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いま起きている事を理解するために⑤よけて通れなかったかな?


 大アジア主義とは
 「日本の大アジア主義は、ともに西洋列強の圧迫下にあるアジア諸民族との連帯論とアジア大陸への膨張侵略論が交錯しながら展開した。」
 「大アジア主義の大勢は日本主義や皇道主義と結び付き、右翼団体に担われた独善的な連帯論となり、日本のアジア支配を根幹とした東亜新秩序、大東亜共栄圏の思想となっていった。」

 ニッポニカで参考に挙げられてる竹内好ってひとは中国文学者で、東京都立大教授になったが、1960年安保条約強行採決に抗議して辞任した。 この人は対米英開戦のとき、「大東亜戦争と吾等の決意」というとんでもなく勇ましい檄文みたいなのを発表してる。
 「十二月八日、宣戦の大詔が下った日、日本国民の決意は一つに燃えた。」 「建国の歴史が一瞬に去来し、それは説明を待つまでもない自明なことであった。」 ・・・とまあこんなかんじ。
 まあ全文はとても引用してられないので(笑)興味ある人は自分で何とかするとして・・・ こんな部分もある。 「率直に言えば、われらは支那事変に対して、にわかに同じがたい感情があった。疑惑がわれらを苦しめた。」
 「わが日本は、東亜建設の美名に隠れて弱い者いじめをするのではないかと今の今まで疑ってきたのである。」
 こういう人は当時、けっこういた。 中国での戦争は苦々しく思ってたけど、対米英なら賛成。そして日中戦争の評価もかわっちゃう。 日本の国益のための侵略だったのが、日本がアジアの盟主として英米と戦わなきゃならない、中国は日本と協力すべきなのに、それが理解できない。
 そこで「えーい、このわからずやめっ!」(ポカポカ)と頭を殴る。殴ってでも正しい方向に導こうとする。 そういう戦争なんだと解釈しちゃう。
 
 1932年には満州国が成立していた。関東軍がつくっちゃったわけだけど。建国の理念は五族協和・王道楽土。五族は漢族,満州族,蒙古族,日本人,朝鮮族。 実態はどうだったか。
 1941年。アイヌの青年が「開拓のため」満州に移住する。 長くなるけど、引用する。 「北海道アイヌ」こと貝沢正氏の昭和史より(本田勝一「先住民族アイヌの現在」朝日文庫所収。)
 だが、現地で知った「開拓」の実態は、二風谷から希望に燃えてやってきた青年の夢をたちまち打ち砕いた。開拓地と言っても荒野を開墾するのでは全然ない。満州拓殖公社が中国人の農地を、農民がどんなにいやがっても強制買収したところだ。
 農地を強制買収された農民は、それまで散在していた農家から集められて、銃眼付きの土塀をめぐらせた中に集団化される。ベトナム戦争などで米軍がよくやった「戦略村」と同じだ。その上で必要に応じた人数を農作業要員として下働きに使う。
 また取り上げた土地を彼らに貸して小作料をとったりもした。満蒙開拓とは、要するに地元農民の奴隷化にほかならなかった。  こういう構造の上に立つ日本人開拓団員のやることといえば、当然ながら監督だけが仕事、あとはゴロゴロして酒をあおる堕落した日常となる。
 本で読んでいた「五族協和」で欧米の侵略に対決するという建国精神とはほとんど正反対の実態に、貝沢正はしだいにがまんならなくなってきた。  そして、アイヌ民族として許すことのできぬ侮辱事件・差別事件が発生したのは、そんな日々のある晩のことである。
 開拓団員の一人に、義勇軍出身で妻が朝鮮人の青年がいた。 妊娠していたこの若妻は九月のある日に出産したけども、死産だったので開拓団の墓地に埋葬された。その夜、宿舎で夕食の後、十数人が白酎を飲んでいた時、40歳代後半のある独身男が「われわれ日本人団員の眠るべき墓地に朝鮮人の子供を埋めた」と言った。いわゆる満州ゴロと呼ばれていた二、三人の中の一人である。この一言が貝沢正の胸に突き刺さった。若いだけでなく団員としても正のほうがやや後輩だったが、そんなことは激しい怒りにけしとんで叫んだ。
 「満州に来たのに建国の精神も忘れて、民族を差別するとは何ごとだ!」 とたんにその男は、まくらもとの三八式歩兵銃をつかんで立ち上がり、正に銃口を向けてどなった。 「なにをっ、生意気なこのアイヌめ、ぶっ殺してやる!」
 まわりが総立ちになって男を取り押さえた。 この事件は貝沢正に退団の決意を固めさせた。

・・・といったようなことがあって1945年、日本は負けるわけですが(間を一気に飛ばしましたが)・・・ 1951年。初めに引用した竹内好がこう書いた。 「敗戦とともに、民族主義は悪であるという観念が支配的になった。民族主義(あるいは民族意識)からの脱却ということが、救いの方向であると考えられた。戦争中、何らかの仕方で、ファシズムの権力に奉仕する民族主義に抵抗してきた人々が、戦後にその抵抗の姿勢のままで発言しだしたのだから、そしてその発言が解放感にともなわれていたのだから、このことは自然のなりゆきといわなければならない。」 「マルクス主義者を含めての近代主義者たちは、血塗られた民族主義をよけて通った。」 「発生において素朴な民族の心情が、権力支配に利用され、同化されていった悲惨な全過程をたどることなしに、それとの対決をよけて、今日において民族を語ることはできない。」 「近代主義と民族の問題」
 
 1963年。林房雄が「大東亜戦争肯定論」を発表。 1995年には小林よしのりの「戦争論」がベストセラーに。 2000年ごろにはネトウヨが登場。パヨクの自虐史観を批判するのが当たり前となる。 血塗られた民族主義ではないかもしれないが、よけて通ることができない、ナショナリズム的な何かが興ってきたのではないか。

 つづく

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