書きたいことを書いてみる

私はハンディのある子の母
少し前息子の通っていた、作業所で年数回の園から便りというか
その施設の現状や職員の方の文章などが書かれている、数枚程度の書面が配れていて、すごく心に残ったことがある。
その文章はそこの園長が書かれもので、その内容はあるお母さんの話であった。
そのお母さんは有名な伝説といっていいほどの活躍をされたお母さんで、その年亡くなれたのだ、園長先生はその追悼で書かれたものであった。
もちろん障害のある子の母で、その園の創設やら子どもための活動やらをけん引した数々のエピソードがある方である意味私のような親のレジェンドである。
80幾つで亡くなられので、私が最後に見たのは足が痛そうにしていたおばあさんといった見た目であったが、眼光するどい印象がまだあった。
彼女の最期の話が書かれたその文章は、母の思いにあふれていて彼女の伝説といっていい話や残されている親の会に寄与されていたするどい文章と違う、ハンディのある息子や娘を残し逝く母の悲しみにあふれていて胸がつまった。

実は彼女を始めたみたの私がまだ幼い小学生の時だ

私の父は、典型的な問題のある人で私の住んでいる県では都会である港町の有名な市から、父の姉である叔母を頼りに逃げるように田舎の漁師町に家族できたのは私が6歳である。
これもまた典型的な街育ちである母には地獄のような田舎で、閉鎖的な場所であったので子供こころに母の苦しみが伝わってきたのを覚えている。
半世紀前当時は田舎と都会のいまより大きかった。そんな街で子供が大勢いる、背が高く派手な容姿の母と背の小さなおしゃべりな父は何もかも違い、家族は完全に回りから浮いていたように思う。
まるで昭和のいつのころや??って突っ込みが入るほどの貧困と父の放蕩ぶりはあまりに定番すぎて退屈なので書かないが(笑)
そんな私が小学生になり登校する道で彼女を見かけのが最初だった、彼女はとても綺麗な人だった。当時今のようにおばさんがおしゃれする人が少ない時代・・自転車を引きながら見た目から障害とわかる女の子と男の子を連れた白い花柄だったかな?そんなワンピースをきて微笑みながら子供を送迎していたのだ、同級生たちは当たり前に興味がないようであったが私はなぜかすごく気になり子供特有な、遠慮なしの視線を彼女に向けていたのではないか?と同じ立場なった今気になっている。
のちに田舎では特別な名家であり駅前で開業している医者の家の奥様で、数人の兄弟がいてそのうち2人のお子さんが、ハンディのある子で・・という話を聞いた。

息子たちが生まれ私は、同じように子供を送迎しながら2人の息子をつれ彼女と同じ立場になった。彼女の笑顔が本物かプライドを保つために私と同じように無理をしていたかは不明だが・・いやきっと想像だが本物の笑顔の日もあれば無理な笑顔もあったであろう私と同じように。。

親の会で彼女の偉業を聞くたび、あの人だと確信した
私が会合に参加した時期は、彼女は一線を引いておられて一度だけお会いできず二言三言お話しさせていただいただけであったが、もっとお話しを聞いてみたかったと残念に思っている。

お子さんの親亡き後を全部終え亡くなったので、心残りはないかもと思うと人は言うほど準備されたのだが、どんなに準備しても我が子をたぶん心配して心残りで亡くなったように、思う。
きっと私も死ぬ前そうなるであろうから・・・
知性も美貌も経済力も行動力もまったく彼女の足元に及ばない私が
勝手に思うだけだが・・
彼女がきっとそんな思いで亡くなったように思う。
だって・・母だから・・・

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