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象徴言語として世界を見渡してみる

この世界は象徴である

以前「トイレの神様」という歌が流行りましたが、本当にトイレには神様がいると感じます。どういうことかというと、トイレに行くとひらめきが起こりすいんです。それを私は「トイレの神様」と呼んでいます。

そして今日またトイレの神様からのメッセージが来ました。それは

「この世界は象徴である」

というメッセージでした。

かねがねそう思っているのですが、改めて「そうだよね!」と再認識しました。

私たちは今、言語でできた世界に住んでいます。
まわりにあるものには名前がついています。何かを考える時は言葉を使って考えます。

名前が先にあって、その物があるという順番になっています。最初は逆でしたが、今は言葉が先になっています。
物を見た時に「それは〇〇である」という認識があって、私たちはその物を認識します。名前がわからない物に対しては、それがなんであるか認識できません。

認識できないから、記憶の中からそれに似たものを引っ張り出して「それは〇〇に似ている」と思って推測します。

しかし本来の認識の仕方はもっと漠然としていたのではないか?と思います。
左脳は言語的であり、物事を限定的にする作用があります。右脳は曖昧で漠然とした全体情報です。

右脳言語は象徴言語

ひらめきがやってくるのは「無意識」という理性が介入しない右脳領域からです。
それの落とし込まれ方によっても違いますが、例えば、神話やノストラダムスの大予言のように詩的であったり、幾通りにもとれる解釈が可能なものだったりします。
つまり受ける側の感性や感度によって違ってくるということです。

さて、「この世界が象徴である」というのはどういうことかというと、物理的に存在するすべては「象徴」として存在しているということです。

その物理情報を言葉を介さずに受け取るのであれば、象徴的に受けりますが、物があると言葉が先にきやすくなります。言葉を介入させて情報を受け取るなら、象徴的に受け取るとは限らず、限定的になる可能性もあります。

私たちは言語で成り立っている世界に慣れていますので、物を見るとまず言葉で理解します。

目の前に透明なコップがあれば「透明なコップがある」と認識します。
「透明なコップ」という言葉が思い浮かぶ以前に感覚的な情報を受け取っていますが、そちらはスルーされて言語に変換されます。つまり「透明な円筒形で光を反射して、上部が開いている物」があるという情報を先に得ていても、記憶から「これはコップだ」という情報を引き出し、目の前にコップがあると認識します。

「象徴言語」とは何か?

「象徴言語」は私の造語です。これは言語に変換される以前で読み取ることができる言語(あえて言語と書きますが、従来の言語ではありません)です。

「メッセージ」という映画で、宇宙人が持つ言語を解読しますが、あの言語は「象徴言語」だなと思いました。意味が限定されず、いろんなことが示唆されます。見る人、見る時、コンテキストによっても違ってくるという不思議な言語。決して固定されません。

「象徴言語」に富む人は、シンボルや物事のうしろにある原理原則、行間やニュアンスを読み取ることに長けています。
アーティストやミュージシャンもその能力に長けています。共感覚の人もそうですね。

一つのものを見て、そこからいろんな情報を読み取ることができる人は”象徴言語的な”物事の捉え方をしています。

言語や文字(古代文字は除く)が発達したのは進化なのか、退化なのか?という話があります。言語や文字が発達したおかげで、左脳的な考え方は急速に広がり、今の世界を作っています。その分、象徴言語的な考え方は曖昧だと退けられました。

話はずれますが、「気」も象徴言語的だと言えます。
気に含まれる情報は広域に広がりますし、臨機応変に変わります。気に触れるだけで相当な量の情報を読み取ることができる人がいます。

となると、何かから情報を読み取ること自体、象徴言語的だといえるでしょう。

例えば、エネルギーリーディングをする人。
エネルギーに触れるだけで、そこにある情報を読み取ることができます。気と同じですが。そこにある情報といっても、そのものからつながっている全方位に向けての情報です。過去情報未来情報、関連情報など含め、リーディングする人の能力次第でかなり広範囲で受け取れます。

今はまだ象徴言語を理解できる人が少数なので、何をいっているのか、意味不明に感じる人も多いでしょう。

「シンボルを読み解く」というとまだわかりやすいかと思います。神話にしても、解釈の仕方は何通りもあり、神話は物語としての象徴言語だと言えます。

存在するすべてが象徴的意味合いを持って存在している

さて「この世界が象徴言語である」というのは、存在するすべてが象徴的意味合いを持って存在しているということです。私たちは言葉にとらわれていますので、ペンがあればそれはペンだと思いますし、犬がいれば犬だと思います。

が、象徴としてのペンとは何か?象徴としての犬とはなにか?と考えると、まったく違う世界が開けていきます。その世界は常に流動的に変化しています。そのコンテクストやまわりとの関係性、読み取る側の状況状態などによって変わってきます。

無意識の世界は象徴言語で成り立っています。混沌としていてつかみどころがありません。意図次第で何にでも変化可能です。

夢の世界に登場するものはすべて象徴であるといいます。登場人物はすべて自分自身の一部が他者に投影されて現れているそうです。

自分に起こること、自分のまわりにあることを象徴と思って見始めると、物理空間は歪んでいき、全く違う時空間となります。時間軸は過去から未来に向けての一本線ではなくなり、多次元的に同時に現在過去未来が成り立ちます。

例えば、赤いりんごが目の前にあったとしましょう。
それは「赤いりんご」ですが、その認識の前に、ツルツル感や丸い形、赤い色、固い感じ、大きさ、重さなどの見た目の感覚が伝わってきます。またりんごにまつわるストーリーや神話や、個人的なりんごの思い出、自分のりんごに対する思いも出てきます。
もっと読める人は、そのりんごに関わった人たちのことや、そのりんごがどんなところで育ったのか、はたまたそのりんごに限らず、初めてのりんごが地球上に誕生してからのりんごの歩んできた道のりなど、そのりんごから始まり、ネットワーク状に広がっている情報を受け取ります。
そして、その時に必要な情報を選りすぐって選びます。これを瞬時に行うのが象徴言語ができる人。
簡単に言えば、「リーディング能力」となりますね(と書いてて思った^^;)

「この世界が象徴である」ということは、そのもののある背景でつながっているあらゆるものが、そのものを成り立たせているというところにたどり着きます。物体化固体化された個体の世界ではなく、流動的に影響しあっている世界を感じるとることになります。こちらが欲している情報に合わせて、その「言語」は姿形や意味合いを変えていきます。

目の前のコップは、ただのコップではなく、初めてのコップができて以来からずっとある情報すべてとつながっています。その情報すべてを読み取るのは大変だし、その必要もないので、その時に必要な情報だけピックアップすればいいですし、こちらの都合に合わせたコップにある程度は変容可能になります。

そう思ってこの世界を見渡すと、なぜそれがそこにあるのか?は象徴的に読み取ることができるでしょう。が、実際、それをする必要はない社会に私たちは今は住んでいます。

そのうち、一つのものから全体を把握できるほどに認識能力が高まっていく人たちが増えるでしょう。そうなったときに人は象徴的に物事を受け取り、その場限りでなく、全体像から見ての判断を直感的に行うようになるでしょう。
個体意識から全体意識への移行ですね。

自然界ではそれは普通に行われていることですが、人間は自我が発達しすぎたので、その部分が弱まってしまいました。

また時代が移り変わり、そちらが活性する時代が始まりつつあります。目の前にある物だけから情報を受け取るのではなく、その物を取り囲む見えない情報をも言語とする時代がそのうちやってくるでしょう。

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