帯を巻いて歩いただけと 批判する人は知らないのだ

瀕死の病人を ひたすら撫でさするだけの 慰藉の意味を

死にゆくひとのかたわらにただ寄り添って 手を握りつづけることの意味を

 

 震災被災地にも、ここに書かれた様な「ただ寄り添って 手を握りつづける」人が無数にいたに違いない。もっと言えば、それすら適わず、寄り添うことも手を握ることも許されぬまま、悲しい別れを経験した人の数は如何ばかりだろうか。今も行方不明者は五千人を越えている。今、この時間にも捜索に汗を流している人がいる。それと、ラジオで語られる「人脈」「枠組みを変える」との未来志向をどうつなげるのか。

 あと10分であの時間(2時46分)が来る。1年前は桑山氏の「地球のステージ」に接していた。半年前の1周年の時は、札幌市民ホールで黙祷を捧げた。ふと思う。11年前はどうしていたのか?10年後の悲劇など想像するはずもなく、遠くアメリカで起きたことに戦慄しつつ、落ち着かない気持ちを抱えながら、慌ただしく学校の仕事をこなしていたのだろう。今日、もし私が学校に出ていたら、やはりこの時間を慌ただしさの中でやり過ごしていたに違いない。今日この日、体調が悪かったことに感謝しよう。私は一人静かに、世界の中心で黙祷を捧げる。

 

黙祷後、ラジオから増田氏が紹介するある首長の言葉が流れる。

「復興元年だけど、忘却元年にはしたくない」

さらに、3・11当日に石巻で被災した歌手kumikoの『きっとつながる』に心が動く。

♪(前略)つながる つながる どこかで声が つながる つながる 心合わせて

(中略)つながる つながる つながる手と手 

つながる心 つながる命 つながる未来

 

「何処にいても心はつながっていますよ、っていうのが全て」と、kumiko氏は語る。確かに音楽は、その想いを実感させるだけの力をもっている。だがしかし…そろそろラジオを消そう。他者の言葉や音楽は、自らの中にある何かを喚起するものではあるが「本質」とは違う。自らに耳を傾け、坦々とやるべきことと向き合うために、新たに生き直すスタート地点へと立ちたいと思う。もう私は一人ではない。新たな家族(命・未来)のために生きるのだ。

2012.12.31(月)『当事者研究』その31(年の終わりに/「省察」をめぐって)

「振り返り」でもなく「反省」でもない。あえてリフレクションを「省察」と訳す。

「せいさつ」と読めず、「しょうさつ」と平気で読んでいた私が、この概念を論じるとは無謀な試みと思いつつ、新たな年に歩み出すための必要な取り組みとして書いておきたい。

 

 省察的実践家 Reflective Practitioner というのはショーン(1984)の概念で、90年代から佐藤学や秋田喜代美ら東大教育学部の研究者が紹介してきた(2001年邦訳)ものだ。私もブダペストの英書店で一瞬手に取ったのだったが、それっきりになっている(邦訳書も見ていない)。一方、『授業づくりネットワーク』No.8でも特集されたリフレクションはオランダのコルトハーヘンによるもので、武田信子氏(武蔵大学)による訳書『教師教育学』は紀伊国屋で手に取ったものの、やはり手許にはない。

 

村山先生が「省察」に言及したのは昨年の秋、教育学会や教師教育学会にコミットし始めた時期ではなかったか。三和を招いた例会の後、飲み会で読売・中西さんの横に座り論議した合間に、「それはショーンのですね」と突っ込んだのだった。その頃は「反省的実践家」という佐藤学氏の著作からの孫引きで話題にしていた。その後、人間塾の発表資料にコルトハーヘンが引用され、それと時を同じくして上條先生とFB上で意見交流をしたのだった。以下に引用しておく。

2012.5.26(土)http://www.facebook.com/profile.php?id=100003789248296"

少し時間ができたので議論に参加します。実は恥ずかしながら、私自身は『教師教育学』まだ入手していないのです…。ですから、きっと的外れの議論となることを予めご容赦ください。私にとっての「省察(リフレクション)」は、前任校の校内研で扱った「自己評価」と、8年前に体験した「内観療法(自己観察法)」に結びついています。岩瀬直樹さんの本を参考にしながら「振り返りジャーナル」を子どもたちに書いてもらっていますが、先日、その記述の質を高めるべく「価値のインストラクション」をする中で、ふと口から出たのが「リフレクション」でした。村山先生も、ショーンの「省察的実践家(reflective practitioner)」を引きつつ、教師を「高度専門職」として再定義することを強調します。その論は、中教審の「教員の資質向上」審議まとめにも反映しています。

さて、教師が自らの実践を振り返り、セルフ・ナラティヴを書き記し、それを素材に語り合い、学び合うというあり方は、臨床教育学の議論においては「カンファレンス型の学び」という言い方で説明されています。私は昨年夏の「北海道臨床教育学会第1回研究大会」に参加し、その可能性に触れ大いに感化されました。私が連載で「セルフ・ライフ・ヒストリー・アプローチ」などと気取って書いているのも、一種の「リフレクション」なのだろうと思っています。自らを振り返り、語り直すこと(クランディニンらの言う「再ストーリー化」)が、自身の立ち位置を確認し、新たな実践の方向性を決めるように感じます。

しかしこれは、New Public Management のPDCAとは、質的に違うように感じています。外的目標にあわせて評価・改善に向かうPDCAと、内的価値に照らして振り返り・省察するリフレクションの違いとでも言いましょうか。うまくまとまりませんが、鈴木敏恵氏の「未来教育コーチング」における「セルフ・コーチング」の様に、絶えざるメタ認知を通して自らの学び続けるエンジンを駆動させることが、「省察(リフレクション)」の核なのではないかと、思い付きを書かせていただいた次第です。読みづらい雑文の連投、失礼いたしました。

http://www.facebook.com/haruo.kamijo

 笹木さん めちゃめちゃ勉強してますねえ。コルトハーヘンの「省察(リフレクション)」だけにおさまりそうにない勢いですよねえ。でも書いていることはよくわかります。わたしのいま考えている文脈に少し引きつけていうと、「リフレクション」を本気でプログラム化、実践化していくつもりであれば、ナラティブを含む「質的研究」の認識論・方法論が必要ですし、それをヨコにつなげていくには「新しい実践記録・論文の書き方」(語り)のような「新しい器」が必要になってくると思います。実はいま「教師・教師教育者のための質的研究」をテーマにした勉強会の立ち上げを考えています。そこでは「新しい実践記録・論文の書き方」が大きな柱になると考えています。「リフレクション」をめぐって、ぜひこれからも一緒に勉強をさせてもらえると嬉しいです。特に私は目配りが狭くなりがちなので、笹木さんのような目配りの広い先生とはできるだけお友達になっておきたいなと思っています(笑)。今後ともぜひぜひよろしくお願いします。PDCAとコルトハーヘンのALACTモデルはおっしゃるように質的な違いがあると思っています。

http://www.facebook.com/profile.php?id=100003789248296

 浅学の思いつきに、ありがたいリアクションを頂き、大変恐縮しております。今日書店で『教師教育学』あらためて手にとってみました。P.248にクランディニンが引用されていますね。曰く「知識とは、意識的にせよ無意識的にせよ、私的、社会的、かつ伝統的な信念や意味づけであり、人の活動の中に表出するものである」(1984)。まさに社会構成主義的知識観が前提となっているわけです。ALACTモデルにおけるAwareness(気づき)が、どうもリフレクションの中核にあるようですね。「質的研究」の勉強会の中で、「新しい実践記録・論文の書き方」が検討されるとのこと、すこぶる興味があります。私は元々全生研のサークルに所属して、子どもの事実に基づくエピソード記録と合評による分析を学びました。しかしながら、あまりにも教師の主観的印象ばかりが延々と語られ、理論的な把握や研究的視点に欠けていると感じることがしばしばありました。その点、臨床教育学のエピソードカンファレンスは、質的心理学の研究者が多いこともあり、より知的で理論的だという印象があります。上條先生が模索しておられる「新しい器」がどのようなものなのか、宜しければ今後も共に学ばせていただけると幸いです。またもまとまらず失礼しました。こちらこそよろしくお願いいたします。

 いつもながら「シニフィアンの横滑り」で本質的な議論にはなっていないが、私が足踏みしている間に、上條先生達は雑誌の特集としてまとめる所まで研究的実践を進めている様だ。さて、私は何処に向かうのか。少なくとも上記の研究群にきちんと目を通すことが最低限求められている様に思うが、そんな時間はもう私に与えられていない。ではどうする?研究のフィールドを「臨床教育学」と定めたからには、「ナラティヴ」概念の探究に重ねて、リフレクションの多様の側面に関心をもって考え続けるしかないのだろう。年の終わりに、又もペダンティックな記述で切ないが、これが我が現実なのだ。「当事者研究」という構えこそ省察そのものであるという当然のことを確認して、今年を終えることとしたい。来年へのリサーチ・クエスチョンが生まれたことを良しとしよう。慌てず・騒がず・坦々と、無理せずできることを少しずつ、かつ粛々と、倦まず進みたい。

 

2013.1.5(土)『当事者研究』その32(年の始めに/「家族」をめぐる省察の試み)

 ちょうど1年前、「つくづく自分は根暗だと思う」と書いていたことに気づき、改めて省察する。ふと我が「中核的な強みCore Strength」(コルトハーヘン「玉葱モデル」)とは、「根暗であること」なのではないかとの考えが浮かぶ。根暗であるが故に、コンプレックスを埋めるように言葉を集め、様々な領域に拡散して思考しているのではないか。國分功一郎氏(高崎経済大学)によれば、ドゥルーズは「人間がものを考えるのはショックを受けた時」と言っているらしい。「考える」というのは受動的な行為であって、「人は『やむを得ず』『仕方なく』という仕方でのみ、ものを考える」のだそうだ(『ポスト3・11 変わる学問』朝日新聞出版 2012 P.48)。であれば、我が来歴において「ショックを受けた時」とはいつなのか。いつも傷つきながら生きてきたとの自覚は強いが、最も大きなショックは、やはり姉の発病を巡る家族の機能不全であったと言う他はない。

 

昨日もネット・アディクションが裏目に出て、またも妻と厳しいやりとりに陥った。今年最初の要件(北大病院立ち会い教室)で出かけ、一緒に出産の厳しさと喜びを分かち合ったはずなのに、その足で出向いたエルプラザで、約束を一時間も超過してメール他のチェックをしてしまったというのが原因だ。その心象はQuP18に記したので、ここでは我が病の原因(と律が指摘する)であろう「家族」の問題について、立ち止まって考えてみたい。まずは再び「玉葱モデル」を援用する。中核に「根暗」を置くとして、そこから描かれる同心円の各層に当てはまるキーワードは何か。この設定自体が極めてネガティブかつ妥当性に乏しいものであり、「その人のポジティブな部分やその人が信じていることにじっくりと焦点を当てることよって、安心感の中でよりよい変化が起こることを目的とする」(『授業づくりネットワーク』No.8 学事出版 2012 P.27)というコア・リフレクションのねらいとは逆行するが、一種の思考実験として試みる。そこから一種の「否定弁証法」(アドルノ)的効果が導き出せるかもしれない。

