シン・ニホンのまとめ

前提

・目次の興味のあるトピックに対し、最初に自分の0秒仮説を構築する。書籍読了のちに筆者の主張をサマリ、自分の仮説との質・量・方向性の違いを考察する。

目的

・仮説構築力の増強。何が足りていないか(インプット情報量・質、インプット情報の解釈の仕方、アウトプットの際の思考法、考察力等)を明確にする。
・持論の深化・具体化。筆者の主張が正解ではなく、一意見として扱う。

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目次(※抜粋)

2章「第二の黒船」にどう挑むかー日本の現状と勝ち筋

2.埋もれたままの3つの才能と情熱(=若者、女性、65歳以上のシニア)
3.国力を支える科学技術の急激な衰退
4.データ×AI世界で戦うには
  ー生き残れるかどうかはイシューではない

3章 求められる人材とスキル

4.知性の核心は「知覚」
  -感性と知性の関係
  -AIは生命の持つ知性とは根本的に異質
  -ファーストハンドの経験が知覚を鍛える

4章「未来を創る人」をどう育てるか

5.専門家層・リーダー層の育成

5章 未来に賭けられる国にーリソース配分を変える

1.圧倒的に足りない科学技術予算
3.産学連携の正しいエコシステムをつくる

6章 残すに値する未来

3.新たなテクノロジーと持続可能な世界
  -人口減少は悪いことか?

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2章「第二の黒船」にどう挑むかー日本の現状と勝ち筋

2.埋もれたままの3つの才能と情熱(=若者、女性、65歳以上のシニア)
【0秒仮説】
 団塊ジュニアの世代(現在の40代)が、管理職の大部分を占め、日本企業における若者登用の機会が大きく失われている。
 先進国中の女性役員・管理職登用割合はほぼ最低。特に日本は目に見えない、ジェンダーの壁があるとされている(現行の役員の大部分が男性で占められており、暗黙的な差別がある)。
 65歳で定年を迎えるシニアは、どんなに元気だとしても一律で退職に追い込まれる。中でも知見があり優秀な人は再雇用制度等あるが、給与が半減するなどモチベーションが下がる要因でもある。
【筆者の主張】
 日本の世帯単位の貯蓄率(金融資産を持っているかどうか)が1960年代の水準まで下がっている。中進国水準である。貯蓄できない理由は、最低賃金が低い事と、経済格差の逆転(=貧しい家庭からお金を稼ぐ子どもが生まれること)が生まれにくい構造だからと論ずる。生まれと育ちの議論は生物学上意味をなさない。生まれの上に育ちはあるのだし、両方少なからず影響はある。重要なのはこの負のスパイラルに絶望し、何も手を打たないのではなく、やる気ある人から救い上げる施策を行う事である。加えて、やる気すら出させるトレーニングも必要である。若者には、初等・中等・高等教育において情報格差を生まないような施策を打つべきである。
 世界各国の労働時間(家事育児+就労)の男女別グラフを見ると、日本の男女両方が他国と比べて労働時間が極端に長い(500分/日)。イタリアとのGDPは9掛け程度だが、350分であり、非効率な労働をしていることは明白である。さらに、家事育児の時間は男女で差が大きく、男性が家事育児を全くせず、その分を就労に充てていることが分かる。
(1)非効率的な労働時間
(2)社会参画の男女不平等
が数字をして現れている。
 また、女性のリーダ層が極端に少ない事も問題である。その前段の教育段階で格差が明白である。東大とアイビーリーグの入学者の女性割合は20%と50%である。まず、女性の入学割合目標を掲げ、50%を目指すべきではないか。そうしないと、社会の要職に女性が就くことはなく、この流れは永遠に変わらないのではないか。
 シニアについては、概ね仮説通り。加えて、企業目線は人材の入れ替えの観点で、定年制度は必須という意見があるが、それは定年制度以外でやる方が合理的である。例えば、成果報酬型だったり、企業にしがみつく権利をなくし、その分やる気のある人を十二分に教育し、戦力として会社に居ていただく。GDPに占める人材投資の割合が低いのも日本の特徴である。

3.国力を支える科学技術の急激な衰退
【0秒仮説】
 日本の博士課程進学者数や、主要論文採択数などで、先進国が数を伸ばしている中、日本は横ばいである。近年着目されている、計算領域・AI領域等の計算科学分野でもアメリカ・中国に後塵を拝している。アカデミック出身者が社会参画しやすくする制度作りや風土醸成に力を入れるべきである。
(筆者の主張)
 仮説通り、具体的な施策については後述だと思われる。

