思い出す必要ないのにな
昨日、カウンセリングに行ってきた。
本格的なカウンセリングに進む前に簡単な聞き取りをした。
心理士の人は優しいので、私が過去のことを話すと、私の見方になって相槌を打ってくれた。
しかし、私は感情に呑まれないように、第三者視点で事実を言うように努めていたものだから、同情されると困った。意地悪されているみたいだった。
例えば、「辛かったね」と言われたときなんと言えばよいか分からなくて困った。声が出せない魔法を掛けられたみたいだった。
やっとのことで「あっあーあはは。」とどうしようもなく笑う。きつい。
「お家に居場所がなかったんですね」という言葉が鈍器みたいに私の頭を打つ。
私は「ありました。」と答えてしまうが、本当はどうだったんだろう。
多分あった(なかった)。
殴られの余韻が尾を引いている。
私は多分、スラムを通して、"居る"を少し感じられるようになってきた。
それでふと思った。
私はこれまでに"居る"ができていただろうかー
考える価値のない問いが私を掴んで離さない。
おいおい、こんな問いにしがみついちゃって、わたしは何が言いたいんだね?
私はわたしに問いかける。
意地悪な私はわたしが言いたいことを知っている。
居場所がなかったと言いたいんだ。
でも、わたしは親に愛されていたので、もし"居る"事ができていなかったならば、わたしが偏屈なせいだと言ってやった。
いつもだったら、ここで思考は終わる。
だけど今日は、幼少期のフラッシュバックがまるで映画のシーンを観るように脳内に流れだす。
私を通して気まずそうに会話する両親。
口論、喧嘩。
静かな部屋。
精一杯だった母の、疲れきった顔の無視。
母が実家に戻った時の、喧嘩の多さ。
家族がわたしに接する態度のぎこちなさ。
母の土下座。
エンドロールの最後にスクリーンに映し出される文字。
"私はこの家に居れたのか??"
鈍器のような声がする。
私が居なかったら、1組の夫婦は多少お金に困れども、愛し合って暮らしていけたのでは?
私が居たせいで、母は家族の中に戻り辛かったのでは?
その後、家族が壊れていったのは、もしかして私も影響してる?
私は、泣き虫だったけど、誰かのせいにして泣くことが、できなかった。全部なんとなく寂しいだけと言っていた。だけどこれは逃げだった。
私が彼らを怖がって泣いたら、どうなるか怖かった。
みんな大変なんだ、私には関係ないと思うことにしていた。
だけど思った。
よく言われた、「お前は脳内お花畑だよ。」の言葉の意味。
何も現実を見れていなかった。
私(わたし)はそこに、「無理矢理居させてもらっていたんだな。」
過去のことを振り返って物語をでっちあげてる自分に嫌気がさす。
でも、なんだか今日はいつもと違う。
ストーリーが腑に落ちる。
そこに"居る"事が難しくなったわたしの気持ちや、現実を見れないところや、自分自身がすごく気持ち悪い人間だと信じてきた点に、この解釈はピッタリハマるから。
めっちゃ苦しくなって泣いてしまったので、勢いで書いてしまった。
未来の自分に向けて残した小説ということにする✌️
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?