 

どうも我が病の「ゲシュタルト」(ほぼ無意識的に働く個人の感情や価値観、ニーズ、関心、ルーティン、好み、ロール・モデル、ライフヒストリー等の集合体であり、一つの分離することのできない過去の経験の結果:前掲書 P.28)はあまりに複雑に過ぎるようで、いきなり中心から考えるのは難しい。外側から考えていくならば、「環境(environment):機能不全家族」、「行動(behavior):アディクション」までは、特に問題ないだろう(この二つの関係の内実こそが重要である様に感じるが、今は深く立ち入らないこととしたい)。

 

 続く「能力(competencies)」は何にあたるだろう。思いつくのは「現実逃避」「拡散」「忍耐」といったところだろうか。耐え難い家族の軋轢(姉の理不尽な言動、母・祖母間の不仲、父の無関心…)に対して、音楽に逃避し言葉を集めた我が中高時代。これらを「能力」と呼んで良いかは微妙だが、あの時空間を生きのびるには、暴力(毎日箸を折る)や反抗(パーマをかける)を含めて、何らかのacting outが必要であったようだ。ではそれらを支えた「信念(beliefs)」とは何か。言葉にはなっていなかったが「このままでは終われない、何か別の存在に変わりたい」との想いは強かったように思う。ゲーテ(「学問と芸術を持っている者は、同時に宗教を持っている」)や、ボードレール(「どこでもいい…、ただ、この世界の外でさえあるならば」)の言葉に自らの拠り所を求めていたのは、その現れであったのではないか。

 

ここまでで十分「根暗」との中核は説明できているように感じるが、もう少し思考を進めたい。「玉葱モデル」を知った時、ビリーフより内側の四層を「ナラティヴ」の下位分類とみなすことができそうとの着想を得た。同じくコルトハーへンによる「氷山モデル」に重ねれば、思考(thinking)、感情(feeling)、願望(wanting)の三層もそうみなすことが可能かもしれない。それはさておき、今は同一性(identity)へと検討を進める。ちょうど上記のゲーテらの言葉と出会った時期、熟読した倫理用語集(山川出版社1986)のなかで初めて「アイデンティティ(自己同一性)」なる言葉と出会ったのではなかったか。我が人生の「実存主義時代」とでも呼べるライフサイクル(ステージ)において、この言葉は「音楽への没入」を正当化するものだった。「音楽家になる/である」ことが、混乱していた私の自我を支えたのではなかったか。大学に入り「物象化Versachlichung」との概念に重ねて、現代思想アンソロジー(「近代の地平の脱構築」村田先生音楽学レポート)を書いたのが、我が長文志向の最初であったと記憶しているが、そこには大学2年にして音楽に同一化できずにいた不安感が横たわっている。この様に過去を想起しつつ、私は未だに「同一性」という概念に対して、アンビヴァレントな想いを抱いているのだということが実感される。『脱アイデンティティ』(勁草書房 2005)などという書物にひかれたのも、そういった文脈で理解されるべきだろう。

 

段々主題が「家族」から離れてしまっているが、もう一つの「目標(mission)」にも言及せねばなるまい。すでにビリーフからアイデンティティにかけて、キーワード化に失敗しているので、このままエッセイ風の拡散思考を続けたい。妻とつきあい始めて20年目にして漸く子供に恵まれた私にとって、目標とは意図せざることとしての「家族の再生」であったのかもしれない。しかし「家族」に対する眼差しは冷たい。2006年、前回の安倍政権における「教育破壊」を批判するとき、私は安倍が著書『美しい国へ』(文春新書 2006)で示した論点を整理しつつ、その伝統的家族観を以下の様に要約していたのだった。

理想的な家族モデルの提示(レーガン時代の「大草原の小さな家」モデル)ジェンダー・フリー・バッシング(山谷えり子の首相補佐官就任)「家族、この素晴らしきもの」という価値観(映画「3丁目の夕日」へのノスタルジー)

その後、不覚にも『続・3丁目の夕日』に感激し、バンプの「花の名」に号泣したのだったが、この映画は「血縁」ではない「疑似家族」の愛情物語であることに価値があったと、私は考えている。2006年といえば当然「教育基本法改定」の年でもあるが、第2条が「方針」から「目標」に変えられたことや、この頃からNew Public Managementの発想による「目標管理システム」が教育現場に導入されたことも、目標を積極的に論じることができない要因となっている。ちなみに改訂教基法は第10条に「家庭教育」を新設し、以下のように規定したのだった。

父母その他の保護者は、子の教育について第一義的責任を有するものであって、生活のために必要な習慣を身に付けさせるとともに、自立心を育成し、心身の調和のとれた発達を図るよう努めるものとする。(2項省略)

そもそもこの様な内容は、法律で規定されるべきものなのだろうか。ちなみに民主党の案はさらに過激だ。以下に引用する。

第十条 家庭における教育 家庭における教育は、教育の原点であり、子どもの基本的な生活習慣、倫理観、自制心、自尊心等の資質の形成に積極的な役割を果たすことが期待される。保護者は、子どもの最善の利益のため、その能力及び資力の範囲内で、その養育及び発達についての第一義的な責任を有する。(2項以下省略)

ここでは家庭が、あたかも様々にある資質(人間性)を作りだす工場の様に捉えられているのではないか。この点について『なぜ変える?教育基本法』(岩波書店 2006)に収められた対談で、奥地圭子氏(東京シューレ理事長)は次のように語っている。

(前略)また家庭教育についても、もともと何で家庭にまで国が踏み込むの、といった疑問が出ましたが、「生活習慣を身につけさせる」という言葉に、子どもたちの中にはさまざまな事情から夜昼逆転になっていたりする子もいるので、一体どのように取り締まられるのか、「止めてほしい」と言っていました。最近、学校復帰の圧力が以前より大きくなっていて、その中でこういう法律ができてしまったら恐ろしいことが起こるんじゃないか、と。(P.259)

 すっかり「家族」へのナラティヴ・アプローチではなく、「家庭(教育)」に関する法律解釈の議論となってしまった。ちなみに、これらの法律が問題としているのはTaskまたは Objectiveとしての外的規準であって、コア・リフレクションのmissionが意図する「内的価値=意欲」とは別物だろう(目標をGoalと捉える武藤氏のGPACサイクルについては、また改めて論じたい)。本題に戻ろう。私は「家族の再生」を自らのミッションとして自覚できているだろうか。昨日の妻との対話においては、「機能不全の中で沢山悩み苦しんだからこそ、自らの子育てにおいてはその経験から学んで、絶対に子どもを不幸にするようなことはしない」と宣言したのだった。その思いに嘘はない。決して律が言うような「その場しのぎの適当な言葉」などではない。これまでどうしても抽象的にならざるを得なかった「発達支援=教育」の現実を、愛と喜びをもって「家族への第一義的責任」を果たすべく引き受けたいと願っているのだ。昨年夏『当事者研究』29に書いた言葉を、再度掲げておきたい。

漸く巡ってきた「人としての成熟」を引き受け、「命の容れ物」としての生物学的なミッションを果たすべく、坦々と粛々とやるべき事を喜んでこなすのみ。(2012.8.18)

 こう書いたその時にも、「知識依存」に退行し「やるべき事」から逃げている現実がある。しかし、誠実に「家族を巡るリフレクション」に取り組んだこの6時間余りには、きっと何らかの意義があると信じたい。「絶えず決意の今から生まれる」(QuP18)との想いを持続すること。「主体化とは『他者になる』という契機と等しい」(上野千鶴子による「エイジェンシー」概念解説:『脱アイデンティティ』P.28)。父としてのエイジェンシーを積極的に生きることが、きっと私にとっての「家族の再生」なのだろうと思う。これは決して「自己疎外Selbstentfremdung」ではない。アディクションを克服した先にある我がゴールとは、平凡な「家族と共にある幸せ」であるべきなのだ。月並みな結論だが、凡庸であることを積極的に意志できることが、私にとっての「成熟」なのだと思う。青二才である季節は、私から過ぎ去ったのだ。又も引用に終始した反省を残しつつ、現実に戻ることとしたい。

2013.4.29(月)『当事者研究』その33(切なさと、虚しさと、情けなさと…/

「あきらめる」ことについて~ルソー『エミール』を引きつつ~)

娘が生まれて1ヶ月が過ぎた。そのタイミングで上記タイトルのような心象の中で言葉を書き記すこととなるとは…。まあ、これが私の現実なのだ。諦めて受け容れるしかない。

 

「諦める」とは「明らめる」ことだ…などと言葉遊びをする。「諦めるという自己実現もある」との落合恵子さんの言葉を、その都度自己弁護のために使ってきた。「あきらめる」しかない現実はなおも続く。それを少しでも変えたいと願いつつ、結局何も変わらない…。

 

このような状況を客観的に書き記す事への抵抗感。事実をそのままに認めることがもたらす苦痛に耐えられないでいる。しかし書かねばならないだろう。事態は単純…。私の有り様が又も妻の価値観から外れたというだけのことだ。「律子道」を生きるのだ、などと嘯いている割に、なかなかどうして…その道は困難だ。ちょっとした気の緩みが、彼女の逆鱗に触れる。今回も動きが鈍く、すぐにおむつを替えなかったに過ぎないのだが、それが「やる気が無いのなら一切やらなくて結構、自分のことだけやってくれれば良い」との言葉になってしまう。

 

こう書きつつ、きっとこういった現状認識が既に、彼女の感覚とずれているのだろう。誠実に自らを省察しているつもりなのだが、相変わらず自分に甘く「あなたは何も分かっていない」と言われるのが関の山だ。この辺りが「切なさ」に結びつく。今も、居間で同じ時間と空間を共有しつつ、「カーテン閉めようか」の一言すら言うことを憚り、灯りもつけられないままに言葉を紡いでいる。これを「虚しさ」と呼ばずに何と呼ぼう。暗い部屋の向こうで、綸と律は微笑み合いながら幸せな母子の時間を味わっている。その内に寝息が聞こえてきた。この隙にカーテンを閉めてしまおうか…。気づかれれば「手洗ったの!」と叱責されるのだろう…。それを恐れて何も出来ずに、ただ怯えている自分。ああ「情けなさ」とは、この様な状況を指すのだろう。

 

こうして言葉にした現状も、結局はタイトルに合わせたレトリックに過ぎない。書くことは、結局レトリックで自らに免罪符を与える行為でしかない。その行為そのものが「切なさ・虚しさ・情けなさ」に結びつく。しかし私は、こうして「書くこと」を止めないだろう。そのナルシシズムがもたらす自己愛が、不安定なアイデンティティを支えていることを無意識に知っているのだ。「変わりたい」ことも「変わらねば現実が立ち行かない」ことも嘘ではない。求められている変化のために「書く=省察する」という目的論も、確かに成立するだろう。しかし実際には「自らを変えるため書く」というよりは、「変わらない自分を確認するために書く」というのが正確であるようだ。

