「未来倫理」を読んで

本稿は、「未来倫理」著:戸谷洋志(とや ひろし)の読書感想文である。
誰かに対し、何かを主張したい意図はなく、自己の思考を保存することを目的としている。 ※故に自分の言葉で記載するため、しばしば書籍の内容に対し、筆者の意図とは異なる事を記載している可能性がある(=つまり、記載の間違い)ことを予め注しておく。)

※後半は派生して、現代が抱える課題(世間と政界のギャップ等)にも少し触れた。

目次(書籍の章立てに沿って、感想を述べる)

第一章 未来倫理とは何か?
第二章 未来倫理はなぜ必要なのか?
第三章 未来倫理にはどんな理論があるのか?
第四章 未来倫理はどんな課題に応えるのか?
第五章 未来倫理は未来を予見できるのか?

第一章:未来倫理とは何か?

 そもそも倫理とは、「あるべき姿の定義と実践」ととらえている。あるべき姿とは、究極的には確定しないものの、より普遍的な事柄によって正当性や妥当性が担保される対象だと考える。例えば、「人の物を盗まないことが望ましい(あるべき姿)」という背景には、「個人は所有の権利がある」ことや「個人の所有権の基盤に平等性が存在する」といったより普遍的な事柄が存在し、それらによってあるべき姿が保護される。また、「個人の所有権について平等性が存在するのか」とか「平等性は存在するべきなのか」などのより普遍的な問いが連関していく。そうした問いによって、あるべき姿を位置付け(=定義)たり、その実現のために実際に行動すること(=実践)を倫理だと考えている。
 未来倫理とは、そうした「あるべき姿の定義と実践」を未来に範囲を広げる。ただし、未来を重視することではない。ここで、未来倫理を考える上で、頭の中に自動的にとある問いが生じる。それが第二章の「未来倫理はなぜ必要なのか」である。この問いにより明確に答えるため、未来の特性を現在と比較することで明らかにする。それは「他者性」「予測不可能性」「非相互性」である。
「他者性」とは、現在の私の行動によって、影響を受ける未来の"誰か"が分からないことである。例えば、道端に落とし穴を作った場合、作成段階でだれが落ちるのかはわからない。
「予測不可能性」とは、現在の私の行動によって、未来に及ぼす影響の範囲が分からない事である。言い換えると、どのような行動が未来に影響を及ぼすか分からないことである。例えば、道端に落とし穴を作った場合、誰かが落ちるのではなく、その穴を利用してモグラがすみかにするかもしれない。
「非相互性」とは、現在の私の行動によって、未来に及ぼす影響の反応を関知不可能であることである。例えば、道端に落とし穴を作った場合、未来に誰かが落ちて怪我をしても、その落ちた人からクレームを受ける事はない。(逆もまた然りで、現在で善行をしたとしても、未来から感謝の言葉など報酬を得ることはない)
上記の未来に関する特徴は未来倫理を考える上で特筆すべきことである。

第二章:未来倫理はなぜ必要なのか?