4.データ×AI世界で戦うには
  ー生き残れるかどうかはイシューではない
【0秒仮説】
 データ×AI世界は不可避な未来であり、データ量や処理能力(コンピュータ能力)ではアメリカ、中国にかなわない。生き残る(=覇権を握る)のではなく、その世界においてどうありたいか定義し、その実現のために取り組み始めることが重要である。日本は覇権を握る方向ではなく、個人の幸福度にどう寄与するかを考える(=広域な応用領域で勝ちに行く)べきである。例えば、個人の幅広い趣味趣向に合わせた、データ×AI世界のサービスを考案する、日本人好みするような安心・安全なサービスを展開する等。「日本の心」については、日本人が良くわかっていると思うし、その領域ならば外資も容易に介入しない。(コストを考慮すると介入する価値がないと判断するのではないか。)
【筆者の主張】
 筆者目線、生き残れる(=今後も、一定以上豊かな国でいつづけること)可能性はないという結論が出ている。つまり議論の余地はない。イッシューではない。これを既知の事実としてとらえ、その上でどうしていくかを議論する必要があると説いている。データ×AI世界のKSF(Key Success Factor)は、データ量・処理能力・応用力・人材という区分けだった。ミドル・マネジメント層に、サイエンス領域とビジネス課題を結び付けるようなアーキテクト人材が不足している。日本の学生の内、理系素養を持つ人材が極端に少ない。

3章 求められる人材とスキル

4.知性の核心は「知覚」
  -①感性と知性の関係
  -②AIは生命の持つ知性とは根本的に異質
  -③ファーストハンドの経験が知覚を鍛える
【①②③:0秒仮説】
 知性とは、生命活動の中で積み重ねられる経験則の集合である。知覚とは、数多の経験の中での”より良いものへの気づき”である。感性とは、自分以外の対象に抱く思い・考えの源泉であり、知性と対になり双方向で影響を与える。
 AIはデータ(経験則)から法則性を見出す機能であり、内容自体は知性と酷似しているが、感性がない・影響を受けない点において根本的に異質。
 あるべき像(Tobe像)を思い描く力とも形容できる感性は、ファーストハンドの経験(初めての経験)を通じ、変容し、それが知覚(物の見え方・考え方)をアップデートしていく。つまり同じ経験(データ)でも、ヒトとAIでは、感性(=あるべき姿、Tobe)の介入によって、解釈(AI的には出力)が異なることを指している。
【①:筆者の主張】
 「思考」とはインプットとアウトプットをつなぐこと。「知性」はインプットとアウトプットをつなぐ能力のこと。「知覚」は知性のバリューチェーンの川上に位置する、対象のイミ(=言語上だけでなく、実感をもって、理解できる意味のことを形容する)を理解することである。「感覚」はさらにその前部の、五感や体性感覚を指す。
 知覚は経験から生まれる。色の概念を教えないと、目が正常でも、色を識別できない。
 知覚を広げる「経験」には、日常生活や仕事、学習などで新しいものを見聞する「知的経験」、人との付き合いや関係、文脈特有のアナロジー(類推)などから学ぶ「人的経験」、人的・知的な経験の深さの上で、多面的、重層的にものを見て、関係性を整理する「思索」の3つがある。
 「理解」とは2つ以上の既知の知覚情報の重なり合いで実現される。 
【②:筆者の主張】
 本質的な違いは2点存在する。
1点目は「AIはイミを実感のあるものとしては何も理解していない」ということである。AIに動物のような身体がないこと、色や形のような基礎的なモダリティ(認知属性)のイミからの組み上げがないために、知覚が不可能ということである。
2点目は「AIには意志がない」ということである。そのため、自律的に判断することができず、何がどうあるべきかという判断軸、価値観は人が与える必要がある。
以上2点から得られる結論は「AIは依然単純業務にしか対応できない」ということである。課題解決は、あるべき姿検討から始まり、現状把握、構造化による状況整理、打ち手の複数観点からの検討、実際に実行するにあたってステークホルダーと協業など、複雑なフローをたどる。ここから考えると、人間の知的活動の代替をAIができるとは思えない。サポートツールという位置づけである。
【③:筆者の主張】
 知覚を鍛えるには、言葉や数字など既に文字に表現されたものだけではなく、表現されていない事象に対し、初めての経験を積む(=考え抜く)必要がある。この世界の現象において、言語化されているものより、そうでないものの方が多い。知覚を鍛える上で、①現象を全体感を持ってとらえる②現象に対する印象の根拠を構造化する③印象の根拠を表現(=言語化等)する④物事を多面的にとらえる⑤物事を重層的にとらえる
を行う事が重要である。