 

「明らめる」こととしてのリフレクション。自らの弱さを書くことを通して確認する営み。果たしてこの行為に意味はあるか?この問いは私の「セルフ・ライフ・ヒストリー・アプローチ」という方法論への懐疑にも繋がる。連載『音楽・平和・学び合い』のコンセプトを上記のように定めては見たものの、石川/堀両氏の『エピソードで語る「教師力」の極意』(明治図書)なる書物を読むにつけ、「誰のため、何のために省察するのか」との疑問が浮かぶ。第一義的には、書き手本人のためであることは明確なのだが、あの様に本になり「教師力」などといった得体の知れない能力へと方向付けられてしまうと、どうもうんざりさせられる。

 

その事に対して、少なくても石川さんは自覚的なようで、友人による自作への辛辣なコメントを、自身のブログで次のように紹介している。

(以下引用)ああ、でも...。石川さんがこの本の中で抵抗していることはわかるのですが、明治図書の本、「極意」シリーズの帯や今後の予定を見ても、なんでこんなに「カリスマ教師」を作りたがるんだろう、と、その点ではやや残念に思いました。この本を読んで「自分も音楽をたくさん聞かなきゃ!」とか行動しだす若い人がいたら悲劇だなあ、とか。ウェブサイトのインタビューで「僕は異端の教師です」と答えていますけど、そう言いつつもきっと本音では「じゃあ異端じゃない教師って何?」ですよね。みんなが異端であるという認識からじゃないと、面白いことは何も始まらないのじゃないのかな?(引用以上)

 

上記の引用を機に、これまでの石川氏との交流を読み返している内に、そろそろ日付が変わろうかという時間になっている。扉の向こうでは、律が綸を風呂に入れようとしており、私は「やらせてくれ」の一言が言えずに、寂しく眺めるばかり…。何ということだ…。ユーティリティから聞こえてくる妻の鼻歌と娘の泣き声、そこに関われない(関わらない)父の不甲斐なさ…。やはり、こんな私が「家族への第一義的責任」を果たすことなど、不可能だということなのか…。なぜ、声をかけられないのか?そんなに傷つくことが嫌なのか?何て事はない、何度も通ってきた道に過ぎないではないか。勇気を持って語り合うしかないのは、分かっているはずだ。情けない。

研究ノートに記した言葉。「ただひたすらに(妻に)怯えて、沈黙を守るしかできない、自らの非力さよ…。子が生まれても『私』はなかなか〈今〉と和解することができない。綸の泣き声が空しく響く。この切なさを抱きしめ、耐えることから、何が生まれるか。時に運命を預けるしかないのか…。なる様にしかなるまい。時を待とう。」

 

すでに6時間以上が経過して、連休前半も終わろうとしている。「やるべき事」は一つも進んでいない。連載原稿も、落とすしかなさそうだ。

 

異端の思想家・ルソーの年譜に目を通し、五人の子供を養育院に送ったその波瀾万丈の生涯に共感しつつ、その生き方を我が範とするには、どうも覚悟が足りない。自分にできることは、次のような『エミール』の一節を書き留めておくことくらいか…。

 

~人間に社会性をもたせるのは、その弱さである。われわれの心を人間愛に向かわせるのは、われわれ共通の不幸である。もしわれわれが人間でなかったとしたら、われわれは人類に対していかなる負債をも負わないことになるだろう。あらゆる愛着は不十分であることのしるしである。もしわれわれ一人一人がまったく他人を必要としていなければ、だれも自分を他人に結びつけようなどとは思わないだろう。このように、われわれのかよわさ自体から、われわれのはかない幸福は生まれるのだ。真に幸福な存在は孤独である。

(戸部松実訳)~

 

 

 

2013.11.11(月)『当事者研究』その34(21年3カ月の節目に/妻への手紙に代えて)

 生徒曰く「今日はポッキーの日」なのだそうだ。付き合い始めて255カ月目の節目が、いよいよ本当に「さようなら」を言わねばならない日となるかもしれないと思いつつ、結婚前に律に送った手紙(2000.3)を読みなおす。そこには、土日にかけて語り合った論点が、ほとんどそのままに綴られている。即ち、結婚して13年を経てもなお、私の問題(セルフ・ナラティヴ)は、何一つ変わっていないということか。以下はその手紙より。

(前略)こうやって書きながら思うのは、自分がいかに意志が弱く、情けない人間なのかということです。「こうしよう」と決めたことがあっても、その実現のための努力ができない。いつもそうでした。小さい頃から「口ばかりで行動が伴わない」といわれ続け、あなたと過ごした8年間でも、数え切れないほど同じようなことで諍いを繰り返し、でも反省なく繰り返してしまう。これは半ば強迫的なほどでもあります。「このままではいけない」とその都度思いながら、結局、自分の弱い部分に流されてしまう。思えば大学院の頃に精神を病んだことも、このことと関係しているかも知れません。自分自身をうまくコントロールできない、実践が伴わずいつも観念が優先するので、そのうち観念が肥大し妄想的になり、さらに行動が責任を伴わなくなっていく。少しずつでも改善しようと仕事では意識しているつもりですが、私生活ではあなたに対する甘えもあってか、だらしないまま今日に至っているというのが現実でしょう。いつも心の中に不安と孤独を抱え、それを実践で克服するのではなく、酒を飲んで紛らわせている。これが事態の解決にはならないと頭では認識していながらも…。

(中略) 2人で過ごしてきた貴重な時間や、数え切れない素敵な思い出、あなたに対する思いを考えると、自分自身の情けなさでそのすべてを水に流してしまうことへの畏れ、悔恨、そして何よりも「申し訳ない」と思う懺悔の気持ちが胸をさいなみます。しかし全て「身から出た錆」ということですね。あなたは精神面でも生活面でも、いつも私を支え続けてくれました。私が精神の危機に陥ったときも、音楽の活動で悩み躊躇していたときも、いつでも傍らにあなたがいてくれました。あなたがいてくれたから、私の20代は成立し、それなりに輝いたものになったのだということは疑うべくもありません。これからも、いつまでもあなたと人生を共に歩んでいきたかった…。その思いを自らの手で、あなたの思いや考えを無視する形で断ち切らねばならぬ事に断腸の思いです。最後までふがいない自分で、あなたには迷惑をかけ通しでした。これからの人生、あなたと歩むことはもうかなわないと思いますが、私のような半端者と結婚してあなたの人生を台無しにするくらいなら、ここで別れてあなたの未来を明るいものとする方を選びます。それがあなたに対する最後の愛情の示し方だと思うから…。(中略)貴重なあなたの20代を、私のような人間のために少なからず費やさせてしまい、お詫びの言葉もありません。最後になりますが、あなたのこれからの人生が豊かで心安らかなものであるよう陰ながら祈っています。

 何ということだ…。このナラティヴを乗り越え、実家の反対を押して結婚し、苦闘の30代を共に過ごしてきた。35歳で酒を止め、共依存関係の修復に努めつつ、様々にもがき苦しんできた果てに迎えた40代。新たな家族に恵まれ、新たに生き直す覚悟をしたはずであったのだが、私がやっていることは、相も変わらず「金にだらしなく、不誠実な対応」でしかない。転勤初年度、ハンガリーから帰ってきた私達を待っていた前任校の会計案件。思えば3年前の今頃は、ようやく終わった事故処理に落ち着きを取り戻していたころではなかったか。まさに天国と地獄…。羽田空港でタラップからかけた電話の先で激昂する里谷校長の声が今も耳に残る。その時の里谷氏と、引退時に吹奏楽部生徒に紹介した大野勝彦氏と、今朝方ベットで妻が語った言葉が見事に重なる。そう、私は『はい、わかりました』と、どこまでも言えない愚か者なのだ。律の言い回しを借りれば「人から愛されない=自分のことしか愛せない可哀そうな存在」だということなのだろう。

 何度修羅場を経験しても繰り返される「だらしなさ」を、どう捉えるべきなのだろう。これは「病気」なので「どう仕様もない」と、あきらめるべきなのか。律が言うように、改めて専門医の見立てや自助グループの支援が必要なのだろうか…。最新論文の末尾には「自己物語=支えとするストーリー」を語り直しながら、その都度新たに生き直す人生の旅を、楽しんで進みたい、と書いたのだったが、「新たに生き直す」ことと「離婚」というストーリーが重なる悲しい結末を前に、「楽しんで進む」という肯定的な未来を描くことは叶わなくなりつつある。以下、連載『音楽・平和・学び合い』(14)(2013.3.31)より、改めて自らの願望を綴った部分を書き留めておきたい。それが儚い空想に終わったとしても、この想いに嘘はない。律には伝え得ない祈りをこめて、節目のナラティヴに代えたい。

(前略)私事で恐縮ですが、過日28日14時8分、長女が3190グラムで元気に生まれました。本当に、神秘的な体験でした。言葉を失い、ただひたすらに「よく来たね、生まれてきてくれて、ありがとう」と言うしかありませんでした。これからの私に求められているのは、ようやく巡ってきた人としての成熟を引き受け、「命の容れ物」としての生物学的なミッションを果たすべく、坦々と粛々と、やるべき事を喜んでこなすのみなのでしょう。こんな私にも親という役割が与えられたことに感謝して、今こそこれまでの不義理を取り戻し、大人として誠実に生き直すチャンスなのだと、思いを新たにしているところです。

生まれた娘には「綸子(りんこ)」と名付けることにしました。「綸」は弦楽器の糸を意味する字で、「つかさどる、おさめる、つつむ、おおう、まとう、からめる」といった含意を持っています。「リンズ」と読めば「光沢のある絹織物」のことなのだそうです。自らを美しく、しなやかに紡いで生きて欲しいとの祈りを込めました。様々な出会いに感謝して、優しく、かつたくましく育って欲しいと強く願わずにはいられません。

~教育というものを何よりも人間という動物種の育児行動、種の持続のためのいとなみとしてとらえなおすところから出発するほかはあるまい

~大田堯『教育とは何か』はじめに

最後に恥ずかしながら、1年半ほど前に妻に贈った自作の曲の歌詞を紹介して、今回の記事を終えたいと思います。

2011.9.15 『いつまでも』

♪いつまでも 共にありたくて どこまでも 共に歩み行く

 その想い 共にわかちあい この時を 共に祝おう

 若かった 時は過ぎ去り 苦しみを 忘れずに行こう

 この想い いつまでも抱き いつの日か 君に伝えよう

ありがとう 共に居てくれて これからも よろしく頼むね

 新しい日々の営みを いつまでも 守り通すよ (後略)

2013.11.28(木)『当事者研究』その35(いつまでも共にあるために:自己治療計画)

