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サイコメトラー会計士と派遣社員御曹司の踊る大監査調書 005話「美味しい牛肉の謎」

第005話1美味しい牛肉の謎

 おねだりしていた東京西部は立川市の公園に到着し、少女は喜び勇んで黒塗りのベンツGクラスのドアを開けて飛び出していった。ルーシー劉は、懐かしい滑り台を見つけたのか、階段を飛び跳ねるように駆け上がっていくのが見える。

「ルーシーも不思議ね。なんで、この公園に来たかったのかしら」と玲子。

 聡は運転席の窓を下げると、穏やかな立川の午後の空気を胸いっぱいに吸い込んでいる。

「玲子さんは知らないと思うんですけど、ルーシーはそこの児童養護施設の出身なんです」と、公園のすぐ横にあるクリームイエロー色の建物を指さす。
 
 設置された縦書きの看板には、銀色に輝く鉄板の文字で『立川キリスト教育児院』との表記が読める。

「えっ? ルーシーって児童養護施設から来ていたの?」
「はい。物心ついた時からずっとあの施設で育っていて、去年に屋敷の住み込みの夫婦が里親になって迎え入れられたんです」

「そういうことだったの。あの子、自分のことは何も言わないから聞いたらいけないのかと思ってた」

 2人がルーシーを見ると、大きな滑り台の一番上まで登っているが、滑り降りてくる様子はない。彼女の視線の先には児童養護施設の園庭がある。
 
 ちょうど、午後の外遊びの時間なのか、ベビーカーに載せられた乳児や、やっと歩けるようになった幼児たちを引き連れて、修道服のシスターが忙しそうに子供たちの相手をしている。食い入るように見ている様子からすると、面識があるシスターなのかもしれない。

 車のドアを開けて、2人は滑り台の方に歩いていく。

「別に内緒にしていた訳ではないんですけど……。自分もこの施設の出身なんですよね」

「へー……? 」一瞬、聡の表情を確認する。

「はぁ? 冗談でしょ? 」

「……冗談を言っているように聞こえますよね。本当です。自分は、2歳で屋敷に来たので、この施設のことは覚えてないんですけど、そうなんですよ」

「だって、花房喜重郎の孫なんでしょ?」

「戸籍謄本上は、祖父と養子縁組して子供ですね。本当の花房喜重郎のお孫さんは、2歳の時に父母と一緒に事故死していて、代わりに創業者の跡取りとして育てられたんです。祖父が息子家族の死を受け入れられなくて、息子は年齢的に無理だけど、孫だけでも育てたいと考えたらしいんですよ」

「それって本当? 喜重郎さんの息子夫婦が事故死したのは有名な話だから知ってたけど、お孫さんもとは、全然知らなかった」

「風間は知ってますよ。もちろん屋敷の使用人も全員。あとたぶん、ホールディングスの取締役会のメンバーにも周知の事実なんです。誰も口に出さないのは祖父への配慮で、いわゆる『公然の秘密』なんですよ。そのことに触れたら秒で取締役を解任らしいです」

「風間さんはなにも言わなかったし、知らなかったのは私だけか……」と玲子。

「自分が取締役会に入るのに反対する人たちが多いのも分かりました? 創業者の実の孫ならまだしも、全くの赤の他人なんですよ。だからなんとしても結果を出さないとってことなのかもしれないですけどね」と聡はそういうと、滑り台の下からルーシーに向かって声をかける。

「シスターが懐かしいなら、今から会いに行く?」

 ルーシーは大振りに頭を横に振ると、滑り台を滑り降りてきた。

「ルーシー、帰る!」

「えっ? いま着たばっかりだよ? せっかく来たんだから、もうちょっと遊んでいけばいいのに」と玲子。

「玲子さん、いいですよ。帰りましょう。シスターと子供たち、楽しそうに遊んでるみたいだし、急に行っても迷惑です。自分もルーシーも、もうあそこではお邪魔虫ですよ」

 ルーシーの目に光るものが見える。ひさしぶりに行けば暖かく迎え入れてもらえると、心の隅ではすこし期待していたのかもしれない。

 『元気にやっています!』といってシスターに抱きつきたいほどの気持ちを抑えているのだろうか。自分が居なくても何も変わらない園の様子を見て、疎外感で胸がくるしくなってしまったのだろう。

「いいの、もう飽きたから帰る!」そういうと、1人で駐車場の方へ走って行ってしまった。それを見送る聡も悲しげな顔をしている。

 静かで平和な、晴れた日の午後の公園。あまり手入れのされていない植栽が、日差しに照らされ風にそよいでいる。

 玲子は大きく振りかぶると、聡の肩を思いっきり叩く。

「痛っ! 急に叩かないでくださいよ!」
「超ラッキーじゃない! 突然、喜重郎の孫になったんでしょ? そんな悲しい顔しないでさ、堂々としていればいいのよ」

「玲子さんは家族関係で、なにも悩みなさそうでいいですね。僕の気持ちはわかりませんよ」

「そうね! わたし、ぜんっぜん家族の悩みがないからわからないわ。ちょうど、先週『久しぶりに会わないか』って連絡来てたんだけど、大人になっちゃえばそんなもんよ」

「玲子さんはいいなぁ。うらやましいです」と聡はそういうと、キーレスエントリーのボタンを押す。

 ベンツGクラスのウィンカーがオレンジ色に1度点滅しドアミラーが展開する。ロックが解除されたドアをルーシーが開けるのが見える。

第005話2美味しい牛肉の謎


 同じ週の金曜の午後、駅ビルのカフェで早めの昼食を終えた玲子はJR四谷駅から徒歩で九段下方面に5分ほど歩き、ガラス張りのインテリジェントビルに入っていった。

 東京の都心にあって、日本公認会計士協会の本部ビルは透明性や信頼性といった組織の目的を体現するように、凛として建っている。

 日本公認会計士協会は、北海道から沖縄まで16の地域支部を有しており、1949年の発足から現在に至るまで日本における唯一の自主規制機関となっている。全国32,000人の公認会計士と監査法人は、すべて協会の会員になることが義務付けられており、その指導、連絡、監督を一手に引き受けている。
 
 玲子は、公認会計士のバッチを見せて、受け付けで約束がある旨を伝えると、渡されたIDカードをかざしエレベーターで最上階の7階を押す。忙しいとはいえ、急な呼び出しを個人的にされるのは腹立たしい。しかも、なにも用件を伝えてこないことに怒りを感じていた。

 受付で指定された7階フロアの一番奥の会長室をノックすると、「どうぞ」と女性の声が聞こえる。

「失礼します」そういって無機質でひんやりとする曇りガラス製のドアを開けると、部屋の奥にある大きな白い机に座っている女性が射るような目つきでこちらを見ているのが見えた。

「急に呼び出しておいて、なにか用事でもあるの? お母さん」

 そういうと、玲子は重厚な造りの黒い革張りソファーに腰を下ろして、意図的に視線を切った。久しぶりに見た母の顔は厳しさが増しており、こざっぱりとしていて上質なしつらえのスーツ、しっかりと手入れされた黒髪のパーマ、着任したばかりの会長の全身からやる気と活力が感じられる。

「急にデトロイト・トーマス監査法人を辞めちゃって、何をしているのかと思ったら、メイドをしているらしいじゃない。一言相談してもらえればどこにでも転職させてあげられたのに急にどうかしたのかと思って、心配してLINEしたの」

「子供の頃、10年以上もほったらかしにしていたくせに何よ今さら。急に母親面しないでくれる? 」

「そうね。ごめんなさいね」

「ほかに用事がないなら、わたし、こう見えても忙しいから帰るけど」

「ちょっとね、気になってることがあるの。前からずっと気になってたんだけど、貴女もしかして……。お父さんと同じことができるんじゃないの? 」声を震わせてそう言うと、こちらを見つめているのがわかる。

 
「……」問いかけられた玲子は黙っている。

「止めておきなさい。きっとそのうちとんでもない事件に巻き込まれるわ」

「そうね。お父さんみたいにね。お父さん、最後の最後までお母さんは悪くないって言ってたわ。でも、この力を使わないこともできないって。人外の化け物と一緒に暮らすのが怖くなったお母さんを責めちゃだめだよって」

「いや……、人外の化け物だなんて、そういう意味じゃないのよ。そういうことじゃないの……。いえ、そうね。怖くなったのは確かだし、仕事に一生懸命で家庭をないがしろにしたのは私ね」

「家族を捨てて仕事に打ち込んだ結果が、この日本公認会計士協会の会長職ってことなの? 女性では初の会長らしいね。おめでとう。理事になるだけでも考えられないほど凄いことなのに、会長になるなんて名誉なことじゃない。
 でも私はなんでもない普通の家庭でよかったの。いまさら心配されても、もう子供じゃないのよ」そういうと、玲子は深く腰を掛けていたソファーから立ってスーツのスカートの皺をはらう。

