遍在する自分と空間の素粒子
何年も前の話ですが、もともと自分は遍在していて(私だけでなくみんなそうです)、ある意図の元に集まったのがこの肉体を持っている自分だと思いました。
最近は、肉体を持つ私はホログラムに映し出された映像であり、空間、というか、空間に満ちる素粒子の対話が自分であると感じています。
分化していない波状態から、ふとしたひらめきで「〇〇がしたい/しよう!」とひらめき、その意志が「他にしたい人、この指とまれー!」と手を挙げます。すると、波状態だった中から、他の「遍在している”私”」が「私も〜」「私も〜」と言ってバババーッと集まって凝縮していき、その集まりが肉体という形を持った、、というのが何年か前にひらめいて、腑に落ちていました。→ その時の記事
その頃はまだ量子論を知らなかったのですが、今思うと、観測者がいることでそれが生じるという話と似ていると思います。
また、素粒子とヒッグス粒子がそんな関係だそうです。素粒子は質量を持ちませんが、ビッグバン後、質量を持つヒッグス粒子が真空に満ち、そこを動く素粒子はヒッグス粒子の影響を受け、質量を持つようになったそうです。質量を持つということは物理次元に降りてくることです。水蒸気が水になるように。
先ほど述べた「この指止まれ」の話は私の妄想ではなく、そういうことだったんだなと思いました。
私たちは肉体といつも一緒なので、つい自分はこの肉体を持ってこの世界に生きている生き物だと思ってしまいます。けれども先ほどの”遍在理論”によると、本来の自分は遍在していて、ある意図の元に集まったのが肉体となった私であり、部分です。肉体にならなかった私は今も遍在しています。
肉体になった私も遍在している私も同じ私です。その遍在している未分化の状態から、ある方向性(意図)を得ることにより、その意図に向けて方向(あるいは角度)がつきます。全体的(wholeness )だったものに偏りが生まれます。質量が生まれると言ってもいいです。
これはまだ見えてない可能性です。
脳のRAS機能は重要度によってスコトーマを作ります。それにより見えることと見えないことが出てきます。見えないことは潜在的に存在しています。自分がそれに意識を向ければそれは表れます。
2010年の頃の私にはそんな知識はなかったので、遍在する自分と物質化した自分の両方がいるという発想になったわけです。量子に波状態と粒状態があるといわれるのに似ています。
そしてその遍在する自分が「私も」「私も」と言って集まってくる様子は、小さなつぶつぶがわ〜〜とやってきて集まり、細胞分裂みたいにどんどんと融合して分離して変容していくイメージでした。その粒々ひとつひとつに個性や意志があるように思えて「つぶつぶ理論」と私が呼ぶものになっていきました。
遍在する自分が集まって肉体になるというアイデアを得た後、「あ、自分は部分なんだ」という気づきがありました。部分があるなら全体もあります。なんの部分なのか?というと、遍在する自分の一部分であるとも言えるし、宇宙全体の部分であるとも言えます。
宇宙全体の部分であると言っても、宇宙と自分を切り分けて考えるのではなく、自分もまた宇宙であり、含まれます。自分=宇宙です。
「今の肉体と自我を持つ自分」という区域を任された地方の職員みたいな感じです。だからここは切り分けて考える方がいいです。「”自分”を任されている私」と「自我の私」を。
部分である私はパーツですので、全体像を見て自分の役割を果たしていきます。
例えば、自動車のハンドルであれば、ハンドルとしての役目を担っていますし、人体で言えば、心臓であれば心臓としての機能を果たしていくことが大切です。心臓担当なのに肺のようになろうとするととんでもないことになります。
そんな風に部分である私は、与えられた機能を果たしていく役割があります。
自我が強いと自分中心で世界を見てしまいます。しかし自分が部分であることをわかっているともっと謙虚になります。
心臓にも肺にも血液にも髪の毛にもなれる私が皮膚になることを選んだのであれば、皮膚に徹することがミッションとなります。そして、その肉体とそこに宿る意識が果たそうとしていること(ゴール)が実現できるよう、できることをします。
これを宇宙規模で見れば、私という存在は宇宙という体の中の部分であり、なにか担っていることがあります。それを見つけてその機能を用いて宇宙がよりよくなっていくことに貢献することが、部分として存在している理由となります。
遍在する自分の凝縮体が今の肉体を持つ自分だと考えるのと、肉体を持つ自分は部分となります。「部分」と「その部分以外」という分け方と、全体に含まれる「部分」として見るのとでは、思い描くイメージが違います。どちらのイメージも持っておくといいです。
「遍在理論」の場合は「遍在する自分から集合体に凝縮する自分がいる」という流れです。しかしそれは正しくなく、集合体(”集合場”と呼ぶ方が適切ですが)が物理的に生じているのではなく、実際はその集合体は「この指止まれ」とその方向性を与えた側の意識の重さです。遍在側に質量が生まれているのですが、物理空間に生じているように見えるということです。
物理学や数学などを知っている人は「これのことじゃね?」と端的に説明されることと思いますが、私はその知識なく、自分の主観と感覚からそうなんじゃないか?と感じているので、中途半端な解釈だと思います。
それから「自分は空間である」という発想がきました。
空間に広がっているのが自分であり、空間には素粒子が満ちています。私たちは素粒子の集まりなわけで、これは遍在する自分が集まって肉体になったという話につながっていきます。本体は「遍在する自分」なので、「私は空間である」という認識になります。
「遍在する自分」から「空間である自分」に到達するまで十数年かかっています。
この二つの違いは、遍在する自分は粒である自分、自分が生じることになった情報は素粒子に含まれ、空間に満ちていると考えます。
私は、全素粒子にこの宇宙の全情報が内包されていると思っています。だから一つの素粒子は私にもなり得るし、あなたにもなり得る可能性を持っています。それらが無数の粒となり、可能性となり遍在しているという考えです。
「空間である自分」は粒ではありません。粒が無数とすれば、空間の自分はひとつです。ひとつというと語弊がありますが、区切りがない状態です。要するにすべてです。その中では素粒子が関わり合って対話をしていますから、空間は素粒子の対話に満ちているのではないか?と考えます。仏教的な言い方を用いれば、縁起の空間です。空間をその意識場ととらえるなら、その意識場の中に肉体である自分や物理世界があります。分け隔てない場です。
スピリチュアル的に言えば、「空間である自分」はハイヤーセルフと言えるでしょう。もっと抽象度が上がれば、ゼロポイントフィールドになるでしょうが、ゼロポイントフィールドまでいくと自他の区別がない世界です。
空間である自分は自他意識があります。なので、ホログラムとして投影されている分離した自分やこの世界を眺めることができます。この世界の自分はその意識から切り離されて忘れていますので、今ここで考えている肉体を持った自分を実在する自分だとみなします。
「ハイヤーセルフ」というと形のない意識体のように思えますが、今回書いた見解は物理空間的な視点からの気づきです。肉体の自分と空間である自分や、空間から粒状に発現した意図など位置関係があります。その方がわかりやすいように思います。
空間的な自分の意識は常にありながら、肉体を持つ部分としての自分をどう生かすか?が問われます。この物理世界を生きるうえでは、この二つの領域を行ったり来たりできることが大切です。
「抽象度」からもこの話はできますが、長くなったのでまたの機会に。
今回は自分の言葉で書いてみました。
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