 律子様

 綸子が生まれて8ヶ月の節目となりました。約束の日となりましたので、今後の生き方の指針を以下に記し、新しく生き直す決意を示したいと思います。

〈現状〉

 これまで何度と無く過ちを繰り返し、その都度反省の弁を語るも、結局似たような失敗を重ねてきました。その根には、私の病的な自己愛や依存心があり、それを形作る育ちの問題があります。具体的には、金銭感覚が甘く、お金を持つと欲しいもの(本)を買ったりネットカフェにいったりという問題行動をひきおこしてしまい、何より悪いことには、それを嘘でごまかそうとしてしまいました。過去にはうつ病やアルコール等への依存で想像を絶する苦悩を与えてきたにも拘わらず、未だ病気は治っていないことを認めざるを得ません。

 しかし、今や娘が生まれ、父親として子の育ちに大きな責任を持つ立場となりました。今までのように夫婦の問題では済まされない状況にあります。これまでの歴史を考えれば、今後私の病気が治る保障は無く、あなたが言う様に別れてしまうのが最善なのかもしれません。それでも、あなたと歩んできた壮絶な日々の末にやってきたこの幸せを、自らの不徳から手放すことは何とも耐え難く、今度こそしっかりと決意を固め、人の親として恥ずかしくない生き方を自らに課したいと心から思っています。この決意は綸子の存在ゆえに、断酒した8年前よりも強いです。断酒時に自覚した「妻に一生かけて償う」との想いに立ち返り、具体的に行動の指針を立て直して、新たな人生を共に生きるための約束をしたいと思います。

〈具体的な改善点〉

・家族を最優先とし、土・日は部活動以外の用事を予定に入れないようにします。

・本は極力買いません。必要な場合は図書館を利用したり、ネットでダウンロードするなどしてまかないます。

・書斎を整理し、読まない本や押入れの資料も大量に処分します。

・研究も「こどもの姿を語る会」と「臨床教育学会」に絞ります。

(この二つも思い切って止めるべきだとは思うのですが、自分の核となる領域なので、

続けることを理解してくれたら嬉しいです)

・お金の使い道を可視化・透明化するために、週末には必ず家計簿(マム)への記入を行い、無駄使いを止めます。

・それでも変え得ない病気と向き合うために、認知行動療法を学び、実践します。一人では難しいので、専門医を捜してアドバイスしてもらう必要があると考えています。まずは、時間を見つけて大田病院外来にもう一度行ってきたいと思います。必要なら断酒会に通うことも再開するべきかと思いますが、その分家族に負担をかけることになるので、もう少し熟慮したいと思います。

・その他、人として当たり前の行動(衛生面の配慮、対人関係のマナー等)に心を砕き、細かなことでいちいち指摘・注意・叱責を受けないように心がけます。それでも直らず、指摘等を受ける時は、感情的にならずに素直に受け止める努力をします。

(アンガーマネジメントの徹底)

2014.1.11-15(土-水)『当事者研究』その36(書物をめぐる「記憶・表象・思考」雑感)

 新たな年を迎え、家族3人で過ごす初めての正月は、坦々と過ぎていった。持っていった2つの書物(エンゲストローム・中沢/國分対談)には結局目を通さず、日頃自宅にはない「新聞とテレビ」という、一般家庭には普通にあるであろう二大メディアにつかって過ごす。

 今年最初の研究ノート(1/4)に「読書と思考停止」とのトピックを書き留めた。「単なる情報処理であって、思考とはレベルが違うのではないか」との論旨。

「書くこと」は表象の可視化であり、確かに「思考」に近く感じられるが、単なるレトリックによる自動書記である場合も多い。果たして「考える」とはどの様な事なのだろう…(研究ノートより抜粋)

 

 その後も、この主題を様々に変奏しつつ、又も様々に乱読し、久々に本屋にも立ち寄り、知的拡散を研究ノートに書き散らかした。その頁数23ページ…。その末に至ったとりあえず結論は、やはりこれらは「思考」であろうということ。様々な言葉が脳を経過していく。それらは発想であったり連想であったり想起であったり様々だが、知覚した文字情報他は頭の中で処理されて、様々な表象が浮かぶ。書物と出会う=読むことがなければ、これらの表象も生起しない。さて、一種の思考実験として、ここ数日に出会った書物から、どんな表象が生成したのかを、徒然なるままに書いてみたい。

 

 移動のバス内では、バレンボイム/サイード『音楽と社会』と小澤/大江『同じ年に生まれて』の並行関係について想起する。そこから、音楽(表現)学において「指揮者論」を専門とする研究者はいるのだろうかと発想した。評論家はたくさんいるが、学問研究としてはどうなのだろう。さらには音楽(科)教育(学)における「指揮(者)研究」というのは、あまり聞かないと気づく。面白い研究領域となりうるし、いつか私も、自らの専門性故にじっくり取り組んでみても良いかもしれない。

 

 年末に見たドナルド・キーン氏と瀬戸内寂聴さんの対談から、キーン氏(震災後日本に帰化されて「鬼院」となったのだったか…)の『音楽の出会いと喜び』を手にする。「編曲と歪曲」は修論作成時に大いに参考としたのではなかったか。今回注目したのは「音楽と記憶」。梶原先生の指摘とも重なり、氏がベートーヴェンやヴェルディに戦時中のエピソードを重ねる下りが心に響く。音楽がその人の実存を記憶において支えるという証左とも言えるエピソード。改めてじっくり読み込んでみたい。

(ここまで書いて、日常の雑事に阻まれ中断…)

 

 その後も、書き留めきれない程の書物(ネットやパンフレット等の活字も含めれば切りがない…)に目を通し、自我拡散を感じつつ、寝不足ながらも優先順位を又も間違え、ノートやこの「当事者研究」に、その都度の表象を書き留める。書き始めたときに書こうとイメージしていた内容は、書き始めるとレトリックに支配されてどんどん変容していく。書き終えた時には、こんなことを書きたかったわけではないし、考えていたわけでもない言葉が綴られている。予定調和なき自動筆記…。目的と手段の逆転。ブリコラージュとしてのエクリチュール。

 ふと、書こうとしても何も想起できないときがある。一種の認知症の自覚。特に固有名詞が思い出せない。そうして固有名詞性を奪われた言葉の渦が、無意識的に結びつき、別の文脈を創り出す。主語ではなく述語によって関連づけられる、精神分析的には狂気と紙一重の世界。しかし「無意識は言語のように構造化されている」(ラカン)のだ。これをパラフレーズして「言語は、無意識的構造の現象化である」とは言えないだろうか。その先には、ユング(集合的無意識)やチョムスキー(生成文法)の仕事が広がっている。サブリミナル認知科学も、この問に有効な応えを持っていそうだ。

 

 ここ数日に出会った言葉達の中から、今の思考を象徴するようなフレーズを探し出す。

~希望なき沈黙の中に、語ることのすべての夢を刻み込む。

(フェルナンド・ペソア)~

『3.11を心に刻んで 2013』(岩波ブックレット NO.865 P.72)で、テッサ・モーリス=スズキさんが引用した、ポルトガルの詩人(1888-1935)の言葉。スズキ氏はそのエッセイの最後に、こう書き綴る。

(前略)でも、涙をぬぐってから、人は新しい言葉に出逢います。実存は、言葉とともにしか生きることができないからです。希望なき沈黙の中に語ることのすべての夢を刻み込もうとする。それゆえ、夢は決して死にません。

 

 12日の『グリーフサポートSaChi』で聴いた、10年前に母親を自殺でなくした青年の語りと、翌13日に映画『生まれる』で知った、出産予定日に呼吸を止めた松本椿ちゃんへの想いを語るお母さんの慟哭、そしてそれを優しく癒す鮫島医師の手紙…。どうしてこんなにも心が動くのか、涙が止まらないのか…。こうして想起するだけで涙腺の緩みを感じる。律には「隣で泣かれると興ざめなんだよね」と苦言を呈されたが、ひたすらに自分の中の「損なわれた自己damaged self」が疼くのだ。典型的なアダルト・チャイルド。自らが臨床教育学の中で迫ろうとしている「自己物語」も、結局amae(北翔大・新川氏が土居健郎を引きつつ使った表現)の問題圏の中にあるのだろう。英訳不可能な日本語としての「甘え」。無理に置きかえればdependence(依存)となるのだが、「言葉」に依存して生き延びてきた私としては、このamaeに「自己への思いやり self-compassion」を重ねる新川氏の解釈は、一種の福音となった。

 

 テーマに戻ろう。「記憶・表象・思考」を支えるものとしての「言語」と、それが現象させる「自己」の関係について、明確な答えを示すことは難しい。バーンスタインがアイブスから取った『答えのない質問 Question without Answer』を想起する。そうだ、答えが不在だからこそ、ずっと問い続け、その空虚を埋めようとすることこそ「思考」の本性なのだろう。しかし、その不安定に耐える心性を持ち得ない私は、悲しいかな「思考停止」を選ぼうとしてしまう。辺見庸が教えてくれたNIMBY(Not In My BackYard)=「鵺」=『茶色に守られた安心』は、確実に我が魂を浸食している。そうしなければ、この心的疲労感に耐えられないのだ。そこを無理して、いつも壊れ、人を傷つけて生きてきた。そうしてその生き方を根本的には変えられない残念な自分が、ずっとここにある。でも、きっとそれでいいし、それがいいのだ。「実存は、言葉とともにしか生きることができない」のだから、この苦しみ・痛みを語り、書き綴ることが我が実存なのだ。そう納得して先へ進もうと思う。 

 

2014.7.29-8.2(火-土)『当事者研究』その37(最後と決めたコンクールを前にして)

 思えば、このセルフ・リフレクションを始めたのが5年前、きっかけは陵北3回目の全道の後、胃の病気の兆しと部活の停滞が重なった時期であったように思う。月曜(28日)に教育大で再開した村上さんと言葉を交わしつつ、今も吹奏楽(サ・ブラ)とオーケストラ(アンサンブル・HARUKA)で音楽に向き合っているという彼女の現在に、私との出会いが幾分かの影響を与えているのかと考え、強烈に恥ずかしさを覚える。一方で、苦々しい記憶と共に私(の指導)を想起し、それがトラウマにすらなっているであろう生徒もたくさんいるはずだ。例えば澁谷さん…。函館からの転入生だったお姉さんは、結局高校も中退し、半ば引きこもりのような状態を経験しつつ、アニメ系の専門学校に進んだように記憶しているが、それも都合のよい「私のストーリー」に過ぎないのだろうか…。

 陵北に転勤した年から10年の節目を迎え、中学校教諭として21回目(全道含む)のコンクールを最後と決めて、覚悟して取り組んだ一週間。しかし、結局これまでと変わらぬ「気合い」と「精神論」と「叱責」の日々だった。最後に選んだ作品は、学部の卒業演奏で指揮した『こうもり』。当時私は22歳で指揮科に変わって2年目。翌年は精神科に通院しながら、田中先生や律のサポートを得て、音楽科五分校合同演奏会で振った作品だ。終演後、旭川の徳田さん(トランペット)が「ロープー(プロ)みたいな指揮振りだった」といってくださったのが印象に残っている。スーツに長靴で聴きに来てくれた父親。あの日、律は始めて私の両親の姿を見たのだった。打ち上げの席で谷本先生は「あのオーボエの子いいね、名演でした」と声をかけてくださった。嬉々として生協食堂のいすに登りViva la musicaのカノンを指揮していた中村先生…。その中村先生との葛藤に満ちた関係性が、私の部活指導における困難(特異性)を運命付けているようにも感じる。即ち、中村氏から受けた指導が、今の私の信念(コア/イラショナル 核でありつつ不条理な)を形成しているということだ。