「わたし、お父さんの子供だから。お父さんが人生かけて突き詰めたかった公認会計士っていう仕事を私なりに、しっかり全うしたいと思ってるの。いまの職場は想像してなかったけどね。いまさらお母さんのお世話になることはないわ。さようなら」

「ひさしぶりだから、お昼でも一緒に食べていかない? 」

「ごめんなさい、食べてきたから。お昼ご飯なら子供の頃に一緒に食べてくれればよかったのに」

 そういうと、会長室のドアを開けて、振り向きもせずに部屋をでた。

 協会の壁には新任の会長の就任あいさつのポスターが張られている。新しく定められた協会のスローガン、『信頼の力を未来へ/Building trust,enpowering our future』の文字が見える。

   ***


 釈然としない気持ちで、九段南からJR四ツ谷駅に向かって歩いていると、バッグの中のスマートフォンの振動を感じた。液晶を見るとホールディングス監査役の梶原からの着信だった。
 
「はい、御立です」

「どうした? 声が小さいけど元気ないね」といつもどおり陽気な梶原の声。

 以前に、『モチベーションって言葉はおかしい。いつだってやる気満々で当たり前だ』と言っていたのを思い出す。さすが大企業の監査役に上り詰めるだけはある。

「元気ですよ! いつだってやる気満々です!」
「ああそう。ならいいけど。次の派遣先が決まったから、とりあえず連絡しようと思ってね」

「もういい加減、めんどうごとは嫌ですよ」
「大丈夫だ! 今度こそは長く勤めてもらおう。腰を据えて一つの会社で働く経験も必要だと思っているよ。のどかな良い職場なんだよ。次の派遣先は九州の南にある食品加工の会社で営業職をやることになったから」

「九州? 」
「ちょっと遠いから、豪奢な屋敷を出ることにもなる。慣れない環境でがんばるっていうのもいいだろう」

「東京から通勤はとても無理ですね」
「そうそう、会社の寮があって、ほとんど全員そこに住み込みで働いているらしい」

「九州かぁ……聡さん実家を離れて大変ですね」というと、メイドの仕事が減って楽ができると玲子はほくそ笑んだ。

「株式会社ドリームハム、売上60億円、従業員150名、協力会社も含めると400人ほどの規模の会社だよ。利益は薄くしか出ていないが、多額の借入金があって手元キャッシュは比較的潤沢にある。ソフトウェア、服飾、機械と派遣されてきたから、次は食品を見てみるのも勉強になるかなと思って。10年前にホールディングスが国内の大手総合スーパーを傘下に収めたのは知っているよな?」

「はい、『イレブンイレブンいい気分』のイレブンイレブングループですよね?」

「そうだ。今回は、その取引先になる。あまり雇用がない地元では一手に採用を引き受けている有名な食品加工業の会社なんだよ。代表取締役は、食肉加工の天才と言われていて、昨年には『挽肉の赤身と脂肪の混ざり具合を均一にする製造器』を開発したとして、文部科学大臣表彰創意工夫功労賞も受賞している地元の名士だよ」

「そうですか。いまから屋敷に戻りますので、資料があれば共有お願いします」

「わかった。あ、あと君も書類審査通ってるから、寮から通ってもらえる? 経理のアルバイト募集だったんだけど、簿記1級もってるって書いたら直ぐに書類が通過したよ」

「ええっ? 私もそこの会社で働くんですか? 住み込みで?」
「住み込みなのは、いまも変わらないだろう」

「まぁ、それはそうですけど」

「家族もいないなら、花菱ホールディングスの総合職は全国転勤ありだよ」

「初めて聞きましたよ。それ。まぁ家族いませんけど」

第005話3美味しい牛肉の謎

 鹿児島空港から、30分ほどの田舎道をバスで走ると、日本を代表する建築家、黒川紀章が設計した楕円形の巨大なホテルが威容を誇っている。『ホテル東セラ』はその名の通り、セラミックスの大手、東セラが運営するホテルで、創業者の稲林和男が鹿児島県鹿児島市出身であることが縁で現地に関連会社のホテルが建てられたらしい。
 
 聡は東セラホテルの最上階のスウィートルームから、初めて訪れる霧島市の市街地を眺めた。

「この街がこれから働くところかぁー」

 コンパクトな街の向こうには鹿児島湾が広がっており、その向こうには桜島と鹿児島市が見える。今回の派遣先の株式会社ドリームハムがあるのは、市街地とは反対側の霧島山の山中とのことだった。そちらをみても山だらけなので、どこが目的地の工場なのか、さっぱり分からない。

 聡の入社よりも遡ること一週間前に、玲子はドリームハムの経理部でアルバイトとして働き始めている。

 玲子が言うには、「わたし、今日もいま温泉に入ってます。なにもないけど長閑な生活で最高ですよ。一緒に混浴でもします? 」とのことだった。

 メイドなのか、内部監査室なのか、もはや南九州で工場経理をやっているので彼女の仕事がなんなのか分からないが、『良い処』という先行情報は、屋敷以外で初めて暮らす聡にとっては安堵できる話だった。

 ホテルには、そこかしこに東セラ創業者の稲林和男の本が置かれている。『経営10カ条 経営者として貫くべきこと』というタイトルの本を手に取ると、印象的な内容が沢山書かれている。

 ー 経営というと、複雑な要素が絡み合う難しいものと考えがちですが、むしろ経営はシンプルなものであり、『人間として何が正しいのか』という最もベーシックで普遍的な判断基準さえ会得できれば、誰もが舵取りできます。 ー

 とのことだった。

「本当に簡単なのかな? っていうか、『人間として何が正しいのか』ってそれが一番難しいよね」と1人でつぶやいてみたが、話し相手はいない。玲子だったらなんと答えるだろうか? 

「その答えがない問題を考え続けるのが取締役の仕事なんでしょうね」とでも言い返されそうな気がして、考えるのをやめた。
 
 事前の入社案内によると、ドリームハムの社長、田中善光たなかぜんこうは、鹿児島出身の稲林和男に傾倒しており、以前は若手経営者の勉強会である稲和塾にも頻繁に顔を出していたらしい。先細る地元の雇用を支えて、開発者、経営者としても表彰される地元の名士とのことなので会う前から緊張する。

 明日の朝は7時にホテルロビーに工場から迎えの車がきてくれるらしい。それまではのんびりと最後のホテル生活を楽しむことにした。

   ***


「おはようございます! 営業で採用していただいた花輪聡です! よろしくお願いします! 」と挨拶すると「ありがとうございます! 拍手ー! 」という田中善光の一言で、朝礼に集まっていた第二工場の30人ほどのブルーの作業服の一団からは万雷の拍手が沸き起こった。

 手に手に握手を求められるが全員衛生マスクをしているので顔がよくわからない。

「では、今日も一日よろしくお願いします! 」と工場長の一言により朝礼は散会となった。

「ミタチくんー! ちょっとこっちに来てもらってもいいかな」といって作業服の田中が手招きすると、同じく工場のブルーのツナギを身に着けたミタチが衛生キャップを直しながらこちらに近づいてくる。

「いまから建物の説明をするからさ。ミタチくんも一緒についてきなよ。だれからも説明されてないよな? 」

「はい、お願いします! 」と玲子がハキハキと答える。

「ミタチくんは、一週間前に経理のアルバイトで入ったんだよ。なんでも3年間ニートしてて、運転免許は持ってないのに簿記1級はとったんだってさ。生活費をはらってくれてた親に感謝だねー。はっはっは」そういうと、田中は工場をでて、建物を案内し始める。

 山間の工場であるが日差しが強く差し込んでいて、工場をでると太陽光がまぶしい。

「社長、お言葉ですがニートってやることいっぱいあって大変なんですよ。毎クール見ないといけないアニメが数十本もあるんですから」と玲子が軽口をたたく。毎日温泉に入っているというだけあってお肌がツヤツヤになっている。

「そうかー! やることが沢山あるんだな、知らなかった、すまんね。花輪くんは、東京からのIターンでこの町ははじめてだから、一週間分の先輩として、色々教えてあげてな」と敷地内を歩きながら、にこやかに田中が話し続ける。1人1人の従業員への細やかな心遣いが感じられる、距離感が近い社長という感じがする。

「もちろんです! 花輪さん、いいところですよ。ここは。鹿児島湾の海の幸と霧島山の裾野でとれるお野菜が絶品です。あとは豊富な水量を生かして地酒も焼酎もありますね」

「ミタチくんは、もう溶け込んでるよ。経理部屋が明るくなったってうちのかあちゃんが言ってたからなぁ珍しい」といって数分歩き、工場全体が見渡せる小高い丘に上った。夏草がきれいにカットされたなだらかな斜面に座り、3人は気持ちの良い風に吹かれて汗が引くのを待った。

