作品の相対的な価値。

以前フリーノベルゲーム『クビキリ』の記事を書いたが、時間を置いて再プレイすることがあった。
僕は作中の登場キャラであるステラというパツキン(死語)キャラが好きだったのだが、
二度目のプレイ時には、美咲というメガネキャラが魅力的に写っていた。

アドベンチャーゲームやノベルゲームというジャンルはリプレイ性が低いと言われる。
対してアクションやシミュレーション、パズルといったトライエラーやプレイバリューによるゲームはリプレイ性が高い。

ADVやNVLはストーリーの比重が大きい傾向があるので、「知ってる」内容を何度も観ようとはおもわないからだ。気に入ったエロシーンならリプレイ性は高いが。

それはアドベンチャーが言葉探しをしていた頃からの命題で、選択肢やリアクションを増やすという「量的」な対策が成されてきた歴史がある。
それは、ノベルゲームという(衰退しているとは言え)ある種の行き着いた形態になっても分岐やマルチエンドというボリュームによってゲームサイクルを延長している。

※ちなみに古典的なアドベンチャーを好むプレイヤーはノベルゲームを区別して認識する傾向が見受けられる。
一緒くたにするなとお怒りになられる。

ネットソース

そうなってくると一回性の高いジャンルである物語作品は一通り鑑賞すると終わりという人も多いかとおもう。
かくいうN.K.もそんなひとりだ。
そして、おもしろかった、つまらなかったと感想を抱くことになる。

だが、価値というものは絶対的ではない。
それは、ひとえに受け手の価値観や気づきが変わることがあるためである。
別の言い方をすれば、理解度、視点、物の見方と言ってもいい。

度々見かける、
「子どもの頃はよく分からなかったけど、大人になってからやるとおもしろかった」
というやつである。

子どもと大人では人生経験が違う。
人生の苦味や酸味を描いた作品など小学生に分かるはずもない。(苦労してきた人は早熟するかもしれないが)

経験を積めば、物語の伏線や さり気ない描写などより深く作品を観ることもできるようになる。

逆に昔好きだったものがなんとなく恥ずかしくなったり、稚拙に感じられることもあるだろう。

人によってなにを大事にしているか、というのも評価点を左右する。
その人が生きてきた個人史に基づくものなので、正解も不正解もない。

アドベンチャーゲームやノベルゲームは
他のジャンルほど再プレイの間隔は短くないが、時間を経てから見直すと新しい発見などがあることも珍しくはない。(これは読書や映画、アニメなども同じである)
それによって、作品そのものの印象、評価が変わることもある。

作品の評価というものが絶対的なものではなく、時代や主観によって変わる相対的なものであるなら、今この瞬間の判定の確かさは如何程のものだろうかとおもう。

だが人は結局今を生きるしかないので、暫定的に物事を定義するしかない。
その時々で自分がやってみて感じたことをありのままに発信する。
曖昧な世界で唯一確かなことだ。


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