 

 文書整理をしていて偶然見つけた以下の文章(2009.2.28)。まさにこの『当事者研究』のきっかけとなったQuP注釈から二週間ほどたった日に、私は部活生徒にこんなプリントを配っていたのだった。

 澁谷さんがまとめてくれた上記の文章を読んで、私は「これならやってもいいかな」と思い、今後も指揮することを承知しました。「自分達も聴いている人も楽しめる」ために、やるべき事をきちんとやれているかどうか、もう一度各自確認してみて欲しいと思います。

 「基本的な事」ができていて初めて、要求することができるのです。失敗をくり返すなとは言いません。でも最低限の努力もなしに「指揮が必要」と言われても、私には何もできません。まずは「息をしっかり吹き込む」事。この基本に立ち返りましょう。

 「いき」は「生き」につながり、「命」の根本につながります。いきいきと生きていなければ、息づかいも弱々しいものにしかなりません。どうやったら力強い息づかいで演奏できるのか。そこには「自信」と「気力」が必要です。以前先輩方に「自信は成功の第一義」という言葉を紹介したことがあります。自信持って演奏できるようになるためには、それに見合う努力が必要です。「できない自分」に甘んじる事なく、必ず「できる」と信じること。できなくても「できるまであきらめない」事が必要です。

 北京オリンピックでチームを優勝に導いたソフトボールの上野選手は、「できない事があるとできるまでやった、あきらめる事を知らなかった」「やれば必ずできる、疑うこともなくそう信じていた」と言います。君たちが目指している「自分達も聴いている人も楽しめる」音楽に本気で近づきたかったら、もっと気力を充実させて、聴いている人に伝わる演奏をしなければなりません。少なくとも私は、残念ながら今日の君たちの演奏を聴いて「楽しい」とは思いませんでした。吹いていた君たちも楽しめなかったのではないでしょうか。「楽しい」を取り違えてはいけません。ただ何となく、好きな曲を好きな楽器で好きに吹いているだけでは、「楽」かもしれませんが「楽しい」音楽にはなりません。本当の意味で「楽しい」と言えるためには、「やるべき事を精一杯やった」と自信をもって言える状態にする必要があります。「時間がなかった」とか言い訳をすることはいくらでもできます。でもそれでは、ますます自分たちの目指すものからは遠ざかる一方でしょう。

 苦しい事や厳しい事から逃げずに、あきらめないで努力を重ねることしか目標に近づく近道はありません。目標を変えたくないのであれば、今一度自分たちの状況を振り返り、「本気」になる必要があるのではないでしょうか。厳しい言い方かもしれませんが、「本気」のみなさんとしか一緒にやるつもりはありません。「本気」でやっているなら、たとえ吹けていなくとも、下手くそでも、一緒に高まりたいとは思います。しっかりと切りかえて、明日の合奏に期待したいと思います。2009.2.28               

 

 このアファーメーションの後で経験した苦しみについては、その後の『当事者研究』(特に「その3」2009.8.6)や道生研大会レポート(2010.1.9)にまとめたので、あえて再掲すまい。書きとめておきたいのは、このレポートのタイトルとなったAlways Good Musicとの言葉の主である相場先生の現在(来年還暦ということをずいぶん強調されていた)と、44歳になろうとしている私の現在は、どう重なる(または重ならない)のか、ということだ。レポート冒頭で紹介した「1年目には2学期始業式にガラスが80枚以上割られ、学校祭直前には暴れる生徒にあばら骨を折られ…。散々な思いをしながら、子どもたちとの戦いの日々」を知る生徒たちから、同窓会(8・16)の誘いがあった。昨日は十数年ぶりで前野先生(共に「師匠」と呼んでいた太田先生はもう校長だ…)と地下鉄ですれ違い、一番手を焼いていた久世(くせが正しいと本人から聞いて知った)君から誘われたことに言及し、しばし懐かしさを覚えたのだった。しかし、その日は「断乳の日」と重なった…。

このように人生のアスペクトは様々に変化し、折り重なっていく。上掲の「ストーリー」も大きく変容が求められているし、求められずとも自ずと緩やかなものに変容しているのだ。相場先生の「もう日本でできることは限られている、でも故郷は日本なんです」との言葉をかみしめる。そして「一度お休みするのでいいじゃないですか」との言葉に救われる。久世くんたちとの再会は叶わないが、彼らが30を過ぎて立派に「社会人」としてそれぞれの自己物語を紡いでいるように、私も新たなフィールドで「支えとするストーリー」を生き、語り、語り直し、生き直して行くのだ。誰もがそのように、自分の人生を綴りながら生きている。今目の前にいる吹奏楽部の生徒たちと、私は私なりの「現在」を精一杯演奏するしかないのだ。「音楽家=(オペラ)指揮者」アイデンティティを、いかに「発達援助専門職」として活用するか。このアポリアに挑戦することが、最後のコンクールのミッションなのだと思う。「できるまであきらめない」ことの別解を見つける夏としたい。やるしかないのだ。

2015.8.15(土)20(木)『当事者研究』その38(戦後70年の節目にあたって)

 前回から1年以上の時間が経過した。ひさびさに書かずにはいられないと感じる重要な節目。戦後70年の終戦記念日。数日前には被爆70年、結婚15周年、入院・内観から10年…といったエポックが続いた。我が45年の人生において、こんな大きな節目はなかなかない。「音楽・平和・学び合い」などと名付けて、エッセイを書いてきた者としても、書き留めておくべき(おきたい)ことの何と多いことか…。

しかし、問題は何も変わらない。禁止されていることを敢えてしてしまう愚かさ。「やめたくてもやめられない」と開き直るずるさ。結局アディクティヴであることこそが「支えとするストーリー」(クランディニン)であるとしか言いようがない。今も妻が仕事に出かけている隙を見て、食卓(=世界の中心)に機材を広げ、この仕事をしている。隣では娘が「これは?これはどうした?」と言い続け、生まれたばかり(翌日)の写真を見ながら、ひたすら私への要求を続けている。「おえかきせんせいください」と言えばそれを与え、渡してはいけない本やチラシ等も触らせ…。もしこれが妻に知れたら大変なことになると分かっているのに、なぜリスクテイキングであり続けるのか…。この事と、安倍政権が進める「積極的平和主義」は、どこか共通する論理を持っているようにも思われる。

 

綸子が大騒ぎしている横で、これ以上この深刻な主題について思考し続けることは難しい。ただ言えるのは、綸と共に過ごすこの時間は、「平和」としか表現できないものであるということ。

 

 

(以下は日を改めて、北大教育学部図書室にて)

 改めてここまでの記述を読み直し、第二パラグラフ末文の含意に想いを馳せる。国際バカロレア(IB)の 10 Learners Profile(10の学習者像)におけるRisk-takerは、大迫弘和氏の紹介によればCourageous(勇気ある者)でもあるらしい。結婚15年の日を、因縁深い中原くんと共に過ごし、四半世紀にわたるCollaborationの帰結と位置づけたIBMYPワークショップから、もう一週間が過ぎた。彼の三味線(!)とリコーダーでコラボするなど、かつて想像できただろうか。昨日の札中音研学習会での三味線・長唄体験も振り返りつつ、自らが克服すべき他者とみなし続けてきた「日本の伝統文化」や「学習指導要領」ですらも、メタレベルの文脈(Global Context)を設定することで相対化できることが明らかとなった。対立的Conflictiveであったものとも、親和的Confortableになりうるということの証明でもある。

妻との関係もそうだ。約半年ぶりの北大受診に合わせて立ち寄った産科病棟…。待合室でおにぎりを頬張りながら読み返した10年前の律子のNarrativeが私にもたらしたのは、意外にも「すがすがしい共感」だった。同じく病を生き、苦しみながら同じ道を歩んできた同志と再会した感覚と言ったらよいのだろうか。ふと、エルプラザで頂いた一枚の葉書に書かれた次の言葉を想起する。

~平和とは 悲しみを共にすること 生きるとは 喜びをわけあうこと(岡本法治)~

高橋伸枝さんがご紹介くださった広島県のお坊さんの言葉。葉書を裏返せば『フクシマ4・ヒロシマ70 闇と光のなかで』と題して、福島原発から3キロのお寺の住職(藤井賢誠氏)や鎌仲ひとみ氏(『小さな声のカノン』の上映も兼ねて)を招いたイベントを企画・実施した浄土真宗の僧侶であるらしい。

我が44年10か月の人生ではカバーできない「戦後(被爆)70年」という時間…。今年の夏、この国では様々な言説がこの節目を契機に交わされたのだろう。しかし8・15を家族と共に自宅で過ごし、新聞もテレビもネットもない環境で得た「終戦の日」に関する情報は、夜9時からのNHKラジオのみだった。それも泣いてぐずり続ける綸子を立ったまま抱き続け、ほとんど話半分にしか聞けず…。古市憲寿さんの言葉も、その軽薄な早口ばかりが印象に残り、内容はほとんど記憶に残っていない。自分も含めて「戦争のリアリティ」がない中で、それぞれが都合の良い「想像上の戦争(辺見庸が紹介していたスティグレールなら『感性の戦争』と呼ぶだろうか…)」を前提に語るしかない。

 

(再度場所を変え、エルプラザ市民活動サポートセンターにて)

辺見さんのインタビュー記事(2014.12.14神奈川新聞)を引いておく。

 ■感性の戦争

 フランスの哲学者ベルナール・スティグレールが用いた「感性の戦争」という言葉を辺見さんは口にした。(中略)「貧困も可視化されずに見えにくくなっている。目を見開き、耳を澄まさなければ。民主的な全体主義の中で『感性の戦争』は決してオーバーな言い方ではない」(中略)「でも、自分の生活圏から数ミリでも足を延ばし、行動する以外にない。今は普段と違う状況だ。こっちも普段と違う目つき、身ぶりで、怒り、いら立ちを自分で表現する。たとえマイノリティーになっても、臆せずものを言う。やれると思うんだ」

 選挙後も日常は続く。戦前から、戦争が始まる時も突然、風景が変わったのではないように。日常の至るところで「感性の戦争」は起きている。目を見開き、耳を澄ませ-。

 