「あそこ」と田中が指をさした。「さっきまで居たところが第2工場、10年前に新しく作った工場だね。あちらの川沿いの下がったところに見えるのが第1工場。設備はだいぶ古いけどまだまだ稼ぎ頭だね。すぐそこのコンクリートの白い建物が、花輪くんが働くことになる管理棟だよ。来客用の会議室と営業課、管理課なんかがあそこにある。
 
 まぁざっとこんなところかな。さっき車で通りかかった時に見かけたと思うけど、男子寮と女子寮が川下に100メートルくらい行ったところにあるよ」

「社長、あと温泉がありますよ」眺めの良い丘で芝生に座り、気持ちよさそうに背伸びをしていた玲子が口をはさんでくる。
「ああ、そうだったな! 国の助成金で村が作った温泉施設が少し川を登って行った上流につい最近できたんだよ。広くて綺麗でね、車で沢山の観光客が来るようになったんだ」といって、田中は新しくできた上流にあるという温泉施設の方を指さした。その時すこし眉をひそめたのを玲子は不思議そうに見ていた。

「ここはさ、もともと原っぱだったんだ。40年前にわしが勤めてた食肉加工の会社が社長の儲け第一主義で納得できなくてさ。脱サラして家族で食肉加工を始めたんだ。家族だけじゃ足りなくて、親戚にも手伝いに来てもらった。近くに住んでた村の人もどんどん雇った。
 今じゃボロボロの第一工場だって、作るときは銀行に何度も何度も頭を下げて自分に多額の生命保険をかけてそれを担保にして、建てたんだ。地元の人たちが大勢集まった落成式の日のことは今でもよく覚えているなぁ」

「そうだったんですね……」と玲子。

「管理棟も第二工場も、何もない原っぱに建てていったんだ。東京から来た聡君にはビックリするほどの田舎だと思うけど、親戚や村の人たち全員で必死に築き上げてきた会社なんだ。ぜひな、若い君たちにもこの会社を盛り上げていってほしい」

「はい!」と2人は声を一緒に答えた。

「よし、営業課に花輪くんをつれていこう! 」
「よろしくおねがいします! 」というと、三人は丘を降りて行った。

第005話4美味しい牛肉の謎


 聡は、街灯が少なく真っ暗な山道のスラロームをクリームグリーン色の原付、ベスパGTSクラシック150を駆って、数分下っていく。映画『ローマの休日』でオードリーヘップバーンが2人乗りしていたものの最新型式だという原付は、誰が購入したのか不明で、以前から屋敷に置かれていたものを借用してきたものだ。

 『ローマの休日』ならぬ『鹿児島の休日』で、なくてはならない地元の足として重宝している。
 
 霧島山から流れる川の支流沿いに工場と寮があり、川の流れに沿って作られた山道は車がやっとすれ違える程度に細くなっている。温泉施設に向かう車が増えており、工場からの出荷の冷凍トラックがすれ違えず困っているとのドライバーの愚痴を聞いたことがある。

 2カ月前に東京から引っ越してきた時は不安だったが、慣れてしまえば、とても居心地が良い生活が送れている。寮の部屋は1人4畳しかないが、清潔な最新の設備が揃っていて、朝と夜には、工場で加工した大量のお肉がふんだんに使われた食事が提供されている。地元の農家から直接仕入れているという野菜も新鮮で頬が落ちるほど美味しい。

 初めてやることになった営業職も、最初のうちの心配は嘘のように慣れてしまった。むしろ外出しない経理業務よりも、人と話す営業職の方が自分には向いているのかもしれない。

 営業ルートは決まっており、数十年の付き合いがあるスーパーマーケットや小売店とは信頼をベースにした気心のしれたやり取りがある。新商品の説明や仕切り価格の交渉、余ってしまったくず肉の受け取りや持ち帰りなど、軽トラックを乗り回して、県内各所を楽しく飛び回る生活が続いている。もう、このまま九州のこの会社で一生働くのも悪くないなという感じさえしてくる。

 5分ほどベスパを走らせると、待ち合わせ場所のコンビニエンスストアが見えてくる。自分のお目付け役として、可哀そうなメイドは一緒に九州の寮に住まわされている。寮で2人で話しているのも変なので、定時連絡という名称の下、週に1度コンビニで会って話しているのだが、会話の95%が玲子のおしゃべりタイムになっている。

 コンビニの外の街灯の下で、コロッケにソースをつけて食べている御立が見える。

「聡さん、たべます? 地元の惣菜コーナー美味しいですよ」といってホットスナックの入った袋を差し出してくる。会えば文句の多い玲子だが、経理のおばさんにもらったという、地元高校のジャージ姿でお菓子を立食いしている姿は、どう見ても完全に地元に溶け込んでいる。

「もうだいぶ慣れてきましたね。この生活」
「そうですねー。知らない村で経理をやるのはすこし不安だったんですけど、会社の会計ソフトとか生産の基幹システムの帳票にも慣れてきて、やっと会社の概要が見えてきたかなって感じですね」

「工場の人に聞いたんだけど、経理の御立さん、『頼りになるわー』だってさ」
「イヤー、信頼されちゃって、照れますね……。もう東京に帰らないでずっとここで暮らしてもいいかなって感じですね。でも、見える範囲が広がってくると、ちょっとずつ気になってくるところも出てきたんですよね」

「またまた。もう止めてよそういうの。会計士っぽい目線で見てるからそうなるだけだよ」
「いや、杞憂ならいいんですけどね。この工場は屠畜工場とか協力の卸から材料を仕入れてるじゃないですか?」
「うん、そうだね」
「この会社が出荷してる量が年間で一般消費者用2,150トン、業務用が2,700トン、特定施設向け15トンなんですけど、仕入てる量が足りないんですよね」

「……足りない?」

「15%位、足りない気がするんですよ。加工するなら、歩留まりが発生するから、仕入量より出荷量の方がもっと少ないと思うんですけどね」

「うーん。そうなんだ。僕も営業だからさ。工場とのやり取りは回収してきたくず肉とか賞味期限切れの肉の廃棄をお願いするときくらいかなぁ。それに、第2工場はやりとりするけど、第1工場は、『画期的な独自の開発手法』で加工の難易度が高いとかで、社長の親戚筋だけで回してるみたいなんだよね」

「え? 第一工場で働いてる人ってみんな親戚なんですか? 」

「知らなかったの? 工場長からラインの作業してる人まで全員そうらしいよ。その『画期的な独自の開発手法』で、歩留率が大幅に改善されてるってことなんじゃないかなぁ」

「第一工場かぁ、第一だけに絞って、もう少し入出庫の量を見てみますね」

「聞いちゃった方が早くない? そのジャージくれた社長のお母さんとかに」

「これ? 似合うでしょ? 女子高生に見えます? 」
「完全に田舎の女子高生っぽい雰囲気ですよ……ちょっとだけコスプレ感してますけど」と言い終わる前に玲子に頭を叩かれる。

「でも、みんな仲はいいけど、業務範囲はきっちり決められてて、意外と壁は感じるのよねー。おばさんも社長のお母さんでしたっけ。家族が全員仲良しで繋がりが深いんですね」

 そこに、古めかしいトヨタクラウンが田舎の夜道をヘッドライトで照らしながらやってきた。平均所得があまり多くないこの辺りでは、珍しい車両なので、持ち主がだれかはすぐに分かった。

「花輪くんー! お疲れ! 」と、ドリームハム社長の田中善光が車を降りてきた。人柄の良さそうな笑顔と、フレンドリーさを感じさせる禿げ頭は、食肉加工業の会社で長年にわたりトップ営業として君臨していたという話もうなづけるほどだ。

「なに? 二人はそういう関係だった? 」と田中。
 名物の100%牛肉コロッケを頬張りながら、玲子が、「違いますよ! 社長! この人、私の召使なんです」と間髪入れずに言う。

「いや、召使は玲子さんでしょ」と聡。

「……召使い? 最近の若い人はそういうの流行ってるのか? 」

 そこへ、ロードレーサーにタイトなスウェットパンツ、ヘルメットを着けた少年がやって来て自転車をクラウンに立てかけた。

「受験勉強のストレス発散でさ、趣味のロードレーサーで走りたいって聞かないんだよ。夜道は危ないから車で先導してて。紹介してなかったけど、挨拶させてもいいかなー?」といって善光が若者を紹介してくる。

「息子の一貴。ほら、一貴、挨拶しな」

「はじめまして! 」とあどけなさの残る顔で天真爛漫に目を輝かせながら言う。
「息子さんまだお若いんですね? 高校生?」と玲子。
「はい、鹿児島のレ・サール高校の寮に住んでます。高校3年生です」
「へー! レ・サール高校って言ったら有名じゃない。社長の息子さん、優秀!」
「いやー、親の俺がいうのもなんなんだけど、自分にぜんぜん似ないで子供のころから勉強が好きなもんでさ。近くの高校じゃなくて、どうしてもレ・サールに行くって聞かなかったんだよ」

