戦国武将・志摩の海賊大名【九鬼嘉隆】

九鬼義隆は九鬼水軍の当主の三男として、天正十一年(1542)に誕生した。九鬼家は志摩の国人の一人だった。

嘉隆が少年の頃に、父そして長男が死去し当主の変わり目に周辺の国人に領土を狙われ敗退して流浪の身となった。

流浪中に滝川一益に目をかけられ織田軍に仕えた。永禄十一年(1569)に二十七歳の嘉隆は織田軍の水軍の大将を任され、伊勢侵攻。

北畠家の居城、大河内城攻めで海上封鎖を決めて、敵の援軍を防ぐ。伊勢とあわせて嘉隆は旧領の志摩へも攻撃を仕掛けた。

船上からの鉄砲一斉射撃で志摩のライバルたちを次々と降伏させて、かつての九鬼氏の居城の田城城の奪回に成功すると、信長は嘉隆へ志摩の統治と九鬼氏の家督相続を認めた。信長の援助のもとで嘉隆の九鬼水軍は志摩を平定。

伊勢長島一向一揆で水軍を率いて活躍。また石山本願寺の援軍に来た毛利水軍、村上水軍の焙烙玉での攻撃で大敗を喫すると、焙烙玉対策に巨大な鉄甲船を造船してリベンジ。

本能寺以降は、秀吉へ臣従。九州平定、小田原征伐へ豊臣水軍の頭領として参戦。

文禄の役では嘉隆は、脇坂安治、加藤嘉明と並んで水軍の司令官として出陣。

信長の死後、関ヶ原の戦いでは嘉隆は西軍側として参戦。九鬼水軍は活躍したものの、合戦では六時間で西軍は壊滅した。

嘉隆は関ヶ原の敗北を知ると、家臣から切腹を促され、それを受け入れて自刃した。享年五十九。

戦国時代の水軍といえば、村上水軍とともに九鬼水軍の名前が挙がる。

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