その後年が変わり、シリアで日本人ジャーナリストが殺害され、安全保障に関する法案(「国際平和支援」「平和安全法制整備」とは、何たるユーフェミズムか!)が衆議院で強行採決され、9月にも成立との運びとなっている。一方私の現実は、強烈な信念対立からストレスフルになり、体は悲鳴を上げ、徳洲会・医大・北大と大きな病院をはしごしている状態だ。「たとえマイノリティになっても、臆せずものを言う」どころか、「耳を澄ませ」との呼び掛けに応えようとすればするほど身体が固まる状態…。みかみさんたちのNPO『みみをすます』に賛同し、名を借りてこうしてこの場所でいつも仕事をしている者であるにもかかわらず、「このままではいられない」とは思いとは裏腹に、何とも不安にさいなまれ続けている。

 

辺見氏は2月の共同通信インタビューで「今は希望はない」と断言する。しかし安倍が70年談話にも挿入した「積極的平和主義 Proactive Contribution to Peace(平和に対する自発的な貢献)」を、文脈を外して自分の現場で実現していくことこそ、いま私に課せられた課題なのだろう。昨日出会った同世代の画家・モリケンイチさんと語り合ったことは、私を「平和への貢献」へと向かわせるOrientierenとなった。50年前、大江健三郎が語った言葉を引いて、その決意を補強したい。倦まず進む。それしかないのだ。

~(前略)しかし、それでもなお、まったく勝算のない、最悪の状況に立ちむかいうる存在とは、やはり、このように正統的な人間よりほかにはない(後略)~

『ヒロシマ・ノート』6章「ひとりの正統的な人間」P.147より

2015.12.10(木)『当事者研究』その39(「たたかう」ということ)

 残り2週間で2学期も終わるというこの時に、役割を果たせず、ひとり準備室に退却し、ひさびさの「当事者研究」を通して今の情動を整理しようと試みる。学校でこれを書くのは「その22」以来だ。震災から8ヵ月が過ぎた11・4の日付…。タイトルには「『うんざりする』ということ」とある。前日に「フィンランド1日大学」でヘイノネン氏や庄井先生のお話を聴いた直後だった。司会が中村先生で、読売・中西さんと引き合わせ、北浦記者や宮崎記者に出会った日でもあった。最後の段落を引用しておく。

 

きっと古本先生も、私と同じような心象の中で闘っておられるのだろう。そう拝察するからこそ、クラスが落ち着かず迷惑をかけている状況にも「うんざり」させられているのだ。「注意・声かけを続ける」「時々授業を見に行く」「古本先生の話をまめに聴く」と方針を立てたものの、どこまでできるのか。「信じて待つ」しか解決の道はないというのが経験上の真実なのだが…。「うんざり」を楽しむ生き方は果たして可能か?しんどい日々は続く。

 

あれから丸4年が経ち、もう古本先生はこの世におられない。彼女とお別れした斎場は校区内にあり、昨日はそのすぐそばの「麦の子会ブレーメン館」で小松田先生と同席し、斎場前で挨拶を交わしたのだった。悲しくも、その時には古本先生の名を失念していた。記憶とは何と切ないものなのだろう…。通夜と卒業式が重なり、山口教頭が市教委作成の感謝状を仏前に供えるため忙しくしていたことが想起される。山口先生にしても、その3年ほど前に自ら一命を取りとめた前任校の校区であったのだ。それが今や、不思議な縁によってまたも同じ学校で働いている。栄町中がつなぐつながり…。豊文さんや吉田との縁も含め、「うんざり」していた4年前には全く想像もできなかった現在がここにある。

 

さて、今こうして自分の情動と向き合うきっかけとなったのは、又も柿澤のActing Out に触れたこと。「よーいち、何見てんのよ…」と因縁をつけられたのだが、横井先生がすぐ入ってくださって事なきを得た。やはり視界に入るだけでダメという7月以来の状況は、ほとんど改善されていないようだ…。豊文先生が気遣ってくれたのか、「僕(4階の待機生徒監督)行くよ…先生は来週お願いね」と言ってくださる。本当ならすぐに指導部(吉田)とも相談して、柿澤への対応に動くべき事例と思うのだが、自身にエネルギーがなく、相談すらできない。給食食べつつ、力なく厚母先生に「またからまれてしまいました…」とつぶやくのみ。応えて「イライラのはけ口を見つけているんだ」との言葉も、わかりきった内容で心に届かない。きっかけの自覚はある。2校時田口さんの授業開始時、不遜態度と暴言の現場に出くわしたものの何もできず…。3-2の授業を頼まれていたこともあり、また自分が入っても火に油だと思ったこともあり、職員室に応援を求めに行ったら吉田がいて、「すぐ動く、指示出しますからお願いします」と言われるままに視聴覚室に行き、そのままにしてしまった。吉田がすぐ入ったと思ったのは勘違いで、2-5男子3名を家庭訪問して連れてきたのだった。田口さんはその後一人で対応し、彼の心情も酌みながら見事な対応をしていた。柿澤が求めていたのは「かまってほしい(止めてほしい)」ということなのに、又も壁になることができず…。給食前の行動はその延長にある切実な要求なのだろう。

 

思えば、6月末の職業体験オリエンテーションで吉田が刺さり込んできたあの日以来、私は一度も彼の前に、凛とした壁として立ったことがない。授業での「ガイジ」発言を過剰に捉え、又もいわれなき(彼にとっては意味不明な)正論を吐かれただけで、自分に向き合ってもらったという感慨は全くないのだろう。もっと言えば「『ファイト』とか言っていたくせに、なんで逃げんだよ!」というのが本音なのだろう。親からも、野球のコーチからも、常に権威的に迫られ、暴力で押さえつけられてきた彼にとって、「力を行使しない存在=弱い者」というのは、自身の行き場のない感情をぶつける格好の標的でしかないのだ。それが社会的に自分より上の存在であればなおのこと、攻撃することによって自己を大きく見せ、まさに下克上的な感覚で、自分を守ろうとしているにすぎない。まさに「躁的防衛manic defence」の典型ともいえる。

 

一方私は、結局彼の「一身上の都合」などほとんど理解しようとしないまま、自分を被害者の場所に置き続けている。それは柿澤との関係性だけでなく、他の生徒とも、同僚とも、家族とも同じなのかもしれない。「弱さへの退却」は周囲の攻撃性を助長する。まさにいじめの構造と同じで、ヴァルネラビリティーの負の側面が現象すると言い換えてもよい。そこから「弱さを強みとして活かす」というポジティブな対処(コーピング)にシフトするには、自身の認知傾向の修正が必要だ。思えば、青年期以降の私の30年は、ずっとこの問題の周りを回っているように感じる。簡単に言えば「たたかえない」のだ。機能不全家族の中で生き延びる「たたかい」も空しく、結局精神を病み、中学校教師としての社会生活の中で、生徒や保護者、時には同僚や理不尽な社会制度とも「たたかった」が、やはり傷つき疲れ果て、心身ともに健康を害して、生き方の変更を迫られた。酒は止めたが他のアディクションは止まず、結局自分自身との「闘い」にも常に敗北を続けている。そんな自分が他者と「戦う」ことなど、原理的に不可能なのだ。

 

こう書いてみて、又もネガティブ・スパイラルの再叙述を繰り返していることに気づく。「語り直し、生き直す」とのNIのスローガンも切なく響くのみ…。しかし、立ち止まって考える。確かに今日のエピソードのように、生徒と関係が作れず、役割も果たせずに「うんざりする」ことは、これまでも、今も、きっとこれからも続くだろう。それを「力 power」で克服することは、原理的に自らの来歴がもたらす生き方の構えや核となる「不戦の信念」を否定することになるのではないか。確かに痛いし、周りにも迷惑をかける。しかし「戦って勝つ」ことは、柿澤自身の在り方の課題を解決することにはつながらない。その時は屈服するのかもしれないが、新たなルサンチマンを膨らまし、新たな暴力性を発露させるのだろう。2日前、没後35年の節目に重ねて1年授業で見せたジョン・レノン『Happy Xmas』DVDに引用されたガンディーの言葉を想起する。この「非暴力主義」の徹底こそ、しんどいながら、私がこれまでの人生をかけて掴み取ってきた、生き方の指針なのだ。

 

An eye for an eye will make us all blind~復讐は我々すべてを盲目にする~

 

この不信と絶望の時代にこそ「たたかわない」との信念を保ち続けることが、私にとって一番の「たたかい」なのだと心に刻む。このナラティヴを生んだ柿澤に深く感謝したい。

 

 

2017.9.20(水)-24(日)『当事者研究』その40(生き延びるために~支援とは~)

 書くか書くまいか…、様々に逡巡した末に、やはり「書く」ことを選ぶ。Narrative Activistなどという言葉を思いつき、これまでも困難や苦悩を言葉にすることで生き延びてきた自身の居方に誠実であろうと試みる。「ことばの活動家」とはこなれぬ訳だが、ともかく「一緒に食事をする」というミッションを終え、少しリラックスした所で自己物語を確かめる意義はきっと大きいはずだ。

 

文脈を明らかにしておこう。きっかけは2週間前にさかのぼる(QuP23参照)。

(ここまで20日の記述)

 

 1日おいて、快晴の空を見上げつつ、つくづく「生き延びた」と日々言い続けて、ここにあることを確かめる。2009年に、義父の死をきっかけに書き始めたノートも、いまや64冊目。折々の危機的状況において「生き延びる Survive」ことを巡って、その都度の情動が吐露され、現状が分析され、決意の言葉が記されている。例えば、ほぼ2年前にはこんな文章があった。

 

2015.9.24

~(前略)生き延びる為には、合わない世界になじもうと自身を殺す必要などない。明らかにパワーハラスメントなのだから、心の中で「あっかんベー」をして、最低限の仕事をして、ここを立ち去るのみだ。あとは冷静に、自らはdecencyを保って、大人の対応をしよう。

「どこに行っても逃げてばかり…」となるとは限らない。栄町での一年が、いつか「大きな転機だった」と思える時がきっと来る。この極限的に追い込まれた状況下でSelf-narrative Inquiryだからこそ、語りうる何かがある。仕事は仕事…。坦々とこなして、何とか発表準備をしよう。(後略)~ 

 

吉田英明の暴言を浴びた数日後…、あれはちょうど戦争法強行採決の前日(2015.9.18)だった。臨床教育学会全国大会直前の記述でもある。読み返せば、確かにあれが転機だったのだ。しかし状況は変わらない。1年前には校長から「拠点校指導」の中断を指示され、そして今回の7組・雅美先生とのエピソード(2017.9.7)…。昨日(21日)には、「環境調整したいので、しばらく7組に関わらないでください」ということになり、そのまま受け入れる。房江先生や森長教頭に話を聴いてもらい、何とか自分の中に溜め込まずに「仕様のないこと/必然」と納得したのだった。

 

つくづく私は切ない存在だと自罰に走りたくなるが、こうやって生き延びてきたということは紛れのない事実だ。きっとこれからも、このように自分で自分を支えつつ、誰かに支えられながら、坦々と生き延びていくのだろう。福音となるのは桑山紀彦医師の次の言葉。書き留めて「援助専門職」であることへの挑戦を、倦まず続けたい。

(ここまで22日)