「進学はどうするの? 大学は受験するんでしょ?」と聡。
「はい、東京の大学を受験しようと思ってます!」

「そこでお願いなんだけどさ。花輪は、東京で働いてたから、向こうの生活がどんな感じかちょっと教えてよ。おれは九州から出たことがないから、夢いっぱいの東京を教えてもらったら、勉強の励みになるかなと思って」
「ああ、そういうことですね!わかりました!」と聡。

「じゃ、先に帰ってるから、これで好きなものでも買いなさい。とにかく気を付けて帰ってくるんだぞ一貴」

 そういうと、握りしめて汗でぐちゃぐちゃになった五千円札を断ろうとする一貴に押し付けると、社長は車に乗って、先にコンビニを後にした。

第005話5美味しい牛肉の謎


 聡との定時連絡の日の翌朝、作業着のブルーのツナギを着て出社した玲子は、前日の工場の基幹システムから出力されたデータを会計システムに取り込む作業を終わらせた。タイミングよく、経理部屋の他の社員は出払っている。

 意を決して窓際を見ると、お茶をすすって暇そうに業界紙を読んでいる田中善光の母、田中淑子たなかよしこに話しかけてみることにした。

「淑子さん、いま工場のデータをバッチ処理したんですけど、ちょっと気になるところがあって」
「なに? なんでも聞いてちょうだいな。システムが古いから見づらいところが多いのよね」

「はい、あの。第一工場と第二工場の歩留まり率って、なんでこんなに違うんですか? 私の計算だと、第二は歩留率が80%あって出庫量が減るのに、第一は95%に近かったり逆に増えてることありません? 」と聞くと、淑子はなんと言ってよいのか分からず絶句しているようだった。

「第一はいいのよ。ちょっと第二とは加工の仕方が違うからね……」

「加工の仕方が違うんですか? 具体的にどう違うんですか? 加工の仕方で量が増えるっておかしくないですか……? 」

「いいのよ。貴女は決められたことだけやっててくれればいいの」

「さっきなんでも聞いていいって言ったじゃないですか!? 」

 もともと嘘をつくのが苦手そうな気のいい淑子は黙りこくってしまった。普段から口数が少なくゆっくり考えてから話す淑子がうっかり口を滑らすことはないだろう。

 気軽に聞いてしまったけど、どうやら何か言えないことを隠している様子で、事態は深刻な話らしい。100%牛肉のまま量を増やすなんて事が出来るのだろうか。

 昨日、聡から聞いたところによると、第一工場は工場長から全て田中家の親族で操業している。とすると、家族間の繋がりが強いこの会社では、もう誰かにヒアリングすることもできないだろう。今日、淑子に警戒されてしまったから、このあとどれだけ働いても、自分に追加の情報が渡される機会はないように思えた。

 とすると、やることは一つしかない。ひとしきり思案すると、今日のお昼ご飯のおかずにしようと思って、コンビニで買ってきていた100%牛肉コロッケがあることを思い出した。

 玲子は、部屋の隅にある冷蔵庫を開けると、コロッケの入った透明のプラスチックパックを取り出した。そのまま自席にもどり机から取り出したマイ箸でコロッケを割る。

 「玲子さん? もうお昼たべるの? まだ朝の8時半よ? 」と淑子がいうのも聞かずに、続けて引き出しから市松模様のバッチを取り出す。

 作業着で仕事をするようになってからは身に着けたことが一度もない。巷では、マンガ『鬼滅の刃』の主人公の炭治郎が着ている羽織の市松模様に似ていることから、鬼滅バッチと呼ばれることもあるらしい。

 玲子は市松模様のバッチを握りしめると、突起部が指に食い込み血が流れるのではいかと思われるほど、強く握りしめた。とたんに周囲に緑色の煙が沸く。

 お箸で割った牛肉コロッケのお肉部分に指が触れそうになった瞬間。

ピシッと緑の電光が指から走る


――賞味期限切れの肉、廃品回収した屑肉の再利用、豚肉鶏肉の混ぜ込み――
――黒ずんだ肉を赤く見せるために投入される血液――
――水道水を節約するため、川の水の汲み上げと雨水の利用――
――旨味を損なわず原価率を下げるための最適な混合表――

 刹那、糸が切れた操り人形の様に、コロッケの入ったプラスチックのパッケージに、ガシャっと顔面から突っ込んだ御立は深く息をして目を閉じている。薄いブルーの作業着の首元は、汗がにじみ出て深い紺色になって濡れている。 

「どうしたの? 大丈夫?」と、食べようとしていたコロッケに急に顔を突っ込んだ玲子に淑子が声をかけてくる。

「気分が悪いの? いま誰か呼んでくるからちょっと待ってなさい! 」そういうと、淑子は部屋を飛び出していった。隣室の社長室のドアが開く音がしたので、息子の善光を呼びに行ったのかもしれない。

 顔をコロッケのまみれにしながら起き上がった玲子が瞳をつぶったまま呟く。長いまつ毛にはコロッケのカケラが付いている。

「……ジャスティス」

 急に血相を変えた母親が飛び込んできたので、社長の善光は驚いて経理部屋まで小走りでやってきた。

「ミタチくん……! 体調が悪いのか? 病院まで車で行くか?」

 眼をつぶったまま、椅子に背筋を伸ばして座っている御立が重く口を開く。
「体調? 悪いかもしれません。だって、賞味期限が切れた肉が混ざってるコロッケを昨日食べましたから」

「……? ミタチくん? どうした? 」と善光と母は、絶句して声が出せないでいる。

「牛肉100%コロッケに豚肉や鶏肉が混ざっています。お肉の解凍に使う水道水を節約するために使ってる川の水や雨水は、衛生管理をしていません。そもそも雨水の利用は違法ですし、上流にできた温泉施設は下水を地中に逃がしています。川の取水をそのまま利用することはO157などの菌の混入のリスクがあります」

 ミタチは眼を開き、田中善光を見据えて声を一段と低くしていう。
「社長、いまならまだ引き返せます。すぐに混入を止めてください。死人や病人が出たら大変な騒ぎになります」

 社長は、窓のそばに行き、屋外の工場に眼をやる。30秒ほどの沈黙が続く。

「……出て行け、いますぐ、寮からも」といって、窓枠についた埃を指で拭い掃除しながら言う。

「だから反対したんだ。『よそ者』なんか経理に入れるなんて」と室内を振り返って母親を見る。淑子は実の息子に咎められバツが悪そうな顔をしている。

「誰に聞いたか知らないが、正義感ぶって止めろなんていう君はなにも分かってない。最近は店舗内で食肉の加工をするのが一般的なんだ。取引先のスーパーや卸からは不可能な値下げ交渉をされてきた。応じなければ取引はカットだとさ。取引を停止されたら、工場で働いてるみんなはどうなる」

「……死人や病人を出すよりはましです」

「ましなものか! 何様のつもりだお前ぇ! 雇用がなくなって死ぬ人がいないとでも思ってるのか! 病気にかからないとでも思ってるのか! 人の生き死にが関わってるんだ。昨日、コンビニでミタチは『おいしいおいしい』って食べてたじゃないか。そもそも、最終消費者がいけないんだ。上手い牛肉は高いに決まってる。安いのに旨いなんてありえないんだ」

「出ていけ! 二度とここに来るな! 」と、どなっている社長の声に驚いた従業員たちが集まってくる。

「誰か、ミタチを駅まで送り届けてくれ。荷物も誰かとってこい! いますぐだ!」善光がそういうと、屈強な男性の社員が二人がかりでじたばたと騒ぐミタチの両脇を抱えて、車に乗せて最寄りのJRの駅まで連れ去って行った。

  ***


 JR九州の日豊本線隼人駅の駅前で作業着のままボストンバックと一緒に車から放り出されてしまった玲子は、茫然自失としていた。

「大失敗だ……」

 温厚な社長があれほど激昂すると思わなかったし、ついカッとなって言ってしまった。もっと落ち着いて段取りを踏んで説得すれば良かった。クビになってしまったら何もやれることはない。

「……いや、あった」

 そう独り言を言うと、スマホで『農政局 鹿児島』と検索した。

「いきなり言うのは止めよう。とりあえず、どんな雰囲気なのか、感触を確かめるだけでも、この後の参考になるはず」

 液晶画面で、最短経路を表示すると大きく溜息をついた。一瞬の間を置き、思い直して溜息を思いっきり吸い込み直し、生活用具一式がはいったボストンバッグを「よいしょー! 」といって肩にかけ直し、駅前のロータリーに止まっているタクシーの車列に向かった。

