戦国武将・信長包囲網の大ボス【本願寺顕如】

本願寺顕如は、京に上洛した織田信長と敵対し、反信長包囲網の一角として、信長と攻防を繰り広げた浄土真宗の宗主。

同盟勢力が次々と滅ぼされるが、十年の長期に渡り大坂に籠城し、ときに局地の門徒を扇動して一向一揆を発動し飛び道具を使って織田軍を苦しめた。

本能寺で討死する信長だが、本願寺を降伏させた後は、地方制圧には分隊を派遣することで平定が進むほど国力が充実していた。

武田、上杉、毛利ら地方の雄に対しても織田分隊が互角または互角以上の戦績をあげた。

富国強兵が進み西洋技術を積極的に採用していた織田信長に抵抗できる勢力はなく、信長にとって本願寺顕如がラスボスだった。

本願寺派中興の祖といわれる第八代門主の本願寺蓮如が、明応五年(1496)に大坂に石山御坊を建立して晩年を過ごした。ここが後に石山本願寺となる。

永正三年(1506)に細川政元から河内の畠山討伐への協力を要請されて、第九代門主の実如は加賀の武闘派の門徒を河内に派遣した。

将軍家の本願寺討伐令を管領の細川政元が強く反対し撤回させてくれた恩義があり実如は政元との関係を重視していた。

反本願寺、反細川氏の能登の畠山や、越前の朝倉に対して、越前や加賀、能登で門徒の一揆を扇動した。武装化した浄土真宗の集団は一向一揆と呼ばれて、この頃から活発になった。

大永五年(1525)に実如が死去すると、孫の証如が僅か十歳で第十代門主となった。本願寺は三好氏と対立する細川晴元からの要請で河内で三好元長を襲撃し、和泉まで追い立てて敗死させた。元長は後に畿内を平定する三好長慶の父。

蜂起した門徒が暴走して大和へ乱入すると、目的以上の破壊力を有する本願寺を細川晴元は警戒した。六角定頼や日蓮宗と手を結び山科本願寺を焼き討ちした。

山科本願寺を追われた証如は居所を石山御坊に移し石山本願寺を新たな本拠地とした。後に細川晴元と和睦し、細川と政略結婚、また武田信玄とも政略結婚をして室町幕府とも親密な関係を築いて、本願寺の体制強化に努めた。

天文二十三年(1554)に証如は享年39で死去すると長男の顕如が第十一代門主となった。

本願寺顕如は永禄十一年(1568)に足利義昭を奉じて上洛し義昭を通じて影響力を強めていた織田信長と敵対するようになる。

元亀元年(1570)に三好三人衆を包囲して野田、福島を攻城中の織田軍に対して襲撃を仕掛けた。顕如の石山本願寺は三好の他に、甲斐の武田、近江の浅井、越前の朝倉らとともに反信長包囲網の一角を担った。

顕如は石山本願寺に武闘派の門徒を集めつつ、長島一向一揆や越前一向一揆の局地戦を扇動し、石山に籠城し雑賀衆と友好を結び織田軍と度々交戦を繰り返した。

同盟勢力が次々と信長によって滅ぼされ、石山本願寺は佐久間信盛、明智光秀らに包囲される。毛利水軍、村上水軍の救援で一度は大勝した木津川口の戦いも、再戦では信長の経済力と技術力の前に戦艦と大筒を採用された海戦で大敗した。交戦継続を諦めて天正八年(1580)には信長と和睦。顕如は石山を退去した。

石山本願寺と寺内町の跡に、豊臣秀吉が大坂城を築城した。

和議に応じた本願寺顕如と、和議に反対する顕如の子・教如との間で本願寺は東西に分裂して今日までつづく東本願寺と西本願寺の元となっている。


長島一向一揆

長島一向一揆で二度織田遠征軍が敗退、美濃三人衆の一人、氏家卜全(直元)など手痛い被害を受けた。
天正二年(1574)に織田軍は総力を挙げて三度目の遠征を実施。下間頼旦率いる長島の一向一揆を殲滅させた。

越前一向一揆

越前一向一揆は天正三年(1575)に鎮圧に成功。柴田勝家が越前八郡七十五万石を賜り北ノ庄城主に任命された。
越前府中十万石は前田利家、佐々成政、不破光晴に与えられ府中三人衆として勝家の与力に加わった。

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