 上記の問いには、「1.現在の我々は未来世代に対し、なぜ責任を負っているのか」「2.現在の我々が負っている責任とはなにか」「3.未来世代とはだれを指すのか」という問いに分解できる。責任という言葉が出たが、ここでは未来倫理を実行時に伴う必要性と定義している。つまり、1の問いは「未来倫理はなぜ必要なのか」という問いを責任という言葉を用いて問い直している。こうすることで2,3の問いを導いている。
 「1.現在の我々は未来世代に対し、なぜ責任を負っているのか」という問いに対しては、様々な考え方で答える事が可能であり、学説として第三章に記載されている。ここでは筆者の紹介事項を述べても仕方がないので、私の回答を記載する。まず、私の回答の根幹には、先に述べた未来の特徴の一つである「非相互性」がある。つまり、未来の人間は現在に作用しえないという不可逆性が存在する。次に、地球史における現在を考えたときに(=地球の過去から現在を俯瞰したときに)、未来において存在しうる知覚生物(ここは人だけではなく、哺乳類や爬虫類など、脳や器官をもち、思考のみならず知覚することができる生物を指す)の数を考えると、種の存続年数から未来の数は現在の数とは比較にならないほど多い(詳細は"長期主義"の関連書籍を読んでほしい)。ここで功利主義的な考えに立つと、現在に作用しえない、現在に比類しえない数の未来世代の幸福を考える必要があると思う。少なくとも、現存する種に対し、未来を犠牲にする選択肢はないと考える(=未来世代に対し、不可逆性と功利主義の観点で責任を負う)。
 上記によって「3.未来世代とはだれを指すのか」については「知覚生物」という私の考えを述べている。他の考えとして「人類(ヒト、同族だから)」があるかと思うが、逆に「ヒト」に限定する理由が私にはない。「ヒト中心の社会」のような自分本位主義が存在するが、それには倫理的な妥当性は私目線見出せていない。単に優先順位(=つまり、ヒトだけではなく動植物の幸福や権利を考慮することは、限られた資源の中で困難である)という、一段低次の話だと考えている。
 次に、「2.現在の我々が負っている責任とはなにか」だが、ここでは特に功利主義的な側面を否定することを強調したい。つまり、「未来世代の数が膨大であるから、現在を全て犠牲にして、未来世代に資源を貯蓄すべき」のような考えではない。私の考えは、現在の我々が負っている責任とは「不可逆性の最小化」である。どういうことかというと、現在の我々の行動・選択によって、未来に対し不可逆かつ甚大な悪影響を与えることを極力避けるという事である。例えば、書籍にもあったゲノム編集や放射性廃棄物、ASI開発(ここでは人間が制御不可能になった人工超知能を指す)などである。良い未来を残す、あるいは悪い未来を防ぐみたいな、「よい未来」「悪い未来は」未来の特性の一つである「予測不可能性」によって、定義が難しい。安易に現在の価値観で未来を規定してしまう(=価値観の固定)ことは避ける事が望ましいと考える。その未来の可塑性を担保することが現在世代が未来世代に負っている責任と考えている。
 加えて想定される疑念である、「現在世代と未来世代の利害関係の対立」について考えを述べる。つまり、未来世代に対して選択肢を残すあまり、現在世代を犠牲にすること(あるいは可能性)に対してどのように考えるのか、ということである。まずこの問いは、本質的に正確に答える事が難しい。というのも、未来の性質である「予測不可能性」により、対立構造かどうかの前提が危ういからである。ただし、議論が進まないので、この前提(対立構造)が是とした場合には、(仮想的な)対話によって結論を見出すしかない。ロールズの「無知のベール」的な発想だが、現在世代と未来世代をそれぞれ代表させた議論参加者によって、議論させ(この議論は対立構造を是としてるため、その内容が具体化がされており成立すると思考)、結論を導く。この対話によって、現在世代が犠牲になることも、未来世代が犠牲になる事も避ける(=ゼロ、1の議論ではない)。同時に、未来の性質である「他者性」や「非相互性」による未来の過小評価も防ぐ。

第三章:未来倫理にはどんな理論があるのか?

省略

第四章:未来倫理はどんな課題に応えるのか?

省略

第五章:未来倫理は未来を予見できるのか?

 先の持論の展開で力尽きたので、少しだけ。未来を予見することは難しい。そのうえで、考える事には大いに意味がある。現在世代での議論はもちろん、筆者はSFや芸術によって、その思考の幅を少しでも広げることを推奨している。背景には、思考は現在の通説や価値観に制限されているという考えがあるからだ。私も同意というより、それは真理だと考えている。
 とある仕事で、日本の将来を予測することがあったが、「中長期的な将来を正確に予測する」ことは難しく、それ自体(=未来を当てる事)にあまり意味がない。中長期的な未来を、現在世代で議論し、未来世代を過小評価しないことが必要な取り組みである。とはいえ、実務(政策)を担当する方々は、予測不可能とされる未来を考えつつ、政策立案する必要があり、ここでも理論と実践に乖離がある事は否めない。巷で(主にネット)、「税金の無駄遣いだ」等の政治家批判や官僚批判が繰り広げているが、中長期的な未来を見据えつつ行動することの難しさを、無邪気に批判している人たちには今一度考えてみてほしいと思う。もちろん、それによって、不出来な政策や無駄遣いを正当化するつもりは全くない。しかし、改善策を提示しない批判では現状は好転しない。本論からズレたのでここまでにしておくが、様々なギャップ(世代間ギャップ、労働者と資本家のギャップ、世間と政治家、行政機関のギャップ、貧富のギャップ)を悲観し、お互いの世界が見えないから批判し合うのではなく、歩み寄る姿勢や意識が必要ではないかと考える。みんな、同じ現在を生きていて、「非相互性」を持つ未来世代への歩み寄りよりは難易度は高くないのだから。


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