第005話6美味しい牛肉の謎


 玲子が株式会社ドリームハムを追い出された日の夜。ホテルの部屋のダッシュボードに置いておいたスマホが呼出し音を鳴らしている。

 一日中着ていたブルーの作業着を脱ぎシャワーを浴びていた御立は、着信に気が付くと急いでバスタオルを巻き、頭を拭きながらスマホの液晶画面を見る。

 液晶には、株式会社ドリームハムに1人取り残してきた聡からの着信が表示されている。

「玲子さん? いまどこにいるんですか? 」と心配そうな聡の声がする。

「まだ鹿児島にいるわ。東セラホテルに泊っているの」そういうと、バスルームに向かい髪から落ちてきた雫をハンドタオルで拭いていく。

「会社、玲子さんの噂で大騒ぎでしたよ。社長と突然喧嘩しちゃって、飛び出していったって、さっき食堂でみんなが話してるのを聞きました」

「なにいってるのよ、飛び出していったんじゃなくて、羽交い絞めにされて、車で駅前にほおり出されたのよ」

「なにやってるんですか玲子さん……」

「……ごめんなさいね。でも、昨日話してた第一工場の歩留まり率の話を、社長のお母さんにしたら、すごい隠し事がありそうな感じだったのよ」

「また、そんなことだろうと思いましたよ。で、どう思ってるんですか?」

「第一工場の加工肉には、分からないように慎重にいろんな肉が混入されていると思うの。つまり、仕入れた肉の量が少ないんじゃなくって、仕入れた肉に期限切れの肉とか、くず肉とか、豚肉、鶏肉なんかを加えているのよ。あと偽装のために肉を赤くするための血をいれてるわ」

「はぁ? そんなことするわけないじゃないですか」

「あるのよ。実際」

「証拠はあるんですか? 何を見てそう思ったんですか? 」

「……証拠はないわ」

「証拠もなしに、疑うなんて小学生じゃないんだから止めてくださいよ」

「鹿児島の農政局の事務局の人にも同じこと言われたわ」

「農政局? なんですかそれ?」

「農政局は、農産物の品質を担保して管理する農林水産省の地方の出先機関ね。今日行って、仮定の話として、取り扱いがどうなるか聞いてきたんだけど、『証拠もなしに踏み込んでの強制調査は、普通しないよ』って。いろんな話がくるから、いちいち身元の知れない人の噂話に対応してられないみたいな感じだった」

「そうなんですね……」

「せめてあと1日いられれば、加工肉の混合表とか、手に入れられたと思うし、雨水や川の取水のダクトは写真に撮れたと思うんだけどな……」

「前に、『落としどころ見つけて慎重に行動するべき』って言ってましたよね玲子さん。なにやってるんですか? 本当に」

「聡さ、工場の取水のダクトだけでも写真に撮ってきてくれない? 第一工場に潜入するのよ」

「だから、第一は入れないんですって。僕のIDじゃ入れないです。行こうと思ったら、川下から、ロープとか使って沢登りをしないと無理ですね。昼間ならすぐバレるから夜に決行だろうし、夜中に装備なしで1人で沢登りなんて正に命懸けですよ」

「じゃ、おねがい。いままでは上流に何もなかったけど、温泉施設ができたじゃない。もしかしたら死人や病人がでるかもしれないのよ。それでも自分に責任ないって言い切れるの? 」

「……わかりましたよ。夜中に沢登りしてきますよ。玲子さんはどうするんですか?」
 
 ー どうしよう、首になって会社にいないのにもう調べられることなんか何もない…… ー

 ー いや、あった! ー

「牛肉コロッケを卸してる先って、どれくらいあるの?」

「なんですか急に……。卸先だと、15か所ありますね。小売りしている店舗の数でいうと、100か所くらいになると思います。地元の大手なんで」

 大手なんでと言う時の聡は少し自慢げである。

「小売りの店舗の一覧表、送ってくれない? 住所セットで! 」

「えー? なにするんですか? 」

「私、いまからレンタカー借りられないか調べてみます」

「いや、あなた免許停止中でしょ」

「……あ、そうだった。じゃあ聡さ、明日、有休休暇取って原付に2人乗りさせてよ! 」

「霧島の市中をベスパに乗って走りまくるってことですか? 」

「事態は緊急を要するのよ、期限切れの肉とか、くず肉とか鶏肉、豚肉を混入して、血液をいれないといけないほど変色した肉を売ってるんだから、遅かれ早かれ食中毒で死人がでるわ。というか、病気だったりお年寄りだったりしたら、もう死んでる人がいるのかもしれない。なんとか早く止めないと。いまならまだ最悪の事態にはならないかもしれない」

「最悪の事態? 」

「株式会社ドリームハム、普通に倒産するわよ。手元キャッシュが潤沢にあるって言ったって、それは普通に操業してることが前提だもの。操業を止めるなんて想定してないから、当座貸越の枠の更新をしないとかでメインバンクが手を引けば早ければ2、3ヶ月で資金ショートよ」

「ええええ? 」

「調査が入ってこれだけの悪事が明るみに出たら、取引先からの発注停止とか、金融機関が借入のロールに応じないとか、ぜんぜんあると思う。働いてる人はみんな失業して、田中家一族もこの街にはいられないかもしれないわ」

「そんなことになったらみんな困るよ。働く場所はここしかないんだよ? 善光社長は? お母さんは? 一貴くんだって、大学受験が控えてるのに! 」

「だから、社長を説得しないといけないのよ。そのための証拠集めよ! 明日! ベスパでおねがいね! 朝の8時にホテルのロビーで待ってるから」

 そう言うと『直ぐに使うから、いますぐに小売店の一覧表だけメールで送るように』ときつく厳命して、電話を切った。

 ホテルの部屋のダッシュボードの下をふと見ると、東セラ創業者の稲林和男の『経営10カ条 経営者として貫くべきこと』が置かれている。この本はビジネスマンの必読の書として有名で、昔に読んだことがある。

 ー 経営というと、複雑な要素が絡み合う難しいものと考えがちですが、むしろ経営はシンプルなものであり、『人間として何が正しいのか』という最もベーシックで普遍的な判断基準さえ会得できれば、誰もが舵取りできます。 ー

 という金言が書かれていたように記憶している。

 窓の外には、霧島の市街地の夜景が宝石の小箱のように広がっており、コンパクトな街の向こうには暗くなって見ることができない鹿児島湾が広がっている。おそらくその向こうには、遠くに桜島が見えるはずだ。

 
『人間として何が正しいのか』って、それが一番難しいんじゃない。こういう時は、なにが正しいのかしら。不正を告発すれば、長年にわたり地元に雇用を生んで、業界に貢献してきた株式会社ドリームハムの倒産は免れない。

 でも、見て見ぬふりをすれば、O157や期限切れの得体のしれない混入物がある肉を食べた人が死ぬことだってあり得る。
 
 もしかしたら自分よりも前に、この事態に気が付いた人がいたかもしれない。

 いや、自分以外にも気がついた人がいるはず。状況が変わっていないということは、気が付いた人が全員、見て見ぬ振りをしたからだろう。

「『人間としての正しさ』って、杓子定規に決まってることなのかしら。教科書にない、奇麗ごとじゃない判断ってどうやって決めたらいいの?」と夜の鹿児島の街に向かって独り言をつぶやいた。

「お父さん。生きてたらお父さんどうする? 」

 玲子の独り言は、夜の街に溶けていった。

第005話7美味しい牛肉の謎


 翌朝、仮病で有給休暇を取得し会社を休んだ聡は、ベスパを駆って霧島市の市街地にある東セラホテルのロビーまでやってきた。

 エントランスの上は巨大なアトリウムになっており、13階までの吹き抜けは日本最大とのことだった。

 ソファーに座っていると、2階からエスカレーターで降りてくる玲子がこちらを見て笑顔で手を振っているのが見える。コットンブラウスの袖をロールアップしブルーのロングスカートにシャツインしている。

「おはようございます、玲子さん。会社は大騒動ですよっていうか、その恰好はなんですか?」

「これ? 似合うでしょ? 」

 玲子はそういうと、この短時間でどこで手に入れてきたのかウーバーイーツの宅配デリバリー用バッグを背負っている。

「会社を首になったからって、今日からウーバーイーツやるんですか? 」

「まぁいいからいいから。じゃ、このリストに沿って走ってくれる? 」といって、一枚の紙を見せてきた。
 
 紙には、昨日の夜に送った市内の小売店舗の一覧が加工され、25店舗ほどの店がリストアップされている。住所は走行距離が最短経路になるように順番が振ってある。

「これに沿って……? 冗談でしょう? どんなに急いでも2時3時まではかかりますよ! 」

「どうせお休みなんでしょ? 霧島巡りができて最高じゃない? 」

「はぁ? 」

「さぁ、時間もないことだし、行きましょう! 『霧島の休日』レッツゴー! 」

 玲子はそういうと、元気いっぱいにロビー前のロータリーに停めてあるレトロモダンな造形をしたクリームグリーン色のベスパに向かって歩き出した。

 2人が話しながら回転扉を出ていったところを見届けてから、ロビーの観葉植物の後ろに隠れていた影が、スマートフォンを手に取った。株式会社ドリームハムの営業職の男性社員である。