 

~1994年 内戦下のソマリア。苦しい限界の日々の中で、「ボランティアは

人のためではなく、自分のためでいい」と思え、気負いの気持ちが消えた~

 

 

 

2017.11.20(月)『当事者研究』その41(校長面談を終えて~キャリアデザイン雑感~)

 前回の『当事者研究』から2ヶ月。47歳の誕生日/第42回新川祭から1ヶ月。Inquiry Notes(65)に書き留めるだけにしようかとも思ったが、あえてここに「Essay/試み」として書き残すことを選ぶ。又も優先順位を間違えているとしか言いようがないが、「その12」(2010.6.20:私は何故「研究」を志向するのか)から7年余を経た〈現在〉の自己物語を綴ることは、新たな連載(自己物語探究の旅:11/24発行予定)へのOrientierenとなるだろう。

 

 藤本校長が3校目で小泉氏の後任として附属中に赴任した年が、私の新採用と重なる1996年であったはずだ。当時35歳の藤本氏作成カリキュラム冊子を、札教研研究部会で訪れた附属中の藤本学級で譲っていただいた(500円だったか?)のが、自身の音楽科カリキュラムへの関心の端緒だった様に思う。あの時は、あいの里東・飯田緑先生の指導案検討だったろうか?紛失してしまったが、音楽(科)教育への疑問・不審から論点整理にもならぬ殴り書きを持参し、それに興味を示して下さったというのが私の中で「藤本先生」イメージの始まりにある記憶だ。

 

 もちろんその前には、教育大オペラに連なる者として「プーレオペラ研究会で活躍する声楽科の先輩」という認識が強かった。「上篠路中の校歌を作曲した」というのも、一応作曲専攻で修士を出ている者としては、意識してしまう原因の一つだったのかも知れない。先週末、今使用しているPCのフォルダに「宮本先生の思い出」が残っているのを発見し、そこに第1回教育大オペラ時に撮られたと思われる学生時代の藤本氏の写真があった。メーデーの鉢巻をしてデモ行進する20代の中村先生や、当時の音楽科スタッフによる集合写真(駒ヶ嶺氏、谷本氏、熊谷氏、沼田氏、雨貝氏らの若き日の姿)もあった。宮本先生の娘さんは山下君(私の『魔笛』で実行委員長だった彼も今や指導主事:正確には「義務教育推進係長」だったか…)とお付き合いしていたのだ。彼女(かよちゃん)は、中村氏退官記念祝賀会でシベリウスを弾いていたのが久々の再開だった。それがもう7年前…。敦史に結婚式の司会を頼んだのが17年前…。今は新指導要領への移行資料作成のため、藤本氏の下を訪ねる時に顔を合わせるだけになった。

 

教員8年目で津田先生(当時あいの里東)に頼まれ、札教研北区中学校研究部長を1年間だけ引き受けた時、新川西での秋の授業(転勤したばかりの川原先生にお願いしたのだった)から帰る車の中で、「先輩から教わったことを若手に伝える会を作りたい」と話されていたことも覚えている。それは時を経て、札教研事業の「若手懇談会」という形で実現しているが、そこに参加している昨年度担当初任者(橋先生)のことを考えると、教師教育者としての自分の無能を切なく想い返すのみ。「その12」に言及されている「意見書/敦史へのメール」も、完全に過去のものとなった(あの情熱はいったい何だったのだろう?)。

 

 同じ年(2004)に中央区に転勤し、吹奏楽全道大会出場の時期(2006-08)も重なっていた。もちろん藤本氏はその後も続けて全道出場を果たし、向陵中60周年(2008)を教務主任として回し、啓明中での教頭初年度(2011)に全日音研の事務局長を務め、北辰中教頭を経て本校で校長昇任(2015)、その年には開校40周年事業を推進し、3年目の今は極めて安定した、穏やかな学校運営を行っている。何の因果か、拠点校指導2年目の配置校が新川中となり、1学期の校長面談では「来年もいてもらいたいので、転勤希望はなしで…」という話になったが、少し考えて後日「やはり毎年配置校を変えたいので、転勤希望でお願いしたい」と伝えたのだった。

 

 思い返せば、初めて新川中に足を運んだのが2年前の春の札教研だった。栄町に移った年で気負いが消えず、でもすでに心理的に追い詰められつつあり、新川駅で「研究ノート」を開き、葛藤を綴った記憶がある。ひさびさに当時のノート(46)を取り出し、その日(6/16)の記述を読み返す。どうも2-1で柿澤の「ガイジ」発言に応答した日だったようだ。少し前には大江健三郎氏の講演メモ。「次世代が生きていける場を残すことを、私たちの生きる目的としよう」と最後の言葉が記録されている。今思えば、次世代どころか「自分が生きていける場」すら担保できず、様々に傷ついて一般教諭職を降りた後も担当初任者と折り合いがつかず、更には「特別支援」にフィールドを移しても副担任としての業務を担えない苦しみが「高ストレスの原因」と、聴かれてもいないのに校長に語っている自分がいた。藤本氏の「管理職が原因か?」とのユーモアに呼応しての語りとはいえ、「夢に出る」というのは言い過ぎだったように振り返りつつ思う。

 

 藤本校長が代案として提示したのは「特別支援の免許とって、自分でカリキュラムデザインできる立場になっては」というものだった。高校での特別支援(通級指導)に話題が及んだ時、大通高校・鈴木校長の名を使って「市立高校改革も進んでいるし、専修免許もあるので高校での仕事も考えている」などと口走っていた。開成中等ワークショップでの小林係長との対話も念頭にあったが、「鈴木校長に声をかけられ」というのはいつもながらの誇張だ。所詮私の「キャリアデザイン」というのは、こうした「はったり・背伸び・自己装飾」から逃れられないのだろうか…。

「臨床教育学の研究者として大学に席を置きたい」という本音を言わなかったのは、書き留めておく価値があるだろう。校長も教育大で非常勤を勤め、兼平さんや萬氏、勝谷氏が既に音楽科教育の教授職にあるという事実が、語りを躊躇させたのかもしれない。それでも面談の前半では、「残り10年以上あるし、何らかの形で音楽科に戻ってくると良いのでは」との言葉を有難く聴くこともできた。「先生が研究してきたことは、まさにこれからの教育課程で大切になってくることだ」との言葉も、私が広く深く学んでいることを正しく評価して下さっていると、そのままに受け止めよう。その上で「管理職という生き方もある」との言葉をどこかで期待している自分が確かにいたことも書き留めておきたい。

 

結局「その12」に書き留めた「ルサンチマンからくる抵抗/関係依存」との側面は変わらない。しかし「自己物語探究」とのリサーチ・クエスチョンに辿り着いた今の私には、昔感じていた疎外感や劣等感は薄らいだように思える。ビックイシュー最新巻「うつを抜く」特集で出会った言葉(蟻塚亮二医師)を引用して、半端ではあるが雑感に代えたい。

 

~撤退することも十分に立派な対処法

/過剰適応型の人はうつになってよかったんですよ~

 

 

2018.11.29(木)-12.3(月)『当事者研究』その42(初任を想う~20年を越えて~)

 1年ぶりに書く。「自己物語探究の旅」と題して連載を再開してから1年が経ち、12回目の原稿〆切直前となった。本当なら、すぐに書き始めるべきところだが、いつもの悪い癖で迂回してしまう。数日前、Inquiry Notesをセイコマートで綴りつつ、次のように書いた。ノートの転記はあまりしてこなかったが、前回のQuP(25:「手書き」する試み)に倣って、打ち直しておきたい。

 

(以下11/27 17:52-18:33ノートより引用:前略)

 年末の同窓会のことに重ねて、初任時代のepisodeをいよいよ文字化してみようか…。その営みは自身の論文にとっても必要なことだろう。若い先生方に向き合いつつ、ひたすらに自身が若かった頃の不全感を追試しているのだ。初任の三年間をrestoryingすることなしに、Self-narrative Inquiryはなし得ないし、『教師教育における当事者研究』も片手落ちになってしまう。

初任者指導の3年/12人とのCo-autheringの中に、最初の卒業生を出すまでの3年を重ねる。2016-18/1996-98の間に横たわる20年という歳月を、SnIを通して共時的に捉え、新たな物語を綴ること。まずはClandininらのNIにならって、初任三年のWord ImageをQuPに重ねて紡いでみよう。その上で初任時代のエピソードを『当事者研究』として書き、それをそのまま12月分の連載で紹介する。これらをField-textとして、改めて初任者指導のepisodeと重ねつつ、Research-textを綴るのが、論文執筆の実質的な作業となるのではないか。それを意識して拠点校指導を振り返るなら、自ずと自らが若き日に成し得なかったTrauma/Stigmaの所在が明らかになる様に感じる。

 論文のための取材という意味で、やはり同窓会には顔を出すべきなのだろう。中学生だった彼らが三十代半ばの青年になり、何を語り、どう生きているのかを知ることは、私の自己物語探究に大きな影響を与えるはずだ。綸子を連れていくとなると中々難しいが、ちょうど酒をやめた年令になった彼らに、若き日への懺悔を込めて酒をついで歩くというのは、必要かつ重要なことなのだと感じる。自己言及に終わらせない為にも、他者として卒業生達と出会い直し、彼らのNarrativesの中に、若き日の自分を発見することが求められているのだろう。気は進まないが、人生のepocとして勇気をもって自らを差し出したいと思う。(引用以上:ここまで30日の記述)

 

 結局、連載原稿を先に書き上げたため、初任時を深く掘り下げることがないまま、12月を迎えてしまった。Teacher`s runと訳せる季節(師走)となったが、ほとんどやるべき仕事もなく、停滞したまま日常は過ぎていく。20年前はこんな時が来るなどと想像したことはなかった。ひたすらに走り続ける日々で、残されたノートを見ても、ナラティブな記述は一つもない。全て箇条書きかつ殴り書きで、その他に書き方を知らなかったとはいえ、あまりにラフすぎる。それ程に「立ち止まる」ことの許されない日常が、そこに存在していたのだろう。

 

細部を想起することは、QuPで行うこととしたい。この記述が20年の時を越えて自己物語探究=当事者研究するOrientierenとなることを願う。倦まず進む。そうするしかない。

2019.8.2(金)『当事者研究』その43(胃の手術を終えて~病室にて)

 久しぶりのEssay writingを、綸子が生まれた北大病院にて書く。BGMはナイトdeライト。「自己物語探究の旅」連載をあきらめ、研究会に通うことも自宅に帰らずにネットに溺れることもなくなり、入院前日にはひさびさの「こどもの姿を語る会」に参加した。傍らには売店で購入した『患者必携 がんになったら手にとるガイド』(学研 2013)がある。

 