4章「未来を創る人」をどう育てるか

5.専門家層・リーダー層の育成
【0秒仮説】
 ①大学院博士課程進学者数(=専門家層)や②リーダー数(=若くからマネジメント経験を積む、管理者層)を増やしていく必要がある。①は、先進国の中で逆行して、進学者数が減少している。金銭面の制度策定に加えて、社会における地位向上にも取り組むべきである。②は、所謂ジョブ型雇用を推し進めるべきである。終身雇用制度のおかげで、法に守られた通称「ジャマオジ」が未来ある有望な若手の成長機会(=マネジメント経験)を奪っている。経営者目線も人材の新陳代謝は必要と考える所だろう。この論を通すためにもジャマオジ含め、リスキング教育を拡充すべきである。
【筆者の主張】
 育成を大規模かつ一括で行う機会としては、初等・中等・高等教育であるが、専門性を伸ばす場所では高等教育(大学以上)をおいて日本にはない。次世代の基礎基本となる、データ×AIの知識を学んだPhDの学生は国内に驚くべき程に少なく、人材の枯渇は免れない。海外からの輸血(教師となる人材)を確保し、制度改革までの時間を買う。加えて、海外の優秀人材が日本に来てもらえるように留学制度を拡充する必要がある。また、日本国内の学部制度の撤廃も、複数領域の専攻を学べる点でメリットがある。多くの学問は領域の境界でブレイクスルーがあったと歴史が証明している。学部制度ではなく、主専攻・副専攻などのクロスファンクション制度を米国同様取り入れるべきである。
 また、修士卒と博士卒の就活でのカニバリズム状態も解消すべきである。根本的解決は修士制度の撤廃だが、米国同様に学部卒からPhDプログラムへの参画というようにしてはいかがか。

5章 未来に賭けられる国にーリソース配分を変える

1.圧倒的に足りない科学技術予算
【0秒仮説】
 国内GDPに占める科研費の割合が先進国最低。加えて大学運営費も年々減少している。長期的な資金援助のシステム、若手育成目的のシステムも不足している。
【筆者の主張】
 PPPベース(実際の物価水準で通貨間の価値を補正した値)で、科学技術予算は米中の後塵を拝している。米中を始めとして世界各国は、技術革新レースをしている。日本はそれに乗り遅れている。加えて、現場代表(文部科学省の課長クラス)からは、リソース不足の声が上がっている。
 科学技術予算と論文数は強い正の相関がある(~0.95以上)。さらに、人材開発のROIはとても高い。(長期間になるが)

3.産学連携の正しいエコシステムをつくる
【0秒仮説】
  学術界での成果(新発見)が、産業界で応用され富を産出する。その富がまた研究開発に流入するという資金の好循環。学術界で研究活動等を通じ教育がなされた人材が、産学問わず、時には横断したり流動性を持って活躍するという人材の循環。そのエコシステム形成には官の鶴の一声が必要不可欠だと考える。特に初期フェーズにおいて、中長期的な投資となる学に対する官のサポートが必須と考える。
【筆者の主張】
 成功例である、米国の主要大学(ハーバードやスタンフォード)と比較して論を進めている。大きく異なるのは、大学の運営費規模とその出所である。日本の大学は多くが国の助成金と企業からの寄付金であるのに対し、米国の資金源は基金の運用益と個人からの寄付金である。基金の運用益は年10%の利益率。個人の寄付金も、大学の手厚いサポートに対する恩返しと寄付制度が整っており(=寄付に係る税金がほとんどない)、しやすいというメリットがある。筆者は、これらのデータをMITの会計報告書を読み解くことで明らかにし、日本に対し、「10兆円規模の基金の設立」を提案している。