「社長、いまお電話だいじょうぶですか?」

「うん、どうかしたかな? 」

「有給休暇を取った聡が怪しいなと思ってつけてきたんですけど、社長の思っていた通り、仮病でした。ウーバーイーツのデリバリーバックを背負ったミタチさんと一緒に、バイクに乗っててどこかに行くみたいです」

「ウーバーイーツ? ミタチは3年もニートしてたのに、昨日の今日でもう働き始めてるのか。ニートにしては勤勉だなぁ」

「いや、ちょっと違う気がするんですよ。もうすこし2人をつけてていいですか?」

「うん、また何かあったら教えてくれ」

  ***


 ホテルを出発した原付2人乗りは、市内の『100%牛肉コロッケ』が売っている店舗を順番に回っていった。

 後部座席に乗った玲子は聡の腰に手を回して落ちないようにしがみついている。原付の二人乗りは丁寧な運転でもブレーキやアクセルのたびに身体が密着したり離れたりする。

 聡は営業マンとしての土地勘、玲子は初対面の人への圧倒的な愛想の良さで協力しながら次々に小売店で目的のコロッケを買っていく。

 聡は営業マンの血に火がついたのか、効率的な運転に集中し始めている。

「玲子さん? 聞いていいですか?」

「なに? 」

「鹿児島を離れて総菜の味が恋しくなるのは分かるんですけど、お土産にしては、買い込みすぎじゃないですか?」

「いいのいいの」

「しかも、どうせ買うなら一店舗でドバッと買っちゃえばいいじゃないですか」

「それじゃ意味がないのよ。もらった一覧表を母集団にしてランダム関数で、店舗を選んだんだから」

「はぁ?」

「25件チェックって言ってね、監査の基準で25件ランダムサンプルテストしたら、90%の信頼度で統制の評価ができるって決まってるからよ。まぁ統計的な意味はないし、今回は監査でもないから気持ち的なところだけど」

「監査……? また何か良からぬことを考えていますか?」

「いいからいいから、運転に集中して頂戴」

「はーい、分かりましたよ」

 市内の小売店舗を順番に周っていく2人を、営業課の社員が営業トラックで追いかけながら見ている。焦って、再度電話をかける。

「社長? やっぱりあの二人は変ですよ。市内の『100%牛肉コロッケ』を売っている店を順番に回ってます。あれはウーバーイーツじゃないですよ」

「コロッケを買ってる? ミタチはなにか良からぬことに使うんじゃないか……。わかった。営業車両で追いかけ続けてくれ。車体のGPSはオンにしているよな? 何をやらかすのか知らないが、こうなったら工場以外の男手の社員総出で、2人を捕まえて何をするのか吐かせよう」

「わかりました!」

「1時間もあればそちらに着くから、2人を見失わないようにな!」

「すいません、いま話してる間に、すっかり見失いました」

「いやー見つけてくれ! すぐに追いかけるから! 」

  ***

 さんざんに市内を走った2人は24店舗目の雑貨店の総菜コーナーに辿り着いた。

「すぐに食べるの?」と雑貨店の気のいいお婆さんが聞いてくる。

「いいえ、食べないので持ち帰り用に包んでもらえますか」と、にこりと爽やかに微笑む玲子。

「はい、どうぞ! 気をつけるのよ。バイクの二人乗りは危ないから」

「ありがとうございますー!」と言いながら、外で待つ聡のところまで来た。

「やっぱり僕達つけられてましたよ。ドリームハムの営業車は巻きましたけど、もうさっさと街から出ちゃった方が良いですよ。僕も怒られるの嫌だから、早く寮に帰りたいです」

「大丈夫、市内で買うのはこれで全部であとは1個だけ買えば良いから」というが早いか、遠くからドリームハムの営業車両とトラック1台が、猛然と向かってきているのが見える。

「いたぞー! 捕まえろ!」と叫んでいるのは、トラックの助手席に乗っている総務課長だ。

「げー! 今度は車2台で来てる! しかもあれ総務課長じゃないですか? 僕、あの人強引でちょっと苦手なんですよ」

「逃げるわよ!」

「逃げるってどこに? 」

「駅! 最後の1店舗は、JRのエキナカのキヨスクよ! 」

 そういうと、玲子はベスパの後部シートに飛び乗る。

「もう、どうなっても知りませんよ! なんで鹿児島でもカーチェイスしないといけないんですか!」

 聡は、迫りくる車両2台に乗り込んでいる男性社員たちが手に手に刺股やら木製バットを持っているのをみて真っ青な顔色になった。

 急いでバイクにまたがり、キーを回してエンジンを空ふかしさせると、玲子が聡の身体をしっかりと抱きしめるのを背中に感じてから、鋭角にターンをして125CCの排気量を最大限使って、田舎道の路上を駆けだした。

 男性社員たちは、社長からなにをどう聞いたのか、木刀やらさすまたやらを手に手に叫びながら、全力で追いかけてくる。

「駅で捕まったら逃げられないから、路地裏を走って逃げて! どこに向かって走ってるか気付かれないようにして!」

「マジサイアクです! 」と言いながら、聡は車両が入ってこられない天降川の河川敷を川に沿って爆走し始める。

 舗装されていないあぜ道のオフロードは、車体を激しく上下させる。『ローマの休日』なら、石畳の上を多少バタつく程度で走るベスパだが、『霧島の休日』では、雑草の生えた波打つ未舗装道路を怒涛のスピードで走らされている。

 青い空に白い雲がたなびき流れる、のどかな鹿児島の街で、125ccのエンジンの爆音をとどろかせながら路上を逃げ回る2人と追いかける工場のトラック。男たちは各々のスマホを手に持っており、逃げ回るバイクを追い詰めようと大声を出し連絡を取り合っている。気が付くと2人を追いかける車は営業車両1台とトラックは3台になっている。

「こんな原付じゃ、ちょこまかと逃げたところで追いつかれちゃうんで、ここからは大通りにでて、もう駅まで一直線に走りますよ!」

「OK! 信じてるから大丈夫」と言って聡の背中にしがみつく。

「がんばります……!」

 大通りに飛び出した聡は、赤信号を無視しながらフルスロットルでアクセルを回す。さすがに、もうついてこないだろうとバックミラーを見たところ、トラック3台も赤信号を無視して追いかけてくる。

「マジカヨー。 アリエナイヨー」

  ***

 JR日豊本線隼人駅のロータリーが近づいてくる。後ろのトラックはついにベスパに追いついた。一瞬の躊躇の時間を経てから、車体ごと、バイクに体当たり攻撃を仕掛けてくる。

 2度、3度と体当たりしてくるところをギリギリ回避し、駅の改札まであと少しというところでついにトラックに捉えられたベスパは、後部に追突され勢いよく横転して回転する。

 クルクルと火花を散らしながら回転して吹っ飛んでいくバイクから運よく飛び降りた二人は、駅の改札に向かって走り続ける。

 ロータリーに急停車した4台からは7,8名ほどの男性社員たちが木刀やら、ゴルフドライバーやらを手に持って追いかけてくる。ちょうど遠くのほうから日豊本線 各停停車『 国分行』の黒い電車が入線してくるのが見える。

「玲子さんは、さっさとあれに乗って逃げて行っちゃってください」

「聡はどうするの? 」

「僕はここで追いかけるのを食い止めますよ。電車に乗る時に捕まったら意味ないし。というか、さすがに話せばわかってくれるんじゃないかな」

「じゃ、私もここに残るわ! 」

 手に持った獲物を握りしめながら、男性社員たちがミタチと聡を取り囲む。駅舎前のロータリーには運転から戻ってきたタクシードライバー達が休憩しており、突如始まった大捕物を遠巻きにしてみている。

「花輪君! ミタチは病気らしいんだ! 妄想を言って会社を危険にさらそうとしている!」

「わたしは病気じゃない! 」と玲子が叫ぶ。

「うるさい! お前のせいでみんな迷惑してるんだ! 人に迷惑かけるなって教わらなかったのか! 親にどういう教育受けたんだよ! 」といって男が、玲子に向かって木刀で殴りかかってくる。

 寸でのところで玲子は剣先を避け、当たり所を失った木刀は思いっきり改札口のコンクリートを叩き、転がった。

「玲子さんになにしてんだ! ふざけんな! 殺すぞ!」

 聡が拾った木刀を構えたのを見て、男性社員たちは一斉に数メートルの距離を取り、今か今かと襲い掛かろうとしている。

「玲子さん早くエキナカの売店に行ってください! 早く!」

「ごめん私、売店に行くわ! 必ず真相は証明するから! 」という玲子の声を背中に聞きながら、聡は襲い掛かってきた社員のさすまたを剣戟でいなし、弾き飛ばす。

「死にたいやつからかかってこい! 」と叫び、木刀を上段に構えた。

 聡が叫ぶと、男性社員たちは一瞬躊躇した後に顔を見合わせてから、いっせいにとびかかっていった。

第005話8美味しい牛肉の謎


 工場の寮をでて、街灯が少ない真っ暗な山道のスラロームを損傷だらけでボロボロになった原付と、同じく生傷だらけでになった身体を駆って降りていく。

 数分下っていった先のコンビニに、やはり玲子の姿はない。一週間前に、霧島の市中にある『100%牛肉コロッケ』の店舗を周り、コロッケを買ってから東京に戻った玲子からは何の音さたものない。

