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世界を丸ごと受け入れる

ある気づきを得てスコトーマが外れましたので、今日はそのシェアをします。

あなたには許せない人がいますか?

ある集まりで、「あなたには許せない人がいますか?」という質問がありました。私はその時「許せない人はいない」と答えました。今もそう思います。

昔の話ですが、人間関係の清算をする方が人生がスムーズにいくと思いました。
謝りたいけど謝ってない、言いたかったことがあったけど言ってない、など、なにかしら心残りがある人とはちゃんと対話して清算しようという試みです。とても面倒くさい作業ですが、やらないよりやった方がいいです。やらないとずっと心に残りますからよくありません。

そういう人たちとは見えない糸で結ばれていると想像してください。マリオネットが糸でつながれているように、自分とその人が残留思念という糸でつながっています。
自分から出ている糸が多いほど動きにくくなります。細い糸もあれば太い糸もあります。その糸を一本一本取り外していくと自分に絡まっている糸が減るので、自由に動きやすくなります。

私はその清算をして、どの人に対しても心残りはないとなった時、とても軽く自由に感じました。

もしあなたが誰かに対して言い残したこと、やり残したことが残っているならぜひやってみてください。連絡をして自分の気持ちを話します。もしお亡くなりになられていたり、連絡がとれないようであれば、心の中で対話してみてください。

相手がどう反応するかはわかりません。許して欲しいと思っても許してもらえないかもしれません。ここでは許しを得たり、相手が自分の望むようにふるまうことが目的ではなく、自分の中で納得することが大事です。

謝ったけど許してもらえなかった。けど、私はやるだけのことをやったから、私からの思念の糸はなくなった。許す許さないは相手の問題だ、と割り切れるといいです。

自分が相手を許せない場合は自分の問題です。この場合は、相手と話しても話さなくてもいいです。気持ちをぶつけて自分が清算できるのであればいいですが、よけいこじれる場合もあります。

相手を自分の思い通りに動かすことが目的ではなく、自分の思いが後腐れなくなり、つながっていた糸が消えることが大事です。

相手が「私が悪かったです」と謝ったとしても、自分の中のわだかまりが消えないなら糸はつながったままです。

相手がどう反応するかではなく、自分の心をスッキリさせるためにやってください。悩みの大半は人間関係ですからそれがなくなればずいぶん楽になります。

世代によって違うエネルギー

話を元に戻しますが、「許せない人はいない」と答えた翌日あることに気づき、ハッとしました。この話があった前日にある方にお会いしました。その方は30代後半のとても爽やかな印象の青年でした。元々の性格も明るくて物おじしない人好きな方だと思います。

世代ごとに抱えるものってあると思います。昭和世代は罪悪感や自己否定感、自虐感を抱えていて、自分を抑圧し、自由に解放できない人が多いと思います。

今の30代〜40代前半あたりでしょうか。昭和世代が抱えているものをまったく持っていない人たちがいます。この世代は透明感があり、愛が基盤にある印象を得ます。
昭和世代が自己受容して愛を知ろうと一生懸命取り組んでも到達できなかった領域に最初っからいる人たちです。その世代が全員そうではなく、一部分の人たちがそうです。昭和世代が天使になろうと努力しても汚濁が取れなかったけど、この世代は天使として生まれたので、そんな努力がいらない。そんな感じです。

20代以下は私はあまり接触がないのでどんな風なのかはわかりません。そういう世代感の青年にお会いした翌日に「許せない人がいる?』という質問を受けたのでした。

つながりがもたらすストレス

「いない」と答えた日の翌日、疑問が湧きました。
人間関係のしがらみがないのなら、その青年のように邪気なく重みがなく、透明感があってリラックスしていてもいいんじゃないか?と思ったのです。

