消費と生の関係

人は消費することで生きている。消費とは何かを定義することは難しいが、とにかく人は消費をしている。モノ・コト・トキ・ヒトなど、さまざまな形がある。消費は、もちろんそれによって快楽を得ることができるが、どこか虚しさも感じる。それを続けることは、私の人生が消費されるという事態を招く。

私はチェーンの飲食店でバイトをしている。そこでは、私がマニュアルに沿う駒として、一個の機械の代わりを担う消費物として動いている。労働の場を離れても、大衆に開かれたモノを持ち、食べ、生きている。

なんかそういう生活を送り、夜寝る前にふと振り返ると、虚しさがあるようなきもする。もちろん、恵まれて豊かな環境にいることも理解しながら。

ボードリヤールは私たちはモノに囲まれているから、私がモノに近づくと述べていた。ここで連想するのはアーレントの人間の条件の一文である。アーレントによれば、人間とは条件づけられる存在である、と。

つまり、私たちは消費を通じて、消費によって私の人生が定まっていくということである。言い換えれば、私の人生が消費されるのである。なんかそんなことに虚しさを感じたのだと思う。

しかし、消費されないと感じる生き方とはなんだ?

何か生産的な活動をすること?私らしさを出す何かを行うこと?こうやってnoteに書いていくこと?

全くわからない。フツウに生きる、それだけで充分と思えるような事態はあるのかないのか。

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