京都・御霊会と龍神伝説の平安京の禁苑【神泉苑】
二条城近くを散策していて、ふと立ち寄ってみた神泉苑。
規模は小さい。入口に鳥居、朱塗りの橋が目立ち、地域の小規模な神社なのかなと思ってたら、調べてみると歴史も古く、逸話の多い由緒あるところだった。
僕もそうだったように、二条城を目的地にした観光客がふらっと立ち寄るケースが多い印象。そして案外、調べてみると二条城より興味を惹かれる史跡。
平安京遷都の頃に造営された皇居の庭園(=禁苑)で昔は大規模だったらしい。
桓武天皇以降、歴代天皇の宮中行事や宴遊が盛んに行われていたらしく、弘仁3年(812)、嵯峨天皇による「花宴の節」は記録上日本最古の花見会。花見の発祥の地ともいわれている。
天禄元年(970)に八坂神社が胴元となる祇園祭は、貞観十一年(869)に神泉苑で行われた御霊会が起源。
今昔物語に、弘法大師・空海がこの神泉苑で雨乞いの儀式をされたという話がある。干ばつから人々を救った空海の伝説のひとつ。神泉苑は祈雨(きう)の霊場となった。
義経記に、干ばつで人々が苦しんだ平安末期の治承六年(1182)に、後白河法皇は神泉苑にて百人の僧侶に読経させたが雨は降らず、百人の白拍子に雨乞いの舞を奉納させた。
百人目の静御前が祈って舞うと雨が降った。法皇は静御前を「カノ者ハ神ノ子カ」と感嘆し「日本一」と称された。
静御前は源義経の妾となった。日本史上最高のカリスマ武将、功労者ながら危険人物とみなされ粛清された悲しい結末を迎え、静御前も悲劇のヒロインとして有名。
神泉苑は時代とともに敷地を削られ縮小し京都では地味な場所となっていくが、空海と義経の二大カリスマのゆかりの場所として歴史を偲ぶことのできる場所。
神泉苑は鎌倉時代に衰退し、応仁の乱にて荒廃した。さらに徳川家康が二条城を築城する際に、神泉苑の水源が二条城の堀水に使われて規模が縮小された。どんどんと敷地が削られ、今では神泉苑を知らない観光客にはスルーされてしまう。
江戸時代に復興がなされ、空海との縁により東寺に所属する寺となって存続している。
第2回京都観光 2021.9.9 【1泊2日】☀️
銀閣寺→平安神宮→神泉苑
金閣寺→龍安寺→仁和寺→妙心寺
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?