が、私はそうでなく、エネルギーが重く澱んでいるのを感じます。どういうことなんだろう?と思った時にはたと思いつきました。

私は人に対して許せない人はいないのですが、物事に対してはあったのです。
例えば、世の中にある理不尽な出来事、戦争、犯罪、誹謗中傷、詐欺、今の社会、自分のことしか考えない人たちなど、不満材料は山ほどあるわけです。

それらに対して「許せない」という認識ではなかったので、そういう風に考えなかったのですが、「許せない」と置き換えることもできるかなと思いました。

なるほど、私は個人に対しての気持ちは清算できているけれど、社会問題などに対しては気持ちの清算ができてないんだなと知りました。それが私にとってはストレスであり、緊張状態を生み出していたのです。それに気づいた時ハッとしました。

出来事や事件、歴史、社会、人類、そういうことに対しても「糸」を切った方がいいことがわかりました。

私が会った青年は最初っから無邪気だったかというとそうでもなかったようです。いろいろな紆余曲折を経て今に至っています。その世代的透明感はもとから持っていたとは思いますが、人生のどこかで、自分がつなげていたあらゆる糸を全部消したんだと思います。人はもとより物事に対しても。

だからなにものにもとらわれず、エネルギーが軽いし、透明度があるし、リラックスして力が抜けています。

世界を丸ごと受け入れる

ざっくり言えば、
世界を丸ごと受け入れている。

多分そうなんだろうなと思います。これは私にとっては大きな気づきでした。
愛が基準になっているとはこういうことかと改めて思いました。

私は地球のことが大好きだし、今ではかなり客観的に物事を見ることができるようになってきたし、昔と比べ、楽に生きられるようにはなっています。でも私は世界をまだ受けれてなかったと気づきました。それは自分の一部分を受け入れてないことと同じです。

「世界を丸ごと受け入れる」と言葉(頭)で受け取ると、「ふんふん、そうだね」とわかった気になりますが、体感で腑に落ちるのはまた別問題です。

受け入れる(許す)ことは、それに同意するのとは違います。
戦争はなくなって欲しいですし、一部の人の利益のために多くの人の命を奪うことは決してあってはならないことです。

自分と戦争を糸でつなげなくても、戦争を止める活動をすることはできます。
むしろつながない方が視野広く活動ができます。

何事に対しても主観的つながりを持たない。
もたないからこそすべてとつながれます。

つながりを持たないと言っても、この世に生まれて生きている限りつながりがなくなることはありません。

神を認識する意識がいなければ、神は存在しないと同義であるように、存在自体が関係性の中で生じています。

しかし自分がつなげた糸(意図)は自分で消すことができます。問題は、自分でつなげているのにそれに気づかず、それに縛られてしまっていることです。「誰かのせい」となっていると、縛られはすれど、自分でつないでいることに気づくことはありません。

これらの糸がすべてなくなると愛に到達するんだろうなと思います。なぜならそこに否定がなくなるからです。

がんじがらめの関係はもういらないのです。
人類は今、そういう方向に向かっていると思います。


自分がつないでいた糸に気づけて良かったです。気づいただけでもまた一つ軽くなりました。今つながっている糸もどんどん取り外していこうと思います。外していくほどに自分と世界とのつながりが深まるように思います。

今日は、「糸」という比喩で書きました。自分の体から糸が伸びて、自分が気になることとつながっているイメージです。
「糸」を「RAS」「波動」「周波数」と言い換えてもいいです。これは関心や強い思いでつながります。いい悪いは関係ないので、例えば、嫉妬や嫌悪感を感じることでも糸がつながります。

いい情報とはつながったほうがいいですし、いろんなつながりが消えることはありません。今回は自分を拘束してしまう「とらわれ」という意味合いでの「糸」の話でした。「糸」と「意図」が同じ音なのは興味深いですね。

マザーテレサでしたっけ?愛の反対語は無関心だと言ったのは。
無関心はどこにも糸がつながってないというより、不活性化状態です。
愛はどこにも糸がつながっていないから、どこともつながっている状態。
愛はありとあらゆるところで振動しています。

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