6章 残すに値する未来

3.新たなテクノロジーと持続可能な世界
  -人口減少は悪いことか?
【0秒仮説】
 人口減少のデメリットは言うに難くないので省略する。筆者の意図を汲むならば、メリットとして考えられることは「一人当たりの人口に依存しない資源(=国土とか??)割り当てが増える」とか課題先進国(=他国がいずれ陥るであろう課題に早期に直面することで、課題解決先進国になれる)とか。正直あまり思いつかない。。。
【筆者の主張】
 人口減少が悪いというのは論点ではない。人口減少のデメリットを分解すると、「人口減少によって、シニアと労働層のバランスが崩れ、経済縮小が起こる」という話である。ここで、シニアの定義変更(=働けるシニアは引き続き社会に参画し続ける)と、技術の進歩による自動化によって、少ない資源で大きなアウトプットが見込める、という点を踏まえると経済は安易に縮小するとは言えないのではないか。むしろ、持続可能な生活(=地球環境)を考えると、「少ない資源で、豊かに暮らす」という単純に人の頭数ではなく、効率・質を追求するべきなのではないのか。
 人口問題と切っても切り離せない議論として、地球環境問題がある。温暖化が進むことによる災害の激甚化等のことを指す。現在の地球では、ヒトの生命活動(=化石燃料の燃焼や家畜)によるCO2排出が問題になっている。その吸収は、植物の光合成では到底賄えず、氷の融解によって行われている。地球のCO2のキャパシティはヒトベースでは約50億人分しかまかなえない。日本で言うと約2200万人である。

所感(感想+気づき、学び)

 一番痛感したのは、「筆者の守備範囲の広さ、課題の関連性の広さ」である。私の問題意識である「大学に十分な研究資金がないため、国としての競争力がなくなっていっている」という課題は、「日本の競争力を高める」という問題のごくごく一部かつ、課題解決のためには「資金をどこから調達するのか」という話につながる。しかし、調達するにも自然には、人口が減少する(=年々税収は下がる)ため、リソース調達ではなくリソース配分という話になる。現在税収の大部分に使われている社会保険料のごく数%を未来へリソース配分するという論(のちに、海外大学に倣って基金設立、運用)だった。ここまでの論でも、「日本の税の用途」「人口トレンド」「海外大学の動向」等アジェンダが幅広い。かといって、各論がざっくりしているわけでもなく、データに基づいている(MITの会計報告書まで見ている)のはもちろん、分解能が高い(=知性と知覚のあたりなどは、筆者が脳科学でPhDを取得している背景もあるが、とても精緻な論展開である。)
 私がすべきことは、今まさに実践している事だが、書籍や人と関わることによる知的・人的経験を通じ、それらに基づき「思索」する。その結果を言語化するという意味で、noteに書き起こす。一連の知覚を鍛えるプロセスを経る事で、物事を広く、重層的にとらえることが可能になると思う。
 また、書籍の中で課題の9割がToBeとのギャップを埋める作業、1割がToBeを定めるところから始まる作業という話があった。まさしく、1割の仕事がとても難しく、所謂「あるべき未来を形作る仕事」だと思った。私は、あらゆる事象に対し常に、「こうあるべき」というスタンスをとる(=ToBeを考え続ける)ことで「未来を思い描く力」を培うことができると考える。その活動は、生物固有のものであり、意志を持たないAIには現時点で代替不可能な、人間の重要な価値の1つだと考える。
 この書籍について、私のとらえていた課題感を包括的かつ重層的かつより広域なアジェンダを含めて論じている点で大満足であることは間違いない。しかしながら、思うこともあるので下記に記す。

1.理想論が過ぎる点がある

 例えば、「菊の花構想」=医療の観点で、年配者を都心に、若者を郊外に住まわせる構想。これは、実現性が低いと言わざるを得ない。人々の思いや、憲法第22条(居住の自由)に抵触するのではないか。
 他にも、文化の観点が抜けている点が散見される。アメリカや中国の実例を持ち出しているが、日本の文化的に少々無理がある気がする。もちろん、文化は変容するものであるし、その理由で在るべき姿を変えるのは言語道断だが、いざ実現しようとするとなかなか考えるべきものは根深い気もする。

上記は自分の限界である。自分の中のインプットが圧倒的に不足しているため、批判・反論(=自分の考えとのギャップ)が局所的かつアバウトになる。日々考え続ける必要があると痛感した。

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