戦国武将・下克上から信長への謀反【荒木村重】

天文四年(1535)に誕生。摂津の池田勝正の家臣で、前当主の池田長正の娘を娶り一族衆となる。

三好三人衆の調略に乗り、同僚の中川清秀とクーデターを起こし池田勝正を追放して、池田家を掌握した。

元亀二年(1571)、白井河原の戦いで、和田惟政、茨木重朝らを討ち取った。信長包囲網の浅井、朝倉が討たれると、村重は三好家から信長へ鞍替えする。

村重は三好側についていた伊丹親興を討伐し摂津を統一すると、信長から摂津の守護職に任命される。三十七万石の大名を与えられ、いち国人の池田氏の家臣から大出世を果たした。

細川氏、三好氏の支配もとの歴代の国人衆は没落、または滅亡し村重は伊丹を本拠地にして、茨木城主に中川清秀、高槻城主に高山右近を配置した。

織田家に属する村重は畿内の重要な合戦に次々と参陣し戦功を挙げた。

畿内司令官となる明智光秀と、新加入の荒木村重の功績で信長の畿内平定が捗り、信長包囲網で押し寄せてくる各方面に織田四天王ら有力家臣が対処することができた。

信長の快進撃が続く天正六年(1578)に突然謀反。信長から羽柴秀吉の援軍を命じられたが、有岡城(伊丹城)に立て籠り、突如反旗を翻した。村重の元から、中川清秀と高山右近が離反。説得交渉に来た黒田官兵衛を幽閉した。

有岡城での籠城が厳しくなると村重は尼崎城へ逃げ籠った。信長は有岡城で捕虜となった村重の妻子や一族の命と引換えに尼崎城と花隈城の開城して降伏を要求した。

村重は拒否して、妻子と重臣三十六名は京都の六条河原で斬首される。一族を見殺しにした男として後世まで批判を浴びることになった。

天正八年(1580)に尼崎城と花隈城が落城し、村重は海路で毛利の勢力圏へ亡命。晩年は文化人として隠遁生活、五十一歳で死去した。

「兵庫の壺」

村重が有岡城から逃亡する際に名物「兵庫の壺」を背負っていた逸話がある。命の次に茶器を愛していた。

「利休七哲」

晩年の荒木村重は茶聖・千利休と親交を持ち、高弟である利休七哲のひとりに名を挙げられた。

岩佐又兵衛

有岡城の戦いで村重の妻子と重臣は処刑されたが当時二歳の末子は乳母の機転によって石山本願寺に保護されていた。その末子が母方の岩佐の姓を名乗り絵師として活躍した浮世絵の祖の岩佐又兵衛といわれる。

「洛中洛外図屏風」国宝 東京国立博物館
「豊国祭礼図屏風」重文 徳川美術館
「山中常盤物語絵巻」重文 MOA美術館
「浄瑠璃物語絵巻」重文 MOA美術館

ほかにも多数の重要文化財となっている

荒木村重の愛刀・大江

大江(おおごう)は南北朝時代の名工・郷義弘による一振り。村重が信長に臣従を誓った際に賜った名刀。郷義弘が手掛けた作品の中でも極上の出来映えであったとされる。

村重没落後に信長のもとへ戻され、使われることなく秀吉にわたり、大坂の陣で焼失したとされている。復元レプリカが大坂城天守閣に展示されている。

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