ホラーというジャンルで描かれるホラーでないモノ。

フリーゲーム界隈では、(今どうか知りませんが)一時的ホラーゲームが流行しました。
青鬼とかのヒットがあったのでしょうが、
(遡ればコープスパーティーや囚人のペルエムフルなど)
追随するかのように数々の名作ホラーゲームが生まれました。

映画でも昔から定番ジャンルとして、マイナーB級から社会的知名度を得たものまで枚挙に暇がありません。ゾンビ、幽霊、悪魔、未確認生物、etc……

人気ジャンルと言っても過言ではありますまい。

人間の三大欲求についてはよく聞く話ですが、これらは、種の存続、繁栄、生命維持に根差したものです。

そしてもうひとつ、人間の本能に関わるものとして「恐怖」という感情があります。

これは、外敵や災害、病や怪我など生物の生命・安全を脅かす存在に対して警戒、忌避する反応としての感情です。
生存本能ですね。

ホラーというジャンルは
その名の通り「恐怖」を扱います。

ホラーと聞いて受け手が期待するものとして、「怖かったかどうか」は作品の評価として大きなウェイトを占めることとおもいます。(B級などはベクトルが異なりますが)

とあるホラーゲーム製作者が「ホラーに感動などいらない」といった旨の主張をしたという記事を見かけたこともあります。(ネットソース)

これは、ジャンルからすれば分かる話ではあります。
期待していた感情が得られなければ、ガッカリしてしまうこともあるでしょう。

ただ、個人的にはホラーというジャンルには恐怖という直接的な感情に留まらない人間ドラマがあり得るとおもっています。

以前、旧Twitter時代にフォロワーのかたと、とあるフリーホラーゲームについて意見をやりとりしたことがあります。

そこで僕は、「必ずしもホラーゲームはホラーでなくとも良い(意訳)」と発信しました。

相手かたは、「言い得て妙」と返された記憶があるので、おそらくは意図は伝わっていたのではないかとおもいます(だよな?)。

ホラーの基本的な構造として、日常と非日常の対比があります。
それは、安心・安全な状態を感じることで非日常としての恐怖をより強く感じるコントラストとしての効果が狙われています。

そういった設定、入り口の作品では、登場人物たちは普段、自身の身の危険など感じておらず平和に暮らしている様が描かれます。
(もしくは、間に緩急としての平穏パート的に挟まれる)

人にも依りますが、僕らは普段、おもったことや言いたいこと、やりたいことなどを100%発露しているわけではありません。

関係性や今の状態、言動によって変わってしまうことへの恐怖や不安から秘めたる想いを抱えて生きています。

それは、総合的に利害を判断する理性のブレーキが心理的に作用しているからです。

これは、社会的な秩序が守られていたり、現状維持としての日常が続いていくことが担保になっていることが多分に大きいです。

ですが、ホラーというジャンルの世界観や恐怖という心理状態においてはこの均衡が崩れます。

「もうガマンなんかしたって意味ねえどうせ俺たちは終わりなんだ。だったらやりたいことやってやるぜヒャッハー!」

「いままで言えなかったけど、もうこれで会えなくなるかもしれない。後悔したくないから。せめて、最期くらい──」

など、抑圧されていた感情の発露が往々にして描かれます。
恐怖(正確には日常の終わり)を通して、本来秘めていた想いが表れるのです。

いわゆる、ヒューマンドラマです。

そして、これこそがホラーが純粋な恐怖という感情の有無のみならず、それを通して描かれる人間描写としての魅力の側面があるとおもう所以です。

当たり前のようにあった日常の終わり、自己や他者の存在が消えてしまう恐怖。
そんな恐怖という感情を通して初めて、自分ですら知らなかった気持ちに気づくこともあります。

ホラーは、ホラーのみならず  「人間を描く」
という点においても実に有効なジャンルだとおもうのです。


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