 がんの告知が3月25日。修了式の午後だったはずだ。その足で送別会の幹事をこなし、年度をまたいで新川中での3年目を生きている。元号も変わり、今はもう平成ではなく「令和」3ヶ月が過ぎたところだ。「れいわ」と打っても正しく漢字変換されない古い学校のPCで、自分と向き合おうと思うが、少し眠くなってきた。書くことへの欲望はもうほとんどない。Inquiry Notesに向き合う気力もない。食事は2日前の昼から摂っていないので、空腹で胃が痛む。それでも手術した割には痛まない。もっと苦しいかと思っていたのだが、有難い限りだ。

 

 嬉しいのは家族の存在。特に綸子の心遣いはたまらない。幼い心にどれほどの負担をかけているのかと考えると、切なくもなる。妻の負担も心配だ。平均5時間に満たない睡眠で、私がサポートしている分を独りでやるのだから、想像以上に大変なのだろう。二人のことを「ダブリー」などと密かに呼ぶ私としては、独りで過ごす時間をひたすらにもてあましている。それでも見舞いに来てくれることを楽しみに、残り5日間をやり過ごしたいと思う。

 

 何か臨床哲学的なナラティブを期待しているのだが、まったく出てこない。それ程に体力は落ちている。知的にも物理的にも相当落ちている。無理しても仕様がないので、流れのままにキーボードを打つ。読書も進まないが、午前中に藤原新也『メメント・モリ』を読了する。TVがついていたので、集中して味わうことは叶わなかった。犬に食べられる人間の写真が強烈だ。それを自由と評する感性は私にはない。

 

「死を想え」か…。大江の『晩年様式集』にも挑戦したが、やはり読めなかった。78歳の時の作品。今は84歳なのだ。大江氏の精神の逞しさに憧れる。最後に引用されている詩は、70歳の時にモーツァルトのレクイエムの序として書いたものだという。私の年齢と比べると、30年後にそんな仕事ができるとは思えない。第一、残された時間はたぶん10年程度。同室の皆さんは私よりも病状が重く、年齢も60~70台と思われる。私はまだ若いとも言えるが、本当に生き延びることができるのだろうか。

 

早くに切除したことを福音と思う未来であってほしい。転移の可能性は当然あるし、リンパ腫の治療は手付かずだ。不安と共に生きていくことを、そろそろ真剣に覚悟しなくてはならない。これも午前中に手にした岸見一郎氏の「今を生きるしかない」との言葉に賭けてみようか。30歳で子どもが生まれ、40歳で転職し、50歳で心筋梗塞になるなどという劇的な生き方に比べれば、まだ私にやれることはきっとある。真にやりたいこととは何か。少し前には研究と言えていたのだが、もっとシンプルに「生きる」ことに貪欲になろうと思う。手術から目覚めて、娘の手紙を読んだときに感じた「生きたい」との感覚を忘れずにいたい。

2022.3.28(月)『当事者研究』その44(綸子の9歳誕生日に寄せて~2分の1成人~)

令和元年の胃がん手術から2年8か月が過ぎようとしている。当時小学1年生で、たった一人で北大病院まで着替えを届けに来てくれた娘も、今日で9歳となった。民法改正で18歳が成人となるまであと3日。その半分の時間が既に過ぎたことを感慨深く思い返す。

 

「2分の1成人式」というイベントも、あまり流行らなくなったのか耳にすることが減った。それでも彼女が生まれて9年が経ち、幼稚園入園から6年が経った今に想いを致す時、更に6年後の義務教育修了や、18歳で高校卒業/大学進学といったライフイベントに立ち会えるのかという不安が残る。その頃私は還暦を迎えているはずで、それでも退職まで5年が残っており、どんな生き方をしているのか想像もつかない。北海道新幹線の札幌伸延や冬季五輪の招致などが予定されているが、それまで生き延びられるかどうかも分からない。

 

一般職に戻る気持ちは今のところないので、拠点校指導の仕事を続けているのだろうか。村越さんは20年の小学校教諭勤務を終えて春から大学に移る。予想していた通りなので、その活躍に期待したいが、私自身もかつては目指した道なので、何とも置いて行かれたような気分にならないでもない。冷静に考えれば、今の健康状態で転職するという選択肢は無い訳だし、それに見合うだけの研究実績もないのだから仕様のないことなのだ。全国学界からは会費未納入につき退会とされてしまったし、今さら庄井先生との協働を求めることも難しい。このタイミングであいの里東中勤務となるのは有難いことなのかどうか…。まあ、平成元年=34年前に18歳であった自分への追憶と共に生きる年となりそうだ。

綸子は北高から北大に進むというイメージを持っているようだが、今の発達水準からは夢物語という他はない。私自身も娘の大学進学に重ねて、博士課程での研究生活を夢見てはいるが、果たしてどうなることか。6年前、拠点校指導に転じるタイミングで設定した論文執筆との目標は、果たせないまま今日に至っている。アウトラインはできているので後は書くだけなのだが、何と言っても上手く時間の捻出ができず、何度も書こうとしては諦めている現状は、20代前半と同じだ。若き日の不全感を抱えながら50代を迎えてしまった今を空しく思い返す。

 

それでも、今の私には家族が増えた現実がある。田島とも久々に話せたが、彼の人生の苦悩に比べれば、私には希望の未来が開かれている。田中満矢くんのラジオでの活躍に耳を傾けつつ、綸子の育ちに想いを寄せて、日々を精いっぱい生きていくことができることを喜びとする他はないのだ。バレエや書道の他にも、体操やピアノに関心を持ち、まさに可能性の塊として今を生きている娘をひたすらにサポートしながら生きること。他に私の生きる意味など無いではないか。利己の心を捨てて、家族の為に利他の心で生きることこそ、私がより善く生きるために忘れてはいけない心がけなのだ。

 

今も妻に頼まれた買い物をして、娘を迎えに行かねばならないというミッションが私にはある。そういった雑事の全てを面倒なことと考えずに、喜びをもって引き受けることが求められているのだ。ひたすらに愛をもって、自身を他者に差し出して生きることを心に刻もう。

 

2023.1.1(日)-1.4(水)『当事者研究』その45(年頭の所感~ひとりで生きる~)

 すでに日付が変わってから2回シャワーを浴び、一旦ベッドに入ったものの、妻にはプレッシャーをかけられ、正直にベッドインしたとは言えなかった。寒さと空腹を感じつつ、Double-Reeが起きてくるのを待つ。Inquiry Notesには「楽しんで生き延びたい」と書いたが、53歳を無事迎えることができるのか不安だ。兎年となり、年賀状は小原牧師夫妻と萩中さんご家族からのみ。Radioでは米津玄師のKICK BACKが流れている。

 

♪努力 未来 a beautiful star

「止まない雨はない」より先に その傘をくれよ

ラッキーで埋め尽くして レストインピースまで行こうぜ

良い子だけ迎える天国じゃ どうも生きらんない

 

 ネットで『「ポストよい子」の対話的自己エスノグラフィー』(柳川日和・斎藤清二

対人援助学研究2021)なる論文を見つける。「自己エスノグラフィーとは文化的経験を理解するために個人的な経験を記述し、体系的に分析しようする研究と執筆へのアプローチ」と定義されている。そうであれば、この「当事者研究」を「私的エッセイ=セルフ・エスノグラフィー」と見なすことは、あながち間違いではなさそうだ。

 

 臨床教育学会からは会費未納のため退会を迫られているが、妻にはさらに入浴を迫られた。(ここまで元旦に記す)

 

(ここから4日)

 さらに入浴し、年越しの鍋パーティーが元旦深夜。新年のおせちは2日昼間だった。

3日午後外出し、綸のスキーを新調し、藤井風にすっかりはまってYouTubeを見続ける。今はLPlaza2階で一人ゆったりと過ごす。律は明日から児相勤務。『ジソウのお仕事』(フェミックス2020)を情報センターで見つけ借りる。石原真衣『〈沈黙〉の自伝的民族誌』(北海道大学出版会2020)も継続する。この本では「オートエスノグラフィー」という手法が採られており、そこに当事者研究を重ねる形で理論構成しているところに、私のリサーチ・クエスチョンとの近さを感じる。そのうち、石原さんとも会えるだろう。「みみをすますプロジェクト」がアイヌ関連の人々とつながりが強いからには、きっとチャンスがあるに違いない。

 メールチェックしてみると、みみすま活動停止の臨時総会が1月上旬にあるとのこと。震災から12年。干支が一回りして、新しい時代に応じた変化が迫られるようだ。

年末から自身のHPのために、これまでの仕事を振り返ることを続けてきたが、その中に「元気塾」第10回のテーマソングづくりワークショップの映像があった。ちょうど5年前の仕事。新川に移った1年目で、中高MM連載も続けていた頃だ。マットさんの娘さんは今やオランダで学んでいる。世界は狭くなった。さて私はどう生きるのか。

今日少しでもHP更新を進めたかったが、もうすぐ時間切れだ。2週後にも北大通院があるので、その時まで我慢するか。律から電話あり。これから綸を迎えに行って、八百屋とスーパーに寄って、立ち読みして帰ることになる。明日からは5日間バレエの引率だ。仕事はほとんど進まないだろう。それで良い。今年も僅かな「ひとりで生きる」=「自分自身で、ともに」ある時間を繋げながら、坦々と生き延びるしかないのだろう。

2023.11.3(金)『当事者研究』その46(53回目の文化の日に~娘の10歳と重ねて)

 『文化の日』を始めて意識したのはいつだったか…。制定は1948年で新憲法公布の2年後。趣旨は「自由と平和を愛し、文化をすすめる」との事。明治天皇の誕生日でもあった。「にっぽーんはぶんかこっか、ところてん、ところてん」とショパンのバラードに歌詞をつけたのを知ったのが35年前(平成元年)だった。妻に確認したら自分が10歳の頃には誰も言っていなかったという。ふと思いついたのは斎藤晴彦の替え歌。ネットで検索したら、Cateen(角野隼斗)さんが10歳の時のPTNAコンクール映像にショパン・コンクールを重ねるScherzoが出てきた。齋藤氏の作品は『トルコ後進国』をAI(ボカロ)が歌っていた。「文化」って一体何なのだろう。

 

 郵便で届いたのは干し柿。緑茶と一緒に頂く。娘は妻の案内で緑黄色社会をエンドレスでリピートしている。新曲は『花になって』(薬屋のひとりごとOP.Theme)。続くは水曜日のカンパネラの『聖徳太子』。語呂合わせの見事さは、現代版斎藤氏なのかもしれない。斎藤氏の『フィガロの結婚』序曲を聴いたのは、こんにゃく座『魔法の笛』公演時に立ち寄った小城先生宅ではなかったか。ラップに先立つこと10年以上前に、日本独自の「狂言回し」の伝統を受け継ぐ形で産まれた斎藤氏の芸風に敬意を表したい。

 

 冒頭の問いに還る。「文化の日」は、いつでも我が誕生日から2週目に巡って来る。この日が明治の天皇制から戦後立憲主義への移行の節目として75年前誕生したことを想起しよう。現実を直視すれば、日本はもはや文化国家ではない。娘が夢中になっているYouTubeが垂れ流すShortMovieの中に無意識の欲動を感じつつ、流されずに生きたい。

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