 JR隼人駅のロータリーで社員相手に大立ち回りを演じた後、取り押さえられた聡だったが、「病気で錯乱状態になっているミタチに言いくるめられてしまっただけだから、君は悪くないんだ」という謎のフォローにより、頭部と全身の打撲のため3日お休みを頂いた後は通常の業務に戻っている。

 そもそも玲子がなんでコロッケをあんなに大量に購入したのか理由がわからない。玲子は本当になにかの病気で錯乱しているのかもしれないし、何事もなかったように平日の業務をしていると、あの日の出来事が幻のように思えてくる。
 
 もしかしたらと思って、今日は、定時連絡の時間にコンビニに来たけど、もちろん東京にいるはずの玲子が来るはずもない。

 営業していても、偽装肉を売っているのではないかという疑念は、心を強く締め付ける。傷病休暇中に工場をくまなく歩いてみた。街のホームセンターで沢登りの装備を購入して、深夜に川下から川沿いを上り、第一工場の下で川からの取水ダクトが水を吸っているのを動画で撮影した。

 近くの河から水を採取しているのは確かなようだった。川からの取水が確かなら、屋根から伝ってくる雨水を肉の解凍に使っているという話も真実なのかもしれない。

 待ち構えていた通り、ぴったりの時間にトヨタクラウンとロードレーサーが来るのが見えた。聡は、クラッシュによりウィンカーがもげているベスパを道の真ん中に止めて、ライトを点滅させてクラウンを呼び止めた。
 
 コンビニの駐車場に止まった車のドアが開いて、気まずそうな顔をして降りてきた田中善光が、口を開く。

「どうかしたか花輪。きみはそういえば御立君と仲が良かったけど、なにかきいてないか?」

 意を決して、聡は単刀直入に切り出した。もうこれ以上、自分には偽装肉を営業することはできない。

「そのことなんですけど、混合表ってなんですか? 川の水を使っている動画を撮ってきました。第一工場に川の水を大量にろ過するような最新設備は無かったはずです。 なにか危ないことはないですか? 」

「そうか。ミタチくんと仲が良かったからな。言いたいことはそれだけか? 残念だが、明日の朝一番で、君も寮からでて、退職するように。ここにはここのルールがある。正義がある」

「社長! なにかあってからじゃ、取り返しがつかないことになるってミタチが言ってました」

「じゃ今まで君には言わなかったがはっきり言っておこう。きみは自分が『営業できる』とでもおもってるんじゃないか? 」

 図星をつかれた聡は息をのんで黙った。

「大きな勘違いだ。これだけ安売りすれば、納品できるのは当たり前だ。限界を超えて安く買いたたかれて、それでも取引を減らされるわけにはいかないんだよ」

 善光は、車のキーを強く握りしめている。

 「この村の雇用は誰がまもるんだ。すべて100%でつくってみろ、とてもじゃないがウチが仕入れている肉で売れるような商品は作れない。赤字で会社は経営ができなくなる。銀行からの借り入れもすぐに返済を迫られて会社ごと消し飛ぶだろう。でも、うまいうまいって言って食ってたじゃないか。味が変わらない製造方法を開発したんだよ。100%にこだわる必要なんかない。混ぜて加熱すれば菌だってなくなる。おなかを壊す人は体調が悪い人だけだ」

「そんなの詭弁です! 自分の心に聞いてください! 社長だってわかってるはずだ! 」

「いや、そんなことはない。 この方法で、いいんだ。これが正解なんだよ。第一は工場長もふくめ全員がこのことは知ってるが、当たり前なんだ」

 いつもどおりコンビニを通り過ぎるはずだった一貴は、驚いた顔をして、父親を見ている。その様子を見るに、事情を知らされていなかったようだ。自慢の息子に事業のことを説明してこなかったのだろう、父親としての良心の揺らぎが垣間見える。

「一貴も、ちょうどいい機会だから話を聞きなさい。我が家は贅沢なんかだれもしてない。私立高校の学費を払うのだって精一杯なんだ。不当に人をだましてなんかない。会社をやっていくために、良い商品を安く納品するために最適な方法がこの方法なんだ」

 山間のコンビニの前を一陣の風が吹き抜けていく。聡には、もう社長を説得するのは無理なように思われた。3人の間を沈黙が支配する。その刹那、街のほうからの一本道を一台のタクシーがゆっくりと登ってくるのが見える。フロントライトがカーブに沿って道を照らす。

 タクシーがコンビニの前に止まると「定時連絡に遅れちゃってゴメンナサイ」と言いながら、玲子が降りてくる。

「ミタチくん、まだこの街にいたのか! 」と善光が驚いた顔で見る。

「すいません、社長。どうしても見て欲しいものがあって東京から戻ってきました」そういって、プリントアウトされた30枚ほどの紙を田中に手渡した。

「ジーンインスペクション株式会社? なんだこの表は? 」

「東京で、食品のDNA検査をしている会社です。先週、街で売られている100%牛肉コロッケを、実際の店舗を周って買ってきました」

「コロッケをDNA検査? 」と善光。

「食品遺伝子検査で、全部のコロッケから豚肉や鶏肉や、一部は何の肉か成分が分からない肉片が検出されました。これはその証拠資料です。これをもって農政事務所にいけば、腰の重い事務所も悪意のある噂話とは思わないはずです。今すぐに、混入を止めましょう。あのお肉の出荷を止めないと」

 顔を真っ赤にした善光が口を開く。

「農政事務所がなんだ。なんだこんな紙! いちいち事務所が相手にするわけがない! おれはこの町の名士なんだ。 精神障害の従業員に迷惑かけられて困っているって電話して止めてやる! 」といって、紙をビリビリに破く。

「花輪、君も退職だ。一貴! 帰るぞ! 」そういうと、社長は激しくなった呼吸のまま、車に乗り込んでアクセルを踏んだ。

 あっけにとられた一貴くんは、動くこともできず、その場で涙を流して自転車のハンドルを握っていた。

第005話9美味しい牛肉の謎


 解雇を言い渡された後は数日間、人事部と退職の手続きや引き継ぎを行った。会社を首になり、荷物を持って名残惜しく工場を出た後、抜け殻のようになった聡は、数日間、ホテル東セラに宿泊した後に東京へ出発した。

 半日かけて鹿児島空港から羽田に到着し、東京都文京区にある花房邸に帰ってきた聡は、部屋の重い扉を背中で押し開けて、キャスターバックとボストンバックを入り口に放り出した。そのまま歩き、天蓋付きベットのカーテンを開けてジャンプするとドサッと懐かしいシーツに飛び乗る。

 3か月振りに帰ってきた屋敷の部屋は、出て行った時のまま何も変わっていなかった。しばらく部屋に入れなかった猫の白玉がさっそく意気揚々と室内を遊び回っている。飼い主には興味がない様子も前と変わっていない。

 オープンテラスの向こうに広がるイングリッシュガーデンも季節の移り変わり以外に何も変わったことがない。ただ、ほんの数か月で景色を見る聡の気持ちは大きく変化していた。心の中の嵐は全く収まることはなかった。
 
 コンビニ前で解雇を言い渡され、引継ぎという名のもとに、取引の連絡先が入っていた携帯電話は取り上げられ、荷物や私物のスマートフォンの中身まで、人事部にチェックされた。その際に、スマホに入っていた会社情報や他の従業員の個人的な連絡先も全て削除された。

「お疲れ様です。荷物の片づけはやっておきますね」といって、ホワイトブリムのカチューシャを頭につけ、クラシックのメイド服を身に着けた御立が部屋に入ってきた。

「あ、いいですよ。自分のことは自分でやるんで……」

「そうですか。それは楽なんで助かります」

「というか、ドリームハムってどうするんですか? 」

「はい、食品遺伝子検査の結果が出たタイミングですぐに花菱ホールディングスの内部監査室には共有しています。といってもほんの数日前のことですから、まだ傘下のイレブンイレブングループへの連絡や、証拠の証明力の確認、今後の次善策の検討を進めているところかと思います」

「はぁーどうなっちゃうんだろう……」

「善光さんがいうとおり、農政事務所にも連絡が行っていて、動かないとなると、もう東京で新聞社などのマスメディアに持ち込むとかそう言う感じになりますね。その方面のことは手探りなのでどうやって進めたらいいか、考えないといけないです」

