旧Twitterとnoteをやってみて感じた違い。

                       広場から店内へ。


あくまで自分の印象になる。

旧Twitterはカオスだと、だれかがツイートしているのを見たことがある。
Facebookをして、顔を突き合わせて円を囲むように並んでいるねこの画像と旧Twitterを表した好き放題暴れているねこの画像を対比していた。

実際の内容もまさしくカオスだった。
意味のないつぶやきもあれば、有益な情報を発信し続ける人もいた。変態もいた。

そして、Twitterはタイムラインの存在からか、露出、目につく確率が高い傾向を感じた。
リアルタイム性が強く、レスポンスが早い。僕もよく進捗イラストなどのツイートをしていたが、10秒と経たず反応があるときもあった(うれしみが深い)。

すごく個人的な感想だが、この旧Twitterでのリアクションとして

❤️いいね…もらいやすい。並ぶとうれしみ。
🔄リツイート…レア。有益性か?
💬リプライ…交流!  話が楽しい。
👤フォロー…つまり俺のこと好きなんだろ?

など、さまざまなアイコンで告知されるのだが、スマホの通知欄(画面上部)に
にゅにゅにゅっ
と出てくるのがすごい楽しかった。
noteだとnマークのみだが、このバリエーションは旧Twitterならではだ。(Xでどうなってるかはしらないが)

僕程度でこうなのだから、万垢クラスなら大量のリアクションがあることだろう。
宣伝(承認)の場、という印象だ。
企業、個人問わず盛んに宣伝ツイートを見かけた。
多くの人が見ているからこそだろう。

そして、交流の場という印象も強い。
発信のみならず拡散やコメントも積極的に行われ意見がぶつかり合うさまもある。
炎上系ツイートはあっても、炎上系記事というのは聞いたことがない。(あるのか?)

あぁ、そういえばアンケート機能とかも面白かった。
予想外に票数入ったときはうれしかったし、フォロワーが多いフォロワーさんに拡散してもらったりというやり取りもうれしかった。


noteは、より『有益な情報』『コンテンツ感』が強い印象を受けた。
有料記事はあっても、有料ツイートはないだろうたぶん。(いやあるのか?)
そして、どことなく閉鎖的な感がある。(気のせいかもしれないが)
これはタイムラインという旧Twitterとの差異かもしれない。

だからなのか、旧Twitterやってたころと比べてどこか

『それなりにちゃんとした内容にしなきゃ』

という感覚がある。
いやべつに雑記とかあるんだけど。

なんだろう。

例えるなら、路上で好き勝手しゃべってた感じから、店の中に来てもらって話を聴いてもらっているような感覚とでもいうか。
わざわざ来てもらったんだから、良かったとおもえるようなモノを提供しなきゃという心理とでもいうか。

「いらっしゃいませ。ようこそお越しくださいました。こちらの商品などいかがでしょうか。執筆者が頭を悩ませ──左様でございますか。お口に合いませんか。お出口はあちらでございます」

いやべつに雑記とかあるんだけどね。

あとは長文とか気にしなくて良くなった。
旧Twitterでも、連投リプライとかすれば140字の制限とかあってないようなものだったが、やはりどこか心理的なブレーキが作用してたような気がする。
まあ、あれはあれで字数内に伝えたいことをまとめる工夫みたいなものはあった。
制限がなくなり自由になったぶん、ダラダラと書いてしまうこともある。

自分の考えを論文っぽく書いたり、小説など書きためたり、それこそ雑誌記事のようなスタイルにも向いているのかもしれない。
まさしくノートだ。
旧Twitterにもタグという機能はあったが、小さな作品の集まりをうまくまとめるという点では煩雑な印象があった(使いこなせていなかったかもしれないし、機能が変わってるかもしれないが)。
noteはマガジンで分類されると関連した記事を探したりまとめて読みたいときに便利だ。
(そこまで見てくれる人は相当なファンだとおもうが)

なんというか、noteは『出店スペース』という感覚がある。
旧Twitterは『広場』。
どちらも外から見えている。
社会的な振る舞いが求められるのは同じ。
共有エリアと個人エリアとでもいうか。
『人の流れ』みたいなものの違いだろうか。
人が歩き回っている場所と陣取って居を構えてる場所。


いやしかし、ツイート(つぶやき)とnote(記事)とは良く言ったものである。
その特性を見事に表現している。


しかし、共通していることもある。
そしてそれこそが本質だと感じる。

皆(主語が大きい)、内にある衝動を吐き出したいとおもっている。
おもっていること、考えていること。
それが動画にしろ絵にしろ文章にしろ音楽にしろ。
吐き出したいのが半分。

もう半分は、見てほしい、反応してほしいという気持ちだ。
だれかのいいねが、コメントがほしい。
リアクションを求めている。

そしてどちらも、気軽に始められる。
自分の想いや考えを言葉にしていつでも、どこでも(携帯端末なら)発信できる。

更に大事なことだが、不特定多数の目に触れるが故に発信者には責任が付きまとう。
フェイクニュースや誹謗中傷など、その気がなくても起こりうる。
そしてときに、取り返しの付かないことも起こり得る。
(これは特に旧Twitterのようなタイムラインだと起きやすいか)
迷惑行為を動画にして問題になるなど未だに続いている。
発信のハードルが下がっているからこそ、それが与える影響や責任が問われている。
僕自身も失敗したことがある。
つもりじゃなくても相手を不快にさせたことがままある。

自己表現、自己実現、共有。
まさしくSNSとは承認欲求が具現化したシステムだ。

時は人類総発信時代。


もうひとつ大事なことを伝え忘れた。


いいねは世界(という名のN.K.)を救う。

いいねは世界(という名のN.K.)を救うのだ。
(大事なことなので二度言いました)


それはつまり、誰でも誰かの世界を救う救世主になれるということだ。
そして同時に、世界を滅ぼす災厄の魔王にもなりうるということでもある。

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