 その時、けたたましく玲子のスマートフォンがなった。液晶を見ると例によって内部監査室の梶原からの着信だった。

「はい、ミタチです」

「梶原だよ。いまは聡さんも一緒にいるのかい? 」

「はい、屋敷の部屋で聡さんと一緒にいますけど……。何かご本人に伝言がありますか? 」

「いや伝言じゃない、ドリームハムが大変なことになっているぞ。テレビをつけてみろ」といわれると、胸騒ぎがした玲子は、いそいでテレビのリモコンを探した。

 暖炉の上の扉が自動で開いて、100インチのテレビ画面が3か月ぶりの操作でゆっくりと放送を映し出した。

ー 夜7時のニュースです。
 農林水産省九州農政局が、令和xx年xx月xx日に、株式会社ドリームハム及びその取引先5社に対し、食品表示法第8条第2項の規定に基づく立入検査等を行いました。 ー
ー この結果、農林水産省は、株式会社ドリームハムを加工者とする牛肉を原料とした惣菜の原料原産地名について、対象原材料の「牛肉」に「豚肉」「鶏肉」「その他の肉」を混入させていることを表示せず、少なくとも平成xx年xx月xx日から令和xx年xx月xx日までの間に、合計xxトンを一般消費者に販売したことを確認しました。 ー

 ニュース映像では、報道用のヘリコプターからの映像が映し出され、つい数日前まで聡が勤務していた霧島山中にある株式会社ドリームハムの本社家屋が、空撮されており、大量の報道カメラが押しかけている姿が映し出されていた。

   ***

 その後は、一週間ほど蜂の巣をつついたような報道が続けられた。食の安全に対する世の関心は強く、テレビニュースはもちろんのこと、ワイドショー、ネットニュース、雑誌などで様々な角度から株式会社ドリームハムの成り立ちから経営者、その秘密めいた第一工場のあり方についてまでが配信され続けた。

 一部のYortuberは、『突撃してみた』といって、経営者である田中善光の実家の呼び出しをなんどもなんども押し続ける様子を配信した。田中家は地元の名士の家というには意外なほど質素な一軒家だった。インターホンの呼び出しに答えるものはなく、窓のカーテンは厚く閉ざされたままだった。

 報道によると、食肉偽装が発覚したのは、内部告発によるもので経営者の実の母親と長男による内部情報の持ち込みによるものとのことだった。

 社長は「故意ではなく過失」と強調していたが、長男に促されてしぶしぶながら、自ら偽装に関与したことを認めた場面は、テレビでも放映された。

 その後、『牛肉100%』と表示した挽肉に、豚肉や鶏肉、豚の心臓、さらにはパンの切れ端などの異物を混入させて水増しを図っていたほか、肉の色味を調整するために血液を混ぜたり、味を調整するためにうま味調味料を混ぜたりしていたことなどが判明した

 隠ぺいの悪質さを受けて、鹿児島県警生活環境課と霧島署が、不正競争防止法違反(虚偽表示)容疑で、本社や関係先など10か所の家宅捜索を行ったのはその一週後だった。
 
 食品偽装が明らかとなり、事業の継続が不可能となった株式会社ドリームハムは、同年xx月xx日に自己破産を申請、同日破産手続の開始を決定した。負債総額は約8億7000万円。債権者集会を同年xx月xx日に開くとのことだった。

 家宅捜索を受けたあとは、あれだけ人が多くいた本社工場を訪れる人は、誰一人もおらず、田中家の実家ももぬけの殻になってしまった。

 聡と玲子は何もすることができず、事態の推移を見守ることしかできなかった。

第005話10美味しい牛肉の謎

 月光が緑の庭園を薄明かりで照らしている。聡は数時間の逡巡を経て、震える指でスマートフォンの画面を押した。

 架電している音が聞こえる。このまま掛からないほうがどれだけほっとするだろう。そんなことを思っていたら、画面が切り替わり老人の声が聞こえる。

「……電話口にいるのは聡かい?」と記憶の中で一度か二度聞いたことがある、花房喜重郎の声が聞こえる。
 ただの気まぐれで祖父がかけてくれた言葉を胸に、ずっと弛まぬ努力をしてきたことが思い出される。

「はい、聡です。……突然、電話してしまって申し訳ありません」
「直接、電話をかけてこないことになっていたと思うが、どうかしたのか? 」

「本当に忙しいのにごめんなさい。お願いしたいことがあって電話をしました」
「なんじゃ、言ってみなさい。聞いてから考えよう」


「10億円を僕に下さい」

「……なにを言い出すかと思えば、ずいぶん急じゃないか。金額の大きさがわかってるか? 飴玉を買いたいから10円ほしいというのとは違うと思うんじゃがね。なにに使うんじゃ? 」
「食肉加工の会社を買いたいんです」

「……」
「10億円で」

「……良いじゃろう。一つ条件を出そう。聡がその会社の代表取締役になって、一生その会社の社長として地に足をつけて率いていくことが条件じゃ。会社のことを第一に考える覚悟のあるものが経営しなければ、小さな会社はとても持たないのじゃよ」

「うん、その覚悟があって電話をしたよ……」
「……よし! あとで風間に伝えておく。10億円を聡の口座に振込もう」
「ありがとうございます。がんばります」

「条件はな、嘘じゃよ。お前はホールディングスの取締役になるんじゃ。寄り道してる時間はないぞ。南九州の食肉加工の会社じゃろう。経営者にはイレブンイレブングループで適任の者を見繕おう。なに、手間のかかる連結子会社が1つ増えるだけの話じゃ。まだなにか言いたいことはあるか?」

「……、おじいちゃん、ありがとう」

「……。もう一回いってくれるか?」

「ありがとう。おじいちゃん」電話先で喜重郎が鼻を啜った音が聞こえる。

「もうかけてくるんじゃないぞ」と言って、通話は一方的に切られてしまった。

 月光に照らされた緑が揺れる庭園に眺めるでもなく目をやる。喜重郎は、決して自分を愛しているわけではない。亡くした息子と孫の幻をみているだけに違いないのだ。
 ただ、大きすぎる存在の祖父と一瞬でも話ができて、胸のわだかまりが軽くなった気がする。

 イレブンイレブングループの後押しと10億円の資本注入があれば元従業員の再雇用や、行方が分からなくなっている田中家を呼び戻すこともできるかもしれない。

 大きく息を吸って涙をぬぐうと、朗報を御立につたえようと、座席を立った。

   ***

 その時、分厚いチーク材のドアの外から足音が近づき、ノックもせずに勢いよく扉を開いた。部屋に飛び込んできた玲子はメイド服の肩を震わせて目を真っ赤にして泣いている。

 「聡さん! これ! 」といって手にしたスマートフォンを見せる。

 液晶には九州の地方新聞のローカル記事の切れ端だった。

××日午後7時15分ごろ、福岡県北九州市若松区の南海岸通り駐車場に「不審な車が止まっている」と通行人から若松署に通報があり、駆けつけた署員がワゴン車の中で男女3人が死亡、1名が意識不明の重体となっているの発見しました。
若松署によると、死亡していたのは免許証から鹿児島県霧島市の田中善光さん(56)とその親族とみられます。警察では意識不明の重体となっている少年の意識が戻るのをまって事情聴取を行う予定です。4人は家族とみられ、車内からは練炭とバーベキューこんろのほか、一家心中をほのめかす遺書が見つかりました。同署は4人が練炭自殺を図ったとみて調べています。

 玲子は、ちからなく床に座り込むと、ロングスカートが全円となって広がった。顔を覆う手の隙間からとめどなく涙が流れ、嗚咽は部屋の外からも聞こえるほど大きく長く続いた。



①日本公認会計士協会
北海道から沖縄まで16の地域支部を有しており、1949年の発足から現在に至るまで日本における唯一の自主規制機関となっている。全国32,000人の公認会計士と監査法人は、すべて協会の会員になることが義務付けられている。

②生産の基幹システム
生産管理の効率化を行うシステムで、受注管理、生産計画、材料試算、工程管理、品質管理、出荷管理、原価管理などを行う。

③歩留まり
原料に対する出来高の比率で、生産性を量る目安の一つ。原料100トンのから完成品80トンができれば、歩留まり率は80%と表現される。

④農政局
農林水産省の地方支分部局。農業の振興、農業経営の支援、農産物の安全、農林水産統計の整備、地域振興、農業土木などを行っている。

⑤資金ショート
手元の現預金が不足し支払いができなくなること。

⑥借り入れのロール
Rollover:ロールオーバー。切替の意味。
借入金においては、返済期日より先に同額を借り入れ、新しい借入金で先行する借入金を返済すること。

⑦告発
被害者でない第三者が捜査機関等に対して犯罪を通報・申告すること。内部告発は、組織内部の人間が、所属組織の不正や法令違反などを、外部の監督機関や報道機関などへ知らせること。

⑧ランダム関数
無作為に数字を生成するエクセルの関数。

⑨食品遺伝子検査
遺伝子解析により食品及び原料の品質管理、種類や品種の特定を行い、ブランド品の偽装、逆輸入問題への対策を行う手法。

⑩運転資金
経営を行うにあたって必要な資金のこと。回転資金ともいう。


#創作大賞2024 #お仕事小説部門

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